第六章

 八月十日。夏休み真っ只中だと言うのに、全校生徒が朝八時三十分、臨時で体育館に集められた。

生徒会が気を利かして体育館中の窓を全開にしてくれて、大型の扇風機も四つぐらい完備してくれている。けれど、全開の窓は体育館中の蒸し返った空気を外に追い出す代わりに、蝉の騒がしい喘ぎを耳に運んできて、暑苦しい。

額から流れ落ちる汗を紺色の地味なハンカチで拭う。拭っても拭っても流れ落ちてくる汗はもはや、一枚のハンカチだけでは責任を負いきれない。よく見ると、あの大型扇風機でさえも骨の部分に埃が纏わりついていて、不快感を風と一緒にこちらに飛ばしてくる。暑いしうるさいし不快だし、こんな日は何もかもが嫌になる。そしてその“嫌”が、制服の中で汗として蓄積されていく。まだ唯一救いなのは、汗ばんだ女子の制服の下から下着のラインが浮き上がって見えること。

 

どうやら臨時の全校集会の犯人は物理のおじいちゃん教師である沢田だった。定年間際の眼鏡教師。低姿勢な割にこだわりが強くて曲がったことを見逃せない、会議なんかで序盤は頷いているだけなのに最後の最後に自分の意見をポロッと置いて帰る卑怯者。まさにそんな感じの奴だ。そんな沢田が個人的な事情でこの学校を離任することになったらしい。それで特別離任式が今日行われた。

 「あぁーすみませんねぇ。こんな暑い中ぁー僕の為に時間を割いていただいて。僕の為にと言うのもおこがましいくらいなのですがぁーまず、私がこの学校に赴任したのはたしかぁー・・・・・・」

 相変わらずの低姿勢は案外最初の一言二言だけで、その後はだらだらと己の自慢話を楽しんでいた沢田。これまで何年間もこの学校で頷いているだけだった沢田のスピーチは、もはや全然ポロッとではなかった。

 それにしても長い。沢田の言葉は、努力しなければ意味が掴めない。

体育館前方の壁、高い位置に一つ時計が掛けられてある。空に浮かぶ雲と同じで、ようく見ないとそれが動いているということに納得できない。早くチャイムが鳴ってしまえばこんな拷問的体勢で沢田のつまらない自慢話に耐える地獄の様な時間も終わるのになあ。体育館の木目が滲む。

 そしておよそ四十五分間、沢田は汗の一滴も拭かずに話し切った。と言うより僕らが四十五分間、あの拷問を耐えきった、と言う方が正しい。沢田の最後の一礼の後、乾いた拍手が体育館を埋め尽くした。その瞬間、長い拷問から解放されたという幸福と安堵で全身に爽快な電流が走り、思わず笑みがこぼれた。と思ったのも束の間、体育館から出る直前で

 「ずっと寝てたからめちゃくちゃ有意義な四十五分だった。」

 と、愛嬌荒井が僕に笑いかけてきた。湿った暑さに耐え続けた僕は、裏切り行為ともとれる荒井の発言に憤りを感じた。この場で怒りをぶちまけたい。そう思った。でも出来なかった。

 「アハハそうなんだ。それなら俺も寝てればよかったよ。」

 やっぱり僕は弱かった。一軍の荒井に逆らう事なんて出来なかった。嫌いだ。こんな惨めな自分が、嫌いだ。

 

帰りの電車。いつもは部活後の重たい夕暮れが車窓に映っているけれど、この日は離任式の後すぐに帰ったから、まだ窓の外は澄んでいた。沢田や、気持ちよく寝ていてそれの話を聞いていなかった荒井のことは許せないが、いつもと違う晴れ晴れとした景色に少し心が軽くなった。

 そんな中、中吊り広告に目をやると鮮やかに『8・29 田陀川ただがわ花火大会』と書いてあるのが目に留まった。

 それは、この辺りの地域ではかなり人気の花火大会。日本でも有数の流域面積と距離を誇る田陀川の上空で、毎年夏休みの終わりに七千五百発の花火が打ち上げられる。夏休みが終わる直前で毎年開催されるから、見終えた後は何だかその一夏が恋しく思えてしまって、ぼやけた切なさに足取りが重たくなるのを感じながら家まで帰るのも毎年恒例だ。

