第9話 立ちすくむ水際(みぎわ)

 消毒液や薬品の匂いが漂う廊下。天井に埋め込まれたシーリングライト。医療用ラックの移動音に脇へとよけ、壁に続く手すりを掴んでため息をついた。やがてナースシューズがキュッと音鳴りをさせて、ストレッチャーも過ぎていく。


 僕は夢の中を歩いていた。耳に届くすべての音が、遠い場所からうねるように聞こえてくる。あらゆる風景が見たこともない不自然な光を弾き、伽藍洞がらんどうの頭はすべての思考を止め、そのくせ心は、どろりと重いもので溢れそうになっている。


 大丈夫ですか。誰かの声。大丈夫ですと、たぶん僕の声。

 体が重力に逆らう力を失い、膝からくずおれそうだった。立ち止まり、両膝に手を突き、リノリウムの床にある自分の靴先を見つめた。


 ゆっくりと息を吸い、ふぅと吐いた。世界が根底から揺さぶられて、まるで微弱な大地の振動をこの身に受け続けているように、胸も息も震えていた。むりやり体を起こして直立した。微笑まなくては。いつものような笑い顔を作ったつもりだったけれど、それは頬を歪めただけのようにしか感じなかった。


 腕時計を見た。確認した腕を下ろした途端、時刻がわかっていないことに気づきふたたび時計を見る。何時だろう、今──何時なんだろう。その長針と短針が作り出す角度をまるで認識できない自分がいた。


 もう一度強く息を吐き、気持ちを引き締め、顔を上げ、重たい足を引きずるように歩き始めた。けれど世界は変わらず揺れて歪んでいた。

 静かにドアを開けると、ベッドに横たわる彼女は眠っているようだった。その寝顔は場違いなほどに穏やかで、それがいっそう、僕の心を押しつぶしそうだった。


 弱い日差しが掛け布団の足元を照らしている。少し開いた病室の窓から、風に揺れる庭木が葉擦れの音をさせた。

 息をひそめて歩み寄った。長いまつげにかかる髪を手でき、頬を撫で、折りたたみ椅子に腰を下ろした。胸元に乗せられ規則的に上下する手の甲に、手のひらを重ねる。いつもと変わらずすべらな手だった。


 美玖、帰ろうもう。僕は呟いた。あの部屋に帰れば、すべてが元通りになる。そんな気がして。


 遠くカンカン・カンカンと聞こえてくるのは、鎮火後の消防車の警鐘けいしょうだろうか。こんな風に、彼女の病も消えてしまえばいいのに。どうしてこんなことが起こるのだろう。彼女がどんな悪いことをしたというのだろう。いつもより白さを増したその顔が涙でにじみ、漏れそうになった嗚咽おえつに口元を押さえた。


 あぁ、という少ししわがれた声とともに、彼女が目じりを指先で拭った。

「寝ちゃってた──どうしたの?」

 おどろいたように彼女の手が伸びてきた。りょうちゃん、枕から頭を上げて僕の頬に親指を滑らせた。

「欠伸した」どられぬようについた嘘は、彼女の顔を滲ませたままだった。

「病人は寝てていいんだよ。頑張って治そうな美玖」僕は辛うじて微笑みかけた。


 目に染みるような白い枕と白い掛け布団の中の小さな顔は、はい、とあごを引くように頷き、力のない笑みを浮かべた。


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