第23話 脱走ゲーム

「荷物は──」言いながら立ち上がった高瀬は、キャビネットのドアをスライドさせた。


「私の私物入れですが、あなたのものは下段に入っています。バッグも、その体で伊達になってしまった眼鏡も、あなたがここに来た時のままあります。鍵はいつも開けっ放しなので、あなたが見つけたと思うでしょう」


「持って行っていいんですね?」

「もちろんです。あなたのものですから。このままタクシーで向かってください」

「はい」

「極秘のプロジェクトですので警察は呼べません。呼んだとしても大掛かりな事にはならないはずです。なにしろ犯罪者が逃げたわけでも、金品が奪われたわけでもありませんので」


「高瀬さんは……」


 キャビネットの前から椅子に座りなおした高瀬が首を傾げた。

「私ですか?」自分の胸に人差し指を当てて不思議そうな顔をした。

「私も一緒に逃げるかと尋ねていますか?」揃えた両手の人差し指と中指を、胸元でちょこちょこと動かした。

 わたしは苦笑した。「それはまた、いずれの機会にでも」


「冗談の分かる人で良かった」高瀬がおかしそうに、くっと背中を丸めた。

「責任は問われるでしょうが──まあ、問いたければ問えばいいのです。私ないなくなると研究は一歩も進まないことは誰だって知っていること。その点はご心配なく。困ったときはいつでも連絡してください。そして──ここに戻ってくるときも」


「高瀬さん、感謝します」


「通路には監視カメラが付いています。まずは私がコンビニに向かいます。今度は自分の夜食でも買いましょう。だからさっきあなたが食べたものは、カバンに隠して持ってきたのです。またもや余談になりました」高瀬がふっと笑った。


「一分──いや、荷物を探したと考えられる時間を加味すれば──三分ぐらいでここを出てください。今夜の守衛さんは夜専門の方なので、あなたの顔は知らないはずですが、顔を合わせたら、お疲れ様ですと言っておけば問題ないでしょう。何か尋ねられたら私の名前を出して下さい。戻った私は、あなたがいないことに気がつき追いかける。いいですね。せいぜい慌てたふりをして外に走り出ることにしましょう」高瀬はひとつ頷いた。


「ありがとうございます!」


「彼に与えられるものがなくなったとか、自分の役目は終わったとか、もしもそう感じて彼の元を離れるときも、悲しんだりする必要はない。辛い別れがあったとしても嘆かないでください。穏やかな心で、ここに戻ってください。もしも終わるのなら、それは愛ではない。現実にたじろがないでください」


 あれほど嫌だった高瀬の目が深い優しさで満ちている。わたしはこの人を、見誤っていた。

「はい」


「心は、どこにあると思いますか?」

「ここ……ですか?」胸元を押さえて見た高瀬は、こちらまで嬉しくなってしまうような笑顔を浮かべた。


「そうです! 忘れないでください。肉体は滅びても魂は永遠です。心は」手のひらを自らの胸に当ててじっとこちらを見た。


「美玖さんの言う通り、心臓や脳の働きとは関係なく、ここにあります。門脇さんが失って泣いたのは、まさにそれです。だからあなたは何の負い目も感じる必要はない。あなたはそこにいます」

 高瀬の目のなんと深く強く、優しいことか。


「動きを止めたあなたに彼が面会した日、私は決めました。あなたにヒトと等しい味覚を与えて、もう一度彼のもとへ帰そうと。私は、心揺さぶられたあの日を胸に刻んで寝食を忘れて研究に励みました。けれど、彼のもとへ送るその方法が見つかりませんでした。あなたを悪者にしてしまうようで申し訳ないですが……」

「いえ、とんでもないです」わたしは強く首を振った。


 やさしいですね、と呟き、高瀬は掛け時計を見て立ち上がった。さて、脱走ゲームの始まりです、と何かをおかしむようにふっと弱く笑った。


「大丈夫ですね」背中で訊く高瀬に「はい」と強く頷いて立ち上がり、ありがとうございましたと深く頭を下げた。


「おふたりが良き日々を過ごせますよう、私も陰ながら祈っています」静かにドアが閉まった。

 ふぅと息を吐き、両手で頬を叩いた。

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