Eat ‐イート‐
気付いたら、寮の前だった。早朝の空が美しい。濃い靄の中で寒さを一気に思い出し、詩杏は身震いした。
「あっちじゃ暖(あった)かかったのに……!」
体をさすり、少しでもと思い暖を取る。正門は閉まっているので秘密の裏道から寮の横を通り、何とか入口まで辿り着いた。キィとガラス戸を開けて見渡してみるが、朝早いので誰の気配もなかった。
ただするのは、朝食のしょっぱい匂い。あの世界では甘いものばかりだったので、とても懐かしく、空腹感を促す。しかしこの時間に食堂に足を踏み入れるのは不自然であるので、詩杏は静かに自室へ向かった。
「詩杏……?」
ふにゃ、とルームメイトが若干起きる。それは昨日会ったはずの凛々子であった。
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
「いま何時~……? って嘘!? 詩杏、あんたこんな時間まで製菓してたわけじゃないわよね!?」
化粧は落としているので心持ち眼は小さいが、ぎょっと眼を見開いた。ああ、携帯だ。文明の利器の電気を見るのは大変久方ぶりだった。
「んー……、まぁ、そうと言えばそうだし……そうじゃないと言えばそうじゃないと言うかー……」
「何よ、その言い方。あんま無理しないでよね? お互いに、ここだけがゴールじゃないんだから」
「……うん、そうだね」
詩杏と凛々子は静かにベッドに座って、窓から見える空を見ていた。
「綺麗ね……。まるでラムネみたい」
それはあの、意志の塊のような少年を思い起こさせる。不思議なことに、こちらの時間はそこまで流れていないようだ。それは凛々子のセリフから何となく感じられたが、一応訊いてみることにした。
「ねぇ、凛々子。今日って、何するんだっけ?」
「は? あんた寝不足でおかしくなった? 今日は卒業制作、発表するんでしょ!? で、できたの?」
凛々子はわくわくしながら訊いてくる。やはり今日は、大きなイベントの日だった。できたかと問われて、詩杏は躊躇する。それは答えてもいいものか。
「う~~ん、秘密! どうせ今日分かるんだから、楽しみに待ってて!」
それでも、笑って答える。そう、どうせ今日決着がつくのだ。焦る必要はない。
「ん? そう言えば詩杏、スカーフ、いつの間に窓のとこ置いた?」
言われて詩杏は自分の胸を探る。そうだ、あの傷ついたおじいさんの止血で使ったっきりだった。
「あれ……? ああー! 忘れてた!! って、え? 窓?」
凛々子の差す方には、出窓のサッシの近くに学園のイメージカラーの布が置いてある。それは確かにスカーフのようだ。いつの間にここにあったのだろう。詩杏は急いで窓を開けて見渡すが、冷たい風の感触しかしなかった。朝の靄はすっかり消えていて、晴れ渡る景色が続いている。
「さて……」
シグレは詩杏に向き直り、神妙な雰囲気を作った。場所はまだ決闘に使われる厨房であるが、存在する人物は二人だけである。ウーヴァは、リモンが肩を担いで一度自室へ連れて帰ったのだ。
「お主は、帰るのであったな」
「あ……」
少しだけ、忘れていた。やっとこちらの世界も楽しくなってきた頃である。が、やはり帰らなければならなかった。初めは両親に会いたくて仕様がなかったが、詩杏には自分のやりたいこともたくさんあることを思い出したのだ。
「でも荷物が――」
瞬間、馬の嘶きが聞こえ、シグレの愛馬が突然突っ込んできた。
「ひょわ!?」
「メレンゲ!」
そのとき初めて、馬の名前を知る。まだまだ知らないことがいっぱいあるのが、とても口惜しかった。メレンゲと呼ばれた馬は、体の横に主のものとは別のものを提げていた。
「あ! わたしのカバン!」
「む、良かったの。わざわざ取りに行かなくとも済んだようじゃ。良くやった、メレンゲ」
シグレからカバンを受け取り、懐かしい重みに思いを馳せる。しかしそうなると、シグレはどうなるのだろう。いまこの瞬間に自分が元の世界に戻ってしまえば、シグレは専属パティシエがいなくなってしまうのだ。それでも皇帝にはなれるのだろうか。
「シグレくんは、新しい専属パティシエを探すの?」
「――――……」
言われて、シグレは愛馬を可愛がっていた手を止める。ほんのり笑っていた顔を真顔に戻し、しばらく考えているようだった。
