4章7話 10時47分 シーリーン、死ぬことを考える、が……(1)



「もうイヤ……ッ! もうイヤもうイヤもうイヤぁぁぁッッ!!! 誰か助けて……ッ! つらいよぉ……、苦しいよぉ……、気持ち悪いよぉ……っ! 誰か……、ロイくん……、助けてよぉ……ッッ!!! ロイくん……っ、ロイくん……っっ、う、ぅぅ……」


 もはや他人が見たら、シーリーンの今の様子は目を覆いたくなるほど悲惨だった。

 完膚なきまでに精神が磨り潰されている。


 もう全てから逃げてしまいたかった。

 もう全てを放り出して、遠い異郷の地にでも行きたかった。


 もう頭がストレスでどうにかなりそうだった。

 一刻も早くロイのもとに帰って抱きしめてもらって、頭を撫でてもらわないと、まるで頭の血管が破裂して死にそうだった。


 無責任でも、誰も自分のことを知らないところにロイと行きたい。

 いや、いっそのこと死ぬまで永遠にロイと2人でいたい。ロイ以外の誰とも会いたくない。


「えぐ、っ……、スンっ……、う、ぅぅ、あぁぁ……、ぐす……、なんで……、なんで! なんでなんでなんで!!? どうしてシィがこんな目に遭わないといけないのぉ……っ!? せっかくロイくんが救ってくれたのにぃ……ッ! せっかく一度は抜け出せたのにぃ……ッ!」


 逃げる、逃げる、逃げる。

 シーリーンは逃げ続ける。


 彼女は涙を零しながら肉体強化の魔術に全力を注いで下山し続けた。

 少しでもロイがいる王都に近付くために。


 無論、彼女だって言われなくてもわかっている。

 フィールドの限界まで行っても、この山は御者の男性の言うとおりなら、普通の空間と階層がズレているから出られないことぐらい。


 詳しい空属性の魔術の話はシーリーンにとって理解不能なモノだったが、彼女だって勉強ができないだけでバカではない。

 たとえ亜空間の話を聞かなかったとしても、普段の彼女なら(戦闘試験でフィールドを無制限にするはずがない。それだと試験官の手に負えなくなっちゃうもん。状況を把握できないと、不測の事態に対応できなくなってしまう。なら、管理のために結界ぐらい展開しているよね?)という結論に行き着いたはずだ。


 なのにシーリーンが今、それを理解していてもフィールドから出ようとする理由は、ただ1つ。

 錯乱状態ゆえに、頭ではわかっていても、それに基づく行動ができなくなっている。論理的に考えて不可能なこと=やってみても意味がないこと、という等式が成り立たなくなっているのだ。


「イジメって悪いことだよね!? 人の心を追い詰めて、その姿を見て嘲笑うことっていけないことだよね!? なのになんでジェレミア卿は平気でそんなことをしようとするの!? そして……ッ! なんでよりにもよってその標的がシィなのぉ……ッ!」


 もう、頭の中がグチャグチャである。

 一応、物事を正確に理解する能力は保てているのに、極めて不安定な精神状態のせいで、理解に反したことを平気で行おうとしてしまう。頭と身体が別々の生き物のようになってしまう。


「神様……っ、ロイくん……っ、怖いよぉ……。つらいよぉ……。シィを救って……。シィを助けてぇ……。神様……、ロイくん……。うぅぅぅ、あ、ぁぁぁ…………」


 逃亡したい。けど逃亡しても、いずれ追い付かれて敗北すれば、ジェレミアなら幻影魔術を使って簡単に自分を強姦できる。

 ジェレミアの奴隷になりたくない。屈服も脅迫も論外だ。けど、それは自らのトラウマと真正面から向き合うを意味する。


 二者択一の状況なのに、どちらもシーリーンにとって絶望的な選択肢だった。

 もし仮に、全てから救われる道が残っているとするなら――、


「……ッ、そうだ。自殺しちゃえば……、っっ」


 ――ロイに身も心を捧げたまま、その生涯に幕を下ろせる。

 内心でそう言葉を続けると、ふと、シーリーンは走るのをやめた。そして膝に両手を付いて乱れた呼吸を繰り返す。


 少し落ち着くと、猫背状態から身体を起こし、シーリーンは右手の人差し指に魔力を込めた。

 さらに虚ろな瞳でそれを呆然と、まるで焦点が定まっていない感じで見続ける。


 人差し指を耳の上らへんに添えて、詠唱を唱えれば楽になれるのだろうか?

 そんな虚しくて意味のないことをシーリーンは考えてしまう。


 だが、意味がないと言うのであれば、今のシーリーンにとっては思考という行為の方が無意味だった。彼女はもう、無意識に支配されていた。

 シーリーンは耳の上らへんに、魔力を込めた右手の人差し指をセットする。


 ――これでいつでも【魔弾】を撃てる。

 ――これでいつでも死ぬことができる。


 ――これで自分の好きなタイミングで、救われる。

 ――これで自分が最期までロイに尽くしたことになる。


 ――自殺することは現実から逃げるということ、なんて言う人も多いけど、なぜつらい現実から逃げてはダメなのか?

