第5話トビト記2
皇子が不在の冥界では、ハーデスが事実上の冥皇として実権を握り、その下の神々が補佐を行い、良く治めて忙しくも平穏な日々を送っていた。
ハーデスやオシリスは皇子の我が儘に何度も振り回されたが、人の中に入る事で少しでも成長して帰って来てほしいと願った。
当のサリエルは、地上でトビアスと言う名の青年に成長し、何不自由無く暮らしていた。
金持ち息子のトビアス、優しく愛らしい性格ではあったが、特に優れた才能も無く平凡な人間だった。
ある日、トビアスが愛犬を連れ散歩していると、群衆の中に黒いフードを被り、紫のストラに天秤の紋章が刺繍された異様な姿の旅人を見つけた。
良く見ると、旅人の体は透けていて、群衆をすり抜けてゆっくりと路地へ入って行く。不思議と恐ろしくは無く、むしろ懐かしさを感じて涙が頬を伝った。トビアスは旅人の後を追いかけ、気付くと路地裏の売春宿が建ち並ぶ寂れた通路に立っていた。
ここは、最下層の遊女達が行き着く地獄である。客層も悪く、死体が路地脇に放置され酷い臭いを放っていた。
旅人は、フードを脱ぎ今にも息絶えそうな女を見つめている。遠目からで良くは分からないが、旅人は恐らくは女性、肩までの金髪でとても神秘的な雰囲気を醸し出していた。
「怖れなくていい。貴方に冥福があらん事を......」
彼女が祈りの言葉を放つと、肩で呼吸をしていた女がうっすらと目を開けて、今度は下顎で一生懸命呼吸をし出した。トビアスは彼女から目が離せなくなった。
もう一刻は過ぎるだろうか?彼女はずっと女の傍らでその時が来るのを待っているようであった。
そろそろ事切れる寸前だろうか。彼女は肩にかけているストラを女の胸に置き、両端を摘まんで勢い良く跳ね上げた。すると、丸く透けた物体が上空に弾き出され一瞬で消えてしまった。
「死神!?」
トビアスはうっかり声を出してしまった。彼女は振り返るとゆっくりとトビアスの方へ近付いてくる。トビアスは逃げようとしたが、耳鳴りがして全く体が動かない。
「たまに見えてしまう人間が居る。長く死神をしていれば珍しい事ではない」
彼女はトビアスに危害を加えようとは全く考えておらず。ただ事務的に対応しようとしているだけだった。
「今から我が主の力を借りて、貴方の記憶を消します」
彼女はトビアスの額に手を当てて何やらブツブツと呪文を唱え始めた。しかし、その呪文は何時まで経っても終らない。彼女は首をかしげると、一度手を放し、もう一度トビアスの額に手を当てて何かを確かめ始めた。
「おかしい......。既にオシリスの強い呪いが掛かっている。お前は既に我等に接触した事があるというのか?それにしてはお前に掛けられた呪いが強すぎる。お前は何者だ?」
彼女は金縛りを解いてやるとトビアスに名を名乗る様に迫った。
「私はトビアス。ニネベのトビトの子、トビアス」
トビアスは死神に名乗る事に躊躇したが、彼女の圧があまりにも強く名乗らねば殺されると思った。
「トビアス。お前は冥皇の側近オシリス様にお会いした事があるのか?あの方が人間に姿を現す等考えられぬ」
「その様な方は知りません。会っていたとしても貴方達は見た人間の記憶を消すのでしょう?覚えている訳がないじゃないですか!」
「これは一体どうした事か。私は至急冥界へ戻り、お前の事を上司に報告しなくてはならない。いいかトビアス。お前には強力な呪いが掛かっていて、これ以上の力を掛けても跳ね返ってしまう。お前の記憶を消す術が私には思いつかない。だから不本意だが私と契約を交わして欲しい」
「契約?」
彼女は、重ねた両手から細長い紙を出現させると、袖からペンを取り出し何やら書き出し始めた。
この時代、まだ紙もペンも地上には存在しない。トビアスは死神が出した不思議な道具をじっと見つめた。
「まず、これは死神ガブリエルとトビアスの契約である。我等は契約の神である冥皇ミトラの名の下に、お互いに契約を交わし、その内容を厳守し遂行する事を誓う。1つ、トビアスは今日、死神ガブリエルに会った事、及び死神の仕事の内容、死神の力を人に伝えてはならない。2つ、トビアスは今後死神に会っても接触を図ってはいけない。3つ、死神ガブリエルはトビアスを監視し、見守り、トビアスの動向を冥界へ報告する義務を負う」
彼女は、契約を書き終えると、ペンをトビアスに渡してサインを促した。
「このミトラと言う神は、冥界の最高神だ。契約の神でもある彼は、契約を反故にする事を極端に嫌う。恐ろしく強い力を持つ死神の総帥だ覚えておくといい」
