第36話 ちょっと素敵なひと時だったな
のんびり歩いて美術館に到着し、ピアノが置いてあるパティオに行ってみると渋い髭のおじさんがジャズピアノを弾いていた。
先客ありか。
なので取り敢えず美術館でやってたロシア構成主義展を回ってみようよと提案してみた。意外にも曜ちゃんはアート方面に興味があるようで快諾してくれた。
リシツキーやロトチェンコのブックカバーデザインや広告ポスターが並ぶ展示会場をのんびり回りながら、これらが音楽に与えた影響なんかを訳知り顔で解説したりなんかしてちょっとえーかっこしいしてしまった。
一通り見て回ってからピアノの場所に戻ってみるといい具合に誰もいなくなっていた。
ここのピアノは青空ピアノなんて呼ばれているんだけど、一応雨でも大丈夫なように屋根付きのスペースを設えてあってそこにグランドピアノが置いてある。
とは言えずっと外気に晒されているので調律とかメンテナンスが大変じゃないのかなとは思う。
どれどれ、と。指慣らしのつもりで適当にポロンポロン雰囲気のあるコード進行で適当なメロディを弾いてみる。
何故だか頬を赤らめながらそれを聞いている曜ちゃん。なんで君が照れてるの?
「何かリクエストがある?」
「じゃあ、わたし、あれ。あの……わたしのお気に入り」
「おぉ、スタンダードだね。いいよ」
わたしのお気に入り……原題は『My favorite thing』で元はサウンド・オブ・ミュージックの中で歌われた曲だが、今やジャズのスタンダードナンバーにもなっていて様々なミュージシャンによって演奏されてきた。
途中から興が乗ってきて歌いながら弾いてみた。
そしたら曜ちゃんがちょっとモジモジしていたので、一緒に歌うように目で促してみた。
最初は遠慮がちだったけど、そこはさすがボーカリスト。段々と楽しくなってきたようでその美しい声と即興でハモったりして楽しい。気持ちが良くてすっかり演奏に夢中になってしまった。
曲が終わった時、いつの間にやら人が集まっていたようで、にわかに拍手が湧き起こってちょっと照れ臭かった。
照れ笑いしながら頭をかいていたら、どこからともなく「ひこうき雲!」なんて声がかかる。ん? これってリクエスト受けたのかな?
「曜ちゃん、歌える?」
確かジブリの映画の挿入歌になってたあれだよな。
頭の中で曲を思い出しながらシミュレーションしてみる。うん、弾けそうだ。
「うん、好きな曲」
曜ちゃんも照れくさいのかちょっとモジモジしながら答えた。
よし、それじゃ大サービス。曜ちゃんとのセッションも楽しいしね。
僕はリクエストに応えてその曲のイントロを弾き始める。曜ちゃんの透き通った歌声がメロディを奏でる。
あぁ、これ気持ちがいいなぁ……。そう思いながら演奏が弾む。
そして演奏が止むとまた拍手に包まれた。しかもいつの間にかさらに人が集まってきたようで増えてる。
「バカラック!」
どこからともなくまたリクエストの声が……。バカラックってバート・バカラックのことだろ? 高校生に注文するような曲じゃねーよ。
曜ちゃんもさすがにバカラックなんか知らんだろうと思ったらモータウンやスタックス辺りもしっかり聴いているようで知ってるという。正直びっくりだ。意外にマニアックというか勉強家なんだな。
「何なら歌えそう?」
「うーん……ALFIEとか?」
これ、スペルが違うから分かると思うが日本のバンドの名前じゃない。ディオンヌ・ワーウィックっていう黒人女性シンガーなんかが歌ったバート・バカラック作曲の名曲だ。いろんな人が歌っていて、確かオリジナルは同名の映画の挿入歌で別な人が歌ってたはず。
「キーは?」
「多分オリジナルで大丈夫」
了解。
これはしっとりしたきれいなバラードだ。ピアノと歌が同時に入るので一応最初のコードを鳴らしてあげる。曜ちゃんの囁くようなカウントで始める。
「じゃあ、バート・バカラック作曲のALFIEという曲です。……1、2、3……」
あぁ、新鮮だなぁ。
この曲はディオンヌ・ワーウィックみたいに歌い上げるイメージだけど、曜ちゃんの透明感が際立つナチュラルなスタイルで聴くのもなかなかいい。
こうして僕らの初デートは、何だかちょっとしたリサイタルみたいな感じになった。盛大な拍手を受けて、僕も立ち上がって曜ちゃんと二人で並び会釈で応じた。
あ……。
顔を上げた先に、ファミレスにいたサングラスの女性を見つけて思わずびっくりしてしまった。まさか付けてきたわけじゃないよなぁ。偶然……だよね?
時刻がそろそろ十七時という頃合いになったので帰ろうかということになった。
期せずして曜ちゃんとの超ミニライブみたいなことになっちゃったが、僕としてはとても楽しかったしちょっと素敵なひと時だったなと思う。
「面白い体験だったね」
「最初はちょっと恥ずかしかったけど、リクエストまでもらって集まってきてくれた人たちにあんな風に喜んでもらえて嬉しかったな」
「さすがボーカリスト気質っ」
「そ、そんなのじゃ……」
耳まで真っ赤になって曜ちゃんが照れている。
どうしてかわいい子が照れるとさらにかわいさが倍増するんだろうなぁ。
「だけど、タクミくんのピアノを間近で聴けて、一緒に歌えて……幸せだったな……」
最後の方は消え入るような声だった。
くぅーーっ。ズキューン乱れ撃ちっ。はふぅんってなるわ。
「そ、そう? あんなのでよければ、またやろう」
「ホント!? う、うれしぃな……」
歩きながらそんなことを話していたらあっという間に最初の集合場所に着いてしまった。
「じゃ、今日はありがとう。楽しかったよ」
「わたしこそ……ありがとう」
そう言い合って解散した。僕は改札を通って遠去かる曜ちゃんの後ろ姿を見送ってから自分の路線の改札へと向かう。と、そこにまた妙に強い視線を感じて目を向けると、またあのサングラスの女性がいた。
僕が見たときにはやはり全然違う方向を見ているが、どう考えても同じタイミングで同じ場所に居合わせすぎでしょ。
付けられている。そう直感した僕は一旦駅を出て逃げることにした。
角を曲がってすぐにビルの隙間に身を隠して様子を窺うと、案の定キョロキョロと周囲を見回しながら目の前を通り過ぎて行く黒いワンピースの女性を確認した。
今度は僕が後を付ける番だ。距離を保って背後を付けていると、僕を探しているのか相変わらず挙動不審にキョロキョロしながら歩いている。
しばらくそうして歩いていたが、どうやら諦めたのか途中でしばし立ち止まってからくるりと踵を返した。
僕は彼女が立ち止まっている間に距離を詰めていたので、振り返った彼女は当然僕を認める。
するとまるで油切れの機械みたいにギギギと音を立てそうなくらいにぎこちない様子で再度回れ右して固まった。
あ、完全に油切れた。
まったくこの人は……何をやってるんだか……。
「羽深さん」
ビクンッと一瞬肩が揺れたが固まったままだ。
しょうがないなぁ、まったくもぉ。
「ららちゃん」
「はぃ……」
後ろ姿がみるみるしょんぼりと小さくなって行く。
「ちょっと話を聞かせてもらいましょうか」
逃さないように手首を掴むと羽深さんは「ふにゃん」と言葉になってない変な音声を発した。
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