第18話 トレーニング
「彼女はここでトレーニングを受けました」高瀬が右手を肩口に広げた。
「歩くことや走ること。階段の上り下り。転がることやジャンプすること。物を投げること、背伸びをすること。
箸やフォークナイフを使って食事をすること、スプーンでスープを飲むこと。言うまでもないことですが──」高瀬が眉間に深い皺を寄せた。「彼女は食事のトレーニングをもっとも嫌がりました」
瞬間、僕の体は鞭で打たれたようにビクリと震えた。固く目を閉じ、
「それから本を読むこと。彼女は読書をとても楽しみにしていました。映画を見て笑うこと、悲しむこと。怒りを持つこと。普通の人間ならできるすべてのこと。
──近くの公園でブランコも漕ぎましたし、滑り台も滑りました。
滑り台の上で真剣な目をして、それでも自由にならない体が怖くて、寒さに凍える幼い子供みたいに、手すりを両手でつかみ膝をガクガクと震わせていました。そんな彼女に私が出さなければならなかった指示は、滑りなさい、でした。私はこのプロジェクトを心底呪いました。
当初はぎこちなかったそれらがスムーズにできるようになるのに、三ヶ月を要しました。私は彼女に、疲れる、というメカニズムも与えました。だから彼女は、訓練の終わりにはいつも疲れ切っていました。それでも弱音を吐かずに頑張りました。今となれば声は届きませんが、どうぞ
美玖、僕は君の苦労を何ひとつわかってはいなかった。高瀬の肩の向こうで、掛け時計が午後のニ時を指した。
僕はただ、小鳥のさえずりすら聞こえない迷宮の深い森に迷い込み、己の愚かさに胸を震わせていた。
「やがてこの技術はペットで実現するでしょう。余命の少ないペットの記憶を移し替えることで蘇ることができるのです。これは、最初で最後の試みでした。ZRRO ONEは永遠に封印されます。なぜだかわかりますか?」
思わぬ質問に僕は首を横に振った。
「人類が不死になってはならないからです」噛んで含めるように高瀬は口にする。
「生きとし生けるものはすべて、
高瀬は、僕を
彼女の変化に、僕はまったく気づかなかった。それが、この高瀬の技術だとしたら、おどろくべきことだった。
「だからこれは、永遠に封印されるのです。もしもこれが外部に漏れたら、私はどこぞやの国の腐った金持ちに
ひとつのことが
「彼女はどうなるのでしょう」質問を発した自分の声が遠くに聞こえた。僕の意思では、もうどうにもならないことなのだ。
「大切に保管されます」
「服は着せてもらえるのでしょうか」これが一番気がかりだった。
「ああ、そうですね。一部強い反対意見を口にしそうな人がいますが、それは私が何とかします」
「お願いします」僕は深く頭を下げた。
それでもやはり浮遊感は消えることなく、僕の体と心をほんの少し、地上から浮かせていた。
もうあり得ない状況だったけれど、
高瀬の言葉が嘘ではないだろうことは、心が拒みながらも呑み込まざるを得なかった。しかし、事実として受け止めてはいても、感情が処理することを拒んだ。
さっきまで一瞬にいた彼女は、僕の前に二度と姿を現すことはない。買い物をして帰ろう、そういっていたあの部屋に一緒に帰ることはない。その現実は受け止め難く重い。浮かんでいた僕の体は、恐ろしい重力で床に押し付けられた。
美玖を返してくださいと叫ぶほど子供ではなかったけれど、27歳という年齢は、すべてをあきらめで受け入れるほど大人でもなかった。
こんな終わりが来るとは知らず、いつまでも続くと疑わなかったもの。もしもこれを愛と呼ぶのなら、愛とはなんと無残なものなのだろう。
彼女に負担を掛けた僕が、一番悪い人間だった。僕が一番、往生際の悪いダメ人間だった。
「門脇さん、もちろん覚えてはいないでしょうが、あなたはひとつ名言を残しました」
「名言──ですか」
「ここを出た日、私は出口までお見送りをしました。そこで、ふと戻ってきたあなたが、私に顔を寄せたのです。このプロジェクトの内容と私の提案に同意していたにもかかわらず、あなたは言いました。『ふたりの行き先にどんな行き止まりがこようとも、僕は彼女を離さない。どんなことがあろうとも絶対に離さない。引き離しに来たそのときは高瀬さん、僕はあなたを殺しに来る』。あなたみたいなやさし気な人からのあのセリフは胸に刺さりました」
何のことはない。僕はただの大嘘つきになった。
「門脇さん、私はあなたみたいな人が正直好きです。最後に、お会いになりますか?」
「会えるんですか⁉」
「未練が残らないように、すっぱり。そう決めていたのですが……彼女は横たわっています。死んでいるのでも、眠っているのでもなく、機能を止めて、ただ横たわっています。一切の反応はしません。それでよければ、会いますか」
「はい。お願いします!」僕は前のめりになった。
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