異世界パティシエール
猫島 肇
Measure ‐メジャー‐
「これは、あなたとママの秘密のお菓子よ」
そう言って渡されたのは、焼き立てでまだほんのり暖かいメレンゲクッキーだった。甘い香りがキッチンに漂い、今にも口の中に溜まっているよだれが垂れそうである。まだほんの三歳のころの思い出は、いつもそのお菓子の匂いだった。
短い足で小刻みにジャンプしながら母からクッキーを受け取る。一気に頬張るとサクサクとした触感が駆け巡り、かつ口どけが良いため一瞬でなくなってしまった。自分の小さな手にあったときには、あんなに大きく見えたのに。
後には蜂蜜のような濃厚で、それでいてさっぱりとした甘みが鼻から抜けるのみだった。母は優しい笑顔でいくつもそれを作ってくれたが、どうして何の変哲もないシンプルなクッキーが“秘密”であるのか、ついには教えてくれなかった。
「そうね。あなたがママと一緒にたくさんお菓子を作れるようになったら、教えてあげるわ」
「ほんとうに!? ぜったいよ!」
それから母と共に製菓に励み、たくさんのデザートを生み出した。優しく厳しく、的確で独創性もあり、その時間を過ごすことはとても楽しかった。ひとりで作ると上手くいかないものも、母と共に作れば必ず美味しくできる。製菓はたった一グラム、一℃の違いで失敗してしまうことがあるのだと、何度も経験から学んだのだった。
しばらくして、幼子には夢ができた。あのとき秘密のお菓子を貰って喜んでいた自分のように、わたしもたくさんの人たちを幸せにしたい、と。笑顔にしたい、と本気で願うようになったのだ。
やがて中学を卒業するころには製菓専門の学校進学を志願することとなる。専門ではあったが、高校生レベルの学業と併用できる学校のため厨房着と、珍しく講義用の制服もあるのだ。全体的に空色をベースにした、涼しげな制服たちであった。今どき珍しくセーラー服型ではあるが、デザインは幾らか現代的であり、称するならクラシックといったところだ。
その制服に袖を通すと、パリッとして背筋が伸びる。姿見を覗くと、新しい服の匂いと相まって何だか変な気分になった。春から念願の土地に足を踏み入れられるのだ。無意識に口元が緩んできた。
ただし不安要素がないわけではない。実家から遠かったことと菓子作りに専念できるよう、学生寮に住めるよう申し込んであるのだ。確かに自分で選んだことだが、やはり新天地は何が起こるか分からない。初めは製菓ばかりできればそれでいいと思っていたが、入学式が迫るにつれて勉強だっておろそかにはできないという思いが強くなった。それでも悩んで生活している中で、たくさんの学友に囲まれるのは嬉しい。共通の話題ができる友人はとても貴重である。
初めはチョコレートを湯煎することですら精一杯だった幼いころの自分が聞いたら、びっくりするに違いない。
花ノ木(はなのぎ) 詩杏(しあん)。十七歳。いつの間にか月日は流れ、学んだ日々は過ぎ去っていった。課題に苦しめられ続けたのに、思い起こせばあっという間だった。しかしここに来て、一番厄介な壁にぶち当たる。卒業制作だ。
「どうして……! どうして同じ味にならないの……っ!?」
厨房で詩杏は何度も何度も試行錯誤を繰り返していた。チョコレートムース色の巻き毛を帽子で隠し、額に汗を流している。調理中に必須なマスクも付けているので、彼女の顔で見えているのはクランベリー色の真剣な瞳だけだった。もう何時間そうしているか分からない。
詩杏は母との思い出の味、メレンゲクッキーを作っていたのである。自分の腕回りほどある大きなボウルには、泡だて器で作られたふわふわなメレンゲが大量に入っていた。その横には何種類もの砂糖、蜂蜜、シロップ……、全て試したが、その全てが記憶とは異なっている。いったい何が違うのか。何種類か混ぜてみたりもしたが、同じ味になるどころかかけ離れていくばかり。卒業制作のテーマは、『大切なひとに振舞う菓子』。必ずしもこのメレンゲクッキーに拘ることもない、とたまに自分の中の悪魔に声を掛けられる。そのたびに頭を振り払い、黙々と作っていたのだが、さすがにもう時間がない。心もそろそろ折れかけていた。
作り方を母に聞けば、とも頭を過ったのだが、一人前になるまでは力を借りたくなかった。何より、このクッキーをサプライズで渡したかったのだ。