 ――みんな頑張っているのはわかるけど、別に、みんな同じ条件で頑張っているわけじゃないじゃないか。


 完璧にシーリーンは追い詰められていた。

 感情が、精神が、心が、壊れてしまった。疲弊しきってしまった。


 最悪の極限状態に身を置くことになってしまい、もう、まともに判断を下せる認知能力さえ残っていない。

 仮に今からジェレミアと戦えるだけの勇気を得たとしても、魔術師同士の戦闘で判断力が皆無なのは致命的ゆえに、勝つことは不可能なはずだ。


 言わずもがな、今のシーリーンは正常ではない。

 どうしようもないほどに気が動転している。

 そして――、


「……っ、ロイくん!」


 力いっぱい目を瞑る。覚悟を決める。意を決する。

 最愛の人の名前を呼ぶと、瞬間、シーリーンの脳裏に彼の笑顔が浮かび上がった。

 いつも自分を癒してくれる、まるで太陽みたいで大好きだったあの笑顔だ。


 そして詠唱零砕、声で魔力場に干渉する代わりに、脳波で魔力場に干渉すると――、

 シーリーンは最後の最後に――、





















『勝っても負けても、ちゃんと無事に帰ってくること! どんな結末になろうと、絶対に、~~~~ッッ、!』

「…………っっ!!!」




 ――ロイではない。

 アリスの言葉を思い出した。


 シーリーンはロイと対等な関係になりたかったのだ。それはつまり、彼がどう思っていようと、彼女の認識において2人は今、対等なパートナーではない、ということになる。

 この戦いを振り返ってみれば自明だろう。シーリーン・エンゲルハルトがロイ・モルゲンロートに見出していたのは常に、保護者とか、神様という立場だった。


 だからだろう。

 この刹那、シーリーンの脳裏に思い浮かんだのは保護者だったロイではなく、親友であるアリスの言葉だった。




「――――そっか――。


 本当に思い出すべきだったのは、過去じゃなくて、親友の言葉だったんだ。


 本当に乗り越えなくちゃいけないのは、ジェレミア卿なんかじゃない。


 心の奥底で、最終的にはカッコいいロイくんがどうにかしてくれるって、そう甘ったれていた自分自身だったんだ」




 答えを得て、シーリーンは涙ながらに、なぜか穏やかに呟けた。

 そして魔力を込めていた人差し指を静かに下ろす。


 十中八九、背後では自分を追ってきているジェレミアが近付いているはずだが、そんなことは知ったことではなかった。

 ジェレミアのことを気にせずに、シーリーンは続ける。


「――――シィはロイくんと対等なパートナーになりたかったのに、ロイくんのことを、神様かなんかだと勝手に勘違いしていた――。――ロイくんは最初からシィに好きって言ってくれていたのに、両想いだったのに、吊り合っていないなんて思っていたのはシィだけだったんだ――――」


 当たり前だろう。と、シーリーンは自嘲した。

 自分が好きになった男の子は、女の子を家柄や才能、肩書きだけで判断するような人ではないのだから。


「確かに、シィはジェレミア卿なんかに犯されたくない……ッ! そして同じぐらい、抗いたくもない……ッ! だから自殺しようと思った……ッ! でも――」


 奥歯を軋ませる。

 両手を充血するぐらい握りしめて、一度、力強く地団駄を踏む。


「~~~~ッッ、でも! それでも! それじゃ絶対に後悔する! 死んだら後悔することさえできないけど! まだまだロイくんと! そしてアリスやヴィキーちゃんや、イヴちゃんやマリアさんとしたいことが山ほどある! もっともっと、みんなと一緒に笑っていたい!


 気絶させられて犯されるなんて絶対にイヤ! 脅迫されて奴隷なんて絶対に無理! でも、それ以上にぃ………、っっ、シィは、ッッッ!!! シーリーン・エンゲルハルトは!!! ジェレミアなんかの悪意が、ロイくんやアリスの笑顔を上回るのがもっとイヤなのォォォオオオオオオオオオオ!!!!!」


 豪雨のように零れ続けていた大粒の涙。

 シーリーンはそれを服の裾で一気に拭って、その瞬間、彼女の表情かおは全てを振り切れたそれに変貌を遂げた。


 ロイは生きることを大切にしている。2回も死を経験したのだから当たり前だろう。

 彼は世界で一番、生きることの素晴らしさを知っている、と、そう言っても過言ではない。


 その嫁の自分が恐怖から逃げるために自殺?


 シーリーンは自分で自分を心の声で叱りつける。

 ――笑わせないでほしい、と。


 別に、シーリーンは自殺する人の心が弱いと言いたいわけではない。

 むしろ自殺なんて、えして、する人よりもさせた環境の方が悪いのだ。


 だが、もし自分が自殺することによって、ロイの人生に、信念に泥を塗ったら?

 彼に嫌われなかったとしても、よりにもよって自分が彼の大切にしているモノを台無しにするなんて、たとえ死んでも罪悪感を覚えるかもしれない。


 そんなのは、イヤだ。


 というより、自分が死んだら、ロイも、アリスもヴィクトリアも、イヴもマリアも、きっと大泣きしながら悲しんでくれる。

 そして自分の心は今、大好きな仲間たちを悲しませたくないと叫んでいた。


 だから――ッッ!!!

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