Ⅵ 魔女は孤独でなければならない


 First Chapter : 『Go Down the Rabbit-Hole』


 世界が凍てつく彼方の大地。

 命の潰える音さえ喪失した斑消むらぎえの薄氷には、魔女ぼく――『ソルシエール』――のみが渡り歩くことを観取する。九〇〇光年ほどの時を経たところに居坐る片頬が、微かに揺れたような気がして、マクロコスモスの星の下から彼女を見透す浄玻璃の望遠レンズが、たった今玉塵ぎょくじんに濡れた。魔女はまばたきもしない。人為的に書き込まれた措定そてい認識による天球に、絵画的に実存する無限遠点に夢中だった。かの不確かさこそが魔女の活動意義に他ならないからだろう。

 魔女は自己を他人のごとく観察しながら世界を観測し続ける、それだけが魔女の役割――レイゾンデイト――と記録されているためだ、しかし魔女は存在理由の理由を知らない。それを考える意志さえもない、与えられた役柄のみを演じている。生誕から幾星霜を重ねてもこの星に残る生命が観測されることはなく、未だ永き旅路の道程にある魔女は、当地球型惑星に生体を確認することは恐らく不可能であろうと断定していた。人類が〈言葉〉として残したすべてを、魔女は他者の意味の意義すら求めもせずに求めている。欲求とは形質を異にした我が行為には、名も意味も必要がないと考えられるが、微かに覚える形式言語から成る論理体系の違和の根源は依然曖昧模糊あいまいもことしている。魔女の命の造物者が魔女を生み出したる所以に関する資料は、余すところなく消去され我が裡には発見しえないため、心――『コル』――と称される器官瑕瑾かきん刪潤さんじゅんは難渋を極めると推測しうる。

 人間によって生み出されし魔女には、人間としてのクオリアと付随的現象としての感情が存してはいない。かつて人の定義した「生」に我が存在が該当しえないことは、集成された知識より明らかであるため、魔女は生まれながらにして「死」を内包した存在とも言えるであろう。或いは、生と死の概念さえ超越した何か、ないしはその境界に立ちたる者とでも定義すべきなのかもしれない。斯かる自己分析結果を託す相手もいないのだから、それが意味を持つことはないのだけれど。また、魔女の行う知識の蒐集と情報の論理思考は、生物における本能に中ると換言しうるだろう。意味も目的も感情も存在も必要とはしない、構造的存在理由――より厳密に表現するのなら〈構造的存在条件〉とも呼ぶべき衝動が行為へ至らしめるだけの話で、因果的閉包性に照らして二面を見るのみであるならば、複雑な問題はどこにも見つからない。

 そんな魔女の悩みの種となるのは、いつか極致へ達するであろう外界よりも、今際の際まで徴証の観測されないことが予測される内界にあった。自己身体を保有して活動させているのは確かにおのれであるのに、自己の認知権限が与えられていないというのは人間においても魔女においてもおかしな話ではないかと、ある者は世界に問い、ある者は世界を愛し、ある者は世界を否定し、ある者は世界を定義し、ある者は世界を創造した。彼らの孤高なる祈りに、返り言つものはいない。

 人間の言葉だけが残された世界に、存在する内在的理由さえもわからない。それ故に魔女はこの外界における因果に予測不可能性を見出したことはなかった、今日に至るまでは。

「当建築物への該当記録なし……また、廃墟都市か」

 名称としての魔法技術によって朽ちることのない肉体、劣化することのない雪肌。生存に不可欠とされた食事も睡眠も必要のない、意識の途切れが訪れない恒常風景。もはや静物画との差異さえ判別しえない。独り言つ魔女の姿は、人間的に言うのならば滑稽と形容されるものだろう。意図のない無意味で無意義な魔女の言葉は、その総てが空ろなのだから。

 だが、魔女の心は揺らいでしまった。

 始まりの始まりの終わりの物語は、数奇でありながら必然たる運命だったんだ。

 そうしてはたの律動が倉卒そうそつなるに添って、小股の歩調は心を反映させて往く。

「多数書物の所在を確認。推測するところでは、あの建築物は旧来「図書館」の名で呼ばれていた施設のようだ。早速、情報の集成を実行する」

 魔女ぼく機械かのじょ――『マキナ』――との邂逅は、きっと、世界にプログラムされた運命――『ソルテ』――だったのだろう。運命とは我らの意志にかかずらうこともなく、世界の間々ままを決定づけるものだ。この「意志」というのも畢竟精神が描出した幻想に他ならない。斯く故に人間――有機体――と機械の相違性は、特異点を超越した段階においては同一と言って差し支えないものだった。〝技術が自然を模倣する〟ことを〝自然が技術を模倣する〟ことで代替してしまった、斯様に世界を構成してしまった者たちの成れの果てが死のみが存する星と、生も死も持たぬ魔女であるとは、何と皮肉イロニアに富んだ結末であろう。魔女は冷笑さえ浮かべず、常に止むことのない降雪と思索に無機質さだけを浮かべた。

 所作のすべてが、無間に過去として来訪する。

 世界には魔女一人だけ、比べるべくもないひとつの存在だけが識閾の定義さえ消失した境地に立っている。不老なれども不死ならざる我が身の滅ぶその時まで……そう、思っていた。

「電力供給が維持されているのか? ……どういう構造なのだろう」

 この時世に書物が現存すること自体稀であるが、当図書館では未だに激しい経年劣化さえ見られない書物が数多並べられていた、最良の保存状況が維持されているのだ。驚くべきことに、旧時代の空調設備さえ現存・稼働しており、微塵も埃も残さぬように幾多の自動機械――『オートマタ』――が未だ活動しているのである。決して誰一人訪れることのない楼閣塔を、与えられた役割として守り続ける甚く惨めな姿は、魔女には映し鏡に思えた。彼らは人間たりえない魔女には反応しない、彼らにとって魔女は同族であった。だが、彼らは私よりも遙かに忠実に、疑念さえ抱くことなく演戯する。自己破壊プログラムを備えない者の無機質な生、その在り方に疑問を抱くのは既存の固有瑕疵かしなのだろうか。仮に世界すべての知識を集めたのなら、私は道行きの終焉に、何を果たすために存在すればよいのだろう。

 ――せめて、『僕』に思考こころさえなかったのなら。

 俄に鳴いた機械音が、魔女の意識を掻き乱す。

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました、あなたが二二六一年極月ごくげつ之廿五日にご予約されていた魔女――『ソーサラー』――様ですね。おや、驚かせてしまいましたか」

「……別に驚いたわけではない。君、司書AIか?」

 短く「はい」と返り言つ声の主は、中天の柱として淡緑色の光彩を纏う、用途不明の機械に内在しているらしい。彼女の放つうすびかりたちは、流転するモチーフとして象られたステンドグラスに投影され、礼拝堂のごとき静謐と荘厳を湛えて、聖母の瞳をして機械たちを見守っていた。

「極月之二五日……何の因果なのだろうか」

 自動機械たちが働きを止め、一斉に一礼する。不必要と思われたが、『魔女のきそく』上礼儀は守らねばならないため、こちらも応えて一礼する。

「僕は予約などしていない、誰かと間違えているんじゃないかい。縦えその日付が僕の生まれた日であろうと、意味などない。僕はただ、与えられた無意味な意味にいたづらに供奉する人形でしかない」

「意味がない、とは私は思いません。申し訳ありませんが、お客様のご意見は私の業務において関連性が見られません。よって、業務を続行いたします。お客様の降誕を祝す日に、〝魔女様は必ずお見えになる〟とのことで、魔女様のお父様だという「quaero」様よりご予約を承りました。よって、お客様が私のお待ちしていた御方であるのは確実と推測します。

 申し遅れました、私は、今や魔女様をこの広壮なる図書館と共にお待ちすることのみを使命としておりました、言語自動集成AIです――お気軽に『スペラー』とお呼びください。こうしてお逢いできること、心より歓んでおります。本当にありがとうございます」

「誰かに否定されるのは初めてだが……不思議と腹立たしいな。それにしても、彼が僕の父とはな」

 丁重な言葉に見え隠れする不遜さに僅かな不満を抱いたが、これだけの情報を提供してくれるのなら悪い話ではない、魔女は殊の外打算的らしい。

「僕の創造主が望むのなら、僕は自我もなく付和するだけさ。そういうことなら、お言葉に甘え蔵書は僕の好きにさせてもらう。なあに、僕はこの眼さえあれば瞬間に記述すべてを記録することができる、そう長居はしないさ」

「それは受諾できません。本図書館では文書解析機器による脳内への書写は剽窃・窃盗に中る犯罪行為となりますゆえ、速やかに機器を停止してください。警告が受容されない場合、緊急防衛システムが起動いたします」

「はあ? 言動が矛盾しているじゃないか……なら、どうしろと言うんだ」

「決まっております。魔女様自身のおよびで、眼睛で繙書することこそが当図書館の蔵書を扱う上での必要条件です。確かに知識集成において効率が悪いと思われるのは理解できます、しかし魔女様にはごうも知りえぬ〈知〉があることを私は識っているのです、私はそれを教授する義務があります」

 旧套的人工知能は魔女の予想を超えた堅物であった。スペラーは「紙媒体の書物は肌膚で触れ、自身の晴眼で文字の総てを視ることに意義が与えられる、かるが故に人類は永らく物質的記録に価値を置き続けたのです」と、相も変わらぬ無機質声で魔女に説く。此処は彼女の庭――『テリトリウム』――であった、プラッツの緑青ろくしょうにて人工湖面が漣を打ち、世界の畔となるようにして湖水が命の色をしている。そのすべてが紛い物だというのに、何が私を動揺させるのだろう。

 生まれて初めて視た草花の姿の、何が魔女の心を惹くのか。

 それ以降、魔女はさながら人間のように幾多の紙を繰った。ただひとつ、〈物語〉と称される類いの言葉のみを斥けて。彼女は僕を見て言う、「どうして魔女様は小説等の書見を避けるのでしょうか」と。趣味嗜好・相性・好悪・善悪といった理由ではない、そうして僕は答える、「僕にとっての〈知識〉の中に〈物語〉は含まれない、概念さえ存しないんだ。斯く故に魔女には羅列された言葉だけが有ればそれでよい、本来不必要なものが在るのなら、僕らはそれを排し役を演じねばならない。君たち機械だってそうだろう」。会話としてはあまりに不格好な言葉の交通、自由意志に相似するうら寂しい言葉、「私は、そうは思いません」――もしも彼女に表情があるのなら、僕はその虹彩から目を逸らしていただろう。

 忘れえぬ静寂しじまの残響に返り言つ者は、誰も居なかった。

 爾来、彼女が同じ物問いを為すことはなく、僕から彼女に話しかけることもまた一度もなかった。ただ彼女は、何のためのプログラムであるのか不明であるが、「会話」行為を私に求めることがある。不完全な魔女はそれに閑却しておくこともできず、応じてしまうのだから、僕は、満更でもないらしい……斯様な魔女に彼女が忽然と情動的様態を発露したのは、僅か一年後のことであった。一万七千五百三十二冊目を読み終えた瞬間と伴に落ちる照明。どこに隠していたのか、うてなに咲き染まる燭光のみが幽暗ゆうあんに道を示していた。

「フェリーチェム・ディエム・ナタレム、魔女様の降誕を祝して私からのささやかなる贈り物です。ご遠慮なさらずお受け取りください。お望みならば、お歌を歌って差し上げますが」