「詩杏~、まだやってるの?」
ぎょっとした表情で友人が部屋をのぞき込んできた。
「凛々子……。うん、まだもうちょっとだけ……」
「あんまりムリしないでね? 詩杏ならもっと良いもの作れるのに……」
「そう、だよね……。ありがとう、先帰ってていいから!」
凛々子と呼ばれた彼女は、オペラケーキのようなしっとりとした黒髪を揺らしながら、足早に去っていった。同級生にそう言われてしまうと、少し自信を失くす。“もっと良いもの”とは何なのか。自分にとってはこれが最上級のスイーツなのに。一度口にすれば全ての甘味が霞んでしまうほどの宝なのだ。
「もう少し、試してみようかな……」
時間はないが、あともう少しだけ。焼けなくても、せめて甘さの原因を突き止めるだけでも。あとは寮に帰って作ればいい。あと少し、もう少し。
気付けばオレンジの夕焼けは過ぎ去り、バタフライピー茶のような夜の帳が完全に降りてしまっていた。
「いけない……! 調理室返さなきゃ……」
しかし、実はまだ味の追及には至っていなかった。むしろすでに甘みばかり舐めすぎたせいで舌は馬鹿になり、微妙な違いが分からない。悔しかった。これほどの挫折はない。材料も底を尽きかけ始めていた。
しばらくの逡巡のあと、詩杏は肩を落としキッチンを片付け始めた。いくつも店を回り集めた蜜たちを排水口に捨てていく。惜しそうにとろりと落ちていくのに、いなくなるのは一瞬だ。まだまだやるせない気持ちを呼び起こすなんて、とてもズルい。
蛇口をひねり、一気に流し込んだ。もういいのだ。自分の力不足だった。これからケーキ屋に就職して、自分の店を持つことが夢なのだ。ここで躓いていてはいけない。
厨房をキレイに洗ってから、肩掛けカバンに空き瓶などを詰め込んで部屋を出る。厨房着を脱ぎ、制服に着替えた。外はつんとした空気で満ちていて、すぐ詩杏の鼻を赤く染まらせる。
これから寮に帰って別のものを用意しなければならない。その前に、何か適当な材料を買わなければ。足取り重く、とぼとぼと製菓材料店が建ち並ぶ方へと移動する。作る菓子は何にしよう。小さい頃からメレンゲクッキーを数え切れないほど作っていたお陰か、クリーム系が得意になった。得意で攻めるのは別段卑怯ではない。基本のショートケーキに果物を飾るか、それともホイップクリームにチョコレートや潰したベリーを混ぜるか。いま旬なのは何だったか。それも忘れるほどに熱中しすぎてしまった。
仕方ない。店を覗いてピンと来たものにしよう。きっと何か、手に取れば何か別のものが作りたくなるはずだ。
「……あれ?」
ふと、いつもとは見慣れた景色とは違うものを見付けて足が止まる。
「あんな店、あったっけ?」
アンティーク調のこじんまりとした菓子店が、そこにはあった。温かみのある木造で、同じく暖色の、ホタルのような光をランプから放っていた。いつもはこんな夜遅くに立ち寄らないので、ひっそりと建っていたそれを見つけられていなかっただけかもしれない。
近付くとやはり甘い匂いがする。間違いなく菓子を置いている店だ。……いや、この香りは、遠い昔に嗅いだことがある。あれは母のクッキーの匂いだった。
「あの……っ」
「いらっしゃい」
カラカラとドアベルを鳴らして、詩杏は名もなき店へ足を踏み入れる。金柑のような光が幾重にも目に刺さり、とてもぼんやりとしていた。何となく息苦しい狭さだが、ふんわりとした甘みを充満させるのに十分だった。
生ケーキはなかったが、パウンドケーキやマドレーヌといった焼き菓子や、ジャムなどが並んでいた。その中に、母のメレンゲクッキーが置いてある。その他に店内に居るのは、初老の女性がひとり。見た目の年齢の割には髪は完璧なほど真っ白で、後ろでひとつに纏められている。どこか異国の血が混ざっているのか、ピスタチオのような眼の色をしていた。
「あの、このクッキー――」
「クラム……!?」
「えっ……?」
詩杏が言い終わる前に、店員と思わしき女性が声を荒げて遮ってきた。
「やっと見つけた! あなたのせいで、わたしがどれだけ苦労したかと思って……!!」
「ひっ、人違いじゃないですか……?」
まったく見覚えのない女性に、詩杏は何故か恨みを買われているようだ。こちらの言葉には聞く耳を持ってくれていないようで、ひとりで勝手に話を進めている。
