第一章


 午後十時。駅前では、仕事を終えたサラリーマンが何人かで肩を組んだりなんかして、爽やかで健康的な朝とは真逆の時間帯。


塾が終われば僕は一人、足早にその教室から出る。“疲れた”なんて言う事すら疲れてしまって、ただ黙って歩くことしかできない。

塾は二階建てで教室は二階にある。外壁が茶色いレンガのタイルで覆われているその建物は、はたから見れば落ち着いたレトロな雰囲気の集団指導塾なのかもしれない。でも実際は長年改装工事が行われていないだけで、どこかをいじれば今にも崩れてしまいそうなジェンガみたいに、誰も触れることができないらしい。なのに、入り口の自動ドアが開けば中は機械めいてピカピカしている。目新しい印刷機器や補正が利いてツルりとした階段が真っ先に目に入る。その、外観と内装のギャップが信じられない。

そんな塾の授業が終われば、教室から四十二段、階段を下った先に自動ドアがある。四十二回も音が響くのに、一向にその音が変化する気配はない。感情を失ったメトロノームが、理由も分からずただ、その針を動かしている時のような重たくて冷たい音。一段一段降りるたびに今心の中にある食欲や性欲がじわじわと睡眠欲に変わっていくのが分かる。

 出入り口の前では、4%くらいの気の抜けた笑顔を浮かべてくる大学生バイト講師の女が  

「さようなら~。」

なんて言ってくるから、こちらは容赦なく3%くらいのそれで皮肉なオウム返しをかます。思春期というわけではないけれど、一人の男子高校生が塾を出る瞬間なんてこんなものだ。体中の力が抜けているのに、皮肉をかます余力だけはあるから、何とも情けない。

 けれど、学校での僕はもっと情けない。

学校での僕は、あらゆる行動の全てに自分の意志はなく、働きロボットみたいなのである。

例えば、僕の目が誰かを察知した時には、そこから表情筋に向かって“ニコリと笑え”と指令が下り僕はただそれに答えている。

いわゆる“愛想笑い”。

別に笑いたくもないけれど指令には従わなければならない。ああ、情けない。

でも僕だけじゃない。学校の教室の中ではどいつもこの指令に従って動いているように見える。

学校の校訓は“愛”と“笑顔”。なんとも幼稚な単語で構成された校訓だが、みんなその二単語の間に“想”を入れることで校訓を忠実に守っているから御立派だ。  


 午後十時一分。それから僕は塾を出るとすぐに、古臭いブティックの店や独特のインド料理屋などを構えた、地味な商店街に入る。商店街には他にも駄菓子屋や薬局なんかがあるけど、この時間帯はどこもシャッターが下りていて殺伐としている。でも、どこも閉店しているこの時間帯に何故かそのインド料理屋だけはいつも営業していて、客が来なくて暇なインド人の店主と目が合った時は、反射的に軽い会釈をしてしまうものの、毎回感情の無い目で無視される。学校で愛想笑いばかりしている自分が恥ずかしくなるほど、この時の彼の目に愛想は無い。

その後、そのまま真っすぐ行けば商店街のアーケードが見える。普通はそこを潜って商店街を後にする。でも、ある夜を境に僕がそのアーケードから商店街を抜けることはなくなった。

今は、商店街の途中にある一本の暗い抜け道を見つけてはそこに体をねじ込むようにしている。でも別にそこが近道というわけではなく、寧ろそこは魔物が出そうな怪しい細道。  

だけど、その先に広がる世界は僕にとって、あまりに快楽的で刺激的なのである。だから僕は今日もその怪しげな寄り道をやめられない。


細道の先の世界。

そこは、さっきまでの塾や商店街とはまるで異世界で、テーマパークのような理由も分からない興奮を掻き立てられる場所。でもそこはテーマパークとは程遠い。言うなれば、夜にむき出る大人の世界。

まさか十六歳であんな場所に惹かれるとは思っていなかった。しかし、あそこで肌身に感じる“大人の世界”は、僕の細胞一つ一つを余すことなく刺激する。 

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