Preheating ‐プレヒーティング‐ 100℃

「取り逃がした……!?」

「申し訳、ありません……」

 男の怒号と、少ししわがれた女性の声が響く。宮殿は生クリームのような白と、スポンジケーキのような卵色であしらわれていた。その奥の最も広い部屋で、白髪の女性と対面するのは背の高い椅子に座った若い男。不純物のない蜂蜜を垂らしたかのような豊かな髪に、葡萄色の瞳が輝いている。

「申し訳ないで済むと思っているとでも? 本当にクラム・ショコラを連れて来たのか!?」

「――っ! ……ケィク様に誓って、嘘は吐きません!」

 眼の端を吊り上げて激怒するウーヴァ・ケィクは、焦りの余り爪を噛む。クラム・ショコラは国の財産。ひいては自分の力になるのだ。

「即刻国中を探せ! 見つからなければ、貴様は永久追放だ!! 分かったな!?」

「…………はい、ケィク様。我が親愛なる皇帝陛下様」

 女性、ヌガー・ピスタチオは深々と一礼をし、足早に去っていった。ウーヴァは苛立ちから貧乏ゆすりをしている。これほどの焦燥は三年前、皇帝の座を取って変わった時以来だ。やっと待ち侘びたクラムを、みすみす見逃してはならない。そうでなければ、クラムを育てたというあの女教師を野に放った甲斐がないではないか。

 早く見つけなければ。一番マズいのは、誰かに専属の契約をさせられることだ。それだけは必ず阻止しなければ。



 ベェク帝国は、皇帝が君臨している。世襲制の場合もあるが、歴史の中の多くは皇帝に反旗を翻した者で統治されていた。決して過去の皇帝たちが弱い訳ではないので、最高の椅子を奪うのは安易ではない。ただし競うのは自軍の腕っぷしでもなく頭の回転でもなく、専属パティシエの腕であった。

 この国では貴族が暮らす帝都と、パティシエが暮らす森林地に分かれている。貴族はいい歳の頃合いになると、専属で付いてくれるパティシエを探しに森に足を踏み入れるのだ。パティシエの方も専属になることが一人前の証で、誰かに選ばれようと必死に製菓の腕を磨いている。双方の意志が合致したときに契約を交わし、一生を添い遂げるのだ。

 それは婚姻にも似ているが、必ずしもそうではない。確かに貴族とパティシエで結ばれた例もあるが、それは多くはなく、互いに同じ立場の相手を見つけている。十七年前に存在した、第七十二代クラム・ショコラもそのひとり。シグレ・ベェクの父を王位に導いたのち、どこからともなく現れた流れのパティシエと姿を消してしまったのだという。

 クラム・ショコラは名ではなく、敬称であったのだ。次の、素質がある者が受け継ぐべき襲名であった。

「その……、次のクラム・ショコラがわたしだってこと?」

「そうじゃ! 聞いておった通りの見様じゃのう。紛れもなくお主が第七十三代クラム・ショコラになるのじゃ」

「でもわたしはこの国の人じゃないし……、日本人だよ? 分かる?」

 そこまで頭が良い訳ではないが、詩杏は明らかに聞いたことのない国名に首をひねらせる。日本語も通じるし、テーマパークにしては子役も設定も風景も創り込まれ過ぎている気がした。

「ニホンジン……? はて、聞いたことない国じゃな……」

 からかっているのか、それとも全て夢なのか、いったいここはどこなのだろう。いや、国名はシグレから聞いた通りなのだが……。だが、ひとつだけ言えることは、

「わたし、クラム・ショコラってやつじゃないと思うんだけど……」

「またそれか! いい加減、朕でも怒るぞ! お主は間違えようがないほどクラムの条件に合っておる。じゃから朕と契約してはくれぬか!?」

 シグレは出会ってから怒ってばかりだが、とは思ったが、そこを突っ込むと話がまた別の方向へ飛んでしまうので我慢した。

 クラム・ショコラは、必ず決まった姿で現れるそうだ。チョコレート色の髪に、クランベリー色の双眸。そのひとつ、たった少しでも違えばクラム・ショコラの継承者とは言えない。逆を言えば、その姿は国で唯一であり街中に居ようものなら非常に目立つということだ。