「まあいいわ。話は“ベェク”に着いてからよ!」
「“ベェク”……?」
「忘れたとは言わせないわ。あなたの生まれ故郷、帝国“ベェク”よ! 弟子の不始末で追放されていたけど、わたしの役目もこれで終わり。故郷のスイーツには勝てなかったようね!」
初めての言葉が、詩杏の思考を奪う。目前の彼女はさっきまでの静かな雰囲気から一転、すがすがしく悪態を吐いている。肩の荷が降りたと言わんばかりに腕を振り回し、おもむろにオーブンを開けた。
「これでやっと帰れるわ! 待ち望んだ“ベェク”!」
青りんご色の透き通った小瓶を鉄のオーブンに投げ込むと、綿あめのような煙が一気に溢れ出した。
「けほっ……! 何、これ……?」
まるでピシュマニエの中に閉じ込められたように、視界が白に奪われる。詩杏は一生懸命手を動かし、煙を払った。しばらくはむせ返るような白一色だったが、ようやく景色が開けてくる。
「……何、ここ?」
詩杏は自分の目を疑った。そこには先程まで居た菓子店がなくなっていたのだ。正確にいえば、景色全てが自らの知っているものとは異なっていた。
詩杏は、見知らぬ森の中に立っていたのだ。いくつもの背の高い木々が生い茂っているが、決して湿っぽくはなく、むしろ爽やかな風が吹いている。運ばれた草の匂いは、ミントのようにすっきりとしていた。
それが詩杏を白昼夢から覚まし、現実味を帯びさせる。夢、ではない。
「いたっ!」
試しに自分の頬をつねってみたが、それなりに痛かった。子どものような方法だったが、今はこれしか手段を知らない。よもやこの歳で頬をつねるようなことがあるとは、夢にも思わなかった。
「ここは、どこなの……?」
見渡しても深い森の奥。幸い上から降ってくる太陽光で暗くはない。が、それも時間の問題だろう。いずれ太陽は沈み、夜がやってくるはずだ、それが自然の摂理なのだから。
「そういえば」
詩杏が店に入った時には夜だった。だのに、今は明るい。いや、考えても仕方がないか。どこか分からぬ場所にいることさえ理解できないのだ。それを分かりたくても正解がないのだから、考えのしようがない。
催眠効果のある煙で、眠らされてしまったのだろうか。右も左も前も後ろも分からない土地で、このままひとりぼっちなのだろうか。
「ママ……パパ……。そうだ、ケータイ!」
文明機器の存在を思い出した。カバンの底から、桃色のカバーが掛かったスマートフォンを引っ張り出す。横に付いている電源ボタンを押すが、画面は真っ暗なままだった。
「なんで!? ……あ! しまった……」
何度押しても点かないはずだ。蜜の調合のため、その特徴を限界まで調べていたのを思い出したのだ。どうして今日に限って使い切るような真似をしてしまったのだろうか。自分はただ、求めていた味を探していただけなのに。
「誰か、助けて……」
目の端に涙が滲み始める。詩杏はなす術なくその場にうずくまり、不安な体を抱き締めた。その時だ。
「誰じゃ? そこで何をしておる?」
後ろで、ころころとした幼い声がした。詩杏は弾かれたように顔を上げ、声のした方に体を向ける。
今は見たくない色だったが、何とも高貴な白馬がそこにいた。その上にはひとりの子どもが跨っている。細くしなやかで、まるで飴細工のようだった。色は黒だが、甘栗のようなショートボブが艶やかに光り、柔らかく可愛い顔立ちはマシュマロと見間違えるほどだ。その白い面持ちには、ラムネ色の大きな瞳と、桜餅の唇がきゅっと引き結ばれていた。
「もしやお主……、クラムか!?」
またその名だ。何度訂正すれば信じてくれるのだろう。だけれどもその名を知っているということは、あの菓子店の女店主と繋がりがあるということか。馬に乗った子どもは慣れた動作で下馬し、駆け寄って詩杏の顔を覗き込んだ。
「ねえ、君。その“クラム”って人、いったい何なの? わたしに似てる人? わたしとは人違いだと思うな~」
詩杏は立ち上がって、なるべく優しくその子に話しかけた。乗馬していたり、言葉遣いが古臭い子どもなんて普通ではない。だけれども大切な情報源なので、逃げられたり怖がられたりしては困る。
「お主……、嘘を吐くにしてももっとマシな嘘を吐くべきじゃ。この国でクラムの名を知らぬ者はおるまい。まして、クラム本人が知らぬなど、言語道断じゃ」
