第二章

 初めてその世界の存在を知ったあの夜のこと。断片的ではあるけれど、あの時目にした光景は今も目に焼き付いて取れない。

 

その日は、朝起きてから塾に行くまでの流れがあまりに普段通りで、ぼーっとしていると今が今日なのか昨日なのかすらも分からなくなってしまうくらいに普段通りな日だった。無論、まさかそんな日の夜に衝撃的な出会いを果たすなんて、思ってもみなかった。



衝撃的な出会いまで13時間40分。

朝、遅刻ギリギリで駆け込んだ教室で一日、

薄っぺらい笑顔を塗りたくった。もはやこれは慣れた作業だ。


衝撃的な出会いまで6時間40分。

六限のチャイムが鳴るや否や今度は部室に駆け込んだ。いつも通り、忙しない一日。 

この高校のサッカー部に存在する、六限が終わるなり部室に急がされるこの変な風潮はやっぱり変だ。しかも急がされた割に部活の内容は希薄で、いつもあっさり終わってしまう。三年の奴らが、部活の希薄さを上級生特有の気迫で補っていて、こっちが恥ずかしくなる。

 高校入学直後『未経験者大歓迎!』と殴り書きされた張り紙に騙された。色白で細身の僕は明らかに運動部向きではなかった。

今すぐにでも辞めたい。でも、サッカー部の肩書を捨てたら僕は、愛想笑いをするだけの白くて細い男。あらゆるコンプレックスを隠すために、アクティビティーな部活に入部した。だから辞めるわけにはいかない。


衝撃的な出会いまで3時間40分。

部活が終わる。薬局の安いボディーシートが茶色く染まるまで、全身にへばり付いた汗を拭い、帰りの電車ではSNSで人様のくだらない自慢を右から左へと流した。そこで閲覧できるのは所詮、韓国文字が刻まれた流行りの“透明カップ”の甘い粒。それか、どこぞの“カップル”によるゲリラ的な幸せの押し売り。“ル”があってもなくても変わらず鬱陶しい。

学校から塾までは普通電車で六駅。初めの一駅か二駅で自慢にも限界が訪れる。すると残りの時間僕はつり革を握るだけの生肉と化する。部活後の、重いのに浮遊感のある体を電車の揺れに任せているだけだから、この時点で僕の鮮度はガタ落ちしている。ギザギザの半額シールを貼られても仕方ない状態だ。 


衝撃的な出会いまで2時間10分。

この日は小雨が降っていて、ホームの黄色い点字ブロックは滑りやすくなっていた。滑り落ちないよう慎重にホームの階段を下り、雨水で少し重くなった靴でキュッキュなんていわせながら改札を抜けると、そこから塾までは歩いて六分。

教室でロボットの様に指令の下行動し、部活で残りの人間らしさを全て汗に変えられてしまい、もう空っぽになった我が身。その中でこの六分の間に響く、足元で湿ったアスファルトが立てる嫌味っぽい音はあまりに不快で、やりきれない苛立ちの隙間に時折無力感すら感じさせられた。でもどうすることも出来ない。

仕方なく我慢し、梅雨に湧き上がる惨めな気持ちを、重くなった両足の靴と僕とで仲良く三等分して塾へと歩を進めた。


衝撃的な出会いまで2時間04分。

しかし、こんな生憎な日の塾の授業が却って心地良かったのを覚えている。

塾講師の熱意を鼻で笑うような奴もいるけれど、学校の教室で僕は心の無いロボットみたいな奴らと生活しているから、久々に血の通った人間と出会った気分になり、週に二回、たまらなくあの熱意が有難い。

それなのに熱血講師も百二十分の授業が終われば一人の大人に戻る。何度も見ているのにあの瞬間がやっぱりいつも切なくて、帰る準備が終われば僕はまたロボットになった。 


衝撃的な出会いまで0時間10分。

その日もメトロノームと共に階段を下り、自動ドアを抜け、いつも通り惰性で右足と左足を交互に進めていた。


インド料理屋の浮いた明かりを背に、これまた惰性で鞄から白いイヤホンを取り出したその時、嫌な想像をしてしまった。もしかすると、必要以上に長く伸びたこの白いイヤホンはあまりに当世風でないのではないか。

その日たまたま登下校の電車内で、二万円程するワイヤレスイヤホンをした人を何人も見たせいか、スマホを購入した時に付属品として付いてくる何の個性もない自らの無機物めいたイヤホンが急に虚しく思えた。  

そこで人通りの多い商店街を直進することをやめ、その外れにある暗い細道をたまたま選んだ。その細道が前者に比べて遠回りであることは分かっていたけれど、どうしてもその日はそっちじゃないといけなかった。


