　【パート・シュクレ】

　　小麦粉…………………一〇〇グラム

　　バター…………………五〇グラム

　　卵黄……………………Ｍ～Ｌ一個

　　砂糖……………………四〇グラム

　【クレーム・パティシエール】

　　バニラビーンス………五センチほど

　　牛乳……………………二五〇ｃｃ

　　砂糖……………………六〇グラム

　　コーンスターチ………二〇グラム

　　卵黄……………………Ｍ～Ｌ二個

　【トッピング】

　　生クリーム……………一五〇ｃｃ

　　ぶどう…………………好きなだけ。何種類かあっても良い。

　　エディブルフラワー…適量

　まずはパート・シュクレを作る。

　常温に戻しておいたバターに砂糖を加え、良くすり混ぜる。クリーム状になるまで混ぜたら、卵黄を加えてさらに混ぜる。なじんだら小麦粉を加え、まとまるまで手でこねる。ひとまとまりになったら冷蔵庫――この世界では氷を常駐させておく氷室の中に入れると教えてもらった――に入れて三十分から一時間寝かせておく。

　次にクレーム・パティシエールだ。

　バニラビーンズに包丁で切り込みを入れ、種子をこそげ取る。鍋に入った牛乳にバニラビーンズを混ぜ、火にかける。煮立たせないように。ボウルに卵黄と砂糖を入れ、白っぽくなるまでしっかり混ぜる。コーンスターチを加え混ぜたら、温めた牛乳を少しずつ注ぎ混ぜる。全て混ざったら茶こしで漉しながら鍋に戻し入れる。再度火にかけ、とろみがつくまで絶えず混ぜ続ける。滑らかにもったりとしたら、火から外し鍋のまま氷水で急激に冷やす。粗熱が取れたら氷室に入れ続けて冷やしておく。

　オーブンを一八〇℃に予熱。寝かせたパート・シュクレを取り出し、めん棒で引き延ばす。分量外のバターを塗ったタルト型に生地を貼り付け、余分な部分は切り取る。型に合わせてめん棒を転がすと簡単に取れる。中心にセルクルを食い込ませ、真ん中をヘラでくり抜く。生地の余った部分でセルクルの周りに付けるところを作り、ピケしてオーブンで十五分ほど焼く。

　その間にトッピングの準備をしておく。生クリームは良く混ぜ、角が立つほど。ぶどうは丸ごとでもいいがあまり大きいと食べ辛いので半分に切っても良い。きちんと洗って水気を切っておく。

　生地が焼けたら絞り袋に入れたクレーム・パティシエールを円を描くように絞り出し、ホイップクリームも丸口金で乗せていく。ぶどうとエディブルフラワーを盛りつけたら、リースタルトの完成だ。

「できたわ！」

　嬉しそうに、詩杏は完成の声を上げた。それはたくさんの意味を込めた、自信作である。ただただ食べてくれる人が笑顔になるようにと、願って作られた。

　リモンの方も出来上がっていたようで、先に切られていた。昨日も持ってきてくれたように自慢であるのか、レモンタルトだ。今度は四角い型を使ったのか長く引き伸ばされていた。彼はひたすらに、ただこのレシピを極めてきたのだ。ウーヴァの専属として契約したときから、何を考えるでもなく。

「貴様の息子を私の専属に寄越せ」

「は……わたくしの息子を、ですか？」

　数年前。ウーヴァはつまらなさそうに父の専属パティシエールに話しかける。名をイチコ・トルテ。息子はリモン・トルテと言う。イチコは突然の申し出にぽかんと口を開けていたが、やがて申し訳なさそうに進言した。

「しかし、皇太子様……。わたくしの息子と面識はなかったのでは……？」

「あー……、そうだな。だが、貴様の腕を見ていれば分かる」

　ウーヴァは爪を見ながら、おざなりに答える。何か適当な理由を付けて、自分にも適当な専属が欲しかった。それは父に提案するためである。専属パティシエを決めたので、皇帝の座を譲ってほしいと。そのために形だけでも用意しておく必要があったのだ。

