第10話彼女の仕組み

高校生にとって、時間はお金より大切。


そんな気がしている。わからない。どうせどこかの雑誌や本から吸い込んだ言葉だろう。


しかし現状、勉強に部活に遊び、習い事、塾…時間がいくらあっても足りない。一瞬、一瞬をどれだけ密に詰め合わせて燃やしていけるかというのが、僕たちにとって、いつか青春と呼ばれるであろう毎日の中で最も重要なのは確かだった。


そんな大切な時間を、僕は他人に明け渡している。


僕は吹奏楽部に入っている。圧倒的に女性が多いこの空間。最初は慣れなかったが、そもそも人に慣れていない僕にとってはいつも通りの不安しかなかった。

むしろ「異性である」という1つの高いハードルを噛ませることで、普段教室でしているような決まった誰かと束になって話す面倒な風習よりかは、感覚が麻痺するのか、まだ楽に過ごす事ができた。


さて、そんな圧倒的女性社会の中で、僕は主に愚痴を聞く役をしている。


女性というのは、未だに良くわから無い所が多いけれど、愚痴を言うのが1つの慣習なのかな。そりゃ男だって愚痴は言うさ。でも身近な人のことをそんなにいちいち妬む程、執着しきれないのが男だと思う。まあ人によるのだろうけど。


確かにそういう意味を含んで「女は怖い」だとか言うけれど、自分を包む環境に対して男性より本能的に敏感、と言う意味で僕は解釈している。

そのために愚痴を言う人が多いのかな、というのが、この特異な場所に来てから僕が得た知見だ。


そして、そんな部活の中で、少し気になる女の人ができた。


それは恋心なんかじゃない。もっとドス黒い感情だ。その人が視界に入るだけで、不安が沸々と泡立ってくる。そう言う意味の「気になる」だ。


彼女は周りの環境に対して、人一倍敏感な人間だった。

四六時中、あれが嫌だ、これが嫌だと言っている。人の愚痴が多い女性はこの特殊な環境ではよく見かけたが、彼女はレベルが違う。常に何かが不満なのだ。そしてそれを常に口から吐き出さなければ耐えられないのだろう。いつも何かの愚痴を言っていた。


自分で不幸を集めて、それを吐き出す。あれが嫌だ、これが嫌だ。まるで子どものように、休む間も無く不満を掻き集めてくる。彼女はそうやって不幸を自分の中で循環させなければ、生きていけないらしい。


そんな彼女の周りからは、段々と人が離れていった。当然だよ。元から友達は少ないだろうが、みんな彼女が無意識に発している言葉の刺々しさに耐えられず、それに刺される前に何処かへ消えていく。


僕は不幸なことに彼女と同じ楽器を担当しており、他の人は彼女に関わりたがらないので、必然的に彼女とよく話した。


彼女は今日も、友達や親や先生、僕の知らない人の悪口まで、楽器がその口を塞ぐまで永遠に悪口を言い続けた。


僕は苦笑しながらそれを聞く。そのせいで口元が歪むくらい。骨が痛いくらい。そこまで嫌なら逃げればいいじゃあないか。僕もそう思う。でも、逃げられない。そんなことを気にしだすと、さらに彼女の話は長く、重く感じて、僕の時間はどんどん傷ついていく。僕の聴力は彼女によって腐っていく。


やっと部活が終わって彼女が帰っていくと、他の女子部員たちが哀れな目で僕を見ながら言った。


「ねぇ、よくあんな子の話ずっと聞いとけるね。私絶対無理だわ」


うんうん、そうだね、と周りの女の子たちが頷いた。その場を僕はまた、苦笑いをしながら過ごした。


みんなと別れて一人で電車に乗り込む。

疲れがどっと肩から崩れ落ちて、僕の体に溶けていく。朝、電車を降りてから、ちゃんと深く呼吸をしていなかったことに気付いて、急に気分が悪くなる。


僕だって嫌だよ。人の悪口なんて、聞いてていいことなんかない。でも、どうしても、僕は彼女を振り切ってしまうことができない。

僕は不器用だから、他の人に彼女の重い言葉を託して逃げることなんてできない。それに、なぜか、僕は彼女を放ってはいけない気がしていた。


そもそも彼女は、どうしてあんな風になってしまったのだろうか。


例えば彼女がどうしてあんなにも不安を吸い込んで、それをまた吐いてを繰り返して生きていかなければならないのかを知ったところで、みんなは彼女の相手をしないのだろう。問題は彼女自身と融合してしまっている。引き剥がせば彼女の『部分』が零れ落ちる。


僕は彼女から離れたいという本当の気持ちに蓋をするために、一生懸命彼女を支配する不幸の意味を考えていた。


電車の揺れに、足元は覚束ない。また、呼吸を忘れていたので、意図的に息を吸い込む。


いつもそうだ。自分の中に溢れる感情の相手をしたくなくて、僕はいつも世の中に存在するあらゆる仕組みや意味を深く考えた。そうやって自分に対して息をしていない時間が、僕にとっては一番楽なんだろう。


どうしようもなく、僕は弱い。


でもそういう意味で、僕は彼女に救われている。だって本来僕は自分に割くべき時間を、彼女はほとんど僕から奪ってくれるんだから。なんて無自覚な窃盗だろうか。結局僕も、自分のエゴで彼女と向き合っている訳だ。


ごめんね。


電車に揺られながら目を閉じて、思考を空っぽにしてみようと試みる。


そこには、暗くて、悲しくて、いつも何か足りない僕がいる。自分の周りの真っ暗を吸い込み始めて、途端に息が苦しくなる。


これはいけないと、僕は他人の不幸を横取りする。彼女の不幸について考える。どうしようもない不条理について考える。それを心の中で濾過して、吐き出す。


『あれが嫌だ、これが嫌だ』


はっと、目を覚ます。


そうか、そうだね。


僕は目を開けて、車窓に映る自分を見つめる。

僕はまた、他に熟考できることを探さなくてはならなくなった。

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