第19話 目覚め

 ふと目を開けると、白いクロス張りの壁が見えた。

 視線を動かすと、埋め込まれた蛍光灯の灯りがぼんやりと視界に入る。どうやらそこは壁ではなくて天井だと気づいた途端、重力が背中を圧迫した。


 横たわっているのは、どうやらベッドのようだ。ここは、どこだろう。


 目をしばたたいて天井に当てた視線をぐるりと動かすと、見覚えのある場所だった。いつもの所だ。一か月に一度検査を受けていた研究所。

 メンテナンスと呼ばれるのが嫌だった、あの場所。


「私が誰だかわかりますか?」

 声に首を回すと、メタルフレームの眼鏡を掛けた男が視界に現れた。


「高瀬さん」

「起き上がれますか?」

「あ、はい」肘をつき、ベッドから起き上がった。


 人の心の機微きびを感じ取れないクールな科学者、そんな雰囲気をまとった彼は、やはり苦手だった。


「こちらへどうぞ」ドアの向こうは問診をする部屋だった。ベッドから足を下ろして立ち上がり、高瀬の後に従った。


「どうぞ、お掛けください」勧められた椅子に腰を下ろすと、いつものようにギッとスプリングが鳴った。


「彼──は」

「はい?」高瀬が一瞬怪訝そうな顔をした。

「話は終わったんですか」


 あぁ、と納得したような顔になった高瀬は、掛け時計に合わせた私の視線を辿るようにそれを見た。

「あなたが門脇さんとお別れしてから半月ほど経っています。その時計の8時は夜を指しています」

 すべてが終わってから半月。なぜ今、意識をもってここに存在しているのだろう。理解に苦しむ状況だった。


 きっと何かが起ころうとしているにちがいない。き起こる得体のしれない不安に、私はちいさく頭を振った。


「なぜ意識を持っているのか不思議に感じますか?」

 言葉は相変わらず丁寧だけれど、やはり好きになれない人だった。そして今は、空恐ろしい感じすらする。わたしは何かの実験台にされるのではないのか。


 わたしは、「はい」と頷いた。


「汗は、気化熱を利用したもの。それはご存知ですね」

「ええ、はい。平熱を保つため、ですね」


 この人はいったい何をしようとしているのか。彼はもうそばにいない。助けを求める人はいないのだ。


「それは成功しました。もっとも人間のかく汗とは成分が違いましたが、あなたはほぼ完ぺきに人に近づきました。しかし、五感、すなわち視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚のうち、味覚だけは不完全なままでした」同意を求めるようにじっと視線を合わせてきた。


「はい。美味しくなかったです」視線を避けるように頷いた。


「この技術はペットで応用されるのでそれでもいいのですが、私は人と同じ味覚を追求しました。それはこの半年ほどの内に、かなり自信の持てるところまで漕ぎつけました」

 ごそごそとかばんの中から取り出したのはレジ袋だった。


「甘味・塩味・酸味・苦味・うま味。これが五味というのはご存知でしょう。それに加えて、第六の味覚と呼ばれる脂肪味も判別できるように仕上がっているはずです」


「しぼうみ、ですか?」

「脂質、脂肪のあぶらです。脂っこいものは好きですか?」

「いえ、あまり好みません」


「そうですか。ここには脂肪味を感じるようなものはありませんが。さ、これを食べてみてください。あ、テーブルを持ってきましょう」

 部屋の隅にあった折り畳み式の小さなテーブルを運び、高瀬が乗せたのはアーモンドチョコレートだった。


 恐ろしいことではなさそうでほっと胸をなでおろした。味覚の研究の続きのようだ。そのために私は、ふたたびこの体に戻されたのだろう。けれど、実験台であることに変わりはなかった。それを考えると、気が進まなかった。


 目覚めたとて、わたしはもうどこへも行けないのだ。わたしがここに存在している理由は、味覚の実験台に過ぎない。


 人として存在した尊厳さえ奪われたわたしは囚われのモルモットだ。羽をむしり取られ、虫かごの中で芋虫のようにのたうつ蝶だ。


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