4章8話 シーリーン、そしてスライム(1)



「はぅ~~、もう30分近く走っているから疲れた~~っ!!」


 全速力で、逃げる、逃げる、逃げる。

 シーリーンは森の中を全力で走り続けた。


 口では軽く言っているものの、ペース配分を一切考えない30分以上の全力疾走はアスリートでも簡単にできることではない。

 しかも敵に追いつかれたら殺されてしまうので、ペースを落とす、ということも今のシーリーンには不可能だった。


 加えて、足元は数十cmを超える雪のせいで想像を絶するほど最悪だ。

 たとえ肉体強化の魔術を発動していても、体力の代わりに30分の分だけ魔力が消費されて、無論、別のベクトルの疲労が溜まる。


 両脚に常時、永続的に筋肉が千切れるような激痛が走り、靴は積雪で浸水して両足が凍傷を起こし始めている。

 冬場で空気が乾燥しているのも一因だろう。呼吸はまるで口と喉と肺から一切の水分が失われたかのように荒く乾ききっていて、頭はすでに突然死の前触れのようにクラクラし始めた。


 北風と雪のせいで寒いのに、全速力で走っているせいで身体が燃えるように熱い。

 そしてトドメに、精神状態は誇張抜きに『命の危機』の下にある。普通の人なら、もう何分も前に死を受け入れていることだろう。


 そんな必死の表情の彼女を追うのは、1体のスライム。


「災難だなぁ、お嬢さん! この俺に当たるなんて!」

「あなたが勝手にシィを追いかけ始めたんでしょ!?」


「落ちてきた時、エルフのお嬢さんは綺麗に着地したが、お嬢さんは着地に失敗しただろう? だから、攻めるなら隙の多い方を、今だ、って考えたわけよ!」

「ぐぬぬ~~っ! Versammle集え、, Element魔術 der Magie源よ! Bilde形を und成し besiege遥か Feinde遠くの in der Ferne討て! 」


 詠唱するシーリーン。

 彼女は走りながらも半分だけ振り返り、後方に【 魔 弾 】ヘクセレイ・クーゲルを撃ち放つ。


 だがスライムは別段、それを躱したりはしない。

 その理由を証明するように【魔弾】がスライムの身体に無事当たるが……しかしそれはスライムにダメージを与えることなく貫通しただけだった。いや、貫通という攻撃的な単語を使い表現するまでもなく、ただ水に当たったかのように通り抜けた。


「……っ」

「何度やっても同じだ! 打撃無効化! 斬撃無効化! 刺突無効化! 焔、風、水、土のほとんどのアサルト魔術を受けてもノーダメージ! 多種多様な無属性魔術だとしても、【魔弾】や【 魔術大砲 】ヘクセレイ・カノーナのような直接的な攻撃なら受け流せる! 身体は自分が望んだ任意の物を溶かす液体でできていて、触れることも不可能! なんらかの手段でダメージを与えても、細胞が1つでも残っていれば傷を100%再生できる! それが俺たちスライムだ!」


「あなた……っ、ひょっとしたらあの集団の中で一番――っっ」

「気付いたか! 俺はアサシンのヤツほど強くないし、ゴブリンほど魔術が凄いわけではない! だが身体が液体でできている以上、俺を倒す方法はあの中で一番限られている!」


 スライムに事実を言われた瞬間、ほんの一瞬、シーリーンの頭はクラっ、と、してしまい、わずかに肉体強化の魔術が途切れそうになってしまう。

 それを自分の下唇を血が出るほど噛んで、意識を繋ぎ止め、再度、シーリーンは肉体強化の魔術を自分の身体に発動して走り続けた。


 しかし、徐々に地面を滑るように移動するスライムとの距離は縮まってしまう。

 シーリーンの女の子らしい小さくて幅が狭い足跡。そして、物を引きずった時のような、あるいは蛇が前進した時のような、雪と交わらずに、むしろどかすように出来上がるスライムの足跡ならぬ体跡。


 彼我の距離は少しずつ、しかし確実に狭まっていく。

 だが、そのたびにシーリーンは――、


「っっ、【魔弾】!」


 魔術をスライムではなく地面に撃つ。

 刹那、衝撃。そしてその衝撃で積雪は空中に散って、舞い、視界を著しく不明瞭にした。視界を埋め尽くす純白に、しかしシーリーンは迷わず走ることを止めない。


 彼らはすでにこのやり取りを、合計5回も繰り返している。

 ゆえにもう、スライムの方もどのように対処するべきか決めていたし、正直、飽き飽きしてきていた。


「――っ! そこか!」


 と、雪で視界が悪くなった世界の中でも、スライムは迷うことなくシーリーンのあとを的確に追う。

 詠唱を零砕したとはいえ、この程度の少女が相手なら、普通の索敵魔術で充分にその姿、動きを捕捉できた。


 互いの距離はおおよそ13~15mといったところか。

 そして数秒後、舞い上がった雪は落ち着いて、視界は元に戻り、シーリーンとスライムの鬼ごっこは普通の状態へまた戻る。


 とはいえ、体力と魔力ばかりは振り出しには戻らない。このままではやはり、追い付かれる。そして追い付かれたら当然死ぬ。殺される。

 となれば必然、シーリーンは最愛の恋人、ロイともう会えなくなってしまうのだ。


 ゆえにふと、奥歯を軋ませる音が闇夜の丘に静かに鳴った。

 絶望を覆すべく、シーリーンは肉体強化を独奏ソロから二重奏デュオに切り替える。


 このままでは体力と魔力が余っていても追い付かれる。

 出し惜しみして殺されたら本末転倒だ。ゆえにシーリーンはグンッッ!!! と、走る勢いを増して距離を取る。


 だが――、


「甘い! 【雷穿の槍】!」

「キャア!」


 スライムの魔術がシーリーンのほんの1m後方に落ちてくる。

【雷穿の槍】は本当に、本物の雷と同じ速度を誇るアサルト魔術だ。足を止めずに照準を外し続けたのが功を奏する。少しでも立ち止まっていたらすぐに照準を付けられて、シーリーンは転んだ程度ではすまなかっただろう。


 しかし――、


(魔術も拳銃と同じで、動き回る相手を狙い撃つのは難しい。しかもこちらも走っている状態だ。転ばせられただけでも良しとするか)


 最初からそれが目的だったのだろう。

 スライムの思惑通り、シーリーンは実際に、絶望的なことに足をもつれさせて転倒してしていた。


 そしてスライムは球体から人型に形を変えて、無様にも転んでしまったシーリーンの傍に立ち、彼女を見下した。

 一方でシーリーンもスライムのことを強く、強く、意地を張るように睨み返す。


「言わずもがな、俺の弱点は雷属性の魔術だ。だからこそ、俺は雷属性の魔術を大量に習得している。そうすれば雷属性の魔術に対して【零の境地】を使って無効化できるからな。それに、弱点であることと適性がないことは、必ずしも合致しないし」

「――――クッッ」


「さて、これは俺の推測だが、お嬢さん、あんた、あの女の子たちの中で一番弱いだろ」

「…………ッッ」


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