第22話 逃げる

「それより」高瀬が考え事でもするように、ゆっくりと視線を上に向けた。

「私が今一番心配しているのは──美玖さん」視線を戻してしばし沈黙が続いた。


「今回の別れが一番つらいことになるのではないか、ということです」

「はい」それは充分予測できる。どうあがいても、彼と添い遂げることはできないのだから。


「でも、私は彼に賭けてみます」身を乗り出した高瀬が何かを差し出した。

「使ってください」手に取ると、ポケットティッシュだった。


「門脇さんは、とても素直でやさしい人です。だから彼を信用してみます」

「そうなんです」ティッシュで涙を押さえながら思わず口元がほころんだ。「ちょっと泣き虫で、たまに間が抜けたことをするひとなんですけど」


「しかし──あなたがここを出て、彼のもとへ行くなどということに許可を与えることはできません」高瀬が背もたれに背中を預けた。


 耳を疑って高瀬を凝視した。

 瞬時に色も音も失せた世界で、高瀬の眼鏡だけが光を弾いているのを目を見開いたまま見つめ続けた。


 なんという人なのだ。心をもてあそんだのか。


 突如、静かな部屋に掛け時計が秒を刻む音が響いた。弱った心音のようにも聞こえるその音が、逃れようもない現実の今を知らせた。


「怖い顔をしないでください。あなたは、私が研究していた味覚、そのために再び目覚めさせられたのです。いいですね」

 何の反応も返す気が起こらなかった。


「あなたに対する味覚の実験は私が時間外に、自らの判断でやったこと。ここまではいいですね」

 頷きだけで返した。


「私は──あなたの味覚を確かめるためにコンビニに向かった。そう、アーモンドチョコレートやらを買うために」

 いったい何が言いたいのだ。


「その隙に、あなたは逃げた」

「え?」

「逃げなさい」

「え?……はい?」

「許可を与えることはできないと言ったではないですか」


 高瀬が封筒を差し出した。

「お財布の中身は確認していないので念のため渡しておきます。少ないですが、お金が入っています。それと、彼の部屋に住むのはしばらくやめておいた方がいい。あなたを探しに人がうろうろするでしょう。もしもその人物が、あなたの見知った私の部下だったら心配はいりません。私が何も言わずとも、彼らは見て見ぬふりをするでしょう。けれど、見たこともない人間がうろついていたら気をつけてください」


 わたしの頭は混乱していた。どこまでが本当で、どこからが嘘なのか。

「彼には私から電話しておきます。落ち合ったら──そうですね、今夜は問題ありませんが、あなたはしばらくビジネスホテルにでも宿泊してください」


 これは本当なのだろうか。もうくつがえったりしないのだろうか。

 差し出された封筒にためらっていると高瀬が微笑んだ。

「遊んで暮らせるほどは入っていませんのでご遠慮なく。研究馬鹿で貧乏な男からの心ばかりの餞別せんべつです」


 信じてもよさそうだ。どうやら高瀬の目は本気のように見える。

「ありがとうございます」






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