第四章

 夏休みに入った。夏休みに入って嬉しいことが一つだけある。塾の夏期講習は普段よりも授業日数が少し多いということ。授業日数が増えれば、自動的に街角横丁に寄れる日数も増えることになる。

でも、この日はその中でも最も特別な日となった。

 八月九日。ここに何度も通っているうちに一つのルーティーンができた。

 まず、辺りを済まなく見渡しながら横丁を一往復する。それでも足りない日はもう一回同じことを繰り返す。そしてその後で「べっぴん屋」と書かれた居酒屋の横にある、明かりの行き届いていない、ブラックホールみたいなスペースに置かれてある、コーラの広告がばっちり記された赤べこ色のベンチで一休みする。 

その時、塾の前にスーパーで買っておいたクリーム色の500ミリリットルジュースを鞄から取り出して口につける瞬間は、自分が煙草を嗜む大人のように思えて、どうしても毎回粋がってしまう。

口いっぱいに広がるフルーツ牛乳の味わいは昔ながらの優しさがあって、でも最後にはほろ苦さもちゃんと追いつく。信頼と実績の舌触り。

 でも、あるおっさんのせいでこの日は、ここまでの僕のルーティーンが全て壊されてしまった。


「おい。お前ガキだろうが。こんなとこで何してんだ。」

 口からジュースが吹き出そうになって、ギリギリで堪えた。突然、灰色のダボっとした作業着姿のおっさんに尋ねられたのだ。歳はおそらく四十代前半で顎髭が粗末に生えている。土木作業員がよく着ている作業着姿で、胸元には『鎌田興業』と汚れた刺繍が入っていた。急な出来事で体が固まってしまったのに、何故だかこの男の容姿を瞬時に考察できた。

 その後、この男は僕の隣に座るや否や猛烈なスピードで僕に色んな事を聞いた。口からはしっかりとアルコールの臭いが漏れていたし、時折、呂律も回っていなかったから確実に酔っぱらってはいたと思うのだが、案外、男は自分の話をするのではなく、僕に質問ばかりして、話の聞き手に回っていた。おそらく二十分くらい話した。


でも、色々話したはずなのに、緊張していたせいか今となってはあの時に自分が何を話したのかさっぱり覚えていない。あの時間は、ベンチと他では時間の進みが異なっているような感覚で、まさにブラックホールにいる気分だった。

 

ただ、男の口臭に耐えきれず口だけで呼吸していた事と、何故かあの時、男が少し焦っていたという事、この二つだけは記憶に残っている。

    














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