 花火大会か・・・・・・


いつもの癖でつり革を握っていたけれど、この時間帯は部活帰りの電車内とは違って座席がそれなりに空いていることに気が付いた。

迷わず空いている所に腰を落とすと、思ったよりもそこはフカフカで、尻から背中までが下へ下へと収まった。ここ最近味わっていなかった感触に少し感動し、そのついでに何となく目を閉じて去年の花火の音に耳を澄ませてみた。


 「街角横丁」。

もう何度も通っているのに、まだ僕を飽きさせない。

 

八月十日。いつも通り塾の後に例の街角横丁に寄ろうと、商店街の暗い抜け道を歩いていると、前方に、見覚えのある灰色が野垂れていた。胸元には『鎌田興業』の汚れた刺繍。灰色の正体は、昨日話した男だった。表面が黒く錆びたシャッターにもたれながら、鼾をかいている。顔を確認しようと腰を下ろすと、ドロドロのアルコールに支配された重たい鼾が僕の顔面に当たった。ダボっとした灰色の作業着に体を埋めながら、酔い潰れている。再度胸元の刺繍に目をやると、そこの汚れ具合がなんとも哀愁深く、どうしようもない同情心が沸いてしまった。

 「あのー、家この辺なんですかー? 分かりますかー? おおーい。」

 昨日一度話しただけなのに、同情心に押され僕はこの見ず知らずの男を介抱しようとしていた。でも、酒と作業着に埋もれたままの男からは当然返事なんかあるはずもなく、帰ってくるのはドロドロのアルコールが溶けた重たい鼾だけ。その後も一向に目を覚ます気配がなかったから、今度こそ諦めて帰ろうかと思いかけたその時だった。この男の胸ポケットに小さな紙切れが収まっているのが見えた。摘まみ上げて見てみると、カクカクの文字でこの近くの住所が記されてあった。きっとこの男の家の住所なのだと思った。飼い犬が逃げてしまっても見つかるように、首輪の内側に住所や電話番号を挟んでおくそれと同じなのだと思った。普通に歩いたら十分ぐらいのとこだったから、仕方なくその男をこの住所のところまで送ってやることにした。

そうして男の全身から放たれる異臭に耐えながらもなんとか到着した場所は、朽ちかけのコンクリートに錆びついた手すりのボロアパート。紙切れをもう一度確認すると、ご丁寧に『105号室』とまで書いており、ドアの前に到着して気付いたけれど、不用心なことに鍵まで開いている。まるでこの男は誰かに介抱してもらえるように色々と仕込んでいて、またそれに僕がまんまと誘導されたかのようにも思えてきて、少し腹が立つ。

でもその数秒後、この男の部屋を見て僕は言葉を失ってしまった・・・・・


 


あの男を介抱した夜から数日後、僕はあの男の住む茶色いアパートの前であの男の帰宅を待った。すると待ち始めて十分も経たぬうちに、前にも見たダボダボの作業着がこちらに向かって歩いて来た。まだ一度しかまともに話していなかったから、緊張していた。 

徐々にその影が大きくなっていく。緊張からか、手が自然と握り拳を固めていた。次第に僕と男の距離は縮まって、とうとう男が僕の前まで来た。男は目を丸くして僕の前で立ち竦んだ。

 「あ、この前、介抱したの・・・・・・」

 丁度いい言葉が見つからなくて、自分の顔を指さしながら僕はそう言った。

 「そ、そっか、お前、だったのか。」

 突然のことで、男も動揺を隠しきれていない。

 「今度、田陀川の花火大会、行くの?」

間髪を入れずに聞いた。しかし緊張感は加速するばかりで、僕の口から発せられる言葉は、言葉を覚え始めた幼児のようにブツ切りで幼かった。

 「あ、ああ、いや、別に行かないつもりだけど・・・・・・」

 急な質問に慌てて答える男の様子は、僕に増して幼い子供みたいだった。

 「それじゃあ、花火の日、鎌田倉庫の屋上で、待ってるから。」

一方的な僕の誘いに男がさらに動揺したから、どうしたら良いか分からなくなって、僕は何も言わずアパートの前から走り去った。




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