第三章
この世の中は生きづらい。家の玄関を出たら、その後に会う人間なんて全員が敵だと思っている。
兄弟のいない僕の家は、僕と母の二人暮らし。兄弟がいない分、小さなアパートは広々空間に感じることが出来る。なのに世間は僕らのような家庭を“シングルマザー”なんて言葉で集めて、腫れ物に触れるみたいに扱う。
でも僕は、今の暮らしが寂しいだなんて思っていないし、小さなアパートで母と二人、送る毎日は他と何ら変わらないごく普通の家族生活だと思っている。
時々、胡散臭いドキュメンタル番組がシングルマザーの家庭をひたむきな感動ストーリーに仕立て上げているのを目にすると、つい舌打ちが出てしまう。単親の家庭が不完全な幸せを完全な幸せと錯覚している、と労わられた気分になって悔しさが込みあがる。
例の街角横丁を発見した日から遡ること三ヶ月前。四月のある日のことを今も忘れられない。
午後七時。その日は塾のない日で、四月のほんのりした夜風に吹かれながら、母よりも先に帰宅した。また、この日はいつもに比べてタフな表情筋のトレーニングを強いられた日でもあった。
玄関を通過し、リビングの明かりをつけようとした手が止まった。母の帰宅まではまだ四十分近くある。その日の教室があまりにも騒がしかったから、少しの物音すら許さないその静かなリビングが却って安らぎを感じさせる。部屋は母好みの落ち着いた家具や食器で埋め尽くされていて、暗くても落ち着く。さらに明かりのないリビングに、レースカーテンが月の光を程よく運んできていて、その空間が心地良い暗さで僕を招き入れた。さらに表情筋の疲れも相まって、何となくそのまま明かりをつけないでソファーに腰を下ろすと、ソファーの正面にあるテレビの黒い液晶に、今日一日の出来事が回想するように映し出された。
四月九日。今日は年に一度訪れるクラス替えの日だった。春休みを経て、OL達の春らしい装いが朝の電車内を四月色に彩った。
学校の門を過ぎると、桜の木が満開になって新年度の温かい風をそよがしている。
でも、満開の桜を忘れてしまうほど、今日は嫌な日。始業式で校長先生が自慢げに長話をすることもまだ可愛く思えるくらいに、嫌な事がこの後に待っている。
それは他でもない。新クラス発表後の異常に騒がしくなるあの教室。これは本当に嫌いだ。
案の定、新クラス発表後の教室は、ロッカーの角から黒板の隅まで、どこに行っても騒がしかった。まず、どいつもこいつも十六、七のくせに演技が上手い。少子高齢社会が問題視されている今後の日本も、接待産業だけは著しい成長を見せるのではないか、と思うくらいにみんな、相手に好印象を持たせるナチュラルな笑顔を作れてやがる。また、女に関してはそれに磨きがかかっている。
荒井さやか。学年中に名の知れたべっぴんがどうやら同じクラスになった。あだ名は、「愛嬌荒井」。艶のある黒髪が肩の上くらいのところで優しく揺れていて、すれ違う度にほのかな香りを撒き散らす、汚い女。それが、加藤とかいう小太りで冴えない男に教室の真ん中で全開の自己紹介をしていた。明らかに二人はつり合っていないけど、加藤は緊張しつつもどこか嬉し気で、馬鹿みたいに曇った眼鏡の裏に彼の下心が一瞬映った。だけどあの女はきっと加藤になんか興味はない。加藤を通して他の男に、こんな加藤にも優しく振舞うべっぴんをアピールしていたに違いない。
あだ名は「アイキョウアライ」から「アイソウワライ」にでも改名したらどうだろう。そう思った。
ざわついた教室に、新クラスの担任が入ってきた。みんな、そそくさと出席番号順の席に着く。この後の流れも予想通りだった。
担任の自己紹介の後で、みんな自ずと、近くの席の奴と自己紹介を交わす。でも、この時間は教室が本当に気持ち悪い、異様な空気になる。
なんと言うか、決して空気が澱んでいるわけではなくて、むしろ異常なまでにハキハキしているのだ。自己紹介は、まるでどこかの取引先に接待をしているかのようで、相手に興味のない質問をしたり、どこで覚えたかもよく分からないようなマニュアル通りの笑顔を浮かべたりするのが当たり前。
現代の高校生とはこんなものだ。他人の目ばかりを気にして、誰にも嫌われないように大人みたいな顔をする。みんなと同じ顔をして、みんなと輪を結束しているフリをして、実は誰しもが孤独なのかもしれない。なんとも恐ろしい。
でももっと恐ろしいことは、いざ自分にその番が回ってきた時には、僕も咄嗟にみんなと同じ大人びた顔を必死で作ってしまうこと。
だから、本当に恐ろしいのは高校生の作るその大人びた笑顔ではなく、そんな笑顔を卑下している僕でさえも思わず同じような顔を作ってしまう、この同調圧力とそれに負けてしまう自我の弱さだ。
人を憎み妬んだドロドロしい赤と、そんな自分を憐れに思うネガティブな青を心にしまって、表には幸福めいた黄色い顔をばら撒く。
まるで、赤や青に黄色を重ねることで美しさを保つ蜷色のようだ。
色白。細身。もしかしたら、そんな事の何倍もこっちの方が僕のコンプレックスなのかもしれない。
こうして今日もまた、表情筋を苦しめた。
「ピーンポーン」
明かりもつけないで黒い液晶画面に今日の一日を振り返っていると、インターフォンが鳴って、四十分は意外に早く過ぎた。リビングに入ってくる母を脅かさないように、慌てて明かりをつけた。制服姿の僕に
「今帰ったの? 遅かったのね。」
と母が少し心配そうに聞いてきたから
「うん。」と、短い言葉で嘘をついた。つく必要のない嘘だったけれど、母さんに余計な心配をかけたくなかったから、最小限の言葉で最大限の愛を送った。
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