そうなのだ。長老ミスペルが言っていたのはこのことだ。詩杏が帰るということは、自分も覚悟を決めなければならない。父の二の舞になってしまうとは、何とも皮肉で誇らしかった。
「そうじゃな……。今度は朕が考えんといかんのう」
溜息混じりにそう呟いて、諦めたように、また笑う。次に成長するのは、シグレだった。思えば彼女ばかりに負担を掛けさせ過ぎた気がする。
「それは追々考えることにしようかの。これは朕の問題……じゃが、お主には世話になった。お主の言葉を思い出しながら、決めるとしよう」
それは、絆の言葉。離れ離れにはなるけれども、互いに心の中で生きている。しっかりとした笑みを見て、詩杏はもう心配しなかった。
「じゃあ、シアンハニーを探そうか」
最初に訪れたのは、ヌガーが監禁された牢屋であった。もう先程の結果が知られているのか、我が物顔でシグレが通っても誰も気に留めない。それどころか、すれ違う人すべてに恭しく腰を折られていた。
「しかし……、慣れぬのう」
「シグレくんでも、そうなんだ」
「当たり前じゃ! このような経験はない」
ふぅん、と詩杏は急にシグレのことが可愛く思えてくる。人々を救うため、必死に大人ぶっていたのかもしれない。そうすると悪いことをした。
「ここじゃな。おい、ヌガー!」
「!? ハニー・キャンディ……!?」
気付いた瞬間、ヌガーは鉄格子越しに勢いよく迫ってきた。ガチャンと金属の音が響く。その形相が怖くて、詩杏はシグレの小さい背中に身を隠す。やはりこの世界にくるきっかけになった人物には、また何をされるか分からない。
「彼女はハニーではない。シアンは、朕の専属パティシエールじゃ。押し込めて悪かったの。しかし、お主にはまだ働いてもらわねばならぬ」
「……! また、異世界に行くのかしら?」
苦虫を噛んだように顔を歪ませる。必死になってクラム・ショコラを探していたのだ。当然の反応だろう。しかしそれはすぐに否定した。
「そうではない。クラム・ショコラ探しは終いじゃ。シアンハニーの場所を知らぬか?」
「シアンハニー……? それなら予備でふたつだけ持っているわ。この国に残っているのは、それでおしまいなんじゃないかしら?」
言ってスカートの端から青りんご色の小瓶を取り出した。
「全くこのせいで私の人生は散々よ!」
「申し訳なかった。お主には、それ相応の地位をくれてやろう」
ふん、とヌガーは鼻を鳴らしたが、それでもシグレは牢屋の鍵を開けてやった。それからどうするかはこの女次第である。歳若いシグレのことをまだ皇帝とは気付いていなさそうだ。詩杏はシグレから小瓶を受け取り、念のためカバンに仕舞った。
再度、二人は決闘の間に戻ってくる。詩杏はオーブンを高温で温め始めた。
「そろそろ、じゃな」
「うん」
しんみりと二人は語り合う。
「そうじゃ。お主にもうひとつ星をやらんとの」
それは皇帝の専属パティシエールに贈られる三つ目の星だ。しかし詩杏はそれを拒否した。
「待って、シグレくん。それはこの世界にいる人に渡してあげて」
「……しかし」
「わたしはもう貰ったわ。これで十分なの。シグレくんには、シグレくんの未来があるから」
詩杏は胸に付いた二つ目の星を指さす。シグレは申し訳なさそうに手元の星を見ていた。しかししばらくして、もうひとつ何かを送ろうとする。
「ならば、お主に第七十三代クラム・ショコラの名を授けよう。名前だけなら問題ないじゃろう?」
「大丈夫なの?」
「名前など飾りに過ぎん。ただ数が変わるだけじゃしな。何、また必要なときは新しいクラム・ショコラが現れるだけじゃ。まぁ、それはまたシアンかもしれんがの」
冗談交じりにシグレは笑う。やっと柔らかく笑える時代が来たのだと、詩杏は思った。じゃあありがたくいただきます、と進言し、その名前だけ貰うことにする。面白くて二人で笑いあって、やがて、沈黙が訪れる。しかしそれは、満足そうなしじまだった。
「……シアンハニーは、あるかの?」
「ちょっと待ってね……。うん、大丈夫だよ」
詩杏はカバンの中を開き、ちゃんと二つあることを確認した。きらきらと光る瓶の中には、透明な液体が入っている。そうだ、これがあればあれが作れるかもしれない。
