4章8話 茜色に染まる西洋風の川の岸で、感情が限界を――(3)



「結婚したら当たり前だけど、相手の一族に加わることになるんだよ? そうなれば王都以外にあるその男性の屋敷で暮らすことになるよね? 少なくとも、学院に通うために長期間、王都にいることは難しいはずだ。その領地からしてみれば、領主の妻が長期間不在ってことになるんだから……ッッ」


 おかしな話である。いつの間にか、アリスではなくてロイの方が、より泣きそうになっていた。

 これは今生の別れというわけではない。しかしそれでも、寂しいモノは寂しいのだろう。


 とにもかくにも、ロイは別れというモノに非常に敏感だった。

 特に本人の意思を無視した別れには、自分自身でさえ驚くほどの反発が胸の中で燻ぶり始める。


 一方で、アリスはなんとなくではあるが、ロイのそういうところを感じ取った。

 だからこそ後ろめたさで目を逸らしてしまい、全てを諦めたように言い捨てる。


「――自主退学、でしょうね」

「そんな……っ」


 これはアリスが悩んでいる問題だ。

 だというのに、ロイは自分のことのように愕然として、脚の力が抜けて、そのままその場に崩れ落ちる。まさに茫然自失ぼうぜんじしつの一言であり、ロイの頬には今にも一筋の雫が伝いそうであった。


 逆に、アリスはそのような彼を見て、このような状況なのに、少しだけ幸せを覚えた。

 そして同時に、これはもしかしたら、人生で最後の甘酸っぱい青春の幸せになる。その可能性を大なり小なり理解して――満足した。


 そっか、この人は、私のために泣いてくれるのね、と。

 それが泣きそうになるぐらい嬉しい。このどうしようもない状況の中で、それだけが、アリスにはたった1つの支えのように思えたのだ。


 残酷な本末転倒だろう。

 ロイはアリスに行ってほしくないから涙を流した。だというのに、その涙がアリスに(私のために涙を流してくれる人がいる。それだけで、私はもう、充分よ)と思わせてしまったのである。


「ロイには前にも何回か言ったわよね? 私にはお姉様がいる、って」


 話しかけられても、ロイはなにも返事をしない――否――できない。

 ゴスペルを与えられようと、聖剣に選ばれようと、今の自分はただの子ども。そういう無力感に打ちのめされて、気力が湧いてこなかったのだ。


「シィの部屋で説明したとおり、お姉様はお父様を超えて、政略結婚を回避したわ。だからこそ、お父様は今回の婚約に必死なのよ」


「――――」

「お姉様は全然家にも帰ってこないし、連絡も寄こさない。本当に自由なエルフよ」


「――――」

「あまりこういう言葉は好きじゃないけれど、お姉様は間違いなく天才で、でも、それをコンプレックスを抱くことはなかったわ」


「――――」

「コンプレックスよりも、尊敬や憧れの方が強かったもの」


「……っ、それで、アリスはなにを言いたいの?」

「お姉様にできたことが、私にはできなかった。それはつまり、私がダメだっただけ」


「~~~~っ、違う! 類稀な天才が、偶然にもアリスのお姉さんだっただけじゃないか! 特殊な一例を挙げて、お姉さんはできたからアリスに文句は言わせないなんて……そんなのただの詭弁だよ!」

「でもね、ロイ? イヤなことはイヤだけど、どうにかできるチャンスは確かに存在したのよ。ロイの言っていることもわかるけれど……それはつまり、お姉様がどれだけ特別であろうとなかろうと、私がお父様との約束を守れなかったことには変わりない、ってことじゃないかしら?」


「そんな、ことは……ッッ」

「だから、ロイはもう気にしないで?」


 その瞬間、ロイの心に途轍もない後悔の気持ちが、やたら鮮明に浮かび上がった。

 それは徐々に心を侵食して、自分が自分自身に、どうしようもない無力感を突き付けているようである。


 もしかしたら、自分はここにこない方がよかったのかもしれない。

 結果的には、アリスを追わない方が賢明だったのかもしれない。


 ロイの頭にそういう類の考えが過り始める。

 なぜならロイがこなければアリスは孤独だったが、まだまだ絶望の中で多少なりとも抗ってみせようとしただろう。弱々しくても、抵抗が無意味に終わることが約束されているようなモノでもだ。


 しかし結果的に、ロイが追い付いたせいで、アリスの中に(ロイを心配させないように、結婚を受け入れましょう)(ロイがここまで私のことを想ってくれただけで、私は満足よ)という考えが浮かび上がってきたのだから。


 そのことをロイはすぐに察する。

 当事者なのだ。すぐにわかった。


 だからだろう。

 無力感に叩きのめされながらだろうと、ロイはせめてもの懺悔の気持ちで、アリスに訊いた。


「なにか……っ」


「んっ?」


「なにか、ボクにできることはあるかな?」


 胸が切ない。息が苦しい。悲しくて、やりきれなくて、いつの間にか、ロイの頬は本格的に涙で濡れきっていた。

 ロイは友達と別れるのが心底イヤだった。


 否、イヤなんてレベルではなく、認められなかった。そんな現実、折り合いさえ上手く付けられる自信がなかった。

 それにはロイの『前世』が関係している。


 だが厳密には前世とか現世とか、世界の違いは関係ない。

 この世界で言うところのロイという人格が経験した『とある記憶』、それが今、彼をここまで苦しめている。


 世界を超えてもロイを苦しめる記憶。

 だからロイは罪滅ぼしのように、アリスにそれを訊いたのだ。


「だったら、ロイ、最後まで、私の恋人でいてくれる?」


「――――っ」


「思い出作りよ。学院の人気者と偽物の恋人同士なんて、若者向けの恋愛小説みたいじゃない」


 どうやら、もう、それしかすることが残っていないらしい。

 無論、ロイが頭を捻れば、もっと多くのすべき対策が出てくるはずである。


 だが、アリスにお願いされたことは、ただそれ1つなのだ。

 そして、本人がそれを望んでいるのに無視したら、結局自分まで彼女の父親と同じことをするハメになってしまう。


 聡明さが仇となり、ロイはすぐそのジレンマに気付いた。

 アリスに悪気があったわけでは断じてない。しかしそれは裏を返せば、アリスからはそれしか求められていないことの証明のようにも思える。


 ここでアリスを責めるのは筋違いだ。むしろ責めるべきは彼女の父親以外なら、自分自身しかありえない。

 アリスは優しいからこそ、ロイをこれ以上巻き込まないために、ここでこう言ったのである。すでに迷惑をかけてしまったからこそ、これ以上はダメ。友達のそういう心境をロイが察せられないわけがなかった。


「――――っっ」


 ロイは膝に力を込める。

 そうして、ようやくまともに立ち上がった。


 西の空の彼方にて、茜色の夕日は沈みながらも最後の煌めきを放っている。

 そして東の空は青と紫に染まっていて、まるで影が光を侵食しているようである。

 淡くて、儚くて、どこまでも幻想的すぎるほど幻想的で美しい、茜色と紫と青のグラデーション。


 その空の下で、ロイはアリスと向き合って、約束した。


「わかったよ。ボクは最後まで、キミの恋人であり続ける」


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