第12話 恋に落ちる
思い出をたくさん作ろう。それがふたりで決めたことだった。運よく命長らえたのだから、それでも、いつ何が起こるか分からないのだからと。
「プールもいいけど、今年の夏は海に行きたい」わたしの提案に、彼は大きく頷いた。
大事なことを忘れてしまった彼が哀れにも思えるし、自分がひとりでこれを抱えているという
『人の心は
高瀬さんの提案をわたしが選択し、それに彼が同意した形になるけれど、今となれば、どうにも彼を騙しているようで、
もうひとつの道もあったのだ。ふたりがすべてを理解した上で、限られた大切な時間を、いつくしみながら過ごすという道も。
しかし、この選択には大きな落とし穴があった。彼が、時間に限りがあることを、忘れてしまうという深い穴が。
ふたりの選んだこの道は、間違えてはいなかっただろうか。
「じゃあ、湘南にでも行く? 茅ケ崎とかさ。あ、でもあそこ、きれいじゃないからなあ」
腕を組み、ドサリと椅子にもたれて蕎麦屋の天井を見上げた。その姿勢のまま顎をポリポリと掻いている。擦り切れたジーンズに肩までまくったTシャツ。
図書館にやってくる彼も、いつもこんな風だった。つむじ辺りの髪の毛が跳ねていることも珍しくなくて、どこか、ぬぼーっとして見えた。真夏になったら、ジーンズがハーフのカーゴパンツとスポーツサンダルに変わったりするのは今も変わらない。
見た目は悪くないのだから、もう少しおしゃれをすればいいのにと思うけれど、無頓着だ。いや、わたしが
それがある日、たまたま仕事に出かける彼を見かけたのだ。スーツにネクタイ姿で足早に歩くその姿は同一人物かと目を
実際のところは寝坊して、ものすごくキリリとした顔で歩いていただけなのかもしれないけれど、ギャップは人の心をかき乱すものと相場が決まっている。そしてわたしは、ものの見事に、落ちるべきものに落ちた。
あの日を忘れない。彼がわたしの目の前に立った日だ。彼は袋をぶら下げてうろうろとしていた。それも落ち着きのない顔で。やがて棚から本を取り出して読み始めた。その目がわたしをチラチラと見ているようで胸が高鳴った。
『ずっとあなたが好きでした』なんて、告白されちゃったらどうしよう。待ってましたとばかり食いついたらみっともないし、変に引き延ばして逃してしまったら、後悔の嵐が吹き荒れる。
手が空いたわたしを、チラ見ではなく正面切って彼が見た。来る! とそこに不幸が訪れるのは世の常である。今度は違う人が近づいてきた。おじさんキラーと呼ばれた癒やし系ベルベットスマイルが、年配者をグイグイと引き寄せてしまうのだ。
おじさんの姿を認めた彼が、こちらに向かおうとした足を止めた。その顔に無念さを
辛抱しておじさん。今のわたしはそれどころじゃないのよ。隣のカウンターだって空いてるでしょう。そっちの方が明らかに近いでしょう。願いも虚しく、おじさんはますますにこやかさを増して歩み寄ってくる。
待っておじさん、そんなご無体な……。気が動転したわたしは、思いもよらない行動をとった。彼に向けてビュッと、空手の
驚いたようにおじさんは立ち止まり、そして彼は、わたしとおじさん双方の顔を確認するやいなや、悪事の現場から逃げ去る
彼の口から出たのは、図書館の本をなくしたというものだった。思い望んだ告白ではなかったけれど、しかしこれは、自分を印象付けるには願ってもないシチュエーションだった。だって彼は明らかに、わたしの手が空くのを待っていたようにしか見えなかったからだ。
心が浮き立ったわたしは、知的に見えるようにセルフレームの眼鏡をちょっと押し上げた。
彼の連絡先を、何がなんでも手にいれなくてはならない。頭を使え美玖。
目にも鮮やか耳にも驚きなギャグのひとつもぶちかませ! チャンスの女神よ、どうかわたしに微笑み
「ううん、どこでもいいのよ。泳ぎたいわけじゃないから。海が見たいの、海の匂いを感じたいの、涼ちゃんと一緒に」
「そうだ、千葉もよくない? 九十九里とか、行ったことないけど銚子とかどう? 行き先は美玖に任せるけど、旅行雑誌買ってさ」
涼ちゃんと一緒に、に、もっと熱く喰いつきなさい。
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