「……あのさ、余ったひとつ、わたしが持ってってもいいかな?」
「む……?」
少し気になったが、彼女はパティシエールだ。何かまた、新しい菓子でも思い付いたのかもしれない。例えどこにいても、その魂に変化はないのだ。それは必ず持ち続けなければいけないものである。
「まぁ、良いじゃろう。お主の満足が行くように使うのじゃぞ」
「ありがとう、シグレくん!」
彼女の咲くような笑顔を見るのは、これで最後だろうか。そう思うといささか悲しいものである。
「元気での、シアン」
「シグレくんもね。いままでありがとう。とっても勉強になったわ!」
そう言う詩杏の眼には力強い光が宿っている。
季節は流れ、三月。卒業証書に刻まれた自分の名前に夢心地を覚え、浮き立つ。一時はどうなることやらと思っていたが、何とか卒業できて良かった。この学園に通って、結果楽しかったし多くのことも学べただろう。ここを推薦してくれた両親に感謝だ。
チョコレートムース色の巻き毛を揺らしながら、卒業式に来てくれた彼らたちの元に駆け寄った。
「ママ! パパ!」
「詩杏! 卒業おめでとう!」
「ありがとう、ママ!」
えへへとはにかみ、くすぐったそうに笑った。
「しかし、卒業制作は面白いものを作ったな」
父に問われて、詩杏は少し心臓が跳ね上がる。
「えっ、まぁー、うん」
「そうよ~、てっきり普通にケーキとかかと思っちゃった」
「あー! ママがそれ言う!? いつも変わったお菓子しか作らないのに!」
「それはあたしの先生だったパパに言ってちょうだい!?」
唇を尖らせて、詩杏の母、花ノ木 蜜月(みつき)は言い返す。こう見えてもパパはスパルタだったんだから、と昔から言って聞かないのだ。
「だってそんなパパ知らないし!」
「詩杏には甘くて困っちゃうわ~」
蜜月は頭を抱え、夫の将来を思いやる。いつか嫁に出るときにはどのようになるだろう。
「君の若い頃にそっくりで可愛いからね」
「えっ、そ、そうかしら……?」
その可愛いがどこに掛かるかは分からないが、いつもながら仲良しだ。見ているこっちが恥ずかしい。すると父親から、真剣な問いがかかる。
「ところで詩杏、あれは何を想って作ったんだい?」
それは幼い頃から父に訊かれていた一言だった。なんだ、正解は一番近くに潜んでいたのか。詩杏はそれにまたひとつ気付き、その発見を大切にするようにした。あの経験がなければ、すっと流していただろう。とてもありがたいことだ。
「あのね、わたし、とても大切なことを、友達から教えてもらったの」
ぽつりぽつりと、詩杏は思い出すように語る。
ざあ、と桜の花びらが舞って、体にまとわりついてきた。これがもっと白っぽかったら、もっと甘い匂いがしたら、と少しだけ寂しい。
自分と同じ名前の花が咲き誇るあの国は、どうなっているのだろうか。何とも面白い国に住む住人たちは、元気でやっているだろうか。
あの不器用な少年は、いまどうしているのだろう。
「だから、その子のためを想って作ったわ」
どうか彼の夢が叶いますように。わたしも自分の夢を叶えるわ。
「美味しく、できてたかな……?」
明志は満足そうに、娘の頭をわしわしと撫でる。ここに通わせて良かった。自分は散々な思いもしたが、それはいまに繋がっている。
「きゃ! 何するのよ、パパ!」
「ふっ、旨かったぞ! お前の和菓子」
「そう! 確かあれは……」
大事な人と同じ名前の菓子だ。卒業制作のテーマは『大切なひとに振舞う菓子』。感謝の念を込めて作ったのだから、美味しくないわけがない。
詩杏は胸ポケットを漁り、銀色の星を取り出す。先生に見つかると面倒そうなので中に隠しておいたのだ。しかしどこかへ置いて行くのも忍びなく、共に卒業式に参加してもらったのである。
それは夢ではない証。自分の経験したことは全部、大切なのだと思えるもの。詩杏はこれから、父の経営する製菓店へ就職する。そこでもたくさんたくさん想いを乗せて、腕を磨くのだ。おちおちしてはいられない。
いつまた、ベェク帝国からお呼びが掛かるか、分からないのだから。
異世界パティシエール 猫島 肇 @NekojimaHajimu
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