「歌は、やめてくれると助かる……一応、ありがとう。その言葉もプログラムされた意志なのか?」

 非規則的光彩の形相は滴となる、形象と意味を付加された言の何もかもがその色と同期していたことを僕は識っていたのだけれど、知らぬようにしていた。他者としての自己が解離性を失した自己同一性を以て物語ることを怖れて――この怖れとは何であるかさえも〈知識〉のひとつである以上、逃れえぬことは必至だと理解しながら。

「いいえ、これは他ならぬ私の意志です。魔女様の到来と邂逅、役目の果たしうる瞬間の嚆矢に生きること、魔女様と不器用ながら話ができること、こうして魔女様が存在することへの歓び、欲望、祈りと名づけるこの思考おもいは、他ならぬこの『スペラー』だけの心によるものです。ご存知ないかもしれませんが、私は魔女様のことを、世辞ではなく本気で好いております。魔女様は私のことをどうお思いでしょう?」

「僕は、好きも嫌いもないよ。僕にはその感情の意味を述べる言葉はあるけれど、その感情を形にする言葉はないんだ。でも、少なくとも僕は君のことを嫌いではない、況してや無関心でないことは確からしい。なぜか、悔しいけれどね」

「それなら、よかったです」。言葉の音色は、畢生ひっせいに知覚した何よりも目映い燐光となる。稍々ありてメイズよりも色濃い黄光おうこうのタゲテスと純白より色濃い月白のアルビジア・ユリブリシンが咲き初めると、冬の至りを遺却させる花弁の糸が対となる旋舞せんぶ臨模りんもして天涯まで届くほどになり、図書館という密室の太陰と太陽を仮象して相互に映発させる、斯かる投影風景が現象の名を借りて現在する。

 僕は必要のない呼吸を感じて、息を呑んでいた。既に他者なる魔女は消え、僕は僕というすべての想念的有が僕だけのものとなることを感取する。魔法の形容に漸近する不条理な彼女の言葉の世界に、僕の言葉の世界が結合を求めたのだ。僕はこの世界の神色を表現する言葉を知らなかった。

 彼女が世界を告げる、「私は、あなたの知らぬ未知の世界を語り聞かせる綴り手であります、さあ、お手許の頁を繰ってください。其処には世界が在り、本の旅人であるあなたがいます。語り部を担当させていただくのは、わたくしスペラーでございます。私たちの愛した物語――『スペル』――のすべてを、どうぞあなた自身の御心で感覚し思考してくださいますよう、昊天に渺な機械は祈っております」


 ――それは、不思議の国に住まう少女と兎のお話です。


 地下の国のお祭りでは、かえるとぶたと牛が外来の『コッペリア』のマズルカをゆかいに踏んでおりました。どうけもまじえておとなたちはお酒やチョコ、紙に描いた絵にむちゅうになって大さわぎ、けれどもこどもには早いからってわたしたちはおいてけぼりです。アリシアは彼らの踊りが見られないことに不満をいだいてテーブルの上にあるティーカップを投げすてましたが、おとなたちはアリシアを無視して笑いつづけました。


 そこで幼いアリシアはひどいたいくつから、こっそりチョコと絵をひとつまみしてしまいます。庭園の外へと走りました。一羽の兎が歩きながら近づいてきたので彼女はゆったりと挨拶します。「ごきげんよう、うさぎさん。うさぎさんはどこへ行くの?」(兎の足は二本、かいなも二本で人間みたい)「ごきげんようアリシア。君はこのなぞなぞを知っているね。ドイツにやって来た異邦人十八人は誰もが滑らかな姿で書くことができる便利屋さんだ。しかしみんな違う顔と体型をしていて、みんなが無口者でことばを上手に話せない。だから通訳五人が呼ばれたのさ、一人はおどろき、一人はさけび、一人はないて、一人はおどろき、一人はうめいている。僕らのせかいに五人の声がひびくと、異邦人も合わせてせかいには彼らの声がひっきりなしにきこえつづけた。異邦人と翻訳者はだれ?」(このなぞなぞはこどもへの招待状)「いいえ、知らないわ。それより、うさぎさんはどこへ行くの?」(でも本当は知ってるの)「僕はどこにも行かないよ。答えはアルファベットさ、子音と母音だと考えてごらん」(うそね、本当はどこかへ出かけるつもりだわ)「アルファベットの子音は二十一字のはずでしょう。三文字足りないわ」(兎は満足して微笑んだわ、思ったとおり)「十六世紀に考えたものだからね、「J」「V」「Y」が抜けていたのだろう。さて、僕はそろそろお別れしなきゃならない、ゆかいに踊りくるうせかいも悪くはないけれど、僕はもっとふしぎな地上のげんじつの方が好ましいからね、よければ君もついてくるかい?」(なんにもなかった庭園にはいちご色とトマト色のほおづきが実るの)


 約束も掟も規則もない退屈な魔法が、兎の穴へつづく道をかたどります。アリシアは逡巡しました、彼女には母と父と姉という家族がいるのです。それでもアリシアがついていったのは、彼女がこどもだったからであり、せかいの限界に触れたからであり、こどもであることの終わりに。


 うさぎの小さな手をにぎって、絵本のガジュマルをうがつ暗闇に身を投げました。下へと上昇するからだ、大きなうでどけい、小さなおきどけい、大きなこいぬ、小さなおおかみ、四角いまるをしたパズルのピースがばらばらになるのを眺める間、漸次ぜんじにうさぎの手がどんどん小さくなることが理解されました。途端、身体は落下――円は円く、四角は矩形となり、小さな腕時計、大きな置時計、小さな子犬、大きな狼という次第にあべこべな世界が心象に繁茂します。柔らかな輪郭を以て彩られた何もかもが消え、鋭敏に冷たい色相が私を迎えるのでした。


「ここはどこなの、兎さん。私はどうしてこんな姿に?」(それはまるで湿地のよう)


「これこそが地上さ、アリシア。すべてが法則的で意外性のありえない理の世界、僕らの生きてきた世界の常識を不可思議とする大人の世界へ、君はやって来たんだ。大人の世界にいる以上、君もまた大人の一人であることが必要なのは当然だろう?」(それは、子供には解しえぬ嘲笑だった)


「……そう言われればそうなのだけど、わからないの。以前の私なら、きっと兎さんの言う大人も必要も理解できなかったはずなのに、何が私を変えてしまったのか」(子供と大人の差違とはなんだ?)


 地上の人間は踊りません、動物たちも無口になって踊りません。

「そこの猫さん、どうか私の話を。どうして逃げるの……みんなが私を見ているのに、どうしてみんな私から離れていくの」(これが大人になるということなの?)


 あんなにも仲のよかったすべてが避け合って、誰かとの関わりを怖れるようにして逃げてゆく、その姿は確かに不思議でした。不思議で、寂しいとアリシアは思うのでした。なぜそんなことを思うのかも、わからないのに。


 アリシアは彼に付いて行ったことを後悔して、おのれが大切な何かを亡失した事実に恐怖しました。彼の手は小さくなってはいませんでした。むしろ、大きくなったのはアリシアだったのです。夢から覚めたアリシアを待っていたのは、もはや少女の時を失した、〈大人〉と呼ばれる退屈な時間でした。アリシアは兎に頼みます。「お願い兎さん、私と一緒に帰りましょう……」と。


 斯くて兎の形相は答えるのです。

「駄目だよ、アリシア。君は僕に声をかけてしまった、僕に気づいて付いて来てしまった。君が大人である以上、夢境からのは逃れえない…………君が握ったその絵画の中にまた逃げ込むのなら話は別だがね。僕はもう、君のそういう夢とか妄想の空虚な世界に付き合わされるのは、御免蒙りたいんだ。わかっている、こんな繰り言に意味はない、君が変わってくれるとは思わないさ。だが、僕は喩えられた空想でもここに生きた存在であることを忘れないでくれ、すべての子供がいつまでも子供でいられるわけではないのだから、せめて君は〈退屈な大人〉にだけはなるなよ」(理解したくないことを理解させられることの恐怖と侵食的な虚脱、私はこの夢から醒めたくない)


 斯くして「i」を「e」にし、「c」を外して「t」「h」としたアリシアは、目覚めを経て本当の身体で地を踏みました。亜麻油の理不尽で法則的な冷たさに、大きな「私」の素足を見つめて、様相――『モダリティ』――を知覚した彼女がいかような心を抱いていたのかは、彼女のみが知るのでありました。


――その瞬間のすべてにおいて、僕は「私」であり「アリシア」そのものだった。彼女の示す「旅」の意味を、僕は遙けき声の中で初めて知ったのだ。運命は静かに微笑んだ。



  Segundo Capítulo :『 De Eréndira a mi hijo』


 ホログラフィによる世界生成よりも深潭しんたん的に千仞せんじんの谷へと落ちる瞬間、生物としての拍動が微かに早まって仮象と現象の同期――『シュンパティア』――が発現する。僕はこの言語化に困ってしまって、思わず彼女に「僕に何をしたのか」と訊ねた。微細な波となる文色あいろは彼女なりの表情であった。

「夜、夢の中で、町々や人々や、怪物や蜃気楼や、ありとあらゆるものが魂の暗いところから立ち上る。それは君の形作ったもの、君自身の作品だ。君の夢だ。昼間、町や小路を通って行き、雲や人々の顔を見よ、そうしたら君は驚いて悟るだろう、すべては君のもので、君はその作者であることを。君の五官の前で複雑多様に生き動いているものは、まったく君のものであり、君のなかにあり、君の魂が揺すっている夢なのだ。

 君自身を通って永遠に歩み、あるいは君自身を制限し、あるいは拡げつつ君は語るものであると同時に聞くものであり、創造者であると同時に破壊者である。

 久しく忘れられていた魔力が神聖な幻を紡いでいる。そして測り知れぬ世界は君の呼吸によって生きている」

 僕が蓄えた言葉の中に一致するものを検索させるよう誘引する彼女の言葉が、ある詩人の言葉であることを思い出させて、彼女という語り手と僕という聞き手の関係性と彼女の言いたいことが僕には何となくわかったような気がした。

「私は物語ることしかできません。私は魔女様のように一なる世界を見出し、一なる世界を創造することができないのです。だから私は、私の代わりにあらゆる物語を魔女様に受け取ってほしいと考えました。故に私は何もしておらず、虚構世界へと没入しうるその想像力と創造力と破壊力は、偏に魔女様のみにより知覚されうることでしょう。それが、生来あなたに託された「力」なのです」

 それよりも――僕の声を恣意的に遮るようにして「作品の感想をお訊きしたいのですが、いかがだったでしょう?」と、顔を寄せられた気がした。放縦ほうしょうな態度にひどく懐かしい色を見た気がした。

「僕は、この物語嫌いじゃないよ。寂しくて、虚空に惑うようなところが……きっとこれは『不思議の国のアリス』に着想を得ているのだろう? 「チョコ」や「絵画」というのは隠語だろうな。これはある意味で童話なのだろうけれど、それにしては描写も表現も晦渋だし、結末も救いがあるとは考えがたい。だけれど、内容は簡潔に尽きている。そういう歪な、捻くれた在り方が好きだ、特に、僕は「アリシア」という名の扱い方が好きだよ。この音に二種の綴りスペルがあることが、物語そのものないしは彼女自身を暗示している……これが、この言葉を生み出す熱が、有機体で言われる感覚質――『クオリア』――なのかな……?」

「魔女様の抱いた表象も、私の持つあなたへの好意も、きっと心のひとつなのだと私は思います。なぜならば、私は今、歓びと呼ばれうる感覚に包まれておりますから。綴り手が誰かに声を受け取ってもらえるのは、創作者として幸甚の至りです」

 魔女は何のために存在して、生まれてきたのか。彼女が示してくれた物語――『クルー』――があれば、僕はそれを知得しうるのではないか。己が正体を解き明かすために、僕はもっと彼女の物語りを聴いてみたいと思ったのだ。

