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「着いたぞ」

「えっ?」

 不意に声を掛けられて、詩杏は顔を上げた。そこには同じく煉瓦造りの大きな建物がそびえている。入口とその上に掲げられている看板のようなものは飴色の木で出来ていて、看板の方は何やら文字が書かれているが読めはしなかった。

「帝立図書館じゃ」

「ここが……?」

 中に入ると予想していたより奥行はあったが、何万冊もの本で埋め尽くされていたので快適とは言い難かった。世界の美しい図書館とは似つかわしくなく、まるで大学の書物庫のようだ。

 本と本の間を抜け、シグレの示したコーナーへと入る。

「たくさん本があるのね」

「ほとんどは先の皇帝たちの所有物じゃったものじゃ。失墜すれば本の行き場はなくなるからの。読書が好きで持ち出す者もあるが、次の家屋へはこれほどの量は入らんからの」

「じゃあ、これって全部シグレくんのお父さんのものだったってこと!?」

 詩杏が見たところ数千冊はある。天井まで届かんばかりの本棚をぽかんと見上げていた。

「この棚だけではないがな。父は読書家じゃった。民の為に探求し、時には民の面白いと言う本を読んだり……」

「良い王様だったんだね」

「そうじゃ。……本当に善い、皇帝じゃったと思う。……あったぞ! 恐らくこれじゃ!」

 ただただシグレの作業をぼうっ見ていた詩杏は、嬉々として飛び上がった。しかし看板の文字すら読めなかった詩杏は、シグレにお願いして本を開いてもらうことにする。

「文字が読めないじゃと!? 帝国語は完璧じゃのに、可笑しな奴じゃのう……」

 シグレのこの言葉には参った。自分がそちらの言葉で話していると思っていたらしい。こちらにとっては日本語で喋っていると思っていたので、これ幸いと思っていたのに。もしかしたら、文字は似つかないけれども言葉の発音は似ているのかもしれない。こればかりは深く考えても解決しないので、あまり追求しないようにした。

「これじゃな。“ニホン”と表記されておる」

 詳細を読んでもらい要約したところによると、こうだ。

 古から続くベェク帝国には、稀に次元の違う者たちが迷い込む。その者たちは“フランス”“ロシア” “ニホン”などから来たと申す。その他にも知らぬ地名の者たちが帝国へ足を踏み入れるが、多くの者が渡来した記憶がない。皆、いつの間にやらそこに居たと言うのだ。また帝国の外に出てみても、全ての小国を虱潰しに探しても、そのような名の国はなかった。

 いわゆる、別の世界というものだろうか。まだまだ研究段階である。

「この文献は相当古いものじゃな……。他のページに何か手がかりはないじゃろうか」

 更に読み進めていくとある程度研究が進んだのか、シグレはとあるページで手を止めた。

「シアンの蜜……?」

「わたしが……、何?」

「あー……違う、お主ではない。シアンの木、知らぬのかの? それから採れる蜜を一気に加熱しその煙を吸わせると、研究用のネズミが忽然と姿を消えたらしいのじゃ」

 突然名前を呼ばれたと思ったら、樹木の名前だったらしい。しかしこれは良いことを聞いた。その木から採れる蜜さえあれば、元居た世界に帰れるかもしれないということだろうか。

「しかし、シアンの蜜とは難儀な……」

 シグレのその言葉さえなければ、浮き立っていた詩杏は地に付かずに済んだのに。

「……何か問題があるの?」

「シアンハニーは、今や世間に出回らない代物なのじゃ。二十年ほど前であれば……。蜜を採取するにも今は時期でもないし……」

「そんなぁ~! じゃあどうやって帰ればいいの!?」

 せっかく摑んだ手がかりなのに、これではまた振り出しに戻ってしまう。ネズミがどこへ消えてしまったのかははっきりとはしないが、きっとその別世界とやらに行ったのだ。

 いや、詩杏からすれば消えた先が故郷ということになるので、こちらが異次元の世界とやらであろうか。どちらにせよ、詩杏とシグレの住んでいる場所は、全く別の世界であるということだ。

「……そう言えばお主、ここへはどうやって来たと申しておった?」

 言われてみれば言葉の通じる人に会えた安堵と混乱で、ここに置き去りにされた経緯はあまり話していなかったように感じる。詩杏はできるだけ細かく記憶を切り出し、説明した。