「……お褒めいただき光栄です。でしたら、一度謁見させていただいてもよろしいでしょうか？」

「そうだな……。すぐにでも」

「畏まりました」

　イチコは一礼して去っていった。心無く言ったのに、彼女は息子を連れてすぐに宮殿に参ってくれたので助かったというものだ。ウーヴァはリモンと二人きりにさせ、今後の計画を語る。

「あー……何だ、その……。私は、本当はクラム・ショコラを専属に迎えたいのだ」

　初めリモンは、その言葉の意味が分からなかった。それは自分にとっても国民にとっても残酷な物語の始まりである。

「だから、貴様はその間、私の専属として存在してほしい。何、クラム・ショコラが見つかった後で契約が破棄されたとしても、貴様にはそれ相応の立場をやろう」

　余裕たっぷりに笑いながら、この眼の前の人物は期待を裏切ってくる。自分は断っても良かったのだ。その権利は用意されているはずである。しかしこの男、自分の返答次第では、何をするやもしれんと言う危うさも秘めていた。

　眼には、野望の光しか見えない。

「……はい、分かりました」

「そうか！　物分かりが良くて助かるぞ！」

　そうして齢十六の皇太子は、皇帝と交渉をすることになる。

「父上、私ウーヴァは、生涯の専属パティシエを決めることにいたしました！」

　そのまま父と会談することにしたウーヴァは、口から出まかせを言う。

「何と……！　して、その者は？」

「はい、父上の専属パティシエール、イチコ・トルテが母。子息のリモン・トルテです」

　指の先まで美しい所作で、リモンを紹介した。その全てが嘘にまみれているため、完璧なほど真実に近い。現皇帝のポメロは、嬉々として息子の成長を喜んでいた。

「そうかそうか！　そろそろかとは思っていたが、よもや自分で専属を見付けてくるとは！」

「はい。私は常々思っておりました。父上のように腕のいいパティシエを専属にしたいと。そこで思ったのがトルテ家の子息です。彼は母君に似て腕も良く、私の築く世界に同意してくれました」

　それは、何とも恐怖で埋め尽くされそうな世界である。しかしそれもいずれクラム・ショコラが全て背負ってくれるだろう。全て飲み込んで、消えてしまえばいい。

　リモンは背中を後押しするために、ウーヴァを持ち上げた。

「皇太子様は将来、善き皇帝になられますでしょう。そのような方に見出していただけて、自分は光栄です」

「そうか！　嬉しいのう！」

　にこにこと朗らかに笑う皇帝から、どのようにして恐ろしい化け物は生まれたのだろう。親が偉大だとここまでひねくれるのだろうか、自分もそうであるから何となく分かる。

「して父上、ひとつ相談があります。私も専属を見つけたことですし、そろそろ自分も将来のことを考えるようになりました」

「ふむ、大事なことだな」

「私も父上のような立派な統治者になりたいと思うのです。故、帝位をお譲りいただけないかと思いまして」

「む……」

　やはり、さすがの皇帝もそれには躊躇した。眉を顰めて、丁寧に次の言葉を選ぶ。

「そうだのう……。確かにウーヴァも十六になるが……、むむぅ……」

「私は父の後を継ぎ、この国を豊かにしてみせます！　私を信じてください！」

　その言葉は信じられないわけではなかったが、古の約束がポメロの首を絞めていた。鬱陶しいことはないが、身動きが取り辛いことが難点だ。確かにガトーからは、時が来たら好きにしていいと言われているが。