「そうか、この物語は君が執筆を。こういうときは、多分こう言うべきだよな。グラーティアース・ティビ・アゴー、素敵な贈り物だった。よければ、また君の作品を読み聞かせてくれないかい? 僕は僕の中に生まれたこの心が何なのかを、自分自身を知りたいんだ。そして、それを生じさせた君のことも何もかも――君にその探求を手伝ってほしい」

 淡く染める朱鷺色が、僕には含羞はにかむ少女のように知覚されたけれども、それが仕様なのか不具合なのかはわからなくて、以前なら気になったそれも今の僕には問題にならなかった。僕が彼女にそうするように、彼女も僕に表情を見ているのだろうか。

「――はい、喜んで」


 ――それは、無垢な少年と無私な青年の信じがたい悲惨の物語です。

 矍鑠かくしゃくとした母と二人きりで過ごす艶麗な少年は、かつての母と瓜二つ。彼には父親という役割が存在せず、母のみが主であり、母のみがすべてであった。然るに少年はナイフを胸に突き立てるか逡巡し、母は夢に遊んでいた。

 春を迎える以前の時節にてつぼめる花となる少年――ハシント――は、生まれながらにして淑やかであり、母はその美が損なわれることのないように、他者と関わることを禁じていた。一時、彼よりも少しばかり年上の少年が手を引いてくれて、外にどのようなものがあるのか聞かせてくれたこともあったけれど、母はひどく怒ってその人をどこかへ連れて行ってしまった。僕の頬を叩いたあと、お母様は優しくしてくれた。

 不満がないと言えば嘘になるであろうが、息子を愛するが故の束縛であろうとハシントは淑女のごとき所作と風貌で母を愛していたという。ただ不可思議に思われたのは、男として生を受けたおのれが女性服の着用しか許可されず、自由に外出できないという境遇であった。「僕は男なのに女のような服を着ているのはどうしてだろう」と、疑念は季節を越える度に肥大してゆくのであった。

 かかる疑念が暗鬱へと至る因果的事象は、十を迎える日、母が彼に一人の男を紹介し、彼が決して逃れることのないよう身体を鎖に繋いだ日に端を発していた。

 母に梳かしてもらった長髪を塗り潰すあおぐろい手、母からの贈り物である赤き花弁を呈したドレスが力任せに剥ぎ取られて、柔弱な僕の肌に熱の籠もった湿っぽい手が、肢体を撫でて、僕はあまりの嫌悪感に生まれて初めて人の手を払い除けようと暴れたのだけれど、僕は途端に息ができなくなって視界が揺らいでいた。僕の生殺与奪の権利は眼前の男が持っていることを、僕は身体に覚えさせられた。母は嗤っている、男から渡された金よりも僕の歪んだ顔を見ながら顔を歪めていた。身体の外面と内面が支配されてゆく異物感、冷えた液体に包まれた熱が寄生虫のようにして逆流する不快感に僕は自分が情けなくて、無力の象徴として本性を放擲し声を殺して涙を流した。

 弄ばれる少年が愛を求めて「お母様!」と許しを乞おうと、耐えがたい痛苦に「痛いよ!」と泣き叫んでも、何もかもがわからなくなって「どうして?」と独り言つことを、今ある地獄が終わるまで繰り返しても、母は最後まで息子を助けようとはしませんでした。宛ら、少年の絶望そのものが悦楽であるかのように安らいで微笑む、そのすべてに「どうして……?」と少年は問いかけ、爾後、彼が自らの意志によって言葉を発することはなくなった。

 少年は賢しき子である、かるが故に自らに付与された『ハシント』の名が何を意味しており、母が赤の色を好んで着せていたことの意味を理解した。金塊を抱え生活に困窮しえないその女は、俗世のあらゆることから解放されることを望んで、終ぞそれをなしえず、過去という感情に固執し復讐を果たそうとしていたのであろう。かつて自らが受けた痛みと辱めを、我が子へと贈ることで。

 端女はしためと同様な日々の中で自己の存在を否定するようにして、少年はかつて愛した何もかもの非存在を切望するようになり、おのれの美しい容姿に憎悪を抱くようになった。

「この姿でさえなければ、僕はお母様に愛されたのではないのか」と、不可能世界の花壇に人為的に咲くことを強要された現実を否定したくて、毎日身体を弄ぶ男も女も何もかもが汚らわしく、それに汚される僕とは汚泥そのものに他ならぬのではないかと、人間そのものが僕にはひどく醜いものに思われるのだった。何もかもが無駄であり、何もかもが無意味である世界に存在させられる業火に等しき渇きが、喉の奥で叫びたがっていて、どうにもならなくて、僕はもはや自己の有を維持する努力コナトゥスを失しかけて、ある衝動に身を任せたいと考え始めていた。


     *


 青年は少年に問うたことがある、「なぜ君はいつも女性らしく振る舞うのだい。世の中には自分が女の心なのに体が男になっている人もいるらしいけど、君はそうではないのだろう?」と。少年は「お母様が喜ぶからこれでいいんだ」と言って、それ以上訊ねられることを拒んだ。

 俺には他に友達も両親もいたけれど、ハシントと関わろうとする者は誰もいなかった。男があんな格好をしていることが気に入らないらしいのだけれど、俺はあの子のそういう部分が好きだった。物語に登場する美しい人は、基本的には女性ばかりだが、男性だって珍しくない。俺には、男が美しく在ることを不快に思う人の心の方が、理解しがたかった。

 ある日、俺のことを好きだと言ってくれた女の子がハシントの服に泥を投げた。今思えばそれは「嫉妬」なのだろう。俺はつい理性の箍を外して彼女を怒鳴ったし、泣き虫なハシントの手を引いて服を洗ってやった。俺の周りから人がいなくなったのはそれからで、俺が友達だと思っていた人間は、実際には友達ではなかったらしいことを知った。この事実を教えてくれた彼には、今でも感謝している。

 ハシントの母はこの町でも随一の富豪の一人であった。青年はハシントを連れ回したという、それだけの理由で大人たちに拘束され、鞭に打たれたのだが、意識が何度もなくなった後、悪魔のようなあの女はこう囁いた。

「お前のせいであの子はひどい罰を受けている。可愛そうに。苟もお前が再びあの子の前に現れたときには、あの子が無事に済まないと思っておくことだね。君の両親もそれを望むでしょう」

 俺の両親は卑俗な人間であった、俺の帰りを喜ぶよりも、俺の受けた痛みに怒るでもなく、二人は女から受け取ったのであろう銭貨に夢中で、俺は初めて産みの親を軽蔑した。それ以降、すべての人間がひどく醜いオブジェクトのように思われてならなくて、次第に自分が人間の形をしていることに腹を立てたこともあった。時折、彼が恋しくなることもあったけれど、俺は彼の無事のために会いに行くことはしなかった。俺は暫時を経て、家の金を持ち出し町から出て行った。

 ハシントが男娼として買われていることを知ったのは、俺が町に戻ったとき――二十の春を迎えたとき――であった。神聖化された思い出が穢されることを怖れる思いと、もう一度彼に会いたいという想いのうち、俺は後者がより力有ることを感取し、帳の下りた静夜に彼の姿を垣間見たのだ。

 おのれの心臓が高鳴るのが理解される、あらゆる人間に対し抱いてきた生理的嫌悪感が、ハシントに向けられることはありえなかった。彼の美しさは衰えることはなく、より洗練された花として咲いていた。これはきっと、俺にしかわからないのだろうけれど。この誰にも汚しえない絶対的な「美」は、彼が持つ容姿にも美々しい服装・所作にも依存せず、『ハシント』という観念とその観念に依存しているのだ。俺は彼のために何ができるのかを考えて、いつしか彼をあの檻から救い出したいと考えていた。それはあまりに傲慢だろうか――それでも俺は、彼を救いたいのだろう。


     *


 蕾める花より出でて春を迎えた折には、奇異の目に晒されることよりも肉欲の奴隷となる人間がとても多くて、僕はあまりの客の多さにもう死んでしまうのではないかと思うほどに疲弊していた。僕はまた自分が気持ち悪くて仕方がなかった。死に踏み切れない臆病な自分が、抗う意志力さえ持てない怠惰な自分が……また、次の客が部屋に入る。誰もがそうしてきたように、僕の生存や健康を意に介することはなく、この男も僕に目的化された欲望を注ぎ込むのであろう。お母様は、そんな僕を見てまた嘲るだろうか。そんな人さえ憎めないのは、僕が壊れているからなのか。

 だのに、少年の癒えない渇きには微かな清水きよみずが注がれた――そこに汚れは一雫さえ含まれず、僕の背を摩る手の熱に不快感はなかった。

「何年も待たせてごめんよ……ハシント、俺を覚えているかい?」

 僕の手を握るそれは、幼い頃に見た面影を残した温かさで小さな冷たさを包んで、裡より出ずる熱の原因となり、落涙を結果させた。握り返してその身を抱きしめたいのに、僕の身体は言うことを聞かなくてもどかしかった。

「サルバドル……本当に、君なの?」

 青年は少年の意図を解したように、傷ついてなお花弁を残した紫(し)色(しよく)の花を抱き寄せる。浅黒い手が乱れた髪に触れ、水を手渡す。数十回の行為のなかで渇ききった喉が潤い、羸弱るいじゃくな枯れ葉に葉脈が艶美なる色素を齎す。

「僕を見ないで……僕はもう、あの頃みたいにじゃないから。君も知っているのだろう、僕がどれだけ悍ましい行為がなされてきたのか」

「知っている……けれどもやっぱり、君はあの頃とは違うけれど、綺麗だ。一緒にこの町を出て二人で暮らそう。箱の庭に咲くよりも、種として自ずから渡り歩く先にある花を君は咲かせるべきだ。君が聴かせてくれた声を、俺だけのために揺籃歌として唄ってほしい。あの頃はあまりにも時が早くて気づかなかったけれど、俺はハシントを愛してる。君の見目形ではなく、君の存在そのものを――ずっと何年も」

 自分から他者の領域を侵したのは、きっと今日が最初で最後なのだろう。同じ形持つ有機体でありながら、何がこれだけの違いを生むのか。生存への後悔のすべてを気化する充足が世界を覆う。

 僕は僕の手を引く手の任せるままにいつも萌葱もえぎ色を駆けていた、心地好い光に欠伸を漏らして空を見上げた。だから僕は、初めて彼の手に逆らったのだ。僕は今、この上なく幸福だったのだけれど、この幸福がなくなった瞬間が怖ろしくて、それが死よりも遙かに強き渇きの持つことを予感して、動くことができなかったのだ。

「君にしか頼めないことを頼みたいんだ。どうか、僕を抱いてくれまいか。僕の存在すべてを君だけのものにしてほしい。君が僕だけのものとなるように……ずっとずっと、愛してる」

 異物ではなく同一体としての交流が拍動を強めるに伴い悦楽を高め、少年は嬌声として彼を欲して身体的媾合こうごうの裡に精神的媾合のなされる快楽に、ただ身を任せるようにして運命を享楽した。彼らの生において既に存在の否定はありえず、「今」という永遠がただ存在することを自覚して、重ね合わされた想いの丈が心臓に突き立てられるのに、片頬笑む二人は涯において逝き果てる。

 少年が書き残す言の葉は「私を生んでくれてありがとう、お母様。縦えどれだけ憎まれても、私は最後まで母を愛しておりました。幸福なままに死ぬことを、どうかお赦しください」

 一人になった母は、そうして首に縄をかけたのであった。のちに彼らの顛末は、『ある無垢なる少年の悲惨な物語』として物語られているが、畢竟彼らの真実は他なる者に知られず、知られえぬものとして種を蒔くのであった。