「確か……、帰り道で小さな製菓店に入って……。そこには……白い髪のおばさんがいたの。それで突然……煙が……」

「煙……、加熱したシアンハニーじゃろうか……?」

「分からないけど……。そうだ、煙が出る前におばさんはオーブンを開けてたわ! それで何か……放り投げていたような……う~ん」

「なるほどのぅ……。それがシアンハニーだと仮定すると、この書物に書かれている内容は信憑性を増すのじゃがな……。不確か故、何とも言えぬのぅ」

 二人揃って顎に指を遣り、考え込む。その煙を発生させたのがシアンハニーだとすれば、その所有者はいったい――。

「白髪の女性……、まさか……?」

 シグレは合点が行ったように、口元を手で覆う。次いで詩杏をまじまじと見つめ、ソーダキャンディの眼を大きく見開いた。

「そうか、その女はヌガー・ピスタチオかもしれぬ」

「ヌガー・ピスタチオ……?」

 なんとも美味しそうなお菓子の名だ。だが、それは人名であった。シグレも話に聞いただけではあるが、十数年前、ベェク帝国のとある製菓学校で教師を務めていた人物だ。

「なんでそんな人が……?」

「先代のクラム・ショコラが失踪した話はしたじゃろ? その七十二代を教えておったのが、ヌガー・ピスタチオじゃ。それから間もなく、クラムを専属に選んどった父は失脚してしもうたが……。それに眼を付けたのは今の皇帝じゃ。どうしてもクラム・ショコラを専属にしたいようでな。教え子というだけでヌガーはクラム探しを命ぜられ、目的の人物を連れてくるまでは帝国に足を踏み入れることを禁じたそうじゃ。てっきり国外逃亡したのじゃと思うておった」

「……でも、この国のパティシエの中に、そのクラム・ショコラは生まれるんじゃないの? 確かにわたしの見た目は似てるのかもしれないけど、先代の人だってここの人でしょ?」

「きっと探していたのは……その先代のことじゃろう。お主は間違って連れてこられたのやもしれぬ」

「やっぱり、間違いだったのね……」

 迷惑な人間違いだと思いながらも、詩杏は少し肩を落とす。しかし本来の義務を果たすことを放棄してはいけなかった。

「じゃあ、そのヌガーって人を探せば、わたしは元の世界に帰れるってこと?」

「可能性は高いじゃろう。じゃが、それよりも……」

 シグレはひとつ大きく息を吸った。

「今の皇帝に問い質す方が、確実じゃろうがのう」

 それは、皇帝へ挑みたいとの意思表示の現れであったが、無知な詩杏には内容がよく分かっていなかった。いつもとよろしく軽はずみに、それなら皇帝に聞きに行けばいいと提案し、シグレに怒られてしまう。

「なんでぇ~?」

「それが出来たらさぞかし簡単じゃろうな! クラムではないにしても、姿形が同じであれば何をされるか分かったものではない! もっと謹んで行動すべきじゃ」

「それは……、でも、好きでクラム・ショコラさんに似て生まれてきたわけじゃないし……」

「……そうかもしれぬな。それを他人の空似のお主に任せるのは、確かに任が重すぎるというものじゃ」

 詩杏の心が、ちくりとした。そう、好きでこの容姿に生まれたわけではない。正直日本人には珍しいこの見目は悪い気はしていなかったが、ここでそのような不意打ちを食らうとは夢にも見なかった。異国の血が若干入っているらしい母を、少し恨む。

「仕方がないのう。再度朕が優秀な専属パティシエを見つける故、お主は黙って後を付いて来ればよい」

「どうして、そこまで専属パティシエを必死になって探しているの?」

「決まっておる。今の皇帝は無能じゃ。朕が皇帝になり、民を正しい方向へ導いてやらねばならぬ。しかし朕の力ではどうにもならぬ故、腕の立つパティシエを探しているのじゃ」

「どうにもならないこと、ないよ! シグレくんは、立派だと思う。何も知らないわたしをこんなに手助けしてくれているんだもん!」

「お主がクラム・ショコラじゃと思うておったからじゃよ。朕はお主が思うより狡猾な男じゃ」

 それは確かに、そうかもしれなかった。利己的になるときもあることは、詩杏だって身に覚えがない訳ではない。シグレは根は優しいとは思うが、その境遇からか考えを巡らすことを絶えず行っていたのだろう。

「取りあえずは森へ戻るとしよう。じゃがその前に……」

 シグレはもうひとつ腰を上げると、また違う棚から今度は冊子のようなものを取り出した。それは、ベェク帝国の地図である。

「しばらく滞在することになるかもしれんからの。地理を説明しても、無駄にはならんじゃろう」

 ちょうど中央に皇帝が玉座に着く宮殿が描かれており、その周りには差し詰め城下町といった具合の帝都が栄えている。右側には抹茶色に広がる部分、これはパティシエが住まう森であった。

「どうしてパティシエだけ、森の中で暮らしてるの? いじめ……?」

 よろしくない考えが詩杏に過ったが、それはシグレに即否定される。

「単に食材が採りやすいからじゃな。木の実も卵も小麦も、自然の中で育った方が良い味になる」

「あぁ、なんだ。そういうことか……」

「ざっくりと覚えておけば良い。いま、朕等がいるのはここじゃの」

 ほっ、と胸を撫で下ろし、シグレの白魚のような指が指す先を覗き込む。宮殿から南東の辺りに、本のような記号があった。これは間違いようもなく、ここ、帝立図書館のマークだ。

