第9話トビト記6

 雄鶏が鳴く少し前、まだ薄暗い雑魚寝部屋でトビアスは目を覚ました。髪も服も汗でびっしょりだ。


(怖い夢を見た気がするが......)


 夢の内容を思い出そうとしても、すっぽりと穴が抜けた様に欠片さえ見つからない。


(忘れる程、怖い夢か)


 トビアスは厨房へ行き水を一杯貰う。もう釜殿の火が赤々と燃え、飯炊き娘達が種無しパンを焼いている。


 トビアスはもう一度寝ようにも動機が治まらないので、何時もの広場まで散歩に出る事にした。


「おはよう。今日は早いな」


 ガブリエルが豊かな金髪をなびかせて空から舞い降りて来た。


「なあガブリエル。昨日、千里眼とやらを使ってみたんだが」


「ふふ。中々上手くは行かないだろう?」


「そうだな。相手の顔を見るのがやっとだった。その後は、目の奥が痛くて悪夢にうなされたよ」


「相手の顔を見た?」


 ガブリエルは首をかしげてトビアスの顔を見つめた。


(は~ん。強がっているな)


「恐らく、疲労による悪夢はこれからも続くだろう。せいぜい夜を楽しんでくれ」


 ガブリエルは、そう言い残すと闇と共に消えて行った。


「飯の用意でも手伝うか」


 今日から早く起きてカインの真似をしてみようとトビアスは思った。



 今夜は曇り空、トビアスは今日も千里眼の修行を行う事にした。


 昨日と同じ手順でカインの部屋を映し出すと、今夜のカインは顔を歪めて何度も寝返りをうっている。額には汗が歪み歯を喰いしばってとても苦しそうだ。


(体調でも悪いのか?人を呼んだ方がいいのか?)


 心配して暫く眺めていたが、少しすると穏やかな顔になり寝息を立て始めた。


「アベル......」


 カインが微かに呟いた。


(夢を見ていただけか、良かった)


 カインもまた悪夢にうなされる事もあるのだろう。品行方正なカインが見る夢はどんな夢だろう?トビアスはそんな事を考えながら眠りに付いた。


 夢の中、トビアスはまた鏡の前に立たされている。今夜も悪夢の始まりだ。


 天井は美しい絵画で飾られ、壁には金銀財宝の花が咲いている。天秤を型どった燭台に照された彼の目からは血の涙が溢れ、床を紅く染めていた。


「神よ!神よ!何故私を見捨てられたのだ!!」


 鏡に映る天使は、良く似たもう1人の天使に踏みつけられ、槍を突き付けられている。どちらも彼に良く似た天使。一方は黄金の鎧、もう一方は黒い鎧に天秤と鷲の腕章を付けている。


「天の父よ、もういいだろう!」


 誰かが叫ぶと視界が歪み、意識が鮮明になる。


(やっと悪夢の終わりか?)


 雄鶏が鳴く少し前、トビアスは、汗びっしょりの布団から抜け出そうともがくが、体が思うように動かない。


(冥皇......まだまだ、悪夢は終わりません)


 暗闇から聞き覚えのある声がする。トビアスの体から一気に力が抜け、また鏡の前に連れ戻された。


「カイン!」


 今度は、広大な草原とカインの姿が鏡に映し出された。


(貴方が望んだから見せるのです)


 声の主は、この巨大な鏡だ。

 カインの前には誰かが座り込み、良く聞き取れないがカインに何かを訴えようとしているようだ。


「私が抱える......はこんなモノではなかった......」


 カインの目の前の青年の目は虚ろで、もはや正気を保っているのかも分からない。良く見ると頭が凹みおびただしい血を流している。


「許せアベル」


 カインは、そう言うと持っていた棍棒を何度も何度も青年に振り下ろした。


 トビアスはその凄まじい光景に目を反らす。すると、またあの声が頭の中に響いてきた。


(貴方が望むなら、今日はもう目を閉じる事にしましょう。敬愛なる冥界の主よ......)


「ぎゃああああ!!」


「うわっ!どうしたトビアス!?」


 トビアスが飛び起きると、兄弟子達が自分の周りを取り囲み心配そうにしている。


「もう昼過ぎだ。熱にうなされていたんだよ」


 兄弟子達の中からカインが声をかける。


「まだ熱が高いのだ。もう少し寝ているといい」


 師匠も心配して様子を見に来てくれた。


「今日は近くの集会場にて、教えを説きに行くが、お前は連れて行けない。養生なさい」


 アザレアはそう言い残すと弟子達を数人連れて出て行ってしまった。


 他の弟子達も其々、遣いや善行に行き、部屋にはトビアスだけが残された。


「あれは、確かにカインだった。カインが人を殺めていた」


 生々しい夢だ。だが、ただの夢。現実とは違うはず。


「体調はどうだトビアス」


 ラファエルが居ないのをいい事にガブリエルが堂々と宿屋に入って来た。


「質素でカビ臭いな。良くこんな所で寝られるな」


 相変わらずの嫌みを吐き、ベッドの横に腰を掛ける。


「体調を崩したのは、千里眼のせいか?」


 トビアスはガブリエルの袖を引っ張って聞いた。


「崩すだけの千里眼が使えたか?お前のそれはただの風邪だ」


「お前達の邪視は人の過去も見えるのか?」


 ガブリエルはトビアスから袖を引き戻すと、今度は一瞬で窓際に移動した。


「冥皇なら、それも出来るかもしれんね。伝説では、時間軸を操り過去も未來も覗く事が出来るそうだ」


 トビアスは、最初に見た悪夢の欠片を見つけ出せそうな気がした。


「お前達の主は、どんな姿をしている?」


「私のような末端の死神には、主の上に主が居るのだ。やんごとなき方の姿など思い描くのも許されぬ事よ」


 ガブリエルは窓辺に香炉を置いて火をつけた。


「今、冥界で一番人気のある香だ。白ユリの香り、少しばかりの気休めになろう」


「冥界はずっと科学が進んでいるんだね。そんな物初めて見るよ。いい香り、ガブリエルがうっすらと何時もまとっている香りだね」


 ガブリエルは少し顔を赤らめて微笑んだ。


「ところで、カインの事は調べてるのか?」


「不審な所は無いが、気になる事があるので聞いてみるよ」


「......まあ、頑張れよトビアス」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る