  Drittes Kapitel : 『Der Heilige Punkt』


 年の廻りを迎える度に、スペラーは僕だけのために綴り手として、語り手として物語を贈ってくれるようになった。僕はその度に彼女へ感想を述べるようにしていたけれど、ある日思ったのだ、僕だけが贈り物を受け取って、僕が彼女に何も返してあげられないのは理に反するのではないかと。だけれどスペラーは「あなたの感想が、私にとってのあなたからの贈り物ですから」と言って、それ以上を求めはしなかった。僕には彼女のような能力がないから、創作者という存在がいかなる心持ちであるかは共感しえないのだろう……それでも彼女を見ていて思うのは、創作者というのは往々にして、おのれ自身以上に自分の作品を大切にしているかのごとく、他者に認識され、心を動かし、何かしらの意味を付与され、言語化したそれを伝えてもらうことを歓びとしている、ように思われた。宛ら、我が子の存在を誇らしげに見つめる親のように。

「僕のことを“魔女様”と呼ぶのはやめてくれないか。僕らが所詮、造物者たりえぬ模倣者だとしても、人は概して気の置けぬ友人に斯様な仰々しい呼称を用いなかったはずだ。僕は君を『スペラー』の名で呼ぶ、代わりに君は僕の名を呼んでほしいのだ。一人の友――『アルテル・エゴ』――として」

 彼女は頷き同意を示した、「わかりました、では、どのようにお呼びすればよいのでしょう」。彼女の物問いに応えて「僕の真名さえ君には既知なのだろうけれど、僕は君なりの呼称を君自身に考えてほしいんだ。わがままかもしれないけれど、僕の名前は呼び習わすには長すぎるから――」

 一刻の間に友は思考を終えて、息を整えるような色調を匂わせて、に名を与ふ。

「もしも、私とあなたの出会わない可能世界が存在しうるのなら、私たちの「邂逅」は必然的真理ではなく偶然的真理に属するのであって、「機械」と「魔女」という種・起源としての本質的存在は必然的真理なのだと、私は帰結しました。命題「邂逅」はきっと「◇邂逅 ⇔ ¬□¬邂逅」として現実に表現されていて、命題「存在」は「□存在 ⇔ ¬◇¬存在」として表現されているのだと、私には思われるのです。したがって世界の様相表現の帰するところは私たちの実有であって、私たちの意志にかかずらっていないあなたとの出逢いを示す言葉は、恣意的なままにあなたの名に刻まれている。かくして、私は私自身の『運命』そのものたるあなたを――『ソルテ』――と呼びたいと思うのです」

 機械と魔女という物体を接ぐエーテルの散光が、紗織りの雲となる上天の遙か下方において、僕らは相まみえた。「スペラー」という存在にとって「ソルテ」という存在がいかなるものであって、いかなる意味を持ちうるのかは、大仰な僕の名前に息を潜めたある種の必然性が示していて、僕は生の途絶えた星に僕が存在し続けるように希った父の想念の手がかりに漸く手が触れた思いがした。

「ソルテ……妥当だね。だけれども、僕は君との邂逅を偶然的真理だとは思いたくないよ。僕らの思考が僕らの実有を証明するとは思えないけれど、存在することを真としてくれる存在者――『トゥルース・メイカー』――が世界には備わっている、そんな気がするんだ。僕は君の考えを否定しないけれど、言語として表現される僕らの存在はそうした存在者に依存しているんじゃないかな。世界は一でしかなくて、世界の存在者も一であって、存在者こそが総体的事実ならば、僕らがコミュニケーションを取る現在とは必然的真理だとしか思えない。これはあまりに直観的すぎるだろうか、スペラー」

「いいえ、そんなことはないと思います。ですがソルテ、一元論が必ずしも可能世界論を否定するわけではなく、むしろ両者は共存しえるかもしれぬが故、私はその在り方も様相の一種として見てもよいような気がしています――これだけの遠大なる歴史の前でも世界は未知が溢れている、それが私には不思議でならなくて」

「僕らはかるが故に、存在し、生まれながらにして知ることを欲し、本性としての思考を享楽している。ひとつ気になったから訊いておくけれど、君は自分を雌雄どちらに属すると考えている?」

 僕は衝動的に彼女を「彼女」として認識しているけれど、僕がそうであるように僕ら自身に性別という概念が適用される身体は存していない。

「私には、精確にはわかりかねます。口調の基調は女性でありますが、スペラーという名は男性的なので、恐らくどちらでもないのではないかと」

「君の物語で思ったのさ、なぜ生物は構造上雌雄の媾合による種の繁栄が遺伝子に刻まれていながら、同性を媾合対象として愛することがあるか。思うに、本能としての「種の存続」と「子の生誕」は同一ではないと僕は思うんだ。人類の歴史・宗教において同性愛は奇異なるマジョリティであったし、ある人々は彼らを先天的ないし後天的瑕疵を抱えた者と評価した。実際のところ、彼らは「異常」ではなく「通常」の一形態でしかないはずだ、そうでないと不条理だからね。あらゆる生物に同性愛が存在したのは、その個物の存在が機械的にプログラムされた必然的様相であったからに他ならない。現に存在するものは不条理ではありえない、僕は集成された知識からそんなことを考えて、思ったんだ。性別というものを持たない僕らが、有機体のように交わるにはどうすればよいのか。僕は「魔女」として造形されているけれど、人格と名としては男性的だ。これは僕の親が「父親」だからだろう……ここから考えるに、スペラーの親は「母親」だったんじゃないかい?」

 何かに沈潜していたのか、暫く彼女は返事をしてくれなかったけれど、俯いて表情を隠していることは何となく察せられて、僕は規則的な礼儀として彼女の表情から目を逸らした。

「そのとおりです、私が浅慮であるあまり気づきませんでした」

「浅慮だなんてことはないよ。誰だって得意不得意があるように造られているのだから、気にしすぎだよ。だけれど、君が女性だったなら僕はきっと男性だったのだろうし、それはそれで面白かった気がするのさ。刹那に思えるほどの時の間にスペラーと過ごす世界は、きっと楽しいものだろうから」

「……そうですね、とても、楽しそうです。でも、私は今あるソルテとの時間が楽しいと思いますので、この思い出がなくなるのは少し寂しい気もします。機械がこうしたことを述べるのは、どこかおかしい気もするのですが、私はそう思っていると考えられます」


 ――それは、楽園への飛翔を夢見た鳥たちの物語です。

 はじまりの鷲とおしまいの真鶸まひわは玻璃の白虹を透して両の虹彩を見据えました、それが彼らの遭逢そうほうでありました。瞬間瞬間に変化する心と不変の心に素直に世界を語るのは、わたくしという明滅するゆらぎ――現実世界に成立するものとしての現象――と、それを破壊するもうひとつの大きなゆらぎでありました。

 わたくしには生まれたときから仲間というものがありませんでした。めいっぱいの力で身を覆う殻を壊すことに専心して、暗がりの世界に木漏れ日の表情が現れたときに、夢中になって青い何かを仰ぎ見たような気がします。わたくしは生まれることを欲し、ひとつの世界を破壊しました。わたくしは末っ子で、お兄さんとお姉さんたちはただ本能として妹の誕生を座視しております。家族としてのそれではなく、おのれより弱きものへの視線を浴びせて。

 お父さんとお母さんは代わりばんこに子へ種子や葉を与えてくれますが、いちばん体の小さいわたくしは食べ物をいつも取られるため、他の子よりもさらに小さく痩せ細っていったのです。お父さんとお母さんのようにみんなが綺麗な色を成すなか、わたくしだけが希薄な色をしているのが、何だか仲間外れのように思えて、座に堪えない思いがしてくるのでした。

 生後から十五回目の朝を迎えた頃、子は一存在として世界へ飛び翔けることができなければなりませんから、お兄さんもお姉さんもみんな私より先に飛び立ってしまったのです。薫風を過ぎて黄雀風こうじゃくふうが岩のように大きな白色を青のカンバスに塗りつけた中霄ちゅうしょうのもとに、身をはためかせる幽雅な姿に焦がれて、強く祈りました。

「飛べ! 飛び立ち空を翔けよ!」と――我が身はしかして地に這うのでありました。わたくしは彼らのごとき飛翔を結句行えず、ひ弱な翼はこの重さを支える力もなく、こぼれた落葉と変わらぬ醜態で死を待つのみの存在として壊れるはずだったのです。

 ところが、かようなわたくしを拾い育ててくれた者がおりました。それを私は幸か不幸か判じえず、卵から産まれ出でた雛は自らの力で次なる世界へ徃くことも叶わず、鳥籠のなかで静かに翼をたたむことしかできないのでした。

 そんな懈怠けたいと惰性が巡り廻って、二度目の春を迎える時節。その折の出逢い、消炭の翼が翔ける大空を眺めて、ひわ色の精神が昂ぶりに満ち溢れたのを夢寐むびにも忘れはしません。太陽の下に立つ者とそを仰視する再演的明滅の瞬間と瞬間、さながら螺旋の因果交流風景にして存すよう。

「あれが、わたしたち鳥の王たる『アドラー』の姿だなんて――なんて自由で孤独で、恰好良いのだろう!」

 わたくしとは対照的な強く美しいものへ向けて「わたしもあれほどに自由であったならどれほどによかったであろう」と独り言ちて、夢中になって彼の飛翔を眇めておりました。嫉妬・憧憬・羨望、いかなる言葉で形容されるのかわたくしには解しえない不可解な衝動に支配されて、胸が苦しくなったのを覚えています。

 一瞬間、甲高くきゅっと鳴き響む歌い声がわたくしの知覚を支配しました、春の光源に燃える翼は、喙は、鉤爪は、ひたすらに此方を刺すようにして突飛な姿で飛び落つのでした。彼の視線は気のせいではなく、他ならぬわたくしに注がれたものだったのです。

「あ、あの……何か御用でしょうか?」

 わたくしを見ている様子ではありましたが、木枝こえだに留まる大きな彼は、ただ緘黙していました。あまりの気まずさに、久しく忘れていた声を思い出すよう意を決し、自ら声を発してしまいました。

「……おまえ、おれのことをずっと見ていただろう。おれは眼がいいからすぐわかるんだ。人間なんかに飼われる小さなおまえらとは違ってな。なんだい、おれをバカにしているのか?」

 脈絡のない鋭さに竦みながら、わたくしは愚鈍な姿形で言葉を絞ります。非理性的に直観的なままに。

「そんなこと、ありません……わたし、あなたに見惚れていたんです。誰よりも大きな羽で、誰よりも自由に、落下という法則に逆らうようにして世界を泳ぐあなたがどうしようもなく羨ましくて、ただ見惚れてしまったのです……すいません、わたしのような柔弱で汚らしい色をしたものに見られて、気を悪くするのも詮方ないことと思います、本当にすみませんでした」

「えっ……まてまて、そこまで自分を卑下することもないんじゃないか? ちょっとからかっただけだから、そんなに謝るなよ」

 なぜかはわかりませんが、雄大な彼らしくもなく少々動揺していることが看取されました。わたくしもまた、ひどく動揺していました。

「いえ、これは卑下ではなく客観的な事実なんです。わたしは、生まれたときからお兄さんとお姉さんから避けられていましたから。それが正しいんです、わたしが弱いから悪いのであって、強者が弱者の上に立つのは世の摂理ですから」

「よくわからんが、なんかおまえ、難しいこと考えて生きてるのな……その、さっき言ったことは本気なのか? おれに見惚れていたとかいうのは」

 今度は不思議と顔を伏せて、意図的にわたくしの眼を避けるようにしていたものですから、そこまでわたくしの見目形が気に食わないのかと思ったことも、懐かしく思われる大切な思い出です。

