第七章

 俺が約束を破ったことに変わりはない。ここのママも酒も他の常連も、みんな悪くなかったのになあ。約束を破るなんて幼稚で、自業自得だ。だからここで飲むのは今日で最後にしよう。


八月十日。最後を決意して、豪快にたらふく酒を飲んだ。焼き鳥も頼んだし、初めて餃子の札にも指をさした。最後の日に限って酒はどれも不味かった。だけどこの日は何も考えず、喉の奥に次から次へと詰め込んでやった。

「今日のあんたは豚みたいね。」

とママが手を叩きながら笑っていたけど、そんなことは無視して泡を流し込んだ。酔い潰れて、どうしようもなくなってしまっても、もうそれでいい。そんな時の為に、この汚い作業着の意味もない胸ポケットに自宅の住所を書いた紙切れを潜ませておいたのだから。そうすれば、俺を見つけた誰かが、きっと俺を家まで運んでくれるはずだ。あと念のためにアパートの鍵も開けておいた。別に金目の物なんてあのボロアパートには存在しないから、鍵なんて初めから必要なかった。


そしてとにかく喰った・・・・・・

 

翌朝、俺は自宅の玄関で転がっていた。紙切れと鍵の作戦は無事成功を収めたようだ。それが成功したのだから、玄関で寝かされていたという事はどうでも良かった。

 その日は休みだったから、そのまま玄関で夕方まで過ごした。そして次の日から普通に出勤して、帰りに飲み屋には寄らず真っすぐ帰宅する生活が始まった。あの夜に金は使い果たしたから、今更飲みに行くことも出来ない。

 

飲み屋に顔を出さなくなってからちょうど一週間が経ったある夜。俺は仕事のストレスをぶちまける場所が無く、悶々としていて張り合いの無い生活に早くも耐えられなくなっていた。仕事帰りの夜道、自分の口からアルコールの臭いがしないのは不健康な気がした。この角を曲がれば、五十メートルくらい先に自宅が見える。これまでは、アルコールのおかげであのボロアパートもぼやけて見えていたが、仕事帰りに素面であの寂し気な建物を見ると、何とも切なくなった。

「ちくしょう。」

なんてぼやきながらあのボロアパートを睨んでいると、その前に一本の影が立っている。あのアパートに盗む物なんて何もない。けれど、こんな時間に自分の家の前に人が立っているとやっぱり気味が悪い。それによく見ると、その影も立ち尽くしたままこちらを見ているではないか。こんな時間に誰が何の用で家まで訪ねてきているのかと考えてみたものの、全く心当たりが無くて、考えれば考えるほど夜道とあの人影が恐ろしく思えた。がしかし、その人影の正体を知って頭が真っ白になった。

 

それは、俺の実の息子であった。


 十九の時に深夜のバイト先で知り合った同い年の女がいて、そいつとは知り合って間もなく関係を持った。そして、その女が今の祐介の母にあたる。俗に言うできちゃった婚だ。ところが、祐介がまだ一歳にもなっていない時期に俺はその女を裏切った。女が子育てのストレスに嘆いている間も俺は裏切った。裏切って裏切って、隠してバレてまた裏切った。今更になってあの時の俺を情けなく思う。

女が母として落ち着いたある夏。仕事から帰ってテーブルの前まで行くと、そこにはテレビドラマでよく見る白と緑の紙が置いてあった。横にはペンと印鑑まで丁寧に準備されており、あとは俺のサインだけで離婚が成立するようになっていた。

 「なんだよ。急過ぎるっ」

 「祐介もう寝てるからうるさくしないで。」

 窓の外を見つめ、こちらには一瞥もくれず俺の言葉を遮った女の背中は、知り合った十九の時とは別人のようだった。色んなものを背負ってこれから生きていくことを覚悟したから、俺なんて見る気にもならない。といった感じだった。何も言えなくなって、そのままペンをとったあの瞬間は今でも忘れられない。

 離婚直後、もう既に女が安いアパートを借りてきていたらしく、俺の荷物と俺は、六畳一間のそこに投げ込まれた。俺が家を出る前の晩に、今後一切祐介とは会わせないと言われた。その後一晩考えて、翌朝、最後に祐介と二人で田陀川の花火大会に行かせてほしいと頼んでみた。全力で拒絶する女の足元で俺は何度も謝罪し何度も頼み込んだ。すると、これまで一度も謝罪をしたことが無かった俺の口から飛び出した自省の言葉の数々に女は怯んだようで、案外あっけなく祐介との最後を許してくれた。

 しかし、こうして当時二歳の祐介と行った、田陀川花火大会は終始切なかった。

「ママは来ないの~?」

と俺に聞きながら、上空の赤や黄色に向けて手を目一杯に伸ばす祐介の右の手の甲に、大きなほくろが二つあるのが見えた。こんなに大っきいのに、これまで全く気付かなかった。ごめんな、祐介。

 それからは約束通り、祐介とは一切顔を合わせていなかった。あの後、女が祐介に何と説明したのかは知らないけれど、毎年送られてくる年賀状の写真を見るかぎり、女は祐介を立派に育ててくれているようだ。

  

 はじめ見た時は驚いた。年賀状で見る顔が街角横丁をうろついてやがる。それから何度も声をかけようかと思ったが、女との約束をもう破るわけにはいかない。それにあれから一度も会っていない祐介が俺の顔なんか覚えているはずがない。

 なのに、あの夜は魔が差した。



街角横丁での最後の夜、俺を家まで送ったのは祐介だった。ということは家の中も見られたに違いない。この狭くて汚い六畳一間の空間は、幼かった祐介と、女と俺の古い家族写真で埋め尽くされている。このありさまを見て祐介はどう思っただろう。何を考えただろう。きっと驚かしてしまっただろう・・・・・

でも花火大会に誘われたということは、あいつも色々と察したということか。

 玄関の電気をつけて、靴を脱ぎ捨てた今も動揺して足がぎこちない。でもどうして祐介は長年会っていない父親を花火大会に誘ったのか。分からない。

 ただ、十数年ぶりの息子から花火大会に誘われたのは、やっぱり嬉しかった。

  

 










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