嗤う陰には不遇来たる

 笑いには陰がある。人を傷つけないお笑いがどうのこうのと騒がれていたのを聞いて思うことだ。この不快な意見は見てる側の発言として最悪なものだと言える。


 いじめた方は忘れても、いじめられた方は死ぬまで忘れない。これはいじめの鉄則である。

 皮田わたしは過去、いじめる側もいじめられる側のどちらも経験がある。特にやられる側に立たされた時は相手が同じ部活の同期で、これが苦しかった。放課後にどうやっても顔を合わせなければならない。

 後々お互いが分別を着けて青春時代を全うしたが、やはりどうしても和解前にやられて仕打ちを私は忘れることはないと思う。卒業後も付き合いを続けているが、ふとした拍子に「でもこいつは俺をいじめたロクでもないやつなんだよな」という思いが頭をかすめる。向こうはケロッと忘れて私を遊びになぞ誘ってくる。その無神経さたるや、いやはや。

 そもそも和解のきっかけは私がかなり力づくでやり返したこと、そしてその後、部内で彼をレギュラーから引きずりおろして私が立場を確保したことによる。もし私が彼に屈し続けていたら今頃どうだったか。


 またやる側に回ったときはグループでつまはじきになっているのに対して徹底的に陰口を叩いてやった。暴力などは使わなかったが相手の用紙や性格、その他どんなものでも欠点を穿り出して、面白おかしく悪しざまに貶してやる。

 これがとにかく周囲にウケる。こういう陰口は笑うやつも同罪だ。人の無様なところ、それを見る後ろめたさが加わってより一層滑稽さを強くする。

 皮田もいくらか陰口を叩かれたことがあったろうが、同罪人を生み出した数は誰にも負けなかったはずだ。技巧を凝らした表現で他人を貶めさせることに関しては周囲で右に出る者はおらず、何にも立場を失わさせたものだ。


 さて、話が少し逸れたが、世の中で陰口程度のいじめに加担した経験のないものはいないはずだ。学校のクラスに必ず一人はいるどうしようもないノロマ。そいつを菌扱いして触れたものを汚物のように扱ったり、教科書を隠してうろたえるさまを鑑賞するなど。そういった経験は誰にでもある。

 直接手を出してはいないから自分は悪くないと思っているもの。遠巻きに眺めて学校の帰りに友人と「あれは酷かったな」などと談笑の種にすることは残酷ではないとでも言うのだろうか。そしてクラス替えや卒業と同時にきれいさっぱり忘れ去ってしまう。


 やはり怖いのは女性だ。少し気に食わない人間をキモいだなんだと嘲笑ってケラケラやっていたくせして、素知らぬ顔で可愛いものが好きだとのたまう。可愛いものが好きな自分自身を可愛いと思っている。

 だが連中の言う可愛いはバカにしているのと同義である。やつらがキャイキャイ言っているのは動物や子供などが転んだり失敗している様子だ。当人からしたら嫌な場面。つまり足りていないものを可愛いと言っているのだ。

 この残忍さを可愛いという無敵のオブラートで包んで思う存分バカにしてやっている、これこそまさにいじめの笑いである。そのことに無自覚な連中には反吐が出る思いだ。

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