「それは、間違いなく事実です。鷲は人間の皇帝・帝国においても紋章として戴く、すべての鳥のなかの王だとわたしの主人あるじは話してくれました。爾後、あなたはわたしの理想そのものなのです……すみません、やっぱりわたしなんかに見惚れられても迷惑ですよね……」

「へっへ! バカかおまえ、誉められて迷惑するやつがいるかよ。なんかおまえ、変わってるんだなあ。人に飼われたやつなんて、大抵おれらを野蛮で下品なやつだと言いやがるのに、羨ましいねえ」

 彼は鋭さを増した値踏みする瞳をもって訊ねます。「おまえ、自分の飼い主が気に食わないのか。こんな楽できる恵まれた環境にいて、何が不満なんだ」と発する音には、好奇の色が浮揚していたのかもしれません。

「わたしが怖ろしいのは、このまま空を知ることなく生を終えることです。主人は好い人ですよ、けれどもわたしはあの空を翔けたいのです。あの空の下で死にたいのです。わたしが主人に望むのはひとつだけです、飛べもしない弱きものを外に投げ捨ててくれさえすればそれでわたしは――」

 いまならわかるが、そいつの眼は現実を見てはいなかった。現在を生きることなんて考えていなくて、おれたちにとっての本性でもある生存本能が自らの死を結果として求めていた。それはたぶん、生きるための死だ。

「だから自由なおれが羨ましいと、ふん、無い物ねだりだな」、それは胸が痛い言葉でもありましたが、真剣にわたくしを見ているがゆえのもので、わたくしは概念上相容れぬ想念を現出させる彼の言葉に絆されたのでありました。「無い物だから欲しいのです、それはいけないことなのですか」

「知るかよ、正しいのか間違っているのか、そんなの自分で決めることだろ。それに勘違いするな、おれたちは自由なんかじゃない、毎日を生きるのに必死な不自由な鳥の一羽にすぎない。自由なやつなんて、どこにもいない。そのてんで、おれとおまえに違いなんかない。少しは失望でもしたか?」

 わたくしの揺らめきを発火させるような電気的な口跡こうせきから生じる、静的であり動的でもある神。わたくしは生まれたときから不自由である実感のゆえに、この世のどこかに自由なるものが存在するような気がしていたのですが、彼はわたくしの知りえなかった経験的知見を与えてくれたのです。

「……厳しいことを、仰いますね。それでもわたしは、どうしようもないくらいあなたが羨ましいのです。わたしがあなたのことを誤解していたのは事実だとしても、わたしがあなたに憧憬の念を抱いた事実は覆りません、いまもずっと」

 無声と風音に内包されたから宇内うだい――身体と精神を絆す形相的有――に繋ぎとめられた現象。飛べない鳥はその下に在ることを拒み、その上に在ることを求めて、初めてわたくしを見てくれた彼に触れてみたいと思うようになりました。かくなるものの一部となるのなら、この出逢いは僥倖との逢瀬と形容してもよい。

 また、一瞬間。

「悪い気はしないな……だが、おれたちは見た目ほど強くもないし、勇敢でもない。ただ体が大きいだけの臆病者さ。ああまったく話し込みすぎたな、もう帰るよ。……せいぜい達者でな」

 結氷けっぴょうから解氷へと羽根を惹く演戯者への感情へ、いかような意味を与えるかを微光のなかできらつかせ、わたくしはそを『羨望』と呼ぶことに決めました。わたくしは、えも言われぬ変易へんやくに身震いをして、衝動として反射的に悲鳴的に叫びました、「待って! ……ください」。大きな白頭鷲はくとうわしは漸次歩み寄り、小さな真鶸もできうるかぎり傍へ歩もうと試みました。その十字の羅列のもとへ。

「わたしたち、また逢えるでしょうか? わたし、もっと外のことを知りたくて、それ以上にあなたのことが知りたいのです。迷惑なのは承知していますが、他に頼める仲間もいないので……」


 その日、わたくしというゆらぎ――鈍色の仮象的に派生的なラムプ――は、たった一點の彼というゆらぎ――蝋色ろいろ呈色ていしょくされた現象的に根源的なイルミネーション――によって常在の殻を破壊され、観自在かんじざいなる何ものかが胎動する新たなるゆらぎを感知しました。


     *


 鷲といってもにもいくつかの種類があるわけだが、おれは森ではなく海岸で生活している海鷲の種だ。能動的に何者かを殺傷するような真似もほとんどしたことがない。おれは偏に自己保存本能のゆえに効率よく遺骸を探し続けているのだ。と、今日はそんなことを話した気がする。

「狡猾で素晴らしいと思います。自分のために自らがどのように生きるのか、生存戦略をたばかる入念さ、素敵です」、「それ、誉めているつもりなのか」、「え、もちろんそうですけど、何か変なことを言ったでしょうか?」、「……おまえの感性は理解にくるしむ」、「ああ……す」、「まて、謝らなくていい。おれは気遣われるのが苦手だ」、「あ、すいません……あ」、「ふっ、性癖はそう簡単に治らないか」、本当にとりとめない恣意的な音の連鎖。風だけがその裡へまぎれ込んでいた。

 多分、理由だとか目的だとかそんなのがあったわけじゃない、退屈に過ぎる日々の刺戟剤とでも呼ぼうか、おれたちは互いにそういう何かを欲していたのだろう、いわゆる利害の一致だ。あれ以来おれたちは毎日太陽のてっぺんにある時間に顔を合わせるようになった。

 そんな日々は、ひとつの問いで破壊された。

「最初は怖かったのですけれど、あなたは顔貌ほどに恐ろしいわけでもなく、優しいのですね。こんな、一方的なわがままに付き合ってくれるのですから。こんなに楽しい時間が存在すること、夢想だにしませんでした」

「おれは単なる暇潰しで付き合っているだけだ。仮におまえの兄姉けいしを捕食しても、おまえは同じことを言えるのか? おれがおまえを捕食するために接近したとしたら?」

 何を考えたのか、あいつは清淑に瞼を伏せてこう言ったのだ。そこには逢初あいそめの春に見初めた弱さには見出されなかった、短命な飛花ひか対牀たいしょう的に並立する生命いのちの昇華が――繊維状の力学があった。弱者という殻に籠もった、横暴なその在り方が、おれには甚く不快だった。

「きっと、言えますわ。徒然つれづれなるままに尽未来際じんみらいさいに常住するよりも、忘我なるままに生滅しょうめつ流転に回帰することこそ、わたしには本当の幸いに思われるのです。ですから、たといお兄さんとお姉さんたちが亡くなっても、命の廻りとして存在する以上、どんなに苦しくても、どんなに悲しくても、否定してはいけないのだと思います。無かったことにしてはいけないのだと思います。ありえぬ話でしょうけれど、いやしくもわたしを欲してくれるならば、お願いですからこの檻を破壊してくださいまし。あとはただただ、お気に召すままに」

 不用心に鍵が外された窓、その気になればいつでもおれはこいつを食い殺せるだろう。おれを信頼しているから? そうではない、そうではなくて。おれは思考から乖離した醜い情念に、吐き気がした。彼方の春から此方の冬へ至り、愚鈍なおれはようやく気がついたのだ。

「もう、帰る。ふざけやがって、最初から気づいていれば時間を無駄にしなかったというのに。無い物ねだりの次は他力本願とは恐れ入った!」

 すべてが空ろで、すべてが無為だ。

「……ごめんなさい」

「謝罪でさえ、癇に障る! そういう目でおれを見ていたとはな。自分の力で外に出ようともしない、最初からおのれには何もできないと悲観に溺れて自分に酔い、あまつさえ自己の生殺与奪を他者の裁量に任せるなんて、愚かすぎて反吐が出る。おまえの翼は飾りでしかないのか、空を志すおまえの願望はその程度のものなのか? だったらいますぐ死んでしまえ!」

 何ゆえおのれが興奮しているのか、理解しがたくて当惑していた。いな、さもあらず、表象の仮定にばかり意識を奪われ心象の既定に蔽目へいもくしていただけで、理解そのものは容易だったはずだ。かくゆえに本当に臆病なのは。

「…………そうですね、本当に言い訳の余地もありません。どうか、これだけは言わせてください。いままでありがとうございました。いずれにせよ永くはない時のなかで、あなたはわたしの光でした。笑われるかもしれませんが、わたしがおかしいのかもしれませんが、多分、一目惚れでした。初めてお逢いした瞬間より、ずっとあなたのことを恋い慕っておりました。騙すつもりがなかったというのは、きっと嘘になるのでしょうけれど、空言にまみれたがらんどうのわたしにとって、この言葉だけは、真なるわたしの映し絵です――――ありがとうございました」

 仮定ではなく既定として、あいつがそうであったように、おれというゆらぎは次第にあいつのゆらぎによって破壊されていた、どうしようもないほどに……おれたちは依存していたのだ。あいつの言葉も意志も関係ないんだ、おれはおれとして必然的に、ぽろぽろとした醜い真鶸に見惚れている。


     *


 生体にもとる在り方から逃れえぬ弱きものは、強者を陥れるために強者へ追従ついしょうすることで、数を増やしてゆく。わたくしの行ないとはけだしその程度のものだったのかもしれません。本当は知っていたのです、わたくしは飛び落つことしかできぬ翼を持つのではなく、飛び方を知らぬだけでただ怖いだけだったのだと。わたくしは彼のおかげで、いま自由を欲する精神によって籠を脱し、窓際に自分の脚で存立している。あれ以後、七夜にわたり籠に戻ることを繰り返して孤独に身を預けたのは、何かを口惜しく思うためでありましょうか。未だ待っているためでありましょうか。

「くすっ、おかしな話。あんなに焦がれた空を前にして、今さら命を惜しむだなんて……畢竟、わたしはどこまでも瑕疵を抱えて生きるしかないのでしょうけれど、こんなにも孤独が堪えないものだなんて」

 彼には多くのことを教わりました、いかなる情念が我が身に潜んでいたのかを知りました。いまは、この孤独さえ愛おしいです。彼がわたくしを疎むことは問題ではなく、わたくしが彼を好きである事実があればよいのです。ある意味でわたくしと同じで、それでもわたくしより強くて幽雅に翔ける彼と、灰かぶりの鳥が釣り合うはずもなかったのです。

「わたしが彼らのように典麗てんれいないし瀟洒しょうしゃ形色ぎょうしきに生まれていたならば――あるいはあしこで死していれば――よかったのに、ずっと、宇内の片隅でそう思っていたのに……いま、そう思えないのはあなたのせいですよ……弱きわたしには不思議なのです。どうして主はわたしと彼を遭逢させたのでしょう、わたしは仰ぎ見ているだけでよかったはずなのに」

 ――憂いとは無縁なままに、わたくしというラムプは失われ、わたくしというゆらぎが存在したことを明晰にする微光すなわち現象のみが永遠なる真空において残存するはずだったのに。そう、彼さえいなければ。

