第10話 余命宣告
実家の連絡先を尋ねることはできない。その理由を問われることははっきりしているからだ。もしそれを訊かれなかったとしても、いらぬ
彼女は聡明だ。頭の回転が速い。嘘の裏側を読んで受け答えをされたら、僕は負けてしまうだろう。しかし、それでいいのだろうか。父母にとって彼女はかけがえのない家族だ。それに引きかえ僕はどうだ、恋人は──家族はおろか、親族ですらない。
──って知ってる?
それが、トントンと僕の手の甲を指先で叩きながら、ふんふんと歌っている鼻歌のタイトルのことだとわかるのにちょっと時間がかかった。
「あ──知らないかも」
実のところは、その歌を知っているかどうかさえ定かではないのだけれど。
「涼ちゃん疲れてる? なんだか虚ろ」
「そう?」
「帰ったら聴こうよ一緒に。いい歌なんだよ」
「そ──そうだね」僕は微笑みかけた。
彼女はこんな場面で鼻歌なんて歌うひとだったろうか──長々と時間のかかった検査結果を待つベッドの上で。
なおも鼻歌を続ける彼女を見つめた。何かに感づいたかもしれないその顔を──。歌はやはり、僕の知らないもののようだった。
『御親族の方ですか』
『いえ』
『親族の方を呼んでください』
僕と彼女にとって恐ろしいものが、そこに待ち受けていることを察した。
『婚約者です』
世間的な手順をそう呼ぶのなら、僕は嘘をついた。
『そうですか』
担当の医師は痛ましそうに眉を曲げて頷いた。
『彼女には告知しないでくれませんか』
『それはもちろん、私の決めることではありません。最前は尽くしますが……』医師は軽く首を振った。
「親には電話した?」
「ううん、心配させるだけだから」
飲み込んだ唾液が喉元と耳の奥で音を立てた。彼女の両親に伝えなければならない。でなければ僕はひどい罪を犯すことになる。
産声を上げたとき、おくるみに包まれたとき。お座りができた日、ハイハイをした日。ものにつかまり初めて立った日、よちよちと歩いた日。
過ぎてきたそんな日々を、彼女を育てた父母は知っている。それに引きかえ僕は何も知らない。だから僕には、知らせる義務がある。
「そんなことないよ。僕が電話してあげようか」
「かえってびっくりしちゃうよ。涼ちゃんのこと誰も知らないんだから」微笑んだ後、「そのうちね」と目を細め、また、ふんふんと鼻歌が始まった。
美玖に尋ねることはやはりできない。彼女の勤める図書館なら、事情を話せば教えてもらえるかもしれない。
僕はなぜこんなことをしているのだろう。どうしてこんなことになってしまったのだろう。彼女の両親に、娘の余命を知らせる手段を探すなんて──。
「門脇さん」声に振り向くと、とてもよくしてくれる若い女性看護師さんだった。
「先生がお話ししたいことがあるそうですけど、お時間大丈夫ですか?」
「あ、はい」椅子から腰を浮かせた。
話とは何だろう。これ以上の悪いことなどこの世に存在するのだろうか。
「一之瀬さん」微笑みを浮かべながらベッドに近づいてくる。
「はい」美玖も目元に笑みを浮かべた。
「お加減はいかがですか」
「ええ、寝てばかりですけど」美玖が笑った。
「いいんですよ、いいんですよ。眠かったら寝てていいんですよ。寝る子は育ちます」
「だったら、もうすこし身長が欲しいです」美玖はくすっと笑った。
やぱり気づいたのかもしれない。それは僕の心に重くのしかかった。
看護師は笑みを浮かべたまま僕を促すように小さく頷き、僕もそれに応えるように顎を引いた。
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