軟弱ティーチャー
たけのこ
第1話 1限 算数
ドア全開の職員用入り口。靴を履き替え、中へ。ガラガラと音を立て、職員室の引き戸を開けた。
「おはようございます。」
「おはよう。」
低い声で教頭が返した。
小学校の朝は早い。まだ7時15分。月末の土曜日に迫るパン食い競争の資料を早く作りたいが、パソコンの起動は許されない。なぜかって、起動した時間から勤務となり、時間外労働になってしまうからだ。
昨日実施した小テストの採点を始めた。AIを搭載したロボットのように、素早く正確にこなす。
30枚の採点が終わった。全ての点数を足し合わせると2512。平均80点を越えているな、上出来だ。
顔を上げないよう意識しているつもりであったが、採点が終わり気が緩んだ。
私の右斜め前が教頭のデスク。彼はうつむきながら何かの資料に目を通している。白髪混じりの鼻毛が勢いよく鼻から飛び出しているのが見えた。その数およそ20本。
私は笑いをこらえるのに必死だった。真顔であの鼻毛。同じネタなのに、毎日笑いそうになる。奥さんとうまくいってないのだろうか。普通はそっと指摘してあげるはず。
「あなた、ちょっぴり鼻毛が伸びてるわよ。」って。
「おはようございます。」
「あっ、おはようございます。」
次から次へと先生方が入ってくる。
皆私と同じように、パソコンを使わない業務を手早く進める。これが当校職員室の朝の風景だ。
「朝礼を始めます。」
朝礼当番である橋本先生の甲高い声。皆一斉に立ち上がる。
「9月14日、朝礼を始めます。おはようございます。」
「本日の予定です。16時に新日本建設の方が教頭先生宛てお見えになります。」
「その他連絡事項はございませんか。」
「それでは校長先生お願いします。」
「いつものことだが、生徒が主体的に学べるよう、全力でサポートしてほしい。それが教師の役割だ。」
朝礼が終わると、教員は一斉にノートパソコンの電源を入れる。授業が始まるまでのわずか13分が勝負だ。小学校の教師は事務に欠けられる時間が限られているため、皆無言でキーボードをたたく。
まもなくチャイム鳴る。足早に3階の教室へ向かった。
「みんなおはよう。」
いつも通り、精いっぱい大きな声を出し、中へ入った。生徒たちは元気な声で挨拶を返す。
周りを見渡すと、全員が席についており、出欠を取る必要はない。
チャイムが鳴った。1限は算数。
「昨日のテストを返すよ。平均点は83点。みんなよくできたね。」
一人ずつ名前を呼び、答案を返す。総じて男子の方が低めの点数である。同級生と点数を比べ、からかう生徒、悔しがる生徒、様々だ。
「さぁ、解説を始めるよ。今回のテーマは整数と小数。10倍、100倍と大きな数や、10分の1、100分の1と小さな数だね。例えば2の10倍は、ほら、20。」
2つずつペアにしたリンゴの絵を10組、得意げにペンを使い、タッチパネルへ映す。この瞬間がたまらなく好きだ。
もし自分が30年前の教師であったら、リンゴの絵を20個描いていただろう。絵が苦手な私は、きっと生徒に笑われたはずだ。今や黒板はなく、全てタッチパネル式のスクリーンに置き換わっている。時代は変わったものだ。
「それでは1番。3の10倍だから、小数点が1つ右にずれる。答えは30だね。はい次2番。5の10分の1だから、小数点が1つ左にずれる。答えは0.5だね。」
この調子で50問すべて解説を進める。理解できない生徒は、机に備え付けられているタッチパネルを使い、「もう一度ききたい」ボタンをタップすれば、教師が再度解説する。
説明を繰り返すことなく50問を終えた。
「それじゃあ、理解度チェックをやってね。」
生徒が机のタッチパネルに触れる。完全に理解できたら5、全く理解できなければ1、と5段階での確認。結果はリアルタイムで教師のタブレットに表示される。
「オッケー、今日はもっと大きな数と、もっと小さな数を学ぼう。100倍、1000倍、100分の1、1000分の1だ。まずこの問題を9時45分までにやってみよう。」
スクリーンに25問が表示されるとともに、生徒の机に備え付けられている小型プリンタから、A4の問題用紙が音もなくプリントアウトされる。
用紙がめくれる音、鉛筆で記入する音が静かな教室に響く。試験開始直後の、あの音だ。
私用のタブレットに目を移す。ドル円相場は360円前後で推移。今朝と変わらない。日経平均は32000円を割り込んだ。前日比マイナス150円だ。長期金利は3.52%、前日比プラス0.13%。
2年前の日本国債暴落、いわゆるJGBショック以降、経済に疎かった私も勉強を余儀なくされた。マーケットの動きが気になって仕方がない。円安・株安・債券安のトリプル安が再び襲ってきたらどうしよう。市場が悪い方向に動くと、決まってお腹の調子が悪くなる。
「先生、先生。」
生徒の声で我に返る。今は授業中だ。
「お、前田くん、もうできたのか。」
「はい。お願いします。」
問題用紙を差し出され、採点を始める。紙の用紙に赤のサインペンを使う、アナログだ。
「うん、全問正解。」
にっこり微笑む生徒。彼は自分の席に戻り、タブレットの操作を始めた。
小1から高3までの教科書の内容がタブレットから閲覧でき、彼は数学に関してはすでに中2まで読み進めている。
だんだんと列が長くなる。採点のスピードも上がる。必死だ。
当然、タブレット上で問題を解かせ、全員分を1秒で採点する方が楽だ。しかし、私はこのアナログの方式が気に入っている。字を書く機会は年齢を重ねるほど減っていくため、敢えて字を書かせる。また、一人ひとりに向き合い、コミュニケーションを取る。スマートフォンで簡単に文字でやり取りができてしまう時代だからこそ、敢えて行うのだ。
およそ20分かかったが、採点終了。生徒により所要時間の差はあるものの、いわゆる落ちこぼれはいない。
「みんなよく理解できてるね。立派だよ。じゃあ次。これは何かわかるかな」
「サイコロ!」
大柄な生徒が声を上げた。
「そう、サイコロだね。この2つのサイコロを使って、これから何を勉強するか、わかるかな。」
「体積!」
「立方体。」
先ほどの生徒、続いて一番前に座っているおかっぱ頭の生徒が発言した。
「良く予習してるね。二人とも本当は正解だけど、先生は脱線するよ。」
2つのサイコロを転がした。
「3と5だね。足すといくつかな。」
「8」
数名の生徒が一斉に答えた。
「じゃあサイコロを2つ転がして、足すと2になる確率はどのくらいかな。」
「確率はわからないけど、両方のサイコロが1の場合だけだよ。」
算数の得意な前田くんが答えた。
「その通りだよ、素晴らしい。みんなに質問だ。確率はどうやったらわかるかな。」
(沈黙)
「やってみよう。座席順で6人1組になって、2つのサイコロを300回振ってみよう。」
「えー 300回。先生、日が暮れちゃうよ。」
(キーンコンカンコーン)
1限の終了を知らせるチャイムが鳴った。
「途中になっちゃったね。続きは明日。今日の算数はこれでおしまい。わからないことがあったら、いつものようにタブレットで予約を取って職員室へ来てね。お疲れさま。」
1限が終わった。
軟弱ティーチャー たけのこ @1120yoshiki
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