Whip ‐ホイップ‐ 六分立て
「少々、考えさせてくれぬか……?」
シグレから受け取った答えは、詩杏にとっては予想外の言葉だった。
「え!? なんで!? せっかくやる気出たのに!!」
出会った最初は右も左も分からないわたしに寄ってかかって、専属になってくれるよう頭も下げてくれたのに!?
詩杏が分かりやすくショックを受けていると、シグレは次の言葉を絞り出す。
「確かにその申し出はありがたい。じゃが、朕が専属にしたいのは腕の良いパティシエ。欲を言えばクラム・ショコラじゃ……」
「そう、だよね……。クラムじゃなくてごめんね」
そうだった。詩杏はまだ学校も卒業していない見習いであるし、確かに良く褒められるが、それは学業の間だけであることは重々承知している。それを誇ってシグレが求める良い腕とは決して言えない世界であることは、詩杏が一番分かっているのだ。
「お主が本当にクラムであってくれれば良かったんじゃが……。とは言え、朕にとってその言葉は本当に救いじゃ。感謝する」
初めてふわりと笑ってくれた気がする。その天使のような笑顔に、詩杏はどきりとした。この子が本当に皇帝になったら、世間はどう変わるのだろうか。
それが、夕刻の話である。いまは辺りが暗くなり、二人で焚き木を囲んでいた。シグレの愛馬も回収して主人の傍で安心して眠っている。薪の爆ぜる音を聞いたのは、小学校の林間合宿以来だろうか。あのときは大きな鍋でカレーを作ったっけ、などと思い出していると、再度詩杏の腹がぐうう、と悲鳴を上げた。
そう言えばケーキを買ったは良いものの、食べることをすっかり忘れていたのである。空腹は最大のスパイスと信じ、いそいそとくしゃくしゃになった袋から大量のケーキを出した。いまだ、香ばしいいい香りがしている。
「シグレくん! シグレくんも食べる?」
シグレはと言うと、あれから考え込んでしまっている。よほど詩杏の申し出が頭に引っかかるのか、難しい顔つきをして黙り込んでいた。
「シグレくん? シグレくんってば!」
「あっ? え? どうしたのじゃ?」
やっと顔を上げたシグレは、鼻の先に何か柔らかいものが押し付けられているのに気付いた。
「ちょっとでも食べておかないと元気でないよ?」
「あ、あぁ……。そうじゃな。食してみるが良い」
しかし返ってきた応えは思っていたものと違っていた。いくら乱暴な人たちの作ったものだからといって、無下にしていいわけではない。詩杏は唇を尖らせ、幾らか反抗的に口に放り込んだ。
「いらないなら食べちゃうんだからね!? はむっ! ……まっず!」
正確に言えば、味がしなかったのである。ただのスポンジを噛んでいるような感覚だった。
「え? 何これ? 間違えた……?」
一瞬、別のものを口に入れたのかと思った。しかしほろほろと崩れていく触感は確かにパウンドケーキのそれである。鼻から抜ける香りも、確実に小麦とプルーンの果実そのものであることが更に混乱を誘った。
「それが魂の抜けた味じゃ。美味ではなくても、腹の足しにはなる。そういうものじゃ」
「そんな……! だってこんなにいい匂いなのに!」
詩杏は店主のサービスにより、大量にあるケーキを見ながら肩を落とした。それを作り続けているあの男性は、何を思って作業しているのだろう。
「仕方ないのう……。朕にも寄越せ。手伝うてやる」
シグレがひらひらと掌を差し出したので、詩杏は申し訳なさそうに、しかしほとんど迷いなく菓子を差し出した。果たして菓子と銘打ってもいいものなのか、それすらも怪しい。
普段なら怖気なく何でも味わう詩杏だが、こればかりはどうしようもなかった。本当に、全くもって美味しくなかったのである。
シグレは無言でケーキを頬張ると、二人で眉をしかめながら咀嚼する。
「しかし、いつもながら不味いのう……。じゃが、味が分かるのならばまだ腕は落ちていないようじゃ。良かったの」
「こんなに美味しくないの、気付かない方がおかしいよ……」
