第12話二束三文

 今日はこの辺にしておこう。


 矢印を左上に持っていって、上書き保存のボタンを押す。カーソルがクルクルと回って、今日書いた文字たちが、メモリに記憶されていった。


 今日はよく書けた。安心したのか、ため息が出た。これなら締切にも間に合いそうだ。カレンダーの日付を確認する。あと10日。もう少しで最終章を書き終える。あとは推敲して、誤字脱字のチェックをすれば終わりだ。


 時計を見る。もう0時だ。明日も仕事だから、もう寝なくちゃいけない。

 本当はずっと書いていたい。でもそういうわけにもいかない。自分のためだ。書くことは好きだけど、僕は書くと同時に何か、自分の大切なものを少しずつ削り取っている気がする。多分、創作ってそういうものだ。無傷で創り出すことなんてできない。それに僕はそんな、歪な自分を愛している。


 上手に書けた日は心地がいい。窓から入ってくる、生ぬるい夜の匂いがきちんとわかる。向かいの花壇に咲いた花の匂い、日中の太陽で炙られたコンクリートの匂い、排気ガスが寝静まった匂い。窓から柔らかい風に乗って、世界が内側に入ってくる。逆に余裕が無くなってくると、身の回りの香りが少しずつ消えていく。


 パソコンを閉じるとふと、背後から異質な匂いがした。


 自分の匂いだ。


 それは柔軟剤の匂いと、シャンプーの匂いをごちゃ混ぜにしたような、そんな化学的な匂いじゃない。自分のもっと動物的な、細い匂いだった。


 恐る恐る後ろを振り返る。


「やあ」


 たじろぐ。自分の部屋の窓際に、知らないおじさんが座っている。緑のジャケットに、色の褪せたジーンズ、どこにでも売っている、好んで履く人なんていなさそうな、センスの悪いしましまの靴下。

 でも同時に、少しほっとした。またお前か。この不思議な現象は、今日が初めてじゃない。疲れている日に限って、おじさんは現れる。今日はそんなことないと思ったんだけどな。


「何しにきたの」

「まあまあ。とりあえずお疲れ様」

「……また僕の作ったものを、ゴミにしに来たのか?」

「いきなりそんな怖いこと言うなよ」


 睨みつけると、おじさんは戯けた表情で話した。


「また執筆してるのか?今日はどこまで書いたんだ?」

「またその話か。もう帰ってくれよ。僕は忙しいんだ」


 おじさんは疲れたように笑った。月日が溶け込んだシミだらけの肌がくしゃっと縒れる。

 苛々する。どうしても彼には強く当たってしまう。普段意識の裏側に隠しているものを、彼はご丁寧に引っ張り出してくる。


「あんまり自分を忙殺するな。人生楽しくないぞ。もっと余裕を持った方がいい。それに邪険にしないでくれ。せっかく来たんだからさ」

「せっかく来たって、なに言ってんだ。どうせまたあの話だろ?……執筆はやめろって、そう言いにきたんだろ?」


 おじさんは笑うのをやめなかった。だけど濁った目の奥が、作り物のように固まってしまった。


「なんで分かるんだ?」

「お前はそれしか言わないじゃないか」

「ハハハッ……そうだな。結局言いたいのはそれなんだ…でも本当はもっと、色んな話がしたい。例えばほら…彼女とは上手くやってるか?」


 不意の質問に、言葉が詰まった。おじさんはなんでも知っている。だから余計にタチが悪い。


「今週もデートに行かなかっただろ?いくら締切間近だからって、あんまり構ってあげないと彼女、泣くぞ」


「分かった分かった。来週は遊びに行くから…」


 不思議な空気だった。色んな匂いが混じっている。自分の汗の匂い。夜の匂い。おじさんの透明な匂い。全部が時計の針の音と一緒に、不安と滑り落ちていく。


「なあ……本当に、やめないのか…?」


 しばらく沈黙した後、絞り出されたおじさんの声に、ごくりと唾を飲む。


「ごめん…やめられないんだ……」


 おじさんはもう笑っていない。まるで子を心配する母親みたいに、僕を憐れむように見ていた。そうだ。おじさんは母だったかもしれない。あるいは、父だったかもしれない。もしかしたら、彼女かもしれない。気にしていない訳がない。僕はみんなに、馬鹿にされているのかもしれない。


「本当に、それでいいのか…?」


 おじさんはいつも同じことを僕に聞いてくる。それに対して僕はいつも、同じように返す。


「うん…いいんだ……僕は小説が書きたい」



 そうだ。自分でも分かっているんだ。僕は小説が書きたい。でも、だから、おじさんなんかが現れる。

 小さい頃から書くことが好きだった。いや、書かなければいけなかった。言葉が溢れて溢れて、僕は溺れてしまいそうだった。書きたくて仕方がなかった。そして、何より書くことが楽しかった。小さい頃は、言葉と一緒にどこまでも行けた。見たこともない場所、心が飛び跳ねるような冒険、知らないこと、知りたいこと、読み取ることのできる全部が言葉の素晴らしさのように思えた。僕は言葉が好きだった。