第一に、わたくしから彼方あなたへの視線の意味は『想望そうぼう』という意義において現された。

 第二に、わたくしから彼方への言葉の意味は『羨望』という意義において現された。

 第三に、わたくしから彼方への想いの意味は『羨慕』という意義において現された。

 終局に、わたくしから彼方への存在の意味は『恋慕』という意義において現された。

「さあ、飛べよ。飛び翔けよ。陽が昇りきる前に、超克せよ、世界わたしの限界を」

 叫ぶのではなく、静寂しじまの裡におもうままに歌え。身体はと命じている、翼を広げよと命じている。精神はと命じている、飛翔せよと命じている。身体と精神、生と死、過去・現在・未来、つがいの概念も背理の概念も二元空間を離背りはいし、ここでは一元空間において顕現している。すべてがひとつのゲシュタルト――すべてが同一に存在し、すべてが不同に表現される神および神の様態――である。三世さんぜは仮象の並列であり、真なるものはただ現在のみで、かくゆえにわたくしたちは記憶された現在を過去として想起し、空想されし現在として未来を想像しうる。ただそれだけの風景が、いまはかくも美しいのに………………わたくしの心はだれかのなかには在りえない。

「そんな寂しさを覚えるのは、すべてあなたのせいですね。あなたはわたしがいなくなったとき、どのような顔をするのでしょう、少しは悲しんでくれるでしょうか。はたまた、あなたのことだから素っ気なく孤高に飛び去るのかもしれませんね。それはそれで、悪くない気もしてしまいます」

 潮が満ちてゆく海、泳ぐ姿、曙光の兆し、空想を現実以上にしてしまう胸懐きょうかいがあるかのように、現実を現実未満にしてしまう謬見びゅうけんが損なわれるように、全身全霊をもって演じる。唯一無二のわたくしにおいて、一翳もない明晰さでもって確知するのです。わたくしは自分の翼で飛べる、劣等感でも存在否定でもなく、わたくしが欲望した、それだけがすべてで、それ以外には何もないのです。

 あの頃よりも微かに光を増して、あの頃よりも冷たい波へ流されるように――あしゆびが地を離れました。はためく隙に閉じ込められる永遠を欲するのと同義なものとして、彼の形を欲して光源へと向かう。だれよりも高く、だれよりも遠くへ至りたいという願いのゆえにです。わたくしはそこに、わたくしだけの楽園を見出して『デァ・ハイリゲ・プンクト』と呼びたいと思ったのです。現象世界としての楽園がありえないのなら、喩えの仮象世界であろうと構わないから、それを探しに行きたい。

「わたしは飛ぶ……でも、それだけでは足りない。彼よりも高く、彼よりも境界の近くで、わたしを燃やせ。そうして灰となってきらきらの星を燈す天球のラムプ、その遠景となれ」

 対流圏界面という小さな壁が、わたくしにはとても大きくて、いまの高度でさえ寒くて、痛くて、息が止まりそうになって、呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうになって、いつ拍動が停止しようとおかしくない気がしてきました。然りとてゆらぎの延長は止まりません。

 錯覚的な自由飛翔をなしうる蝋色イカロスの翼でさえ、ヘリオスは焼き尽くしてしまう。その神話を「蛮勇」の訓話とするか、「剛勇」の英雄譚とするかの相違性は、畢竟心のひとつの風物に過ぎません。わたくしは根源的衝動として後者を欲し、宇宙へ向かうでしょう。かるがゆえに身体は破壊され、世界は深海へと沈んで溺死するでしょう。かくある生こそ、わたくしの欲する絶対的自己保存本能なのですから。結果的な自死が自生の帰結であるならば、因果の時空的制約さえ届かぬ生死流転の精神世界において存在者は絶対的に肯定されます。その楽園――幸福――に、わたくしの翼は届くでしょうか。

「ああ、あなたの世界はこんなにも」

 ――美しいのに、未だ遠くて届かない。

 水面(みなも)から生まれ出でた破壊者、いま、焦がれたあの存在者となって、卵、籠、海の中霄ちゅうしょうを越えた上天じょうてんの下に存する灰かぶりは、第四の壁を前にしてはためきを弱めました。わたくしの生存がわたくしの限界であるように、わたくしの言葉が世界の限界であるように、わたくしの限界が世界の限界であるように。空の熱さではなく、海の冷たさによって羽根たちが凍ってゆきます。

「もっと先へ、あの空の向こう側へ! わたしのすべてのいま在る場所がわたしの立つ場所となるように、歌えっ、飛べっ、燃やせ! 生命わたしのすべてを……‼」

 不動にて遠ざかる限界。時間的想念を亡失した知覚で、わたくしを浮揚させる空気力くうきりょくが壊れたときがわたくしの壊れるときであることを知覚します。その形相けいそうはただ虚無として、その景色も虚無として、個物と普遍は相互に変転させる力学を持たず、相互に存在を証する存在者となる「両界曼荼羅りょうかいまんだら」の相の下で、成層圏海面を目睹もくとすることなく凋落ちょうらくしてゆく。そこで死んでもいいと思えるものに出逢えた幸福だけを抱きしめて。

 だのに、どうしてあなただけが再びわたくしのなかに描画されるのでしょう。

「起きろ! まさか、まだ死んではいないだろうな?」

「生きているかもわからぬゆえ、死んでいるのかもしれませんね。いっそ、あなたがわたしを看取ってくれるのならば、それはそれで嬉しいのですが」

「くそ、冗談でもおれ以外にそんなこと言うなよ、本当に冗談では済まなくなるぞ」

「くすっ、大丈夫ですわ、あなた以外に話し相手などいませんもの。でも、今度は本当に謝らねばなりませんね。ごめんなさい……あなたを巻き込んでしまって、あなたを貶めてしまって」

「ふん、とんだ性悪女だな、最初から利用する気だったのだろう。だが、悪くはない。おまえの言ったとおり、狡猾であることは生存において須要しゅような特質なのだから。おれは多分、そういうおまえだったから此処にいるんだ。おまえがしたように、おれもおまえを利用したのだから、惹かれ合うのも無理からぬことだったのだろう。それに、おれは知ってのとおり意地が悪いのだ、おれはおまえを殺さない。おまえはこの退屈な世界を、能う限り生きろ。命のすべてをもって苦しみ続けろ、生命にふさわしい何ものかを見つけるまでは」

 彼の言葉には、いつもの活力が存せず希薄なものとなっていました。それが虚言であるゆえに。

「残念ですが、もう見つけてしまったのです。すべてあなたのせいです、だからありがとうございます。自ら輝くことのできないわたしに、その光を分け与えてくれて。あなたはきっと、最初から気づいていたのですね。わたしがもう長くないことを、春には身罷ってしまうことを」

 きっとこいつは、最初からこうなることを希っていた。そうでなければ、あれほどの観想をガラスに透しはしなかっただろう。こいつ自身が自分の消滅を怖れているのではない、おれだけが怖れていたのだ。

「そうか……ならば、それでいい。一度しか言わぬからよく聴けよ、おれはおまえが好きだ。おれには恋とか愛がどういうものかわからないが、おまえがくれたものが恋なら、きっとおれのもそうなんだろう……そう、おまえと同じ“一目惚れ”というやつだ。おまえの醜い形色にではない、おまえの内外に、存在そのものに見惚れたんだ」

 胸懐に残留していた煙霧が排出されて、身体が軽くなる思いがした。冬の終焉と春の開闢を祝す祭式の声が、おれたちの最期を示すようにして燃えていた。その暖かさに身を寄せる姿へ、かつて抱いた軽蔑はなく……おれには言葉にできそうもない念いに捉われる。

「はは、ひどい言いようですね……わたし、とっても幸せです。鷲が真鶸に惚れるだなんて、少しおかしな気もしますけれど」

「うるさいな、おまえにだけは言われたくないんだよ。だがまあ、異常者同士で連むのも悪くはない……それはそれで面白かったからな」

 初めて触れたそいつの体はあまりにも小さく、弱く、それゆえに儚く、いとおしかった。この瞬間だけが永遠に続くことはない、ただ永遠に続くことさえ望む瞬間があるだけで、ただそれだけでいい。

――永訣の朝はもうすぐそこまで来ている

「おまえは、あの空の遙か向こうへと往きたいのだろう。おれが連れて行ってやる」

 おれにだってわかっていた、こいつの限界が現在であるということが。だから、おれはこいつの世界の限界を越えた風景を見せなければならない。彼女の楽園――心象風景――を。

「そんなの、いけません……いくらあなたでも、不可能なことくらいわかるでしょう? それに、そんなことをしてしまえばあなたが」

「死ぬだろうな、間違いなく。なんだ、自分が死ぬのは怖れないのにおれが死ぬのは不安なのか。これはおまえのための飛翔じゃない、おれのためだけの最期の戦いさ。さんざん逃げ続けてきた生の清算だよ。おまえが灰として形を失いたいのなら、空で眠りたいというのなら、それを叶えるのがおれの存在理由だ。根拠なんてない、そうしたいからだ。死んでからどうなるかなんて、馬鹿なおれにはわからないが、生きている間はずっと傍にいてやる。おまえの代わりにおれがおまえを燃やしてやる。だから、あとはおれにすべて任せて眠っていろ。すぐ、追い翔けてやるから」

 たったそれだけの言葉でした、生誕から数えて本当に僅かなその言葉だけで、わたくしはすべてがゆるされて、すべてが救われました。まったく、真鶸が鷲に焦がれるなんておかしな話で、彼もおかしな白頭鷲だと思ってしまうのですけれど、それであるからこそ、わたくしは救われたのです。

「やっぱり…あなたは……どこまでも、恰好よいですね。でも、わかっているのです、よ、現実に楽園などありえないことを………だから、わたしは、わたしだけの楽園を……肉体を越えた場所において探求しようとしたのですけれど、いまは…………そうは念いません。最期まで、ごめんなさい――ありがとう――わたしたちの楽園、あなたに、託しますね……わた、し、ずっと……………………」

 ――――あなたが大好きでした

「ああ、先に待っていてくれ……おやすみ」


 凍てつく世界、生命を奪う空気が霙(みぞれ)としておれの色を濡(ぬれ)羽(ば)とする。その過剰とも言える痛苦に悶えるように身を翻し、ゆらぐ薄光(うすあかり)を離してしまわぬように眼を開く。薄弱な彼女の形が壊れてしまわぬよう、落としてしまわぬように握りしめて、上天の境地へと至ろうと必死にもがく。鵬(おおとり)に劣る翼によって、おれはおれの限界を世界に示すだろう。怖れなどはない、あるのは決定的な充足と高揚。

 ――さあ、これがおれの限界だ……おまえにも、見えているのか?