「いやいや! 偶にいるのじゃぞ!? 己の味すら分からぬ輩が! それがあの露店、言うなればなれの果てじゃ」
「どうして気付かなくなっちゃったのかな……? 病気、とか?」
詩杏だってパティシエールを目指す存在であるため、職人を脅かす病名くらいは勉強している。味覚障害でも発症してしまったのだろうか。
「いや、もっと恐ろしいものじゃ。じゃが、ひとたび気付けば心を入れ替えることができるのじゃがな……。何のために菓子を作るのか、忘れてしまったのじゃ」
「何の、ため……」
詩杏にはその単語が若干気になったが、実感として薄かった。作りたいから作る、ではダメなのだろうか。学校ではレシピしか教わっていない。同じ材料、同じ分量、同じ手際、同じ時間で作れば、誰だって同じものができる。味も無難で美味しい。このケーキはきっと全てが素晴らしくバランスが取れているが、美味しくはなかった。いったい何が違うのだろう。
そうだ、学校と言えば。
「ねぇ、シグレくん? わたしが学校に通ってること、なんで分かったの?」
「ん? あぁ、胸に星が付いていたからの。それは学業をこなした者であれば誰でも貰える印であったから言うたまでじゃ。ニホンとやらにも製菓学校はあるらしいの」
「星……? あぁ~、なるほど」
言われて、詩杏は自分の胸ポケットを見る。そこには、詩杏が通っている製菓学校の校章が光っていた。シューティングスター製菓学園。輝く流れ星のように尊く、憧れを抱いてもらえるような人物になれるようにと願いを込められた学校名だ。それに伴い、校章も五芒星に光の尾があしらわれていた。
どうやらこれがこちらの世界で言うところのランクを表しているようで、歩くミシュラン図鑑よろしく、その役割を果たしているのだ。一つ星は学業修士課程、二つ星は専属パティシエ契約締結。そして三つ星は、皇帝と契約している者にだけ捧げられる。
「それなら、三つ星はひとりだけなの?」
「基本はひとりの貴族につき専属はひとりきりじゃが……。皇帝になると色々と催し物も増えるでな、皇帝パティシエ見習いを雇うことを許可されるのじゃ。見習いになれば、三つ星を貰えることもある。他の大貴族も必要とあらば、申請すれば専属以外にもパティシエたちを設けることは可能じゃぞ」
「そうなんだ……。あの人たちも、専属じゃなくても見習いとかでも入れたらいいのに……」
「はっ、それは堪ったものじゃないのう。あんな味音痴、願い下げじゃ」
シグレには鼻で笑われたが、確かに抗議のしようがないほどの味であった。詩杏は口をもごもごと動かしたが、食べ終わった後の余韻すらも感じられなかった。ただ残るのは、どうしようもない満腹感のみ。いや果たして、満たされたという言葉すらも怪しかった。
「ちなみに皇帝専属じゃと星も特別になっての……、いや、この話はしても仕様がないかの」
シグレはふい、と顔を背けた。何とも言い難い雰囲気がその場を包む。ここは空気の違う詩杏が、切り出すべきだと自分から思った。確かに詳細を知っても、意味がない可能性の方が高い。
「ねぇ、あんまり食べた気がしないね! 何か持ってないかな?」
「む……? まだ食うのか? 太るぞ」
「お姉さんに向かって失礼ね! これでも一応気にしてるんだから……!」
小言を発しながらも、それでもシグレは馬に背負わせた荷をほどいてくれる。中からは少ないながらも艶々としたフルーツとペティナイフ、菓子作りに必要な調味料が出てきた。
「好きなものを取れ」
「そうねぇ~。生も美味しそうだけど……う~ん、せっかくだから!」
詩杏は目敏く、シグレが手に取らなかったものをちらと確認する。未だに馬が引っ提げているのは、スキレットだった。火もあることだし、焼きフルーツでも食べさせてあげようじゃないかと思い立ち、詩杏は遠慮なく調味料の小袋たちを物色する。動物の皮で作られ、口を木の皮で結んだ何とも古代的な保存袋であった。