「ウーヴァよ……。この国の課題は何だと思う？」

「……それは変革がないことでしょう。例え上手く行っているときでも、何かを変えなければなりません」

「ほう、してその変革とは？」

　ウーヴァは少し気怠い表情になり、すぱっと言い切った。

「それは私が皇帝になったときに行うことです。例え父上でも教えられません」

「……そうだな。相分かった、それでは譲位のことも考えようぞ」

「父上……！　是非ともお考え下さいませ！」

　皇太子は心から嬉しそうに、皇帝への一歩を踏み出したのである。そうして正式に譲位されたが、ポメロはその後ウーヴァに奨められた旅行中に消息不明となっている。先代の影は、不必要だ。

　それが三年前ほどのこと。皇帝になれば、この野望は叶うと思っていた。確かに叶ったことも少なくない。あれが欲しいだのこれが欲しいだのと喚き散らして、散々奪ってきたのだ。しかしどれも手に入れると味気なく、つまらなかった。

　やはり一番の目的はクラム・ショコラだ。それを手に入れれば自分はずっと皇帝でいられる。この焦燥感も満たしてくれるはずだ。

　葡萄色の瞳は、いったいどこを見ているのか。自分には良く分からない。ひとつだけ知っているのは、クラム・ショコラが現れたら自分は用なしになると言うこと。しかし自分はただ菓子を作ることしかできない。皇帝や、皇帝の座を奪おうと歯向かう者に。それ故自らの腕を磨くことは怠らなかった。しかしいずれ訪れる世界には、自分の姿はない。

　詩杏はぶどうのリースケーキを切り分け、シグレとウーヴァの前に差し出した。切り口からクリームが蕩け出す。せっかく大きく作ったので自分の分と号令を発した老爺の分、そしてリモンの分もと思いナイフを入れた。

　先に二人に食べさせなければいけないようなので最初に用意したが、皿を持って行った後はその三人分を盛り付けてそれぞれに分けた。老爺は驚いたように渋々受け取ってくれたようだ。

「あの、これ」

　リモンは差し出されたリースタルトをまじまじと見つめている。しかししばらくして、ふんと軽く鼻を鳴らし受け取ってはくれなかった。その態度が詩杏は気に入らない。

「ちょっと！　わたしは皆のために作ったのよ!?　あんたにも食べてもらう義務があるわ！」

「…………」

　きゃんきゃん叫ぶ詩杏を余所に、リモンは無視をし続けた。そのような義務は自分にはない。このクラム・ショコラがウーヴァの元に付けば全て丸く収まるのだ。自分は最初から、この場にはいなかった。

「食べてよね!?　わたしもあなたのケーキちょうだい!!」

「は……？　何言って――、おい！」

　眼を離した隙に、はしたない少女は自分のケーキをむさぼり食っていた。なぜか幸せそうな顔をしている。いや、これは確かに自分が丹精込めて作った自信作だ。誰にも、たとえクラム・ショコラにも負けないよう精一杯の作品なのだが、この場でまさか倒すべき本人に食べられると思っていなかった。

「何してる!?　それはお前のために作ったんじゃない！」

「でも美味しいわよ？　後味がちょっと苦いけど……、こんなに美味しいんだからもっとたくさんの人に食べてもらわなきゃ！」

　それは、幼少の頃の自分の願いだった。叶わないと思って諦めていた。皇帝の専属パティシエとしての役目を終えたらもしくは、とは思っていたが。しかしそんな昔のことを、いまさら思い出す場面ではない。

「そうだ！　昨日はありがとう！　あのケーキも美味しかったわ！　誰かのために、一生懸命作っているのね！」

　眼の前の女は、とても嬉しそうに、まるで心からそう思っているように、微笑む。リモンの瞳は、動揺で揺れ動いていた。届かない想いには、慣れていたはずなのに――――。

　どうしてこの女は、礼を言うのだ。敵対しているはずなのに、馬鹿みたいに笑っている。それがとてもやるせなかった。

「あなたのも食べてあげたんだから、わたしのも食べなさいよね!?」

　再度詩杏は、自分のタルトをリモンの鼻の前にずい、と押し付けてくる。リモンは躊躇したが、かの名高きクラム・ショコラが作るタルトに興味を惹かれていた。自分と歳もほとんど変わらないコイツは、どのようにして旨い菓子を作るのだろう。

