第6話檻の中の夢
部屋の電気を点ける。
8畳分の灰色。片付いた部屋。部屋の片隅に1メートル四方の、金属の、檻。
「ただいま」
大型犬用の檻の中に、わたしが寝ている。
声を掛けても全く起きない。私は溜息をついて、コンビニで買ってきたオムライスをレンジに突っ込む。テレビをつけるとバラエティーがあまりにも鮮やかな色で喋るので、頭が痛くなった。笑い声が目の表面を滑っていく。ガラスのコップに水道水を汲んで、私は檻の前に立った。
「おはよう」
檻の中のそれは何の反応も見せない。幸せそうに寝ている。
「起きて」
何度も声を掛けるが全く動かない。私の呼吸音だけが響いた。仕方ないのでコップに入った水を檻の中にぶち撒けた。
檻の中の私は目を覚まし、困惑した様子を見せる。何秒か辺りをキョロキョロと見渡すと、何の前触れもなく頓狂な声を上げた。
「起こさないでって言ったじゃん!!!」
「うるさい。ご近所に迷惑でしょう?ほら、食べなさい」
さっき温めたオムライスをスプーンですくって金網越しの口元に持っていく。
檻のわたしは私を睨みつけている。が、しばらくすると大人しく食べ始めた。私はそのまま何度か彼女にスプーンでオムライスをやる。10口ほど食べたところで、彼女はそっぽを向いた。「もういらない」のサインだ。私は再び台所で水を汲み、彼女に差し出す。今度はちゃんと受け取って全て飲み干した。
彼女の食事が終わると、私は椅子に座って残ったオムライスを食べる。大分冷めてしまっている。明るい色のバラエティを見つつ、オムライスを水で流し込んだ。仕事で疲れているので、食べ終わると家事そっちのけで項垂れる。時計が21時になって、TVの番組が切り替わる。
音楽番組が始まった。
司会が淡々とアーティストを紹介する中、視界の中でにやにやと笑う女がいる。
檻の中の私だ。
彼女は歌番組が好きなのだ。それは歌が好きだから。小さい頃から歌うのが大好きで、劇団に入るのが夢だった。だけど彼女にそんな現実は一生来ない。それは、私が嫌がったから。
あの輝く舞台の一部になりたい。それだけが私の夢だった。
だけど私はたくさん傷付いた。わたしは誰より夢を見ていた。夢を、見ていただけだった。一体この人生の中で何を成し遂げただろう?
わたしが歌を歌うたび、人はうるさいと顔をしかめる。わたしが夢を語るたび、周りはもっと現実を見なさいと溜息をかける。わたしより優れた人たちがお前には無理だと、私を壊していく。
それでもわたしは諦めなかった。
歌えなければ生きている意味すら無いと、わたしはいつも思っていた。それがわたしの生まれてきた意味で、わたしの人生だと信じていた。
だって歌うのって、本当に楽しいんだ。
喉を通り抜ける空気に、わたしは色をつけて送り出す。空に交じる声はそこにいるみんなに降り注ぐ。心が震える。手を一杯に広げて、身体の線を音に乗せる。わたしの知らない部分までわたしが伸びていく。周りの空気と一緒になってわたしは振動する。声はどこまでも届く…
ねえ、だからさ、ここから出してよ…
「うるさい」
そんなこと言わないでよ…
「うるさい…」
本当はあなたも、歌いたいんでしょう…?
「うるさい…うるさい…」
そんな仕事をして、何が楽しいの?あなたは何のために、生きているの?
「うるさい!!!!」
私は空になったガラスのコップを檻に叩きつけた。ガラスの破片が散らばる。
「あんたは何にもわかってない!!あんたのせいで、私がどれだけ傷付いたか知ってるの?あんたの痛みは全部私が背負ってる。あんたが生きていけるのも私が頑張ってるおかげでしょう⁈なのに…なのに…あんた…なんなのよ…」
檻の中のわたしは、
「そんなこと言ってさ、いつまでわたしをここに入れておくつもりなの?」
と言って笑った。
その瞬間、わたしは卒倒し、檻の中で寝始めた。やっと水に混ぜておいた薬が効いたようだ。私はほっとしてお風呂に入る準備をする。
最近は医者に処方される薬の量がどんどん増えている。朝と夕方、1日2回に分けてそれを飲み干す。今の私はこの薬が無ければ夜も眠れない。涙が勝手に溢れて、食べた記憶の無い食べ物をトイレに戻す。そしてまた、食べる。味がしない粘土のような食事を詰め込む。
もう限界なのだ。
夢が何とか、そんな事言ってられない。生きていくのに精一杯。それなのに、こいつは、何にもわかってない。
夢を見ている場合ではない。
静かになったわたしを見つめる。
これでいいのだ。私には夢を叶える事なんてできない。どんなに恋焦がれた夢でも。心の底から望んだ夢でも。わたしが私を壊したんだ。
『だったらいっそ、殺してよ』
そんな声が聞こえた気がした。檻を振り返る。わたしは眠ったままだった。幻聴だ。疲れているのだ。今日は早く寝よう。
私はわたしを殺す事なんてできない。
私はわたしを恨んでいても、私はわたしへの恨みに生かされているのだ。
檻の中で幸せそうに眠るわたし。一体何の夢を見ているのだろうか。ふと、わたしの口元が動く。わたしは檻の中で、毎日、何を歌っているのだろうか。
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