第3話一生分の優しさ
僕には妹がいる。
10歳年下の妹だ。名前は楓。母は僕が小学3年生の時に離婚しており、中学3年生の時再婚した。だから妹とは血が繋がっていない。が、楓はすごく愛嬌があって可愛らしい小さな女の子で、初めてうちに来た時には既に、母と本当の親子のように打ち解けていた。
母の再婚。その事実が、僕の生活を一変させた。端的に言うと、肩に何重にも積まれた負担が信じられないほど軽くなって、僕達は幸せになった。
母は父と離婚してから、朝から晩まで働き詰めだった。よくドラマなんかで見る、夜は遅くて、朝は僕より早く家を出るような生活が続いた。偶の休みも母は疲れからよく寝ていて、ろくに遊んでもらった記憶が無い。
が、それでも僕は幸せだった。
だって僕は、生まれた時からそんな状況だった訳じゃないし。少なくとも小学3年生までは母とたくさん遊んだ。家に帰れば母が食卓で準備をしている。休みは家族で海なんかに遊びに行ったこともあった。母との思い出が、僕を支えていた。
嘘だよ。
そんな子供の頃のこと、ほとんど覚えてない。覚えているわけない。でも、きっとそこに幸せな記憶が存在したという事実を頑なに信仰することで、僕は幸せだった。それも嘘だけど。
それに母は仕事が忙しくても、休日には僕とよく話してくれた。印象的だったのは、職場のお局さんの悪口。すごく性格がきつい人がいたみたいで、時間があればその人の悪口を言っていた。
この時だけは、僕は本当に幸せだった。これだけは本当だよ。僕が母のためにできることの、1番早くて堅実な手段。母の苦しい気持ちを、僕が吸収する。スポンジみたいに。できるだけ、母のドス黒い気持ちを休日中に吸い取ってあげる。それが、僕の存在意義だった。その時だけは、自分のせいで必要以上に働かなければならない母へ罪滅ぼしができたようで、気持ちが楽だった。
そして幸運なことに、そんな生活も中学3年生で終わりを迎えた。
母の再婚。それは僕の人生を、文字通り掬い上げてくれる出来事だった。
僕は中学生の頃、自分に自信が無いためか、人付き合いに苦労した。よく仲間外れにされたり、いじめられたりした。苦しかったよ。何度も1人で死んでしまおうと思った。
でも、出来なかった。母に迷惑をかけるから。中学に入った頃には、母に新しい恋人がいることは分かっていた。僕が勝手に自殺なんかすれば、その人が逃げてしまうかもしれない。そう思って、なんとか耐えた。いじめられているという事実すら、母には言わなかった。一言言えば、それに続いて全部流れてしまう。僕の中に本当は流れている言葉達。それを全部飲み込む決意をしていた。
学校でいじめられて、家に帰れば1人。休日は母のためにできるだけ家事をこなして、母の愚痴をありったけ聞く。その繰り返し。
でも、ちゃんと終わった。
父ができて、妹ができて、母は仕事を辞めた。家に帰れば4人。休日は旦那さんが家事を手伝ってくれて、妹の学校での話をみんなで聞く。その繰り返し。
幸せだった。血は繋がって無いけど、僕達には本当の家族のような余裕ができた。
そんな生活が続いた、高校3年生の頃。僕は受験に向けて猛勉強していた。
休日の夜、いつものように温かいご飯を食べながら妹が口を開き、学校での出来事を話し出す。
「私の友達のみきちゃん、最近、いじめられてるんだよね。私、どうしてあげるのがいいんだろう…」
母と父はいつものようにその話題に食いつく。みきちゃんの周りを取り巻く状況に加えて、妹が標的になっていないか、綿密に確認する。
「みきちゃんちはお父さんとお母さんがいつも喧嘩してるんだって。」
聞くところによると、みきちゃんの家族は壊れかけ寸前のようだ。まるでいつかのこの家のようだ。幼いみきちゃんはなす術もなく、毎日苦しい中を生き抜いているらしい。が、現実は非情だ。学校の友達とも上手く行っていないらしい。
「他の人にもいじめはだめだって教えてあげたら?」
母は何とも的外れな指摘を繰り返す。父という名前の人も、それに賛同するように頷いている。
この人たちは傷つけられたことが無いんだろうか。僕はここ数年で沢山傷ついた。その分、母の言っていることがほとんど無意味だとわかってしまった。
それに、母が熱心に楓の話を聞くので、僕は余計に苛々していた。
「そんなの、意味無いよ。」
親子3人の世界に突然僕が口を挟んだので、居間が急に静かになった。
「いじめられてる人は、そんなこと望んで無いよ。もっと、自分の言葉で話せるように誘導してあげなきゃ。」
「いいや、やっぱりすぐに先生に言うべきよ。」
「そんなことして何になるの?話からして、みきちゃんが1番望んでるのは話を聞いてもらうことじゃない?」
すると母はため息をついて、
「あなたに傷ついた人の何がわかるのよ。」
と言った。その後、すぐさま自分が正しいと思ったことを楓に植え付けた。
僕はこの時、母の強い口調で、はっと気付かされた。
あ、この人、母の役割なんて、できないんだろうな。
そうか、そうだよな。
あんなに苦しかった僕を放ったらかしたのは、母だもの。勝手に産み落として、中身が腐っていくのにも気付かないで、放っておいた人間。僕の本当の母は、きっとあの時、父がそのまま連れていってしまったんだろう。
僕は無意識のうちに、母がいつか、苦しかった自分の心を埋葬してくれると信じていた。
『どうか、僕だけに、一生分の優しさをください』
この時、僕は何度も飲み込んでいた言葉が今にも溢れそうなのに気付いて、咄嗟に息を飲み込んだ。涙が沸騰してしまった。堪らず、自分の部屋に駆け込む。
「え?ちょっと、どこ行くの?」
母の声を背中で切って、ドアをバタンと閉めた。僕は何をしているんだろう。
僕達は幸せになった。
そんなわけ無いのだ。僕は優しさを使い果たした。母のために使い果たした。もう自分や誰かを守ることなんてできないのだ。それなのに、どうしても、信じてしまう。母は僕を育ててくれた。大事に育ててくれた。だから、母を恨んではいけない。意味がわからない。
嘘なのだ。僕が作ってきた、頑なに信仰してきた真理の全てが嘘。嘘、嘘、嘘、嘘。嘘ばかり。結局何も報われていないじゃあないか。
皮肉なことに、そんな声は僕の中でしか響かない。母には何も聞こえない。
結局僕は自分の中で、虚構の母を信仰し続けるしかないのだ。
涙が溢れた。
このまま一生、母を守るか、自分を殺すか。
大嫌いな母。それでも、大好きな、母。
全部自分にかかっている。今にも吹き出しそうな僕の中身。息を1つでも漏らせば、今まで溜め込んでいた気持ちが外へ出て、母を、飲み込んでしまう。体を引き千切ってしまう。
「ちょっとどうしたのー?」
心配した母が廊下を通る。
心臓がバクバクする。
『母を守るか、自分を殺すか』
僕は全部を背負った。
その覚悟に潰されるより先に、部屋の扉を開けた。
「あら、そこにいたの。どうしたの?」
僕は一生分の優しさを顔に貼り付けて、笑った。
「いや、なんでもないよ。」
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これは友達の話を元に、友達のために書いた文章なんですが、すごく書きにくかったです。
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