第7話彼の絵
「彼の絵は素晴らしいですよ」
「ええ、見ましたよ。あんな色彩感覚、どうやったら身に付けられるんでしょうね。この絵とは大違い」
それを聞いて、彼はにっこりと笑った。この展示会に来た人間の誰もが讃えるその絵の前で、彼は、ずっと、笑っていた。
ーーー
半年前の事である。彼はある有名な画塾に通っていた。彼はそこで定期的に開かれる展示会で、いつも上位3名には必ず入賞する秀才だった。誰もが彼の絵の前で唸った。卓越した色彩感覚。それが脳のスクリーンに直接焼き付くような、そんな圧力を伴って見る人に押し寄せる。展示会の中で、彼の絵の前にはいつも人が群がっていた。
そんな彼の友人、Aくんは最近入塾した新人だ。Aくんはどうしても絵に関わる仕事がしたくて、必死に絵を描いていた。Aくんの絵はお世辞にも上手いとは言えなかったが、彼はそれでもそんなAくんの絵が好きだった。色遣いも、大胆さも、表現力も。どれもAくんにしかない美しさが時々垣間見える。それが彼を、Aくんのひとりめのファンにした。
ーーー
「ねえ、夏に展示会があるの、知ってる?」
「知ってるよ。僕は何度か出したことがある」
まだ塾に入ったばかりで展示会に参加したことのなかったAくんが聞いた。
「あれって最優秀賞に選ばれたら、企業推薦とかあるらしいね」
「そうだけど、そんなの本当に稀なことだよ」
Aくんはそれでも目を輝かせていた。デザインの仕事をしたかったAくんにとって、それは夢への近道だった。まだ夢を見ていたAくんが、彼は羨ましかった。
彼は夢を失っている。
絵が好きだった。大好きだった。でもそれじゃあ生活なんてとてもできない。彼は昔から絵を描くのに夢中になっていた。だからこそ、絵の世界で生きることの難しさを痛いほどわかっていた。それでも描いていた。惰性で描いていた。
描くことだけは、やめられなかった。
だからそんな夢を今でも全力で見ているAくんが、少し羨ましかった。同時に、心の中で嘲笑していた。彼はもやもやした羨ましさを、そうやって処理する他なかった。
「応援するよ」
だから彼は、自分の口から出たその言葉が信じられなかった。偽善だろう。それでもAくんは目を輝かせて笑った。
「ありがとう」
ーーー
それから半年、Aくんと彼は絵を描き続けた。そして彼は、どんな時もAくんの絵を褒めた。色んな人に、彼の絵の素晴らしさを伝えた。
Aくんがいるいないに関わらず、彼はAくんの絵を褒めた。
『この絵の何が素晴らしいのか』
実は彼は、直感的な美しさ以外にAくんの絵の良さがわかっていなかった。なのに褒め続けた。自分の行動が汚い感情を核としていることくらい彼は承知の上だった。
3ヶ月もすれば彼が吹聴したAくんの評判は画塾内で少しずつ広まり、Aくんの作品を見る人が増え、その度にAくんはみんなからアドバイスを貰った。Aくんは自分の作風を殺すのがとても早かった。だからどんどん絵が上手になっていった。
Aくんの絵はどんどん変わっていく。その絵のどこが良いのか、彼にはさっぱりわからない。
それでもAくんの夢を応援したかった。そんな言葉が意図せず出てくることさえ気持ち悪く感じて、彼は自分を恥じた。
段々と状況が変わっていく。みんながAくんの絵を見るので、彼は前より指導を貰えることが少なくなっていた。それでも彼は怒ったりしなかった。Aくんに夢中になるあまり彼を指導できず謝る教師に対し、「それより彼を、夢のある彼を見てやってください」と笑った。
さて、半年後、彼はAくんと共に展示会にいた。Aくんの絵にはたくさんの人だかりが、その代わりに彼の絵には人がほとんどいなかった。
Aくんの絵を見た人たちが、それを褒めながら彼の絵の前を通り過ぎる。彼はそんな光景をただ、後ろから静かに見ていた。Aくんはただ嬉しそうだった。
選評が終わり、無事Aくんは最優秀賞に選ばれた。彼が「よかったね」とAくんにかけた声は、推薦に来た人間の声にかき消された。
Aくんは彼に、視線を合わす事すらしなかったし、きっと彼に気付いてもいなかった。
展示会の終了間際、彼は自分の絵の前で立ち止まる女性を見つけた。その人はじいっと、彼の絵に見入っていた。
Aくんの絵に群がる人だかりを横目に、彼女に声をかけた。
「隣の絵は見ないんですか?」
Aくんの絵を指差すと、女性が笑って言った。
「すごい人だかりですね」
「彼の絵は素晴らしいですよ」
「ええ、見ましたよ。あんな色彩感覚、どうやったら身に付けられるんでしょうね。この絵とは大違い」
それを聞いて、彼はにっこりと笑った。
この展示会に来た人間の誰もが讃えるその絵の前で、彼は、ずっと、笑っていた。
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