第19話トビト記12

 約束の一週間後、アザレアはガバエルの家へ向かう前にガブリエルにあるお願いをした。


「私がサラに付いている悪魔を取り出す。お前は、その悪魔と赤髪の天使を冥界へ連れて行ってくれないか?」


「あの悪魔はやはり元天使か......。お前は、あの栗色の天使と戦い、悪魔と赤色天使を逃がしてやるつもりのようだが、後に残されたお前の弟子達はどうする?」


 アザレアはガブリエルの推察力に改めて驚いた。


「お前は頭が良くて優しいね。安心しろ、主を愛する天使は人に危害を加えない」


「では、あの栗色が主では無い者を密かに思っていたらどうする?」


「彼等は神に忠実なはずだ」


「それは、お前の理想だろ」


 ガブリエルはアザレアに一歩歩み寄って聞いた。


「お前は、崇拝する主の顔を見た事はあるか?」


「私が主の御前に立つなど出来るものか......」


「私も主である冥皇にお会いした事は無い。命令に従っているのは、それで生計を立てているからだ。他者の心を己の理想で語るなどおこがましくはないかね?」


 アザレアが言葉に詰まるとガブリエルは更に続けて言った。


「見た事も無い、話をした事も無い者など私は好きになれない。私は冥皇に力と金が無くなれば地上に降りて好きな事をして過ごすだろう。お前の弟子はどうしてお前に付き従っている?主が好きなのか?お前が好きなのか?」


 アザレアとガブリエルが長話をしているのをトビアスがじっと見つめている。


「私は姿を見せず、宮殿で優雅に暮らしているだろう冥皇の事を愛してはいない。お前達と冥皇を秤に掛けるなら、お前達の比重の方が重いのだ」


「ガブリエル......」


「少し長話が過ぎたな。お前に比重を置く者達の心を努々忘れるな」


 ガブリエルはアザレアの肩を叩いて、そろそろ行こうと促した。


 ガバエルの家の前では、妻とガバエルが玄関前でアザレアの到着を待っていた。


 新しい花婿、どれ程の強者なのか?


 暫くすると、アザレアが少年の手を引いて歩いて来るのが見えた。


「アザレア様、もしかしてその少年が?」


「そのまさかだ」


 ガバエルはトビアスを頭から爪先までマジマジと見ると、アザレアに暫く待つ様に言って家の中に入って行った。


「サラ!ちょっと来なさい」


 機織りをしていたサラは手を止めて、クマの出来た虚ろな目で父親を見つめた。


「新しい花婿がやって来た。お前より大分年下だが、師が言うには絶対に死なない強者らしい。彼を見て、内心どう思おうと絶対に拒むような事はするな」


「はい、父上」


 サラの中では、アスモディウスがサラの魂を撫でて語りかける。


「大丈夫、絶対に守ってやるから」


 家から少し離れた場所で、シェムハザは望遠鏡を手にアスモディウスの様子を見ていた。


「お前は優し過ぎるのだ。自然の摂理に逆らう人間の願い等、叶えるべきではなかった。人の欲は無限だ。お前は、その欲に縛られ天使たる姿と神格を失い涙を流している」


「絶望の中にある人間に、たった一瞬でも光を与えると、人はその光に依存し群がるのだ。やがて、その光は群がる欲に覆われ輝きを失くし朽ち果てる」


 シェムハザの後ろでウリエルが囁いた。


 ガバエルの家では、質素な婚礼が執り行われている。盃を交わすだけの簡単な契り。


「師匠、次は何をしたらいいのですか?」


「そりゃ、お前。初夜を迎えるに決まってるだろ」


「はっ!?」


 アザレアがあっけらかんとトビアスに言う。ガブリエルの顔が怖い。


「良く聞けトビアス。寝室では今、ガブリエルの香炉で魚の肝を燻している。あの悪魔の種族が尤も嫌う匂いだ。しかも使うのは冥界の香炉、香の効果がより強く発揮されるであろう」


「ガブリエル、あの香炉を使っても良いのか?」


「ラファエルに破格で買い取って貰った。掛けだがな」


「私達は、扉の前で待機している。悪魔が出てきたら大声で叫べ」


 寝室では、サラが既に寝間着に着替えて待機している。美しい香炉からは凄まじい悪臭が放たれ、部屋に充満していた。


 アスモディウスは吐き気に耐えながらもサラの魂をしっかりと掴み離さない。


 色気も糞もない我慢比べの開幕だ。


(ダメだ。目が痛い、吐きそうだ)


 人間のトビアスでさえ辛い悪臭。


 魚の生臭さと、麻の酸味、元々香炉に染み着いていた微かな甘い香りが混ざり合う。固く閉ざされ粘土で目張りがされた扉の前では、アザレアとガブリエルが優雅にお茶をしながら、その時を待っていた。


「あの夫婦は私の邪視で朝までぐっすりだ安心しろ」


「......どうした?」


「あの香炉、もうダメだな」


 アザレアが小声で独り言を言う。


 トビアスは、涙を溜めながら口を布で覆いサラを横目で見た。


(この人、何で平気なんだ?)


