第21話 涙の音
「あなたは老いない。それは理解していますね?」
「あ、はい」慌てて居住まいをただした。重要な話が始まるに違いないから。
「あなたは結婚できない。それも理解していますね?」
「はい」
「彼は──門脇さんは、あなたと毎日会ってきた。だからあなたがニ年経っても容姿がまったく変わらないということに気がつかなかった。爪が伸びないことにも疑問などもたなかったはずです。しかし、離れて暮らしているならいざ知らず、一緒に暮らしていて髪を切らないというのは不自然だった。だから美容院に行くと言っては、小さな美容室を経営している私の姉に、髪をちょっとずつ切ってもらった」
「はい。お姉さまにもお世話になりました」
これが本当に血を分けた姉弟かと思うほど、気づかいが細かくてやさしい人だった。
「あの姉はね、私の母代わりだったんです。ま、それはいいですけど」ふっと笑った顔は、高瀬がお姉さんに全幅の信頼を寄せていたであろう幼いころを思わせるものだった。
「あなたの髪は徐々に短くなっていった。以前は肩甲骨を覆うほどだった髪が、いまやショートヘアだ」
高瀬が微笑むのにつられるように、私も苦笑気味に口角を上げた。
確かに、伸びない髪は厄介だった。美容院に行くと言っては少しずつ切ってもらった。
「ずっと一緒にはいられません。彼はやがて結婚して子供をもうけるでしょう。それが自然なのです」
「はい」殊勝に頷いたものの心は浮き立った。やっぱり会える。それもしばらく一緒にいられるのかもしれない。
「会えるんですか?」
「あなたがその気なら、これからすぐにでも」
「会いたいです」
「即答ですね」
会いたいの言葉を言い終わる瞬間に、笑った高瀬の顔が急速に遠のき、胸の中に黒い雲が沸き起こっていた。それは銀河のように渦を巻き、心の隅々まで膨らみ、この体を破裂させてしまいそうだった。
そうだ。そうなのだ。
彼がわたしに会いたいと思うなどと、勝手に決めていた。
ニ年も前からわたしは生身の人間ではない。それを知った今、拒絶されたとしても不思議ではないのだ。
だとするなら、帰ってくる場所は、ここしかない。
「どうしました?」
「あ、いえ──高瀬さんは、ここにしばらくいますか?」
「ここに? 研究所に、ということですか? 在籍するかと尋ねているんですか?」
「いえ……」
高瀬は怪訝そうな顔をしたが、やがて察したようにひとつ頷いた。
「今日は何時ごろまでここにいるか、ということですね」
私は俯くように頷いた。
「あなたのボディが活動を停止した後、彼はあなたに会っています」
はっと高瀬を見た。それは事前には知らされていないことだった。最後は期限通りスパッと終わりましょう。それが高瀬の言葉だったから、私たちは別れを惜しむ間もなかった。
「泣く、というのにも色んな表現があります。慟哭という言葉を知っていますか?」
ええと頷いた。
「ああ、司書さんでしたね。あなたの方が詳しいかもしれない。泣くことの表現では、これが一番激しいのではないですか?」
「そうだと思います」
「彼は、活動を停止して温度を失ったあなたの手を取り、頬を撫で、髪を
言葉を切った高瀬が覗き込むようにわたしを見た。
「美玖さん、あなたはそこに紛れもなくいますよね」
頷いた。
「それで充分だと思います。私はね美玖さん──あなたに涙を与えることができてよかったと、今、心の底から思っています。もしも涙に音があったなら、私の耳が壊れてしまうかもしれません」
頷きにつれて、涙で歪んだ自分の膝も水面に映る風景のように揺れて、一粒ふたつぶ、みつぶ、よつぶ、腿を濡らしていった。
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