死神ガブリエルは、トビアスを睨み付けると路地の奥へ消えて行った。
「まさか本当に冥界や死神が存在するなんて」
トビアスは暫くその場から動けずにいた。太陽は既に西に傾き、影になった路地には、客を求める娼婦の甘く悲しげな声が響き渡っていた。
ちょうどその頃、トビアスの家では、父トビトと母アンナが言い争いをしていた。
「何故叔父に天使の金貨を渡してしまったのです。あれはトビアスが旅に出る時に渡す約束だったでしょ」
「仕方ないじゃないか渡さねば家を取られる。そもそもトビアスに金貨を持たせる意味があるか?アザレアにトビアスを渡しさえすればいいのだ。あの男は幸い、今ニネベに居る。約束の時には少し早いが問題無いはずだ」
「貴方はあの天使に会ってから変わってしまった」
「お前こそ事ある事にあの天使の話しばかりではないか。トビアスは本当に私の子か?」
「何をバカな事を。あの天使の子ならもっと美しく気高いはずです。トビアスは正真正銘貴方の子ですよ」
「......くっそ......いつもいつも俺を馬鹿にしやがってよ」
盲目のトビト、かつて誰よりも善人を演じていたトビトは、自分が堕落していく様が許せなかった。
天使から貰った家畜や金貨は、貧しい人に分け与え、近所に憩いの場としての教会さえ建てたのに。今の彼は、借金と見栄の塊に過ぎない。
「あれは天使なんかじゃない。私から視力と妻の心を奪った魔物。あれにさえ出会わなければ......。どうしてこんな事になったのだ。あんなに善行を積んだというに。神は私に死ねというのか......」
平凡なトビトに人々の心を繋ぎ止める手錬手管は無い。金の切れ目は縁の切れ目。トビトからは人々の心が離れつつあった。
「父さん」
外出から帰って来たトビアスは、酒に溺れた憐れな父の傍らに身を寄せた。
「父さん、俺。旅に出るよ。俺が旅先から仕送りする。今後は父さんも母さんも俺が支えるから」
トビアスは家がこんな事になっていなかったとしても二人から離れるつもりだった。常に死神と供に居る自分が、どんな厄災を招くのか不安だった。家族を巻き込んではいけない。最善の選択だと思った。
トビアスと契約を交わした死神は、黄泉の門を越え、冥界の王の1人であるハーデスの国へ来ていた。
スノードロップが咲いた山道。もうすぐ春が訪れる冥界の辺境。ガブリエルは漆黒の馬に乗り、上司であるモートの元へと急いだ。ハーデスの配下であるモートは普段はハーデスと供にミトラスの宮殿で働いているが、春先の長期休暇には目的地の別荘でバカンスを楽しんでいるはずだ。
「どうかモート様にお目通りを。至急報告せねばならぬ事があります」
別荘に着いたガブリエルは門番に事の次第を告げると、間もなく応接室へと通された。
「どうしたガブリエル。何があった!?」
「下界で、恐らくはオシリス様と接触したであろう少年が居ます」
「オシリス様と......」
モートの上司であるハーデスはオシリスとは犬猿の仲だ。
「ガブリエルよお前、この事を私以外に話したか?」
「いいえ。ただ、少年の記憶を消す術が見付からず、不本意ですが我等の秘密を守るために契約の儀を交わしました」
「それでいい。上層部が裏で何をしているかなど知らぬ方が身のためだ。本来ならばハーデス様に報告せねばならぬのだが......。今の冥界は皇帝が不在な故。多忙なあの方にこれ以上負担はかけらまい」
「分かりました。この事は誰にも話しません」
「して、ガブリエルよ。その少年は本当に人間だったか?」
「血や肌、体臭から彼の記憶まで間違いなく全てが人間の物です。平凡な少年です」
「そうか。お前はこれから、その少年に憑りつき一時も休まず監視せねばならない。急ぎ地上に降り任務を遂行せよ」
ガブリエルはモートに一礼し別荘を後にした。
「兄上、何か問題が発生したのですか?」
「バアル、席を外してすまない。いや、大した事では無いのだ気にするな」
「そうですか?でも少し顔色が悪く見えます。今日はもう帰りますのでゆっくりとお休みくださいませ」
「やっとそなたがルシフェルの元を離れ家族の元に戻って来たというにな。冥界も問題が山積みだ。落ち着いたら、そなたのための宴を催そうな」
「楽しみに待っていますよ」
バアルはモートのベルトに付いている鍵を見つめて言った。
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