「さて、目的も決まったようじゃし、ここに居ても仕様がない。森へ行くとするかの」

「またあの通りを通るの……?」

 詩杏は忌まわしい記憶を思い出し、不安になる。

「……いや、少し遠回りになるがの、折角じゃ。シアンの木を見がてら帰ろうかの」

 それはふんわりとした優しさで、いまの詩杏にはとても気の利いたセリフに聞こえた。詩杏はそれに申し訳ないながらも同意し、今度は今来た西ではなく南に向かって歩き出す。また襤褸を被ってしばらく歩き、河川が通る南街が拓けてきた。

「南は貿易街じゃ。ここなら、ならず者のパティシエはほとんど顔を見せぬ。その代わり、専属たちが往来している街じゃ」

 貿易街。その名の通り木製の船が何艘も停まっていた。この船には異国の食材やレシピなどといった情報が乗ってくるらしい。それを求めて商人やパティシエたちが集まってくるようだ。詩杏はパティシエと聞いただけでぴくりと体を跳ね上がらせたが、ここでは確かに絡んでくる者はいないようであった。

 港街を抜け、再度森へ足を踏み入れる。

「もう良いじゃろう。それを脱いでも良いぞ」

 シグレが襤褸を脱いでも構わないと示したので、詩杏は頭だけを顕わにした。すると、ふわりと花の香りが漂ってくる。濃厚なようでさっぱりとしたこの匂いは――。

「これは……」

「これがシアンの木じゃ。この国ではもうこの一本しかないがの。何人もの職人が植林を試みたが、何故か駄目じゃった」

 それは、樹齢何万年もあるような大木であった。詩杏は素人であるため幾らかの年月を経ているのか定かではないが、人がざっと十人は入りそうな太さの幹である。それでいて樹高はそれほど高くなく、詩杏が手を伸ばせば花の塊に触れることができた。

「もうそろそろ花の時期は終わりじゃな」

 シグレがそう言う通り、栄えている花はちらほらと見えれば良い方だ。元はホワイトチョコレートに似て純白な花びらだが、コーヒーを垂らしたように茶色く萎れかけているものが大半である。しかし詩杏にはこれで十分であった。少し香りが落ちているが、この香りは決して忘れない。

「これ、この香り……。やっと見つけた……!」

 よもや、遠く知らない、まさかの異世界で求めていたものに出会えるとは思っていなかった。これは過去に母からもらった、メレンゲクッキーの匂いである。

「でも、どうして……?」

「どうしたのじゃ?」

 突然しおらしくなった詩杏を、シグレは訝る。だが詩杏がまたころりと勢いを変えて迫ったので、いつもながら驚いてしまった。

「シグレくんっ! これ、この花! 色んなところに咲いてたりしないの!?」

「きゅ、急にどうしたのじゃ!? 先も言うたであろ? この木はここにしか生えておらぬ」

「他の国っ! 異世界にはっ!? シアンハニーって聞いたことない!?」

「むぅ。見回ったわけではないため定かではないが……、他国でシアンの名は聞かんの。異世界のことは朕にも分からぬ……」

「そう、なんだ……。だよね……」

 げんなりと顔を伏せ、見るからに落ち込んだ。詩杏だって日本中、いや世界中探したのだ。その中にシアンハニーの名は全くもって存在しなかった。それでは、このベェク帝国のみに生息する植物であろうか。せめて一舐め、しかし香りだけで分かる。詩杏のクッキーにはこのシアンハニーが必要だった。この植物の蜜を、どうにかして持ち帰れないだろうか。どうしても卒業制作に使用したかった。

「何があったか分からぬが……、シアンハニーがそれほど欲しいと見えるの。それがあれば生まれ故郷に帰れるのじゃから当然か。案ずるな、朕が皇帝になった暁には、現皇帝から蜜を取り引きしてやろう」

 シグレが皇帝になれば、きっとシアンの蜜を渡してくれる。それまでは厄介者かもしれないが、手伝える部分はなるべく協力しよう。

「ねぇ、皇帝になるには……どうすればいいんだっけ?」

「まずはとびきり腕のいい専属パティシエを探さねばな。次いで皇帝専属パティシエに製菓勝負を挑み、勝つ。そうすれば次代の皇帝に君臨できるのじゃ」

 パティシエール魂に、火が点いた。

「そうだった。そう、言ってたよね」

 詩杏は自分と同じ名前の樹と出会ってからずっとその方に見とれていたが、やっと背を向けシグレと対面した。

「それ、わたしがなっちゃ、ダメかな?」

 ざあ、と風が吹き、幾重もの花びらが吹雪く。それは古い膿を剥ぎ取って、新しい世代に送り出してくれるものであった。

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