「冷たっ! 氷が入ってる……」
「氷嚢じゃ。そろそろ限界じゃがの」
ひとりで移動するには冷やす食材もどうにかしなければならない。生み出した策が氷嚢で包むことだったのだろう。中にはバターが入っていた。バターがあるなら好都合だ。詩杏は全ての小袋を開け、手元にあるもので何ができるか考える。
「これは砂糖……、こっちは塩ね。小麦粉で……、卵はないもんね。こっちはベーキングパウダー……、それとも重層かな? 蜂蜜に、スパイスたち。クミン、シナモンスティック、バニラビーンズ、クローブ……。本格的じゃない!」
匂いと味、感触で確かめながら、頭の中で計算しながら組み立てていく。こと、菓子作りはコンピューターが行う、精密な計算に似ていた。久し振りに、と言うわけではないが、それでも製菓作業ができることに詩杏は嬉々とする。
再度果物を吟味し、これならアレが作れるぞ! と答えが導き出されると、詩杏に満面の笑みがこぼれた。
「うん! 簡単なもので悪いけど、焼き林檎でも作ってあげる!」
「……お主に作れるのか?」
「何ですと!? 見てなさい! 美味しく作ってあげるんだから!」
少し怪訝そうな顔をされたが、それはむしろ大歓迎だ。疑う相手に、絶対に自分の料理を食べさせられるという口実にもなる。勘繰ったことを後悔させてやるのだ。
シグレからスキレットも借り、紅玉のような林檎にペティナイフを通す。よく砥がれているのか、それはすっ、と豆腐を切るように入った。小さなナイフでも、持つ者によって道具の良し悪しが変わるというものだ。実際シグレはまめそうであるし、何かあったとき用にいつも磨いているのだろう。
材料はこうだ。
林檎………………………………………………………大一個
バター……………………………………………………十グラムほど
砂糖………………………………………………………大さじ二分の一
シナモンスティック……………………………………一本
蜂蜜(仕上げ用、なければ砂糖の量を増やす)……大さじ二分の一
まずは林檎の上、五分の一ほどをヘタと一緒に切り落とす。林檎の芯を、下までナイフでくり抜く。その林檎をさらに横に半分切っておく。
次にスキレットを火にかけ、バターを溶かす。十分にバターが溶けたら、林檎を入れ、半分に割ったシナモンスティックと砂糖を散らし、じっくりと火にかければ完成だ。
仕上げに蜂蜜を垂らしかければ、なお良しである。
仕上がるまでしばらく時間が掛かるので、詩杏はふと気になってることをシグレに訊いた。
「そう言えば、シグレくんって、シグレ・ベェクって言うんだよね? 前々から気にはなっていたんだけど、この国もベェクって言うんじゃなかったっけ? ベェクさんって多い苗字なの?」
「新鮮な質問じゃの……。童と話しているみたいじゃ」
少し馬鹿にされたような気もするが、くすりと笑わせることには成功した。林檎の香りは、幾らか人を優しくしているようである。話してやろう、と得意げに姿勢を正す様は、シグレにこそ幼さを感じられた。
「ベェク帝国は朕の先祖が立ち上げた国じゃ。じゃからベェクと名を冠しておる。今の皇帝はベェクからの分家で、ケィク家じゃがの……。じゃが国の名は変わらんのでな。ベェク家が皇帝ではなくとも、別におかしくはない。主には、本家と分家の争いで代替わりしておるの」
「じゃあ、ベェクさんとこと、ケィクさんとこが戦ってる感じ?」
「それだけではないぞ? 分家は他にマカァロン家、フルゥツ家……、ケィク家からの分家もあるのでな。切りがないのじゃ……」
「そんなにたくさん……! シグレくんは偉いね!」
「何……?」
シグレは不意を突かれたように、眼を円くする。よもや褒められるとは思ってなかったのだ。
「だって、皇帝になりたいって思って行動してるんでしょ? そんなに壁があったら、わたしめげちゃうかもしれないし……」
