第8話汚い汚い
汚い汚い汚い汚い。
洗う。洗う、洗う。何度も洗う。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
「ちょっと…?何やってるの⁈」
水の流れる音を聞いた彼が、洗面所に飛んできた。
それでもやめられない。彼が私の手を掴んでも。何度も何度も何度も洗う。
すると彼は私をぶった。
もう限界だったのだろう。体勢を崩して床に倒れる。そこで私は初めて、洗面台から水が溢れていることに気付いた。よく見ると廊下まで水浸しだ。恐らく千切れた紙が排水口に詰まったのだろう。
彼は急いで蛇口を止めると、私の肩を揺すって言った。
「いい?とりあえずソファで待ってて。何もしないで」
ああ。彼の綺麗な目。黒くて丸くて、綺麗な目。まるで、まるで、まるで…
まるで?
それは何?
涙が出た。どうしても後に言葉が続かないのだ。彼はまた溜息をついて、仕方なく濡れた足のまま私をソファに連れていった。
私が指定された位置でしばらく泣いていると、彼が洗面所から帰還した。泣き疲れた私の横に、もっと疲れた顔をした彼が座った。
「これ、この間の原稿じゃあないの?」
彼は水浸しになった紙を丸めた、直径10センチほどのボールを私に見せた。
きっと洗面台に貼り付いていたものを集めたのだろう。
「うん、そうだよ」
「また、書けないの?」
彼の目が私を覗く。
綺麗で、まん丸な、小さな、目。
それはまるで。
それは、まるで…
…それはまるで宝石。光を綴じ込めて逃がさない。それは蟻の駆体。今にも瞳から這い出してしまいそう。それは深い海の色。どこか知らない場所で、沢山の鱗を包む水の色…
駄目だ、汚い。汚い、汚い…
涙が、溢れた。
「言葉が…言葉が欲しいの…」
彼は寂しそうな顔をした。
「もっと私を突き刺すような言葉が。口にした途端喉まで裂かれるような、みんなをバラバラにしちゃうような、もっと綺麗な言葉が…言葉が…欲しいの…」
「君の言葉はいつでも綺麗だ」
彼は強い口調で私に伝える。
次の言葉は決まっている。
『どうしてそんな風になっちゃったんだよ』
私にもわからない。今年の3月までに結果が出なければ、作家をやめるつもりだった。私たちは生活をしなければならない。お金もいるし、私は彼と普通に暮らす約束をしている。いつまでもこの甘美な地獄を描写している訳にはいかない。
私には肉体があって、精神だけでお墓に行けるわけじゃあない。
でも私の精神はいつも生き急いでいた。私に貼り付いて、いつまでもゆっくり歩いている私を、もっと早く、もっと早くと急かす。私は自分の中の作家に飼われているのだ。こいつが私の主導権を握っている。
もう終わりにしよう。そのつもりだった。
だけど3月を前にして、私は言葉が書けなくなった。最後の最後の公募に出すために書いた、私の、最高の言葉たち。しかしどんな言葉も描写もストーリーも、私を急かすに足りないのだ。何を書いても満足できない。何を書いても綺麗じゃあない。
汚いのだ。汚い、汚い。
どんな言葉も汚く感じる。綺麗な言葉って何?彼が愛していた、私から溢れ出していた、綺麗な言葉。何よ、それ。怖い。
だから、洗った。書きたての原稿用紙3枚を、洗面所で洗った。意味がわからないよね。気が付いたら洗ってたんだ。そんな事しても、何にもならないとわかっている。しかしやめられなかった。怖かったのだ。あまりに汚い言葉が。
「ねえ、一度さ、書くことから離れよう」
彼から発された言葉は意外だった。書くことを、やめる?私が?夢を諦めるのか?
「書くことはいつでもできる。無理にいつまでなんて決めなくていいよ。書けるようになったら、また書きたくなったら、書けばいいじゃあないか」
彼は私の髪を優しく撫でた。
「うん、うん…私、そうする…」
「うん、少し休もう。君は自分の目標に追い詰められている」
「うん、心配かけて、ごめんね…」
「ううん、いいんだよ。コーヒーでも飲もうか?」
私が小さく頷くと、彼は少し微笑んで台所へ消えた。
口ではそう言ったものの、私は書くことをやめることなんてできない。彼に迷惑を掛けているのも、いつも頼ってしまうのもわかっている。でも、書かないなんて、私にはできないのだ。
「はい、どうぞ」
彼がコーヒーを差し出す。
やっぱり、駄目なのだ。
コーヒーを覗き込む。
それは、まるで、まるで、まるで、まるで、まるで、まるで、まるで…
「美味しい?」
頷くより先に、私の中の作家が描写する。
そのせいでこのコーヒーは、とっても汚い、汚い、コーヒー。
ーーーー
こんな状況でも書かなきゃいけないとなると、きっと地獄なんだろうなぁと思います。
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