　やはりパティシエの性は、誰にでも備わっているようだ。リモンはごくりと喉を鳴らし、恐る恐るフォークを突き立てた。

　やがてふたつのタルトを比べ終わったシグレは、フォークを置く。

「お主の専属は確かに良い腕じゃ。じゃが、朕の専属には及ばなかったようじゃな」

「～～～～～～っ!!」

　悔しさでウーヴァは、顔を歪ませる。まだだ、まだ何とでも言い様がある。私はこの国の皇帝なのだ！　誰もがひれ伏す畏れ多い人物なのだ！

「リモン!!」

　びくり、と呼ばれた専属パティシエは跳ね上がる。彼が皇帝から失墜しないように、ひとつひとつに命を込めて作ったのに。自分は、負けてしまったのか。

「何てことをしてくれた!!　貴様には勝つことしか役目を与えていないだろう!?　まだだ!!　まだ、何とでもなる!!　もっと作って来い!!」

　ウーヴァは悲しい生き物だ。それは自分と同じ匂いがしている。自分の貴族がそう叫ぶのなら、それに従うしかないのだ。

「ちょっと!!」

　しかし行動を起こしたのは、クラム・ショコラ――いや、詩杏であった。

「製菓は勝ち負けじゃないわ！　だいたい！　皇帝とか皇帝じゃないとか、こっちには関係ないのよね!?　だって、食べてもらえる人が笑顔になれば、それでいいじゃない!!」

「黙れ、女!!」

　びりびりと、詩杏とウーヴァの想いがぶつかり合う。皇帝は唇を噛み過ぎて、血が漏れていた。

「まだだ……。まだなんだ……！　私は皇帝の座を降りるわけにはいかない!?」

「しかし貴様はそれで何を成し遂げた!?」

　加わったのは、シグレである。

「貴様が皇帝に君臨してからと言うもの、この国は悪くなるばかりじゃ!!　その高い位から何を見渡して来たのじゃ!?」

「知るか!!　私は私が満足であれば……っ！　それでいいのだ!!」

「愚帝が……っ」

　吐き捨てるように侮蔑した。シグレは手を付けられないと思ったのか、短剣を抜く。死闘は犯罪だが、こうなれば実力行使だ。自分が皇帝になれなくとも、もっと良い国にしてくれるだろう統治者が現れるよう願う。

「全く次から次へと……っ！　小賢しい!!」

　対するウーヴァも提げた長剣を引き抜く。いままで飾りと思っていたが、抜けばなかなか使えそうだった。ここは自分の領地。例え相手の命がどうなろうが、自分は罪には問われないだろう。

　二人は一閃、獲物を翻した。が、

「そこまでです！」

「お主……！」

「こ、この……!?」

　仲介したのは、傍に控えていた老爺だ。両掌に刃物を握り、ポタポタと血潮を流している。シグレは短剣を離し、ウーヴァは長剣を引き抜こうとする。しかしそのどちらも、老爺の手からは動かなかった。

「ウーヴァ様、もう終いにしましょうぞ。これは正式な勝負の儀。双方の意見が一致すれば、もう曲がりません」

　静かにそう告げ、続けて老爺は語る。それはウーヴァに向けたものにも聞こえるし、シグレに向けたもののようにも感じた。

「皇帝になられたからと言って、見ているものはそうそう変わりません。本当に変えるべきは、自分自身です。それができなければ、どの場所に身を置いてもどうにもなりません。時代は、変わるものです」

　やがてウーヴァの力が抜けたと悟ったのか、老爺は手を離す。どくどくと流れ出る血は神聖な調理場に染みを作り、ああ、これでは自分ももうお役御免だろうと思っていた。二人の皇帝は黙ってその場を見ていたが、すぐに掛かった甲高い声で我に返る。