「え~……、でも……」
やれやれといわんばかりに、溜息混じりに首を振られた。やはり詩杏がクラムだと言う。しっとりと睫毛を伏せ、その幼子は続けた。
「しかし、伝説は途絶えたと思っておった。クラムはこの森で、ひっそりと暮らしておったのじゃな。じゃが、朕の前に現れてくれて助かったぞ! お主を、朕の専属パティシエールに任命する!」
「ええっ!? ちょっと待って、次から次へと……! 話が見えないよ! そ、それに、女の子がチン、チン連呼するのはやめた方がいいと思うよ……?」
「無礼な! 朕は男(おのこ)じゃ!」
「え!? そうなの!?」
美人で整っていたので、てっきり少女かと思っていた。若干ながら、詩杏はこの彼の将来が楽しみに思えてくる。いやいや、そういう話ではない。もう混乱で頭が回らない。この少年と仲睦まじく世間話をしている場合ではないのだ。
「あの、ごめんなさい。わたし、訳が分からなくて……」
「朕を前にして畏れているのか? 畏まる必要はもうない。言うて……、朕は先代の皇子じゃ。もう、力は失われておる」
「おうじ、さま……?」
どこへ行く宛てもないがそそくさとその場を立ち去ろうとしていたのに、少年の物悲しい顔を見ると話を振らずにはいられなかった。
「皇子と名乗っても、誰にも相手にされぬ。朕が生まれる前の話じゃ。朕は皇子生活など、全く送ったことはない」
よくある子どもの作り話だろうか。自分を勇者やヒーローに見立てて会話する、幼いころには頻繁にある経験だ。今は『おうじさま』ものが流行っているのだろうか。それにしてもよく“パティシエール”という言葉を知っていたものだ。小学生ほどの子には、まだ聞き馴染みがないはずなのに。将来の夢、などといったアンケートも昔からあるし、今の小学生は職業についてインターネットでなんでも調べてしまうのだろう。
「ねえ、僕。お姉ちゃん悪いけど、僕と話してる時間ないんだよね。ここはどこかな?」
早く両親の元に、製菓学校に帰らなければいけない。詩杏がそういうと、少年のラムネ色の双眸が一瞬揺れ動いたように見えた。見開くと、ビー玉に似ている。
「……やはり、お主もまともに話してはくれるのか……! っ……! 元はと言えば、お前のせいであろう!? 七十二代クラム・ショコラであるお主が姿を消したせいで、朕の二親は失脚したのじゃ!!」
急に声を荒げて、少年は詩杏に詰め寄った。整った容貌に鬼のような皺を刻み噛み付く。しかし詩杏には身に覚えがない。自分と似た誰かが失踪したと言われても、詩杏には関係なかった。
「だから! 違うって言ってるでしょ!? そんな名前の人知らないし、わたしは気付いたらここに立ってたの! 元の場所に帰りたいだけなのよ!」
「そんなの! 朕だって同じじゃ!! 今のベェク帝国は荒廃するばかり……! それもこれも、みんなお前のせいじゃ!!」
「そんなこと言われても、わたしには関係ないわ! 思ってることがあるなら本人に言いなさい!!」
「――っ!!」
少年は色がなくなるまで唇を噛み締め、悔しさからか顔が歪んでいた。知らない場所では協力が不可欠であることは詩杏だって分かっているつもりだ。だけれども知らない怒りをぶつけられ、黙っているのはどうしても我慢ならなかった。心細い土地では、せめて自分の思い通りにいきたかったのだ。自分の精神を助けるために。
「それでも、今はお主に縋る他ないのじゃ。どうか、ベェク帝国を救うため、朕の専属パティシエールになってほしい……!」
喧嘩したというのに、それでもひたむきに少年は詩杏に懇願してくる。詩杏もちょっと大人げなかったと感じたので、話くらいは聞くことにした。
「……悪かったわね。話し相手くらいには、なってあげるわ」
「本当か……!?」
「でも! わたしは別人だからね!?」
「そう……、じゃな。良く見れば、先代のクラム・ショコラの歳ではなさそうじゃ」
少年は少し残念そうに、しかしながら強い意志を持って詩杏に向き合った。
「朕はシグレ・ベェクじゃ。お主、名を何という?」
「わたしは詩杏。花ノ木 詩杏よ」
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