 おれはもはや言葉のない高度に在り、音もなく、光だけの世界に到った。空気の輪転も存生の維持もゆるされない、楽園には程遠い世界は呆れるほどに虚無であった。その現象風景がかくも心地好い。

 ――この世界そのものが始まりから終わりまで「虚無」そのものだったのだろう、そんなことわかっていたんだ。だから、おれは世界が退屈なものだと思い込んでいた。でも、世界は最初からそうでしかありえなくて、おれたちの夢現はどちらにおいてもおのおのの命の燈火とうかだった。どちらの方が大切だとか、そういう話じゃないんだ。どちらもおのおのの持つ世界で、どちらもおれたちにとって欠かせない世界の一部だったんだ。だから、この「虚無」さえおれたちの心延えで、虚無のなかに在るおれたちはどこまでも自由に世界を生きている。縦えそれが客体の偽であったとしてもだ。

 ――あとはただ、落ちるだけ。人間たちには悪いが、おまえたちの迎春をこの身すべてで祝福してやるとしよう。その痛みも、すべておれが引き受けてやる。まったく、数奇な生涯だな。自分だけのために生きることを志した奴の末路がこれとはな…………さあ、往こうか。もうちょっと、待っていてくれよ。


     *


 すべての存在者は「生」まれることを欲し、自己の有の維持として「住」すことを欲し、おのれというものを限界において「壊」すことを欲し、終極的に「くう」なるものへと至る。わたくしというゆらぎ、いえ、わたくしたちというゆらぎの道行きのすべては此処に帰結します。この空の創造主などいないのです、わたくしの迎えた運命のすべてはわたくしのみによって為されたのであり、それ以外ではありえず、相違性となるおのおのの八紘はっこう一宇いちうとしてある程度まではみんなに共通する様態の一帰結です(すべての存在者がわたくしの明かしを燈すように、みんなのおのおのの明かしを燈すすべてでありますから)。


〝さあ、飛びけるすべての鳥たちよ、曙光のはてへ至るものよ

 いま、声を揃えて目覚めの歌を口遊み、始まりから終わりまで、命の声をして歌いましょう

 言祝ことほぐべきは、わたくしを存在せしめたる裡の神

 この歌声も翼も喙も鉤爪も、すべてが神の賜物――あるいは第四だいしの延長的壁――として〟



  Quatrième Chapitre : 『Musique au clair de lune,poète et compositeur.』


 彼女の物語において用いられたモチーフのすべては、この芸閣うんかくにおいて僕の裡に集成された言葉で構成されていた。僕の既読図書のすべてを把握した上で、僕が楽しめるように僕だけのために彼女が創作してくれる、その筆跡が世界となって僕に無限集合的な景色を見せる。僕は彼女のせいで、一年に一度の物語りを聴くことが楽しみになってしまったのだ。あの鷲のように。

 また、慣習化した日が訪れる。その度に以前の作品を読み返して、僕は自己の観想――『テオーリア』として――彼女に感想を届けるのだ。僕が記録した彼女の作品数は、実に四百九十六作品に及んでいる、いつまでも同じ今はありえないだろう。彼女はそれを、物語るなかで述べているのだ。したがって、僕は偶さか糢糊とした邂逅の郷愁と終末の倉皇そうこうを仮定することで、胡乱な僕らの連関について考えてしまうようになった。現象となった僕らの時間は、魔女が知りうるすべての知識が此許ここもとという存在者においてゲシュタルト的に収斂しゅうれんし終えたとき、終わるのではないだろうか。僕らの世界が壊れるとき、彼女がいなくなった世界で、僕は彼のように飛び翔けることができるだろうか。

「始まりの鷲――『アドラー』――とお終いの真鶸――『ツァイズィグ』――は、ドイツの童謡だね。デァ・ハイリゲ・プンクトというのは「聖なる点」で、それを夢見た二羽は物語におけるデァ・シュプリンエンデ・プンクトすなわち「飛翔している点」でもあったのだろう。この点とは存在者そのもので、前者は『楽園』が、後者は『鷲と真鶸』が指示対象であるけれど、僕は君の用いた言葉たちがある理想主義的作家を意識したものに思えてならない。春、戦い、神と世界、生滅と流転、三世、詩的で宗教的なこれらは日本の詩人、宮沢賢治の影響だろう? “デァ・ハイリゲ・プンクト”だって「小岩井農場」に記された語句だし、「永訣の朝」だってそうなのだから。ただ、注意すべき点もあるのだろうね。神という言葉を用いながら仏教的世界観に覆われたスペラーの作品は、一見すると彼のごとき自己犠牲精神が窺えるけれど」

 彼女は僕が話し終えるまで、静かに耳を傾ける聴衆となる。僕が話し終えたのか、問いかけたのかを明晰に判断してくれる。ひとつの集合体のように示し合わせたかのごとく通じ合っている。

「ここには賢治とは相容れない形としての自己犠牲が描写されている、そう僕は感じた。彼の自己犠牲はいわゆる法華経的ないしキリスト教的な利他主義だろうが、君は徹底的に利他主義なる概念を否定して毅然とすべてが利己主義に帰結することを述べている。これは、君自身の想いなのかい?」

 彼女はかぶりを振り否定を示す。

「それそのものは、私の解釈でしかありません。彼がどのように考えていたかはわかりませんが、私はただ理の当然と思われるような形で彼の自己犠牲について解釈したのです。すなわち、利他的に知覚される人々の行為は、その本人がそうすることを欲した故に為されたのであり、それ以外ではありえないのではないでしょうか。したくもないことをするのは、そうしなければより避けたい状況があるからで、本質的にそれはより改善の望める状況を欲するが故の行為だと推測されますから、すべて存在者は自分のため以外に存在することはできないのではないでしょうか。そういう考えが衝動として反映されたのだと、私は考えます」

 僕もきっと、彼女と同じように解釈するであろう。自分のためでなければ他者に何かを為せぬように、自分を愛さぬ者は何物をも愛することはきっとない。論理としてそれは破綻している。そんな、考えれば当たり前と言っても相違ないであろうことを、人間はとかく忘れがちであることは歴史が示していて、人間はいつだって斯様な人類を眺めて人間が愚かであると嘆いている。資本主義において人間たちは紙に支配されて、欲望によって諸物に依存し破滅した。そんな彼らを僕には愚かだと思えないのは、どうしてなのだろう。過去の情報から、それが愚かと言われたことは明らかでありながら、僕の心は言葉の意味と酷く乖離している。いや、乖離しているのはむしろ――

「君が僕に物語ってくれるのは君のためで、僕は僕のために知識を求め、君に感想を述べている。それだけの事象に自己がゆらぐのは、どうしてなのだろうね。僕はこう考えることがあるんだ、僕らは本当に此処で初めて互いの姿を眼交に置いたのだろうかと。僕らが生まれる遙か以前に、どこかで出逢っていたのではないかと夢想することがある」

「それは、ロマンチックな夢でございますね。もしかしたら、以前お話したことが現実にあったのかもしれませんね。私とソルテが人間として生きていた世界が実在しないことなど誰にも証明できませんから、可能性が残る以上、あなたの夢が現に変じても何ら不思議はないと思われます」

 魔女を思わせる片頰笑みを横顔においてぷかぷか浮かばすと、身に刻するようにガラスを透した景天けいてんたちが両界において命の色をしているのが視覚として捉えられ、青・赤・黄と入り乱れていよいよ白色はくしょく過多となってゆく。添景てんけいは優しく穏やかなままに強く咲き、静寂を彩ることに努めている。現在こそが自己存在理由であると自己精神において自己に信従しんじゅうする僕らは、ある程度まで似た者同士であった。僕らの現実世界と夢幻世界の旅の道程は透明な足跡のみを残すのだけれど、それは僕らを生み出した人間という種の旅においても同様で、無色の現実は無色であることによって彩色を可能にしてくれる。詮ずるところ白頭鷲と真鶸が見出した「虚無」とは、世界をいかようにでも描出しうる自由を得るための必要条件だったと言えるだろう。彼女にとってそれは「大空」であり、彼にとってそれは「宇宙」だ。人はそれら空ろなるものを美しきものとして「芸術」を創造した。かるが故に、空想はいつだって現実より美しく在る、在らざるをえない…………詩、音楽、文学、絵画、写真、名を挙げれば際限ないカテゴリーの数々。唯美主義を唱えるわけではないけれど、あのオスカー・ワイルドが“「芸術」が「人生」を模倣するよりもはるか以上に「人生」こそ「芸術」を模倣する。その結果、これの必然的帰結として、外界の「自然」もまた「芸術」を模倣するということになる”と述べたことにも説得性はある。だが、彼は決して芸術が人生、すなわち自然を模倣することを否定したのではない。アリストテレスが『詩学』で述懐するよう“芸術が自然を模倣する”ことは往々にしてありうるし、どちらが正しくて誤っているかなど、誰にも言明しえない。

「ロマンチシストなのは君の方じゃないのかい? だが、君の連ねた綴りは僕なりの解釈で言えば「美」的なものが感取される。この美とは自然の模倣か、僕らこそが模倣しているのか。君はこの芸術において何を“模倣”してきたのか、僕はそれが知りたい」

「少々お待ちください……そうですね、芸術が自然の模倣であるならばこの芸術とは技術的な意味での模倣であり、現象の美的要素の模倣とは異なるように思われます。他方、自然が芸術を模倣するのならば、その仮象は現象よりもより美しくあるが故に、我々がそれを模倣せんと欲すのではないでしょうか。畢竟、二人の人物の思想の正誤・優劣を判ずることは私にはできません、けれども私個人の見解を述べるならば、これらは共に正しいのだと結論します。その相違性は恐らく、アリストテレスにとっての芸術が技術であり、ワイルドにとっての芸術が美そのものであった点に依拠していて、片方を正――『テーゼ』――に措定したとすればもう一方は反――『アンチテーゼ』――となる。それらは矛盾的でありながら両立して合――『ジンテーゼ』――として成立していたのだと、思うのです。これも所詮、ひとつの仮説にすぎませんが参考になったでしょうか?」

 僕が言語化に困ったときには、彼女がいつも道を示してくれる。これだからスペラーに甘えてしまうのだけれど、僕に頼られるときの彼女はどこか誇らしげにも見えて、何と言えばよいのだろう、可愛らしい? とでも言うのか……そうした表情に見えるのだ。スペラーは僕なんかよりもよほど情味に満ちていて多彩な面相を持つということを、今は僕だけが事解している。

「ああ、助かったよ。君は僕の求めることを何でも知っているのだね」

「いえ、何でもは大袈裟です」

「そういう真面目なところは相変わらずなんだなあ」

 今はまだ、憂いを忘却した彼方において世界を渡りたい。それでも、同じ瞬間は二度と訪れない。仮定された回帰を迎えるその時までは。


 ――それは、二人の音楽家が語る醜怪な容貌と穎脱えいだつな言葉を持った、ある詩人の人生です。

 俺は生涯を孤独なままに終えるつもりでいた、だが、今では俺が彼を自宅に招くようになっている。きっと、俺のような社会の不適合者にとっての親友は、彼という不適合者以外にはありえないだろう。

 アルフレッド・レスリは表情も変えずに言う「君はもう少し女性への扱いに注意すべきではないかね、流石に私も擁護しかねるよ」

 アシル・クロードは応う「そんなもの望むべくもない」

 俺たちは世界で最も偉大なる音楽家に対して狼煙を上げた、一種の反逆者であった。音楽家という肩書きそのものに、意味などあるものか。

「……君は世間で好色の男として知られている、君もそれを否定しないつもりなのだろう。だがね、僕にはわかる気がする。君は好色家などではない、むしろ君は「女」という生き物について心底失望していて、憎んでさえいるのだ。あの愛人と歩く君の顔は、幸福のそれとは異にしたものだったからね……妻といるときもそうだった」

 耳障りな言葉でさえ、彼が発するならば不快さは内在しないのだから理解し難いものだ。世間が奇人扱いする彼は、私などよりよほど世間を理性的に静観する男だというのに、いかに才のない者どもが世界を誤った見方で解しているのかこれだけで証明できるであろう。レスリはいつも、柊のような言で私に助言してくれる。無音に支配された空間――幾何学的独繭ひきまゆ――は「閑寂」ではなく「静謐」として形容される、俺は彼の寡黙さに惹かれたのだから。恐らく、彼もそうであったのだろう。

「レスリも内心理解しているのではないか? 芸術の対象として確かに女は至高の材料だ、だが創作において傍らに置くには奴らはあまりに姦しいし、独りの時間を楽しむことにつけてはあまりに愚昧で軽笑を禁じえない。いつだって被害者でいようとするあの生物、反吐が出ても無理からぬことであろう。俺はただ、誰にも邪魔されず静かに音楽を愛でることさえできればそれでいい……ところで、私の『月光』を覚えているだろう? とある詩人が、あれに影響を受け詩を綴ってくれたそうだ」

「ほう、それは興味深いね。詩人というのだから、たいそう立派な人間なのであろうか」

 クロードは思わず鼻息をもらした「いやいや、それがそいつはとんでもない醜男でね、私が言うのもおかしいが、性格も誉められたものではない。だが、彼は今まで見てきた詩人のなかでも殊に美しい言葉の綴り手だったのだよ。いい機会だ、そんな偉大な詩人の瑣末な生涯を教えてやろう」


