第8話 池の鯉

「高瀬君、どうだね」男の右手先の動きで、ソファに腰を下ろした。


 たとえば目の前の池に立派に肥えた鯉が泳いでいて、その鯉にエサでもまいているとしたらしっくりくる手の動きだ。最初は飛んでいるハエでも追い払ったのかと思った。これが座り給えだから、慣れるまで戸惑ったものだ。


「詰めの部分にまだ納得が……」組んだ両手の肘を膝に付いた。

 男はゆるりと椅子を回し背後の窓に目をやった。話の途中で背中を向けるとは、無礼にもほどがある。小さなため息の後、しばし重い沈黙が所長室に流れた。


「詰めが上手くいかないか。納得などという言葉を並べると体裁はいいが、要は未完成ということだろう? 出来てないということだろう? それは困るねぇ、実に困る」椅子と視線を戻した男は不愉快そうに眉を曲げた。


 こうも簡単に口にするのは、このプロジェクトの繊細さをまるで理解していないからだ。始末の悪いことに、この男は科学者でもない。


「とにかく、急ぎたまえ」

いては事を仕損じます」

 ZERO ONE のためにも、最後までできうる限りの改良を加えなければならない。


「君は孫子の兵法を知っているか? 『故に兵は拙速せっそくを聞く、未だ功の久しきを ざるなり』だ。作戦を練るのに時間をかけすぎちゃいかん。少々まずい作戦でもすばやく行動して勝利を得ることが大切なんだよ」

「これは、勝つためのものではありません。何より完成度を高めることが重要なのです」


「君は」眉間を険しくしたと同時に、ふんッと鼻が鳴った。「扱いにくい男だな」

「そうですか? 自分ではそうは思いませんが」


「そこにいるのが君でなければ、とっくに首が飛んでるよ」男はふたたび椅子を回して横顔を見せた。

「もう帰りたまえ。とにかく仕上げを急ぐことだ」


 軽いため息が出た。こんな男がトップに座ってしまったのは、やはり背後にある資金力だ。それがなければ自由に研究もできないのは事実だが、その先にあるものが利益の追求でしかないことが、現場からうとまれる理由のひとつだ。


「あなたにそれだけの力と勇気があればどうぞご自由に。そのときは全員を連れて出ていくだけです。止めても無駄ですよ。誰も残りません」ソファから腰を上げ、形だけ頭を下げた。

 笑ったのか怒りがこみ上げたのか、男の肩がわずかに揺れた。


「池でも作って鯉を泳がせましょうか? 床に穴でも掘って」

 男の反応を待たずに踵を返した。


「は? 何の意味だ」

 間の抜けた声を背中で聞いた。


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