「おじいさん！　大丈夫!?　ねえ、お医者さんはいないの!?　すぐに呼んでよ！」

「あ……」

「そうじゃ！　宮廷直属の医師はおらんのか!?」

　ウーヴァはどう答えていいのか分からず、口を開閉させるばかりだ。それに返答したのはリモンである。

「自分が呼んでまいります！」

「頼んだぞ!!　おい大丈夫か!?　悪いことを……」

「シグレくん、これ腕に巻いて！」

　詩杏は仮にもパティシエールの卵だ。刃物でのけがもしょっちゅうあり、そのときの対処も分かっていた。制服のネクタイを外し、きつく縛るように言う。

　しばらくして呼ばれた帝医に老人は連れて行かれ、ことは取りあえず収まった。

「て言うか！　危ないでしょ!?　そんなの振り回したらケガするって知ってるくせに!!」

「……悪かった。じゃが――――」

「でも、もだけど、もじゃが、もないの！　刃物を扱うのはパティシエだけで十分よ」

「……すまぬ」

　詩杏に言われてシグレは肩を落とす。そうなるとまるで姉弟だ。本来貴族とパティシエは、対等な立場で良いのかもしれない。ウーヴァは床にうずくまり、何やらふさぎ込んでいるようである。

　リモンは床の血痕を拭き取る前に、食べ損ねたリースタルトをいただくことにした。何かに触れてしまう前に食べてしまわねば、たいへん美味そうな味が落ちてしまいそうであったからである。そして一口、口に含む。タルト生地はほろほろと崩れ、すぐにカスタードクリームと混ざり合い溶けていった。フレッシュな葡萄は旬ではないものの、程よい酸味がアクセントになっている。

「あっ！　食べてくれたの!?　ありがとう！　美味しい？」

　目敏く詩杏に見つかり、そう問われる。内心恥ずかしく焦ったが、リモンは素直に思ったことを返した。

「……旨い」

「良かった～！　クレーム・パティシエールまで作った甲斐があったわ！」

　詩杏は胸を撫で下ろし、喜ぶ。そしてリモンは疑問を投げかけた。

「どうして、旬ではない葡萄を……？」

「だって……、皇帝様って綺麗な眼をしてるじゃない？　そしたら葡萄、食べたくなっちゃって！　でもやっぱり旬じゃなかったわよね～。失敗したわ……」

「しっ、ぱい……？」

　誤ったもので作った菓子がこんなにも旨いのか……。リモンはクラム・ショコラの才能を羨む。どうして自分には才能がないのか、とても悔しかった。

「でも、食べて欲しい人に食べてもらえて良かった。ここにいる皆のために作ったのよ？　だって眉間に皺寄せて、こーんな顔してたんですもの！」

　詩杏はぎゅっと眼を瞑り、険しい顔をする。さすがにそこまで変な顔はしていないだろうが、その場は真剣だったのだ。表情もそれに合わせて変わるだろう。いやしかし、自分は最近、いつ笑ったのだろうか。

「さすがにそこまで変な顔はしておらんぞ」

「何ですってぇ!?」

　代弁したのはシグレである。詩杏は赤面してシグレに可愛い怒りを向けていた。これから二人は、この国の一番上に座るのだろう。自分たちはもう負けた身なので、すぐ出て行かなければならない。

　いや、勝ち負けなどどうでもいいのか。食べて欲しい人に、自分の菓子を食べてもらえれば、それで。

　リモンはちら、とウーヴァを見る。彼は初めから自分を見てはいなかったが、少なからず信頼はされていたのかもしれない。このような大きな場に、自分を宛がえてくれたのだから。ウーヴァはもう一度、自分の菓子を食べてくれるだろうか。そのときはもっと、互いのことを許し合える仲になっていれば、とても幸せなのだろう。