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「記憶喪失? 具体的には、どんなふうに?」
「ええとね。ぼく、自分が、なんで、ここにいるのか、わかんないんだ。ぼく、月で事故にあったはずだよね? ここ、月のどこ? こんな都市、月にあったっけ?」
「ここは、ルナチャイルド。月の衛星コロニーの一つだよ」
「コロニー? なんで、そんなとこにいるんだろう。あの事故のとき、ここまで運ばれてきたのかな?」
「そうかもしれないね」
応えながら、サリーはコンピューターに送られてきた、男のカルテを見る。
それによると、男の名前は、トニー・アンダーソン。三十二さい。電気技師で、社宅の1DKに妻子と暮らしている。
ルナチャイルド生まれのルナチャイルド育ち。虫歯ひとつない健康優良児で、趣味はアメフト。これまでに通院の記録はない。星間移動の記録もない。
これらの情報は、本人の手首に埋めこまれた、個体識別プレートのパルスでわかった。
つまり、先月の月での事故にあった被害者であるわけがない。
大きな事故のあとは、こういう現象が起こる。事故の映像を見たショックで、自身が、それを体験したと思いこむのだ。
神経質なコロニー居住者には、よく見られる症状だ。
今回の一連の患者も、基本的には、それだと考えられる。が、しかし、それだけでは説明のつかない部分がある。
そこに、サリーは興味をひかれる。
「では、君は事故のあとからの記憶がないってことだね?」
「事故のあとっていうか、事故のとき、気を失って。気がついたら、ここに」
「事故というのは、六月に起きた月の崩落事故だね?」
「うん。そう。気がついたら七月で、ぜんぜん知らない人たちが、ぼくの家族だって言いはるんだ。
女の子なんか泣きだすんだよ。お父さん、どうしたの?ーーだって。もう気味が悪くてさ。それに……それに……」
トニー・アンダーソンの声がふるえた。ヘラクレスみたいな大男は、とつぜん、泣きだした。
「カガミを見たら、自分じゃない顔になってた。こんなの、ぼくじゃないよ。なんで、こんなことになっちゃったんだろ?」
「それは怖かったね。ところで、聞いていいかな? 君の名前は?」
「エンデュミオン」
即答だ。
男は典型的なエンデュミオン・シンドロームだ。近ごろの患者たちが、全員、決まって、訴える症状。
ぼくはエンデュミオンだよ。月で事故にあったんだ。助けてーー
現在、月と月の衛星都市を中心に、全宇宙的な広がりを見せている、この病気。
これにかかると、男女や年齢に関係なく、ある日とつぜん、自分をエンデュミオンという少年だと思いこむ。
初期症状のうちは、自分の存在に違和感をおぼえる。家族や友人が他人のように思えてくる。
やがて記憶の混乱が始まり、それまでとは別人の『エンデュミオン』になってしまう。
症状の進みかたや、表現には、多少の個人差はある。が、月の事故を経験したと主張すること、自分をエンデュミオンだと信じて疑わないこと、といった共通点があげられる。
また、『エンデュミオン』になってからのパーソナリティが同一であること。不眠症などの症状もある。
この症例は、エンデュミオン・シンドロームと名づけられた。
この病気をひきおこす要因は、月の事故がもたらした社会不安と考えるのが妥当だ。
それにしても、なぜ多くの患者が、まったく同じ一人の人格に変化するのか、わからない。
また、それが、なぜ『エンデュミオン』なのか。
月の落盤事故と、ギリシャ神話の美少年には、なんの関係もない。
事故の場所が月だったから、月の女神に愛された少年の神話を連想するのだとしても、患者全員が、そうだとは考えにくい。
エンデュミオン・シンドロームという病名から感化されたのなら、納得もいく。
しかし、患者のなかには、まれに、エンデュミオン以外の名前を名のる場合がある。マリオン、エンジュ、アンドリューといった名前だ。
それでいて、症状は、はっきり、エンデュミオン・シンドロームなのだ。
これらの説明がつかない。
「わかった。エンデュミオン。まずは君の記憶障害から治していこう。あせらず、ゆっくりね。ところで、君、夜は眠れるかい?」
サリーが言うと、泣いていたヘラクレスは、瞳を輝かせた。
「どうして、わかったの? ぼくが夢のせいで、寝られないってこと」
「私はエンパシストだからね」
「すごいね。じゃあ、ぼくの考えてること、わかるね?」
「君が苦しんでることはわかるよ。その苦しみから抜けだせるよう、私が協力しよう」
トニーは少年のようなしぐさで、サリーを見つめる。そして、ぽっと、ほおをそめた。
「先生って、すてきだね。黒髪にグリーンの目で、セクシーだし。ぼく、甘えていいかな?」
これは『エンデュミオン』の最大の特徴だ。このパーソナリティは、同性愛嗜好がある。それも年上の男が好きらしい。
トニーは現在、自分を十代の少年だと思ってるから、サリーは彼より年上ということになる。
「むろんだとも。君は私の患者だからね」
そういう意味じゃないのに——という目つきで、トニーは、すねている。
「やっぱり、ぼくが、こんな変な顔になっちゃったからかな。前のぼくなら、先生だって……」
「まあ、それについても、いずれ、ゆっくりね。今日のところは、君が、どのていどの記憶障害なのか、調べなければならない。夢を見ると言ったね? どんな夢か話してくれるかな?」
「いいけど。そんなの関係あるの?」
「関係あるかどうかは、聞いてみなければわからない」
「正論だね。いいよ。話す」
トニーは話しだした。
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