 詩杏はその条件にぴったりと合致していた。しかし知らない場所に立たされて、いきなり伝説級の人物に祭り上げられては誰だって否定したくなるだろう。

「早く家に帰りたい……」

 詩杏は何もない広い空を見上げて、寂し気に呟いた。

「待てよ……? ニホン……?」

 ふと、何かを思い出したかのようにシグレが顎に細い指をやる。眉間に皺を寄せ、毬のような小さな頭で何かをねじり出そうとしていた。

「そうじゃ……。幼い頃、父の書斎で……何かの文献で見た気が……」

「それって本当?」

 何か手がかりがあるかもしれない。十歳の未熟な脳で必死に思い出を探してくれたのだ。詩杏は心の中で感謝した。

「しかし細かいところは思い出せぬ。今一度書物を読み返さなくては――」

「どこにあるの!? その本!」

 今度はシグレが気圧される番だ。詰め寄る詩杏の眼には、光がらんらんと輝いていた。

「うぇ!? 帝都の図書館に、寄贈されたと聞いたが……」

「図書館ね! じゃあさっそく行きましょ! シグレくん、案内してくれる?」

「ま、待て! その見てくれでは目立つ! 襤褸(ぼろ)じゃが゙……、これでも被っておれ」

 シグレは詩杏に、優しくフードを掛けた。よく見るとそれは薄いシーツのようで、少し土の匂いがする。

「朕が睡眠時に使っているハンモックの生地じゃ。それが嫌なら、街へは出ぬ方が良い」

「これで十分。ありがとう、シグレくん」

 シグレの話が本当なら、変に見つかって騒ぎになる方が困る。更に家から遠ざかるくらいなら、少年のハンモックにくるまれている方が堅実だ。

 しかし、シグレも本来の目的があるだろうに。何とも優しかった。国のトップに立ちたいなら、優しさは愛、それとも罪か。皇帝は、どこか非情でならなければならぬ。その顔も、シグレは持ち合わせているのだろうか。

「お馬さんはどうするの?」

「彼奴はここへ置いていく。馬もいないわけではないが……、目立つからな。それに」

 シグレは少し言いにくそうに、ひとつ大きく息を吸った。

「一度森に出た者が、何の成果もなくおめおめと街には戻れぬ」

 詩杏には良く分からなかったが、寂しそうで、それでいてどこか安堵したような雰囲気は感じ取った。きっとしきたりというものなのだろう。お国が違えば文化も違うものだ。あまり首を突っ込むのは止そう。すぐにさよならする土地なのだから。

 詩杏はシグレに案内されて、森の端まで到達した。木々が開けた先には、石、いや煉瓦造りの賑やかな市街が拡がっている。色はどれも生成りで、一面カスタードクリームに包まれているようだった。森の近くの路地には屋台が並び、各々が何とも素晴らしいスイーツを並べていた。ケーキ、焼き菓子、飴細工……。甘ったるい香りが練り混じり、少し胸やけするほどだ。

 詩杏はパティシエールの性なのか、ひとつひとつまじまじと手に取って観察したかったが、シグレは横目に見ることもなくスタスタと先を行く。仕方がないので詩杏はきょろきょろと辺りを見渡すばかりだった。

「あまりよそ見をするなよ。奴らは客と見ると眼の色を変えてくるからの」

「そんな悪徳セールスみたいに……。少しだけでいいから見せてよ、ね?」

 だがこのお願いは断固として聞き入れてはくれなかった。

「いかぬ。捕まると厄介じゃ。こんな粗悪な菓子は朕の欲するものではない」

「そんな言い方ないでしょ!? みんなきっと丹精込めて作ってるわよ! ほら、あのケーキなんか特に――!」

「お主は学校で何を学んできたのじゃ?」

 溜息混じりに、呆れられて物を言われてしまった。シグレは顔をしかめて、頭を抱えている。

「なっ、何よ、それ! 美味しそうなものを素直に見ちゃいけないわけ!?」

「それなら素直と言うより、具眼じゃな。どこで学んだかは分からぬが、かの名高きクラムも見る眼が落ちたものじゃ。あれは魂の味がせぬ代物じゃぞ」

「魂の……味?」

「それも分からぬのか!? いったい本当にどこで教育を受けた!?」

「えええ~!?」

 訳の分からないまま怒られてしまった。どこで学んだと言っても日本の、それも都内有数の有名な製菓学校だ。講師も設備も素晴らしく、まさに一流と呼ぶのにふさわしい学び舎であった。

