4章4話 10時21分 シーリーン、心が壊れ、る……?(1)



 シーリーンは青々と木々が茂った山の中で周囲を見回す。

 御者の男性が教えてくれたように、すぐ近くにジェレミアの姿は見えなかった。


 で、そのあとに改めて索敵魔術を発動しても、すぐ近くにジェレミアの反応は特になし。

 その代わりに今、シーリーンが立っている地点から、西に約5kmの地点に、1つだけ170cm程度の人型の反応があった。


 普通に移動したら山ということも相まって、嘆きたくなるほど絶望的に遠い距離だ。

 しかし、肉体強化を始めとする多様な魔術を発動したら、何重の肉体強化かにもよるが、十中八九、10分以内に移動完了できる距離である。


 とにかく、まず間違いなく、そこにジェレミアがいるのだろう。

 となれば早速、シーリーンに残された時間はそこまで多くはなかった。


「一応……もう一度だけ荷物を確認しよう」


 言うと、シーリーンは背負っていたバッグをいったん地面に下ろす。

 そして確認自体ではなく、まるで安心を得ることが目的のように、その中身を確認し始めた。


 他の物が濡れないように、バッグ内部のポケットにしまっていた、きちんと水が入った水筒すいとうが3本。携帯食料が入っている入れ物が3箱。マッチも3箱。サバイバルナイフが1挺。コンパスが1つ。そして最後に地図が1枚。

 そしてバッグの中に入れていたわけではないが、左の手首には腕時計が着けられている。


 流石に、これ以上バッグを確認しても意味がない。

 それを認めてシーリーンは再度バッグを背負い、これからの戦術を考え始めた。


(どうしよう……。シィとジェレミア卿はさっき5km離れていて、普通に考えるなら、直線距離でも歩きで1時間、走っても30分以上はかかる距離。でも! それは肉体強化の魔術を使わなかった場合だから……ッ)


 改めて索敵魔術を発動してみたら、ジェレミアは西に4kmの地点にいた。ありえない……、信じられない……、というより、驚天動地と言うべき脚の速さだ。

 今、シーリーンが荷物確認&思考していた時間は1分ほどだから、ジェレミアが肉体強化の魔術を発動しているのは明白である。


 恐らく、相手の肉体強化は戦闘開始直後ということもあり、二重奏デュオ三重奏トリオ程度だろう。

 つまり、シーリーンの方も三重奏が難しくても、せめて二重奏程度はしないといけなかった。独奏ソロでは迎撃するにしても、どこかに戦略的撤退をするにしても、まるで話にならない。


Ich凱旋 bete目指し um我は Kraft in果てなく den Armen渇望する, Geschwindigkeit腕には強さ in den Beinen und脚には Stolz darauf速さを, den Feind意志には im Willen zuを討ち往く besiegen気高さを!


【 強さを求める願い人 】クラフトズィーガー二重奏デュオ!!!」


 瞬間、シーリーンの肉体に強化が施される。

 慌ててはいけない。と、続いて彼女は両手を握ったり開いたりを数回繰り返して、そのことを確かめた。


 そして最後に、シーリーンは10秒だけ考え事をする。


 推測だが、ジェレミアの試験開始直後の行動に迷いはなかった。言い換えるならば、考え事をしている時間がなかった。

 そこで彼我の実力さを考慮すると――自分は絶対にシーリーンに勝てる! ヤツのどこも怖くない! だから真正面から行っても問題なし! 素の実力で勝っているのだから結局これが一番! という判断を下したのだろう。


 正直、実に非の打ち所がない思考だった。

 一番単純で簡単なのに、一番効果的で効率的。


 ジェレミアがシーリーンより強いのは当たり前のことだ。

 彼女が彼に勝つことは、頭を使った駆け引き抜きの純粋な一騎打ちでは、絶対に不可能と言い切れる。


 だからこそ、恐らく開始1秒目の段階、あるいは馬車に乗っていた段階から、ジェレミアは真正面から行くと決めていたはずなのだ。


 この手を選ばない理由がない。

 やはりこの作戦のポイントは、かなり堅実に勝利を奪えるのに、最短距離、最短時間でシーリーンに辿り着けるということだ。


 自分にとってはいいこと尽くしなのに、シーリーンからしてみれば、焦れば焦れるほど、次に迷えば迷うほど、続いて迷ってしまい判断が遅れれば遅れるほど、彼女の状態は逼迫ひっぱくしていくという仕組みである。

 そして判断が遅れれば、さらに焦りが生じてしまい、以降は負のスパイラルだ。


 それに気付くとシーリーンはまるで鬱病ように気持ち悪くなってしまう。

 追い詰められつつある、という事実に気付いただけで、彼女は追い詰められ始めてしまったのだ。


(と、ともかく……、なら決まり……。勝てない勝負に出る必要はない、よね……? ジェレミア卿はシィの時間を奪いにくる。で、逆に今のシィに必要なのは、充分に物事を考える時間だから……)


