第11話ある日、飯が食えなくなった
不味い、不味すぎる。
ある日、突然飯が食えなくなった。
料理人なんかになったからだ。いつも後悔している。美味そうな飯を見る度に、食事する度に思うのだ。
俺には何が足りないのか。
そもそも料理人なんかになったのは、不味い飯を作る父親のせいだった。料理なんてしたことの無い父親が作る飯は、甘くてはいけないものが甘かったり、黒くてはいけないものが黒かったりした。
さらに、そもそも父親が不味い飯を作るようになったのは、母親が蒸発したせいだった。
俺が9つの時だった。よく昼間にこっそりうちに来てた男と、ある日突然、どっかに消えた。普段の母を見ていれば、理由なんて容易に想像できた。
母親のことは正直よく覚えていない。ただ、飯が美味かった。味は覚えてないのに、毎晩夜ご飯を楽しみにしていたことだけ、その感覚だけは鮮明に覚えている。
寂しかった。
母が消えてから、俺の食えるものはおにぎりだけになった。
どんなに料理が下手な父親だって、おにぎりぐらいは握れる。そりゃそうだ。握った米に塩をかけるだけだからな。
俺の世界から大事なものがなくなった。
大好きなものも、美味しいものも、突然消えた。空虚だった。
だからせめて飯ぐらい、美味いものが食べたかった。
そんな思いで始めた料理だった。
だが案外、この料理が俺を救ってくれた。
いつも遅くまで仕事をして、滅多に話さない父親が、料理だけは褒めてくれた。俺も不味い飯を食わなくて済んだ。
「お前、母さんより上手いんじゃないか?」
そう言われた時、何故だか少し、父に幻滅した。だがまあ、よかった。ちょっと台所に立つだけで、俺は満足感を味わえた。
それから学生時代は飯を作り続けた。
朝も夜も作った。暇だったわけじゃない。少しでも美味いものが食べたかったんだ。美味しいと感じられるだけで、心が満たされるような気がした。
次第に俺は、料理人になりたいと思うようになる。まあ当然か。料理しかやってこなかったんだから。
誰よりも美味い飯が作りたくて、少しでも満たされたくて、俺は必死に腕を磨いた。
俺には料理しかなかった。
料理人になると決めてから、俺はますます真剣に料理と向き合った。
まず味がわからなければ。そう思った俺は、料理人の舌を身につけるために、どこかで外食する度に味を研究した。見た目の美しさを学ぶなら無料でできる。金が無くても、どこかに学びに行く機会がなくても、毎日必死で『料理』に食らいついた。
来る日も来る日も料理した。
その結果がこれだった。
……不味い。
ある日、いつものように夕食を作った時に、そう思った。
昨日食べた飯より、今日の飯が不味くあってたまるか。そんな熱意を持ってご飯を作っていたから、こんなものを作った自分が許せなかった。
一口食べると、なんとも言えない、混濁した味が舌の上に広がった。
なんだこれ?こんなもの、料理じゃない。
まあ、これだけ不味ければ明日は美味いものが作れるだろう。そう思っていた。
が、この日から、俺は壊れていった。
自分の料理が、全くおいしいと思えなくなったのだ。
和食も洋食も中華も、イタリアンでもフレンチでもなんでも、一品も美味いと思えない。どの味付けも物足りない。むしろ味が多すぎてよくわからない。試しに味をシンプルにしても、逆に何を足しても、全く満足できないのだ。
俺が今まで美味いと思っていたものはなんだ…?
飯を不味いと感じる度に、過去の自分が築き上げてきたものを疑いはじめた。
今まで磨いてきた腕は?
感度の良い舌は?
美味いと思っていた自分自身は?
一体何なのか…?
俺は今まで、何をしていたんだろう。
段々わからなくなっていく。
料理ってなんだ?美味いってなんだ?料理人ってなんだろう?
悶々としていたら、1週間で体重が10キロも落ちた。
当然だ。ほとんど飯を食べていないから。俺はみるみる痩せていった。
最初は不味いと思うだけで飯自体は食べられたのに、次第に飲み込めなくなった。食べていないのに、常に満腹感を感じる。おかしい。スカスカの胃なのに、お腹がいっぱいなのだ。
全部壊れ始めた。
お腹は空いていないけれど、何も食べられない。なんだかフラフラする。頭もよく回らないし、身体が怠いから動きたくもない。
一日中布団の中で石みたいにうずくまって、寝れもしないのにうとうとしていた。
飯も作らず、買い物も行かず。
服も着替えず風呂にも入れない。
俺、このまま死ぬのかな。
もう一生、美味い飯、食えないのかな。
ぼうっと汚れた窓の外に広がる昼間を見つめて、ふと、そんな事を思った。
急に焦りと不安を感じ始めた。
なんでこんなことになったんだ?
なんで料理人なんかになろうと思ったんだ?
ぼろぼろの体に反して、頭の声はいつも元気一杯に耳の奥で動き回っている。
父親のせいか?
あいつ、ろくに家事もしないで、俺に全部押し付けて。俺の話なんて、滅多に聞いてくれなかった。
俺、寂しかったんだ。料理なんて本当は好きじゃない。本当は、やりたくなんてなかった。もっと自由に遊びたかった。
いや、そもそもそうなったのは俺たちを捨てた母親のせいじゃないか?
どうして俺を捨てたんだろう。俺、嫌われてたのかな。母さんの飯の味なんて、ほとんど覚えてない。なのに、いつも思う。母さんの飯、美味かったなぁ。もう、一生食えないんだろうなぁ…母さんは、一体どこにいったんだろう…
意識が朧に働くと、いつも決まっておんなじ事を口ずさむ。
足りないんだよ、ずっと足りない。
愛されたい。
涙がつーっと、落ちていった。
何故だろう。俺の何がいけなかったんだろう。
夢を叶えて、料理人になって、俺は何がしたいんだ?
飯の度に修行するような気持ちで、ずっとそのことばっかり考えてきて、それで、なんだ?
俺は布団の中で泣きじゃくった。
涙が溢れて、止まらなかった。
◇◇◇
一体何時間泣いたのか。
目がパンパンに腫れて、頭が痛かった。
外はすっかり夜になっている。もうずっと一人暮らしをしているのに、なんだか父親が帰って来そうな気配がした。
お腹が空いているのだ。
俺は縋るような気持ちで、冷蔵庫に残っていた冷たいご飯で、おにぎりを作った。
塩だけをかけた、シンプルなおにぎりだった。
「いただきます」
一口食べて、また涙が出た。
不味い。不味すぎるんだよ。
言い聞かせるしかなかった。
こんな簡単なモノが、美味しくてたまるか。
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