 どう説明しようかと逡巡していると、シグレが勝手に進めてくれた。

「彼奴等は専属パティシエになれなかった者たちじゃ。故に、落ちぶれてここにおる。本来の目的を違えてしまっておっての、人に付ければ誰でも良いのじゃ」

「専属になるのって、そんなに大事なことなの?」

「有名になりたいのであれば、確かに重要じゃ。じゃがもっと重要なことはごまんとある。……しかし本当に何も知らぬのじゃな。そうなるとお主の話もまんざら嘘ではなさそうじゃ」

 詩杏はシグレに、あの森の真ん中に突っ立っていた経緯を話していた。詩杏がシグレの話を訝しんでいたように、シグレもまた、詩杏の話を冗談半分に聞いていたのである。これはこれでお互いさまなので、詩杏も怒るに怒れなかった。

「貴方様は、もしや……ガトー・ベェク様の御曹司様ではございませんでしょうか!?」

 突然、やけに“様”表現が多いひとりのパティシエが、二人の前に飛び出してくる。三十代半ばほどの、プルーン色の髪をした男だった。

「人通りの多いところで父の名を出すな。無礼者め。それに、朕はもはや王位を失っておる。他を当たるのじゃな」

「待っ、お待ちください! 是非とも私めを専属パティシエに! 共に皇帝の座を!!」

「味もしない菓子を作り続けて、志も失ったか!? ……朕には選択の余地がある。夢を語るのであれば、世間をきちんと見ることじゃな」

 前言撤回だ。彼は非常な面も持ち合わせている。眼の端をキッと吊り上げて、シグレは怒号を飛ばした。

「っ――!」

 何も言えなくなったパティシエを尻目に、シグレは早足に去っていこうとする。それを詩杏は、打ちひしがれたパティシエが気になりながらも追いかけた。

「ちょ、ちょっとシグレくん!? あんなこと言って大丈夫なの?」

 詩杏は今も、小さくなる菓子職人とシグレを交互に見ながら言葉をかける。しかしシグレの口からは、何も声が出てこなかった。プルーンの彼からは、焼き立てのパウンドケーキのような匂いがしていた。詩杏はそれを思い返し、そっと心の中でエールを送る。

 そう言えばここへ連れてこられてから、食事をしていない。今日の寮夕食はなんだったのだろうか。昨日の献立はシチューであったことを思い出し、お腹がぐうと鳴った。

 するとシグレを立ち止まらせることには成功したが、代わりに呆れた言葉が返ってくる。

「お主……、この期に及んで腹の虫が鳴るとは……!」

「ひゃっ!? べっ、別に鳴らしたくて鳴らしたわけじゃないわよ!?」

 詩杏は赤面して、シグレに抗議する。シグレの顔はこちらに向けられていないので、その赤面にも意味はなさないのだが。

「だって! こんなにお菓子の良い匂いがしてるからっ!」

「…………」

 シグレはまたも黙りこけるが、今度は神妙な面持ちを詩杏に向けてくれた。

「……何よ?」

 詩杏はその態度があまり好きではない。確かにシリアスそうな雰囲気でお腹を鳴らすのは間違っていると思う。だけれども詩杏だって鳴らしたくて鳴らした訳ではないことを分かってほしいのだ。

「食してみれば分かるじゃろうか……」

 少年はぽつりと吐き捨てて、詩杏に顎で先程の露店を示した。

「え? 食べていいの……?」

「腕は悪いが、食材に罪はなかろう。お主、金はあるか?」

「お金……」

 帰り道に卒業制作用の食材を調達しようと考えていたので、財布は持っている。日本円もある。が、

「何じゃ、それは? 帝国の金銭ではないの」

「まぁ、そうでしょうね……」

 少し惨めな思いをした。そのまま連れてこられたので両替などしてもらえているはずはなく、さくらんぼ色の財布をそっとカバンの中に仕舞った。

「仕方ない。朕の路銀を貸してやる。お主が勝手に買いに行け」

 先の怒りを向けた手前、顔を出すのが恥ずかしいのか屈辱なのか、シグレ自身は買いに行こうとはしなかった。こんなにいい匂いがするのに、と詩杏は思っていたので、ここはあのパウンドケーキの味をシグレにも分かってもらおうと意気揚々と露店に戻る。

