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「博士はさらわれたのですね? おそらく、どこかのテロリストに。博士の研究は生物兵器に転用されてしまった」


「そこのあたりは、どうなんだろうな。博士の研究者としての姿勢を見ると、人情的なタイプではなさそうだ。さらわれたのか、売ったのか。

博士のムチャな研究がなければ、我々だって、今ごろ、子どもを実験台に買ってくるようなマネはしなくてすんだ。

しかし、すでに人類はパンドラの箱をあけてしまった。ここまで来たら、最後まで、やりきるしかない。博士の資料をもとに、我々は研究を進めた。現在ではミューテーションの仕組みがわかっている。

博士のテロメア薬をくりかえし飲用すると、体内である酵素が作られる。

これは、もともと人体の持つ酵素が変異したものだ。我々は、これをミューテーション酵素——すなわちM酵素と名づけた。

M酵素が細胞核内に侵入すると、染色体のテロメアに付着し、配列をランダムに組みかえてしまう。

このとき、M酵素はY遺伝子に癒着することで、無害な酵素に戻り、消滅する。

さらに、M酵素は染色体にとりつくとき、テロメア基部に突起を残す。

まあ、一種の印だね。この印のある染色体には、Mはとりつけない。だから、すでに発病した患者は、二度と発病しない。

女の死亡率が百パーセントなのは、もちろん、Y遺伝子がないためだ。Mの変異を止めるすべを持たないわけさ。

M酵素じたいは病原体ではないから、それに対抗する抗体もない。ワクチンの開発が難航してるのも、そのせいだ」


なんだか、聞いていると気が滅入る。


「では、一般に言われているように、ヘルというウィルスが存在するわけではないんですね?」


「いや、ある意味、もっと、やっかいな形で病原体は存在している。もともと、M酵素は人体のなかでのみ、生成されるものだ。だから、本来は血液感染しかしない。だが、博士をさらったテロリストは、このMをさらなる悪魔に仕立てあげた。今現在、地球に、まんえんしてるのは、こっちの新型Mだ。

新しい殺人Mは、バクテリオファージの性質を持っている。細菌に寄生して増殖するんだ。確認されているだけでも、五十種以上の細菌に寄生していた。この新型Mにかかると、体にやさしいビフィズス菌だろうと、イースト菌だろうと、人体をくさらせる悪魔に変身するんだよ。

おかげで、寄生した菌によって、感染ルートが異なる。空気感染もすれば、食材から感染することもある。これ以上に恐ろしい病は存在しない。僕は、そう断言するね」


たしかに、最悪最強の病だ。

人類を滅亡させるために存在するとしか言いようがない。


「宿主となるバクテリアを撃退する方法では、きりがありませんね。また別種の菌に寄生されたら……イタチごっこだ。M酵素じたいを殺す方法はないんですか?」


「言ったろ? M酵素は、もともと人体が持っている酵素だと。Mは細胞分裂に必要不可欠な酵素が、突然変異したものだ。Mを破壊すると、同時に、この酵素も破壊される。すると、人間は細胞分裂できなくなり、いっきに老化して、どっちみち死ぬ」


「万策つきてますね」


プリンスは、おおげさに肩をすくめた。


「ところが、まったく手立てがないわけじゃないんだ。要するに、Mに感染しても、ミューテーションしなければいいんだ。テロメア基部にMが残す印——これを我々は、ディーモンズ・スクラッチと名づけた。この爪跡を人為的に模造できれば、事実上、Mは無力化する」


「そうか。遺伝子操作で、それは可能ですね。受精卵にディーモンズ・スクラッチを組みこめば、その子どもは生まれながらに、Mに耐性ができる」


その方法なら、スクラッチは次世代にも遺伝する。女性でもヘルで死ぬことはなくなる。

ただ、この方法で救えるのは、これから生まれる命だけだ。すでに誕生してしまった人類は救えない。


「最悪でも、人類滅亡はふせげる——ってわけですか」


「まあね。じつは、爪つきの子どもはすでに完成してるんだ。地球の未来をになう、スクラッチド・ベイビー。来なさい。我々の研究の成果を見せよう」


プリンスのひらいた扉の向こうには、さらなる驚愕が待ち受けていた。

遠心分離機、顕微鏡、人工細胞培養器、人工子宮ーーさまざまな機器の向こうに、厳重に二重ロックされた部屋がある。

ぶあつい強化ガラスのかべのなかに囚われているのは……。


「これは……疫神。疫神をとらえたのですか?」


「疫神? この世に疫神なんてものは存在しないよ。おまえも科学者なら、そんな非科学的なことを言うもんじゃない」


だが、真也は見たのだ。

疫神の超常的な力を。稲妻を呼び、物体を浮遊させ、幻覚を見せる。驚異的な力の数々を。


とつぜん、真也はひらめいた。


(待てよ。物体を浮遊させる力は念動力。幻覚を見せるのはエンパシー。稲妻をほとばしらせるのは、なんなのかわからないけど、ある種の放電現象だ。城之内博士の研究は、ESPの発現と強化だった)


プリンスは笑った。


「そう。この世に疫神なんて存在しない。やつらは、ただのヘル患者のなれのはてさ。発病後の変異をのりきった、あわれな病人の末路だよ」


「では、あの氷河も……」


「M酵素のもたらす変異には、ある特徴がある。変異したキャリアの血を、ノンキャリアに輸血するだろう? すると、輸血されたノンキャリアは、キャリアの変異をコピーする。

変異の遺伝とでも言うべきかな。複写というほど完全に同じではない。八割がた、同じ変異をとうしゅうしつつ、さらなる変異をくわえるんだ。

しかも、ESP能力に関して言えば、より強化される傾向がある。

何代にも渡って輸血をくりかえすうちに、ある時点で、爆発的に強力な能力をもつ被験体が、あいついで現れた。

彼らは電気系統を混乱させることができるのでね。どうやら、ESP能力には電磁波が関係してるらしい。電子ロックを破壊して逃げていったよ。それが十数年前。疫神なんて、とんでもない。やつらは、この研究室で生まれた実験動物さ」


人の手で変化させられた、人ではないもの——


だからと言って同情はしない。

氷河は、かたきだ。

父を殺し、露彦を殺した。


「その研究に、僕も参加できるんですね。かならず、お役に立ちます」

「期待してるよ」


真也の決心は、かたい。

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