 サラ自身の体は、まるで臭い等感じて無いようで、虚ろな目のまま真っ直ぐ扉を見つめている。しかし中に居るアスモディウスは違う。顔を赤黒く染め、目を見開き歯を食い縛り、耐え難い吐き気に今にも失神しそうだ。


「あの、辛くないんですか?」


 サラは反応しない。トビアスはサラの前に異動し、目を合わせてもう一度声をかける。


「教えてください。本当に貴方が夫を殺したのですか?私達は貴方を救いに来たのです」


 その瞬間、サラの目の中から、何とも言えない嫌なモノがアスモディウスの体にのし掛かった。アスモディウスはたまらずサラの魂を放棄して外に飛び出し、トビアスに掴みかかった。


「ヤメロ!」


「師匠!ガブリエル!!」


 外で待機していたアザレアとガブリエルが扉を蹴破り部屋の中に入って来た。アザレアは、トビアスからアスモディウスを引き離し直ぐ様呪符をつけた縄で締め上げた。


「大人しくしなさい。殺しはしない」


 トビアスは窓の目張りを外すとサラに駆け寄った。


「サラさん!サラさん!!」


 サラを揺すってみるが反応は無い。体は既に冷たく硬くなり始めている。


「無駄だ。既に死んでいるからな」


 アザレアの隣で縛られ座り込んでいるアスモディウスがトビアスを睨んで言った。

 トビアスはアスモディウスに聞き返す。


「お前が殺したのか?」


 トビアスが言うや否や赤い閃光が窓から入って来た。


「待ってくれ!その子を痛め付けるな!私が説明する」


 シェムハザがトビアスとアスモディウスの間に入り、羽と両手を広げてトビアスを制止する。


 アザレアはトビアスを落ち着かせるとシェムハザに語り掛けた。


「同胞よ、何故この天使を堕天させたのだ。そなたがしっかり監視をしていればこんな悲しい事にはならなかった」


「貴方の言う通りだ。全てが私の責任」


「それは違う!隊長のせいじゃない!!」


 アスモディウスが叫ぶ


「私は、グリゴリの定めから逃げて来た天使だ。自分の意思で戻らなかった」


「アスモディウス......」


 シェムハザはアスモディウスを抱き上げるとアザレア達から後退りをし、少し遠ざかった。


 シェムハザの脳裏に、まだ天使だった頃のアスモディウスが浮かぶ。よく望遠鏡で、ある家族を見ていた。娘は病気で死の淵にあった。


「アスモディウスは、この娘の命を自らの力で引き留めて延命させたのだ。あの夫婦が可哀想に思ったのだろう」


「それは自然の摂理に反する事だ」


「分かっている。アスモディウスだって最初は少しだけ延命させて夫婦に孫を抱かせてやるつもりだったのさ」


「ならば何故、役目を終えて直ぐ出て行かない?孫はどうした?何故婿を殺した!!」


 トビアスが矢継ぎ早に質問する。


「孫も、孫の父親もあの夫婦が殺した。勿論、今までの婿達もだ」


「何だと!?」


 ラファエルは己の弟子の所業にショックを受けよろめいた。シェムハザは気にする事なく続ける。


「無事に赤ん坊が生まれるまでサラの中に居たアスモディウスは、折を見てヘルモン山に帰ろうとした。しかし、アスモディウスが離れたサラの体は次第に弱まり、また死の淵に落とされた。嘆き哀しんだ夫婦は、邪教の教祖にすがり延命のための秘術を授かった。教祖は、孫の命と引き換えにしろと夫婦に言った」


 トビアスが顔を歪める。何て愚かな夫婦だろう。アザレアは青ざめた顔でシェムハザに言った。


「延命の秘術など人間に行える訳がないだろう」


「そうだ、孫を殺めてまで娘を救いたいとの願いをアスモディウスは聞いてしまったのだ。それでも、一度死の淵に落ちた体はアスモディウスの力を持ってしても長くは持たない。夫婦は娘の体が弱まる度に人を殺し秘術を行った」


 シェムハザがアスモディウスの頭を撫でて更に続ける。


「アスモディウスは夫婦の夢枕に何度も立ち、そんな事は止めろと戒めた。最初は美しい天使の姿だったが、サラの延命に力を使い続けたアスモディウスの体は次第に今の姿になって行った。皮肉な事に夫婦は悪魔が娘を救ってくれていると信じ、更に人を殺めた」


 アスモディウスが人目を憚らず、声を上げて泣きはじめた。トビアスは心が痛くなった。


「アスモディウスは夫婦の欲に縛りつけられ、逃れられなくなってしまったのだ」


 アザレアも心臓が締め付けられる思いがした。これまで、ガバエルに説いてきた教えは全く彼等を救わなかったのだ。長く生きてきて初めての挫折。


「お前達の事は良く分かった。私の弟子の1人に死神が居る。お前達は冥府で然るべき処罰を受けると良い」


「冥界か、この子には良い旅路となろう」


「赤髪の天使よ、そなたも供に参るのだ」


 部屋に充満していた臭いは、すっかり消え、涼しい夜の風が全てを優しく包む。


 サラの魂を追いかけて外に出ていたガブリールは、あの栗色天使が赤く燃える剣を持って、数人の仲間とこちらへ飛んで来るのに気が付いた。


「ヤバい、お前達!感傷に浸っている場合じゃないぞ!!」


 ガブリールは急いでアザレア達に伝えたが、栗色天使達は既に目と鼻の先まで来ている。


「ウリエル......。やはり黙って見ててはくれぬか」

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