 小学生になった。僕は、文章を書くのが得意なのだと知った。


 周りと比べることを知ったのだ。人より自分が優れていること。僕にとってそれは、間違いなく言葉の世界だった。言葉がまた好きになった。同時に、言葉以外はあまり好きではなくなっていった。

 高校生になる頃には、僕が持っている武器は、言葉だけになった。中にはいくつも武器を持っている人もいる。でも僕には、言葉しかなかった。小説に救われていた。


 書きたいと思うのは、もう空腹を満たしたいと思うのと同じくらい、僕の近くにあった。


 そして不意に、小説家になりたいと思った。


 僕は書いた。そして、これだと思った。書き出したら止まらなかった。次々書けた。周りから匂いが消えていくくらいに書いた。全部を注ぎ込んだ。苦しいこと、悲しいこと、辛いこと、全部を使って書く。嬉しいこと、楽しいこと、素敵なことも周りの人間も、全部使って書いた。体験も、感覚も全部売り払った。書いて、書いて、書いて、書いた。


 だけど、駄目だった。


 悔しいけど、どこまで書いても、僕は小説家にはなれなかった。書くことに本気で向き合って、ようやく気がついた。僕は多分、小説家に、向いていない。


 いや、もちろん期待している部分はある。でももっと深い部分が、不安で覆われている。僕は小説が好きだ。小説を愛している。だから、わかる。僕には何かが足りない。文章もそれなりに書けるし、お話だって、そんなに悪くはない。

 でも、何かが違う。好きだからこそ思う。もしかしたら僕は、駄目かもしれない。不安な気持ちを抑え込んでも、いつもそんな言葉が淡く、重たく響いている。


 体がほてる。おじさんは嫌いだ。だって彼は僕の隠しているものを、いつも引っ張り出してくる。


 このまま書き続けて、僕は、小説家になれるだろうか?いつか、本当に、なれるだろうか?僕はいつか、自分の足りないものを埋められるだろうか?いつか、自分を救ってやれるだろうか?


 今日こうやって、どうしようもなく泣いている僕を、僕は救ってあげられるだろうか?


 僕が小説に費やした時間も、感情も、僕は全てを無駄にしてしまうんじゃないか。

 時々そんな思いが強烈に自分の中に溢れてくる。怖い。とてつもなく怖い。怖い、怖い、怖い。本当は怖くてたまらない。全部無駄だったらどうしよう。全部駄目だったらどうしよう。何も残せなかったらどうしよう。やっぱり不安なんだ。僕はどうしようもなく弱い。そんな時、決まっておじさんが現れる。


「ねぇ、おじさん。僕はもう、やめた方がいいのかな」


 ふと問いかける。ねえ、おじさん。僕は知っているんだよ。あなたは僕なんだ。わざわざ未来から、止めに来てくれたんだろう?僕は、一生報われないかもしれない。分かっている。全部を注ぎ込んで、全部を無駄にするより、もう、やめてしまった方がいいって、その方が僕のためだと言いに来てくれたんだよね?


 でも言えなかったんだ。僕は小説が好きだから。本当に好きだから。それは僕が一番知っている。ねえおじさん、教えてよ。今でもあなたは小説が好きですか?何十年かけて、何も残せなくても、あなたはまだ小説が好きですか?


 僕は書いていて、いいんでしょうか?


 振り返ると、おじさんはもういなかった。部屋にはもう、何の匂いも残っていない。


 聞いたって仕方ないんだ。彼は未来の僕なんだから。いや、もしかしたら自分が作り出した、ただの幻想かもしれない。


 いくら虚勢を張っても、本当は不安なんだ。自分のことを信じてはいるけど、やっぱり怖い。一生このままだったらどうしようって、いつもどこかで思っている。


 ねえ、僕。僕は、それでも書くしかないよね。


 それでしか答えられない。そう言い聞かせてなんとか今日も書く。


 僕は小説が好きだから。


 ねえおじさん。あんなことを言わせてごめんね。未来のことなんてわからない。もっと自分を信じられたら。もっと僕が強かったら。きっとあなたは頑張れと励ましてくれた。おじさんは、僕の弱さそのものだ。

 でも、本当は言って欲しかった。あなたが本当に未来からやって来たなら。例えそうでなくても。結果がどうであれ、言って欲しかったよ。何も残せなくても、それでも。


「本当にいいのか?」じゃなくて、「書き続けてくれて、ありがとう」って。




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 二束三文という曲が好きで書きました。

 私は小説でプロを目指してないけど、本気で何かを目指している時ってこんな感じですよね。

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