 つまるところ、開始早々から戦略的撤退。

 ジェレミアは真っ直ぐこちらに向かってきているから、シーリーンは迂回しながら山頂を目指し始めた。


 主な理由は仮に追い付かれて戦闘になっても、敵より上に陣取れることができるから、というモノだ。取れるのならば、頭上の優位を取れるのに越したことはない。

 他に理由があるとすれば、肉体強化を発動した状態で、つまりかなりの速さで下山することは、山の初心者であるシーリーンでも、危ないことだと判断できたからである。


 しかし、シーリーンが走り始めてから数秒後――、


『聞こえるかい? シーリーン!』

(音響魔術!?)


 突如として山全体に響く余裕綽々なジェレミアの声。

 それを聞いただけでも、シーリーンは泣きそうになった。脚が震え、身体に急激に寒気が奔る。できることならば、今すぐにでも帰宅して、ロイに頭を撫でてもらいながら寝てしまいたかった。


 トラウマが甦る。

 理由もなく髪を切られたことも。告げ口したらバレて、頬を殴られたことも。当時の周囲に助けを求めても、先回りされていて腹部に蹴りを叩き込まれたことも。ジェレミアの支配下の女子が自分の下着を強引に脱がせて、下着なしの状態で帰宅させられたことも。当時から生真面目なアリスのことは知っていたが、特に彼女に近付こうとする場合、ジェレミアがすぐにやってきて、髪を掴んで引っ張って、公衆の面前で土下座させられたことも。


 フラッシュバックする。

 たった1つでも最悪な記憶なのに、その全てが、洪水のように一斉に。


『日常で他人に魔術を撃てば犯罪だ! しかしこの戦場では合法であり、この亜空間を用意した七星団は国王陛下がその名において保証なされた公的な組織である! つまり、このオレとキミしかいない2人だけの世界、ここは一種の治外法権の領域と言えるだろう!』


 戦慄なんて言葉では生温い。絶望なんて言葉では優しすぎる。

 唐突とはいえ、すでにこの山はシーリーンにとって、正真正銘の生き地獄でしかなくなっていたのである。


『今から10秒も与えてやる! 真上に【魔弾】を撃ちたまえ! そしてこのオレが向かうまでに全裸になって土下座しておくんだ! そうすればオレを主人として崇拝することを決めて、奴隷宣言したと認めてやり、オレの掃除係として今後も生きていくことを許し、せめて命だけは助けてやろう! ちなみに刃向かったら【幻域】で気絶させて、蹂躙して、その記憶を試験終了後、アーティファクトに写させてもらう」


 思わず、そう言われただけでシーリーン涙を零す。

 自分の場合、ロイ以外の男の恋人になることさえ、自殺するぐらいの拒絶感が発生しそうなのに…………あろうことか、自分をイジメてきた男子の奴隷になるなんて、想像しただけでも自殺しても救われないぐらいの生理的嫌悪感が発生して、今にも頭が罅割れて心がおかしくなってしまいそうだった。


 過呼吸寸前で頭がクラクラして、眩暈めまいもして、大量の冷や汗で気持ち悪くて、動悸が激しくて息が苦しい。

 まだジェレミアの姿を見たわけでもない。しかし誇張表現でも比喩表現でもなく、シーリーンは今にも気を失ってしまいそうだった。


 こんな現実、苦痛を味わうぐらいなら、自殺した方がまだマシかもしれない、と。

 シーリーンは本気でこの場で舌を噛み千切ることさえ考えてしまう。


 PTSD――心的外傷後ストレス障害。

 もちろん人によって程度の差は存在するが……ロイに愛されていた毎日がジェレミアにイジメられていた過去を忘れさせてくれようとも、今、目の前には、ロイがいなくてジェレミアがいる。


 その今がシーリーンにイジメられていた過去をフラッシュバックさせる。

 今のグーテランドの医学水準では目に見える障害の研究で手一杯であり、シーリーンのこの症状を「あなたの気のせい」で終わらせない医者なんていなかった。


 ジェレミアの言っていることが支離滅裂で、そんな約束を守る必要なんてないのは百も承知。

 だが、彼にはそれをゴリ押しで実現する魔術の才能と爵位がある。だからこそ、シーリーンはその考えをやめないのではない。やめられないのだ。


Versammle集え、……, Element魔術 der…… Magie源よ. Bilde形を…… und成し besiege遥か Feinde遠くの………… in der Ferne討て……. 」


 意思が薄弱する中、気を確かに持って、息も途切れ途切れで詠唱し、ジェレミアに言われたとおりに、シーリーンは【 魔 弾 】ヘクセレイ・クーゲルを撃った。

 魔力の燐光が木々の隙間を走り、大気を裂くような音が鳴る。


 が――、


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