そうだ、言われて気付いた。なりたいと望んでなれるものではないことに。また、それ相応の覚悟が必要であることに。守りたい者のために、守らなければいけないものもある。
「そうじゃな……。しかしそれはお主も同じであろう? 世界は違えども、お主も一人前のパティシエールになるため努力しているのではないのか?」
シグレは、詩杏がパティシエールを目指していることを信じて疑わない。確かに詩杏の夢はパティシエールであるが、もし間違っていたらどうしたのだろうか。
「そう、だね……。でもわたしも思った通りの味が出せなくて、どうしていいか悩んでた。もういっそ、別のものを作ろうって考えたくらい。わたしは、壁があると回り道しちゃうタイプなんだよね」
あのメレンゲクッキーを密かに思い出し、えへへ、と困った顔をしながら頭を掻いた。逃げたいと思ったときには、迷いながらそれでも逃げてきたのだ。無理に完璧にしようとは思わずに、妥協のできるものを丸く収めて評価をもらっていた。学校にいると、どうしても課題をクリアしなければとの思いに駆られることがある。いくら素晴らしいものを作ろうと作業に取り掛かろうとも、間に合わなければ言語道断なのだ。
「……そろそろかな。良い香り」
カラメルの匂いが、火の通った林檎に絡み溶け合う。じわじわとバターの泡が弾け、満たされたと思っていた二人の食欲をそそった。焚火なので火加減が難しかったが、ある程度は様になったようだ。
「熱いから気を付けてね」
ふわりと湯気が舞い、とろりとした蜜にまとわりつく。フォークで、林檎とありったけの溶けた砂糖を掬い取り、シグレは訝しげに匂いを嗅いでから口に運んだ。
「ふむ……、なかなかじゃな」
まだ認めてはいないようだが先程の顰め面ではない限り、いい方だろう。詩杏は胸を撫で下ろし、自分もいただくことにした。
「はむっ! う~ん……! 良かった、ちゃんと柔らかくできてる! 林檎美味しい!」
「じゃが、これくらいの腕であれば普通じゃ。もっと心を磨くことじゃな」
「もう! 美味しかったなら美味しいくらい言いなさいよ! ほんと、素直じゃないんだから!」
詩杏は眉を吊り上げて、ムッとした。いちいち癇に障る言い方である。確かにこのくらいであれば、製菓に慣れている者なら同じようには作れるだろう。だけれどもそれの何がおかしいと言うのか。不味かったり形が悪いよりかは、きちんとして美味しい方が良いに決まっている。
「……明日は、パティシエの村に行くとしようかの。ニホンについて何か知っている者がおるやもしれぬ」
今度、話を変えたのはシグレであった。
「パティシエの村があるの?」
「住んでおるからには集まる場所もあるに決まっておろう。そうと決まれば早う寝るが良い。ハンモックを貸してやるでな」
シグレが指さす先には、二本の木の幹に掛かったハンモックがあった。いつの間にやら掛けておいてくれたらしい。思えば火を起こすのも手際が良く、森の地理にも長けているようであった。いったいいつからこの森にいるのだろう。専属パティシエが見つかるまでここから出ないつもりなのだろうか。
「いけない……。小麦粉~……」
グルテンを摂取したためか、急に眠気に襲われる。安心しきってはいないものの、ゆっくり腰を下ろしていたのは夜が初めてだった。
「案ずるな。この森に獰猛な生物なおらぬが、しばらく見張りをしておる。気にせず睡眠を摂ってくるが良い」
詩杏は幼いシグレを残して先に寝床に就くことに少し抵抗があったが、眠気には勝てず言葉に甘えた。感覚からするとそこまで夜も更けていないようであったので、しばらくしたら共に眠るのだろうと考えたのだ。
「シグレくんも。子どもは早く寝ないとダメだよ~? ふぁあ~」
おやすみ、と最後の言葉を投げ、ハンモックに揺られると何とも気持ちよくすぐ夢の淵に辿り着くのであった。
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