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「夢のことだから、はっきりした年代とか、わかんないんだけど。ローマ帝国にディオクレティアヌスって皇帝いた? あれって三世紀末ぐらい?

じゃあ、そのころかな。あの皇帝が、まだ、うんと若いころ。ローマの辺境に、ペテルギウスって軍人がいたんだ。

え? 聞いたこともない? うん。歴史に名前の残るような英雄じゃないからね。

ギリシャ系のローマ人でね。黒髪の巻毛で、ギリシャ彫刻みたいなハンサム。

ていうか、夢のことだから、実在の人じゃないかもしれないけど。住んでたとこの地名も、わかんないしね。

でも、すごくリアルな夢なんだ。

夢のなかでは、ぼくはアンティノウスって呼ばれてた。そういえば、皇帝の愛人で、そんな名前の少年がいたよね。おぼれ死んだんだよね。

おんなじ名前。死にかたも同じだ。ぼくも最期は川で、おぼれ死んだ」


語りだすトニーの手を、サリーは、そっとつかんだ。


トニーは誘惑されてると思ったのか、媚びをふくんだ目つきで笑う。


が、サリーにそんなつもりがあるはずない。相手の体にふれてるほうが、エンパシーが伝わりやすいからだ。


こうしてると、話しながら、トニーが心に思い浮かべているヴィジョンを感じとることができる。


「いいよ。続けて」


ささやくと、トニーは安心して、また話しだした。その声にあわせて、すうっと古代ローマの景色が広がった。


明るい青空。かわいた空気。石造りの街並み。オリーブやブドウ畑。


ローマ帝国と言っても、田舎の小さな町のようだ。コロッセオ、水道橋、大浴場と言った偉大な建造物は見あたらない。


せまい街路を一人の少年が歩いていた。白い腰布を一枚、まきつけただけだが、輝くばかりに美しい。金色の髪。青い瞳。白く、なめらかな肌。


少年は水がめを片手で支えながら、無感動に進んでいく。


だいたい、ヘブライ人が悪いんだ——と、彼は思う。


主人のペテルギウスがキリスト教徒の弾圧に行って、もう三カ月になる。


主人がいないあいだは、愛人のアンティノウスは肩身がせまい。ペテルギウスの奥方に、よく思われていないからだ。


つらい重労働を押しつけられたり、ちょっとした失敗で、すぐ鞭打たれる。食事も満足に与えてもらえない。


だが、アンティノウスは知っていた。奥方のそれは、負け犬の遠吠えにすぎないことを。


ペテルギウスが本当に愛してるのは自分だ。だから、奥方のあたりがキツイのだ。


全部、奥方のヤキモチだ。


足に重い枷をつけられ、一日に何度も遠い泉まで水くみに行かせられるのも。


大勢の見てる前でパンを投げあたえられ、犬みたいに床に這ったまま食べるよう強要されるのも。


知ってるから、耐えられる。


アンティノウスは、ペテルギウスを愛していた。


(早く帰ってきてほしいな。ぼくのペテルギウス)


しかし、それはキリスト教徒しだいだ。


近ごろはローマ人のなかにも、かなり、この信者が増えている。ふつうの市民とのあいだで衝突が絶えない。


アンティノウスが生まれたときには、ローマ帝国は、すでに衰退期に入っていた。


帝国全土に、以前のように皇帝の権力がおよばない。


ガリア人は独立するし、ゲルマン人はおそってくる。軍人たちが派閥を作って、勝手に新皇帝をたてて争ったり。


そんなふうに世情が不安定だから、人々は、うさんくさい宗教に、すがりつくのだろうと、アンティノウスは思う。


アンティノウス自身は、人間の女が男とまじわらずに子どもを生んだなんていう宗教を信じてない。


第一、キリスト教は男色を禁じている。ここが、一番、気にくわない。


アンティノウスは遠い主人を思いながら、屋敷に向かって歩いていった。


ペテルギウスの屋敷は、小さな街のなかでは、もっとも豪壮だ。


屋敷の白い石をつみあげた塀の前に、たくさんの人が集まっている。よろいをまとった戦闘奴隷。戦利品を乗せた馬——


(帰ってきたんだ。ペテルギウス)


アンティノウスは息をはずませた。


すると、なかから、アンティノウスを呼ぶ声が、外まで聞こえてきた。


「アンティノウス! アンティノウスは、どこだ?」


アンティノウスは前庭に、たむろする剣奴をかきわけ、声のするほうへ近づいていった。ほんとは全力で走っていきたい。が、重い水がめをかかえているので走れない。


「ペテルギウスさま。ぼくのご主人さま。お呼びですか?」


せめて、主人に負けないくらい大声で応える。ペテルギウスは、すぐに、やってきた。 精悍な顔が、くもる。


「おおっ、アンティノウス。なんだ、その水がめは? そんな下賤な仕事を、誰が、そなたにさせたのだ?」


アンティノウスは器用に涙ぐんでみせた。


「いえ……これは……」


「かわいそうに。私がおらぬあいだ、つらい思いをしたのだな。わかっている。奥め。今度という今度は、ゆるさぬ」


「いいえ。ぼくは奴隷ですから。お屋敷のために働くのは、あたりまえです」


「そなたは、まことに優しいのだな。ほんとうに、なんと愛らしいやつだ」


熱い抱擁と接吻の雨。


主人の腕のなかから、アンティノウスはながめた。ろうかのかどで、こっちをのぞく奥方を。


嫉妬にゆがんだ女の顔を見ていると、耐え忍んできた三月の辛苦も消しとんだ。

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