衝撃的な出会いまで0時間1分。

しかし、この細道に街灯なんてものは存在しなかったことを、この時思い出した。入ってみるとそこはかなり暗くて、突発的な恐怖感を覚えた。明るい時間帯にこれまで数回通ったことがある、というだけで、こんな時間にここを歩いたことはなかった。たしか、人一人分くらいの幅はあったはずだけど、あまりの暗さと緊張で肩が自然とすぼまる。暗くて慣れない道は安心出来ず、耳元の聴き慣れた歌声に縋るようにして、不安定な歩幅を懸命に進めながら角を曲がった。


衝撃的な出会いまで0時間0分0秒。

角を曲がり終えるか終えないかぐらいのタイミングで、突如、今までの暗黒が全て嘘であったかと思う程に眩く煌びやかな光が、僕を覆った。


暗黒から解放されたことの安堵よりも、何の前触れもなく現れた圧倒的な輝きに慌ててしまった。眩しさのあまり、目の奥に突っつかれたような痛みが走り、咄嗟に両目を手のひらで隠した。

それでも十秒後ぐらいには、じわじわと目の奥の痛みが引いてきて、手を下ろそうかと思った。でも、今の状況を簡単には整理できないから、容易に手を下ろすのも怖い。手の中で瞼を開いてみたが、指と指の隙間がオレンジ色に光っていて、その手の向こう側には絶えず光り続けている何かがある事が確認できた。

でもこの何かが全く分からない。

少しして心を決めた。細目にして、ゆっくり手を下ろすと・・・・・・


「街角横丁」と書かれたスナック・バーらしき看板が、絶えず点滅し続ける電球を巻き付けながら、押しつけがましくその文字を光らせていた。

見慣れない看板に足が止まってしまったが、すぐさまその先が気になった。

それから恐る恐るその看板の向こう側に足を踏み入れた。すると、いつの間にか暗い細道は終了していて、謎の明るい空間に放り出された。

神隠しにでもあったような気分。

この時すでに、耳元の聞き慣れた歌に意識が行き届かない状態になっていた。

そしてその後は、ぼんやりと目に映る物の一つ一つに、いちいちその目が留まった。

 

「やきとり」「ビール」と書かれた暖かみのある提灯が、火照り膨れながら等間隔に吊るされてあって、夜空に浮いているように見える。

 暖簾はどれも、深くて落ち着いた色をしている。それは客が通るたびに毎回上品に揺れて、一帯を仰ぐ。

 そこらを行き交う大人たちは皆笑っていて、顔が赤くて丸い。

 客が座っているのは、よく見ると椅子ではなくて粗末なビール瓶のケース。でも、その客たちもやっぱり笑っている。

 

そう、ここは「街角横丁」という、商店街の裏に佇む飲み屋街だった。


両腕を広げた時の幅より少し狭いぐらいの一本道を挟むようにして、何軒もの飲み屋が連なっている。明るい時間はどの店もシャッターが下りているから知らなかったけれど、どうやら夜になるとここは、こうしてひっそりと賑わうようだ。開くと飛び出る絵本みたいに、夜になれば突如として商店街の裏で幕を開ける。

あの暗い細道から抜け出してここに放り出された瞬間は、ただ息を呑んで漠然と辺りを目で追っていたけど、ここがどういう所か、それが分かったら何だか、徐々に体の真ん中で確かな熱が沸き起こった。

さっきこの目を包み込んだ圧倒的な光の正体はおそらく、あの派手な看板。

頭上に吊るしてある連続的な提灯は、愉快に演舞するタヌキ団のようでこちらの興奮を掻き立てる。上品に揺れている暖簾も、客を見送る旅館の女将に見えてきた。見れば見るほど、ここ一帯はまるでおもちゃ箱のような色とりどりの溢れ出す楽しみが感じられる。

そこらを行き交うのは、おっさんと酒と女。

梅雨の蒸し返った空気を跳ね返すように、汗まみれのシャツの袖をまくり上げて、バカ笑いするおっさん。襟の部分がヨレヨレになった地味なポロシャツのおっさん。女は大抵が肩を出した奇抜なドレスコードで、これまた高笑いしている。いかにも水商売をしていますといった感じだ。女たちはおそらく、ここにいるおっさんの同伴なのだろう。でも何故か、その女たちの笑い声は嘘くさくない。心から今の瞬間を楽しんでいる風に見える。

そしてそんな一帯を、香ばしいタレの香りと、苦いアルコールの臭いが充満している。

普通に考えたら高校生が近寄って良い場所ではない。だけど、イケナイものに触れる時の緊張や躊躇を暴力的な好奇心が追い抜いた時、僕はすでに、ここ街角横丁の虜になっていた。

 それから何より、ここにいる人や物のどれからも、全く嘘っぽさを感じない。まさにありのまま。嘘だらけの学校とは真逆の世界。

学校では感じられない刺激がここにはある。


本当に素晴らしい発見をした夜だった。 








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