「さっきはシグレくんがごめんなさい。あなたのパウンドケーキ、もらってもいいかしら?」

「! あ、ありがとうございます!」

 主人はそそくさと店に戻り、並んでいるケーキを一種類ずつ紙袋に詰めていった。

「あの、そんなにたくさんは……」

 詩杏は苦笑いしその量を否定しようとしたが、主人は話も聞かずにそれを押し付けてきた。熱烈なラブコールのおまけ付きで。

「あの、貴女でも良いんです! 是非私めを専属に……!」

「えっ!? あー、いやそれは……」

「なぜですか!? 貴女は私めの商品を買ってくれたのに!」

「ひっ! でも、わたし……」

 腕を摑んで離さない。男性の力で思い切り摑んでいるので、とても強固で痛かった。だけれども痛みよりも、その主人の形相がとてつもなく怖い。

「ちょっと! 嫌がってるじゃない! きっとあたしが専属になってほしいのよ! 渡しなさい!」

「いや俺だ! 俺のとこに寄越せ!」

「お前らは黙ってろ!!」

 いつしか詩杏の周りは、立ち並ぶ露店から出てきた主人たちの好機な眼で囲われていた。どうしよう、どうしてこうなってしまったんだろう。専属になっても、すぐに日本に帰らなければいけないのに。詩杏には、このパティシエたちの道にはなれなかった。

「助けて……!」

「静まれ!!」

 涙目になりながら誰かに助けを乞うたとき、金言を発したのはシグレである。ざわつきが、その一言で一瞬にして静まり返った。その小さな体で、なかなかどうして良く響く声だ。

「シグレ……くん」

「彼女は朕の専属パティシエールである!! 我が専属の戯れで皆に迷惑をかけた! 申し訳ないが、朕にはもう権力はない! じゃが、どうか収めてほしい!!」

「……専属? ちっ、そういうことかよ!」

 そうそれぞれに吐き捨て、集まっていたパティシエたちは散り散りになる。跡が付くほど握られた腕はやっと解放され、力なくジンジンとしていた。詩杏は腰が抜けたようにその場にへたれこんだが、シグレによって引き起こされる。

「これで分かったじゃろ? 早うここを去ろう。店主、朕の専属が世話になった。少ないが取っておけ」

「専属がいたなら、そうはっきりと申していただけませんかね!? 過去の皇帝に時間を割けるほど暇じゃないんで!」

「……悪かった」

 今度はシグレの方が叱咤を受ける番だ。ちゃっかりお代を着服しているが、先程の態度とは一八〇度変わっている。それをあんまりだと思う詩杏であったが、つい先のことを思い出し言い返せなかった。口をつぐんで下を向くばかりである。

「行こう。先を急ぐぞ」

 詩杏は小さな掌に握られ、足を動かした。その柔らかさが、心を突く。こんな幼い子に守られたことが恥ずかしく、それでいて何故か無性に腹立たしかった。それはきっと、知らない土地で知らない文化に慣れようとしている、一種の抵抗であったのかもしれない。わたしは悪くない、そういった思いも錯誤して、非常に複雑な気持ちであった。

 やがてあの立ち並ぶ露店たちも見えなくなるほど歩いてから、詩杏は口を開く。

「あの……シグレくん……」

「何じゃ?」

 シグレは相変わらず詩杏の手を引いて、何も見ようとせずに歩いていた。余計なことをしてほしくないのだろう。

「ごめんね。わたし……その、知らなくて……」

「…………そうじゃな」

 落胆した声が聞こえた。後ろを向いているため表情は見えなかったが、恐らく怒っている。しかし本当に知らないのだ。この場所も、生活も、人物も。そう考えると、眼の前を歩くシグレも怪しくなってくるものだ。

 ふと引かれている方とは反対の手元を見ると、それまで存在を忘れられていた紙袋がかさりと鳴る。どれほどのものなのか、ただ確かめたかっただけなのに……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る