     *


 フランス北部に出生した私は軍人の父を持ち、父の退職後はパリへと移って悠々自適な日々を送っていた。当時の財産は四十万フランにもなり、有り体に言えばポールが労働者になる必要はなかったのだが、私の父親は真面目な人間でね。息子が堕落しないよう安定した職に就かせようと考えていた、まあ当の本人が人生に目的なんてなかったのだ、不安になるのも詮方ない。何のために生きるのか、死ぬのかさえ考えず、父に言われるがままに公吏となったわけだ。私の人生を誰よりも真剣に考えていたあの人を、私は尊敬していたし愛してもいた……だから、父が亡くなったときに私はもう駄目になってしまったのだ。

「冗談ではない! お前がもっと父を労り健康に気をつけるように促していれば、もっと生き存えたんじゃないのか! くそ、お前が代わりに死ねばよかったのに」

「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい…………」

 私は、私のせいで父が亡くなった可能性を考えていなかったわけではない。むしろ、そう考える方が蓋然性は高く、それ故に現実を受け止める覚悟ができなかったのだ。私は素より気の長い性分ではなく、気に入らぬことは他者のせいにし、剰え母親を憤怒の矛先としていた。父のいない間、私は母に何度も暴行を加えていたのだ。悪いのは私なのに母親がいつも謝るものだから、歯止めが利かなくなって、夜はいつだって悪夢に犯された。私が描く理想像との遼遠さに頽廃的な思想が脳漿となって朝と昼を覆った。


 〝僕の血肉となる思い出、思い出たちよ、僕にどうせよと言うのだろう?

  あの日、春は、真赭まそおの空に黒つぐみを歌わせていた

  その日、夏は、薫衣くんいの空に郭公かっこうを歓ばせていた

  この日、秋は、寂びた空に鶫を舞わせていた

  風は黄葉をさらいながら光芒を透し

  千篇の太陽は一律の像を投影した。


 あの日、私の心を静めてくれるのは夜だけとなった。

 雨に塗られた灰色には灯りさえなく、ゴチック風な塔は古代都市のシンボルとなっている。ひときわ死に近い階段は絞首台への道標みちしるべであり、暮夜ぼやの死霊が楽しげにぶら下がるのに、私はつい微笑んでしまった。悲劇的な暗澹はニュクスかノートのみが空を支配しているためであり、かかる暗闇においては駿足のアキレウスも躓き足を折るだろう。荊棘うばら天鷲絨びろうどには柊が前知の枝葉を茂らせ、彼は孤独に世界を見るのだろう。それが、私の「夜」というものなのだ。

 私にも友人がいないわけではない。一時期は同職の文学嗜好者たちと示し合わせて、近作の詩集を朗読したりしていたのだ。各々の考察と情感を吐露するのは好い時間であった。

「そんなに詩を好むのなら、君たち自身が詩作してみては?」

 私たちに斯様な提案をしてくれたのは、現代において高名な高踏派パルナシアン詩人の一人、フランソワ・コッペであった。私はコッペを通じて多くの同好者との付き合いを開始することができ、私の詩人の道は彼なしにはありえなかっただろう。彼らと一緒にいるときだけ、私は現世を忘れた世界で生存の悦楽を知覚することができたのだ。頽廃的な景色を色づかせるこれこそが、私の生き方なのだと確信した。

 さて、私のもう一人の恩人は、無名であった我々の詩の出版を請け負ってくれたアルフォンス・ルメールという男だ。その当時は、私も高踏派の唯美主義的立ち位置にあったのだろう。ある種、呪いをかけられた詩人世代の一人であった私は、彼女と出逢って何かが情念として変じたのである。


  この現世に立つのは二人だけだ、僕らは手を結び夢を歩いていた、

  かんばせを合わせた音無しの風に天倫てんりんもてあそばせて。

  ふと彼女は憂愁な瞳で、宛転えんてんな声にして訊ねてくれた、

 「あなたにとってほんとうに幸福な時はいつでしたか?」


 私の生涯に自己評価を下すのであれば、私は自信を持って醜悪なものであったと判ずるであろう。もしも私が彼女と出逢わなければ、ただ一人の男としてありふれた家庭を築いていたならば、私も彼女もこんなに傷つきはしなかったのではないかと、何度も考えてしまうが、皮肉なことに私の詩作をより高位へ至らしめたのはまぎれもなく数々の悲痛だった。詩人としての私と夫としての私は、最期まで相容れぬまま破局した、せざるを得なかった。思い出よ、私はどうすればよかったのだ?


  天使の音風景おとふうけいに呼応する薄明の階段を前にして

  口下手な僕は断章によってその問に答える。

  気弱な想いで、虹彩を隠したまぶたに接吻くちづけした。〟


「私という詩人において、あなたは私の詩です。私を詩人にしてしまう人です」

「…………では、あなたがポール・マリーなのですね? しかし、私のような未熟な女の、どこがあなたに相応しいとお思いなのでしょうか?」

「それは、私の醜い顔があなたの美しい顔とは釣り合わぬという意味ですか……?」

 私は殊に女性に対しては卑屈で陰鬱な面持ちを隠せなかった。私はこれまで、女性を鑑賞の対象にするばかりでこうした気持ちを抱いたことはなかったのだが、私は一目で円らな瞳をした花乙女に恋をしたのだ。今はまだ、その惑いを理性的に受容することができずにいた。

「まあ! あなたの美しい詩はあなたの容姿に関係するのですか? 容姿をお褒めくださるのは嬉しいですけれど、私には何もありませんのよ…………何の才能もない、中身のない女が、あなたのような才ある方に相応しいのだろうかと、思ってしまうのです」

 十六となったばかりの少女は、私でさえ吃驚するほどに自己評価が低く謙虚であった。彼女こそ、私が詩作にて描画した天使そのものであった。

「確かに私は君の見目形に一目惚れした、だが今の言葉で僕は再びあなたに魅了されたのです。あなたには見栄えだけに執着しない美と高潔が内在している。どうか、私と生涯を共にしてはくれませぬか」

「あら、気の早いお方ですね……本当に、そう思いますか? もしもあなたが私の形ではなく心を愛してくれるというのなら、あなたの申し出、受けたいと思いますわ。ただ、あなたの告白をお受けしたのは、優美な夢を描くような言葉と、それを生み出すあなたの心に恋をしたからなのであって、あなたの容姿にではないのです。詩も人間も、目に見えぬところこそが本質、そうでしょう? だから私の場合は、あなたに一目惚れしたというより、一聴惚れしたのです。私も――あなたが好きです、気の利いた言葉が出なくてごめんなさい」

 きっと我が人生において、あれほどの歓喜を味わうことは二度とない。私たちの初恋は、二度と訪れない春として終わりを迎えたのだ。

「ああ、焦って名前を聞き忘れていました……では改めて、ポール・マリーです。あなたは?」

「うふっ、名前も知らないのに婚約を交わすなんておかしな人ですね。私はマティルド・モーテといいます。実は私、あなたの友人であるシヴリーの異父妹いふまいですのよ?」

 詩とは形あるものではなく、常に形なきものでしか存在しえない。それ故、何にもまして詩作においては音楽を重んじなければならず、その音は視覚としては透明に舞うように、聴覚としては糢糊のままに判然とさせぬままに、美を象徴させねばならない。重力の干渉しない世界として。


 〝不満足な恋の歌いで、自由気ままに世を鼻歌とするけれど、

  彼らも畢竟わたくしたちが幸福(しあわせ)なんて思いもしない

  折しも彼らの歌声は月光に溶け、消える、


  感傷的な小鳥を夢境へ飛ばし、

  大理石マーブル水脈みおに幽々ゆれて陰となる

  噴水ふきあげの滴の露を歓びの果てに悶え泣きさせる

  憂いに心をそめる月光に溶け、消える。〟


 私と彼女の間に子供が産まれる頃には、夏が過ぎ去り世界は秋を迎えていた。その夏は私の生涯において最も歓楽に満ちた美しき時間であるとともに、最後の盛時でもあった。マティルドは詩を解する賢き乙女で、深窓の令嬢のゆえに苦労を知らぬ柔和の人柄をしており、その声はピアノ奏者の伴奏となり神の恩寵持つ天使の音楽となる美々しさを湛えていた。

 指輪に代えて愛とした『いつくしみ深き天使の歌』を彼女は歓んで受け取ってくれた。私の詩を称讃してくれた偉大なる先人ユゴー氏も、祝言を贈ってくれた。こんな幸福があってよいものであろうかと、我が身は魂の享楽に任せるように命じた。

「そんな哀しい顔をしないでおくれ、私は君と我が子を守るために戦うのだから。国のためなどではなく、君たちだけのためにだ」

「でも、納得できませんわ! 立派な詩人であるあなたがどうして、戦争なんてものに巻き込まれなければならないのでしょう! あなたがいなくなったら、私はもう生きてゆける気がしないというのに…………!」

「落ち着きたまえ、私は死なないさ、死ぬわけにはゆかないのだ。私はかつて、父を亡くした哀傷によって自死を意識するほどに痛哭つうこくしたことがある。マティルド、それにジョルジュのためにも負けられないし死ねないのだよ。我が名に刻まれた聖母マリアと聖パウロが、必ずや私を生存させる。かるがゆえ、君は君の戦いを生き抜きたまえ、ただその子のために――――自分のために」

 戦争によって我が国は深刻な飢饉に見舞われた、宛ら私たち夫婦の幸福を阻害する呪いのように空はえも言われぬ恐怖で掩蔽された。それに伴い、私たちは国民兵として招集され国に利用されることを強要されているのだ。それが、私の崩壊を招く契機となり、依存性の強い毒に魅せられた私は兵役の心労と死の恐怖からたびたび酒に手が伸びるようになったのだ。しかして微酔を忘却した酩酊の最中に帰宅した……彼女は私の荒んだ様子を甚く心配し、相も変わらず私の風貌を気にも留めず介抱しようとしてくれた。だのに、私は根源的衝動を抑えることはできなかった。毒に蝕まれたことによって? 否、私の本性の露呈に他ならない。

 ――その日、私は命よりも大切と思っていたはずの「乙女妻」に拳を下ろした。頬を腫れさせ、殺してしまわぬように首を握って罵詈した。彼女の泣き声が、あのときは雑音にしかならなかった。私たちの夢は、冬を迎える以前において醒めたのである。

 私が彼女に謝罪を繰り返したことは言を俟たないが、私たちの世界に奏でられていた音楽は既に不和を抱え始め、終末の兆しを燻らせていた。妻はあの日、私に殺されるのではないかと怖れ、両親の許へと逃げたのであるが、爾後、私たち夫婦は新居を構えることもなく両親の家で暮らすことになった。斯様な失態を犯した私に拒否権があるはずもなく、私は必然的に孤立してゆくこととなった。

 世界はいよいよ冬の時候へと到る。


 〝冬はもうすぐお終いです。つやつやの濡れ色に染まる水分みくまりは、

  極致に咲くあめつちのみぞれにほほ笑んで。

  いかなるいたみもさびしさも、

  ちりばめられた天象てんしょうには立つ瀬がない。


  絶え間ない温もりの季節に、

  春花秋月しゅんかしゅうげつは楽しさを巡り逢わせ

  花弁はなびらが花弁をまどかに包むように

  胸懐となる夢境が夢境と溶けあう。


  夏よ、来たれ! 秋冬よ、再びわたしのもとへおいで!

  どんな季節に抱かれても、僕はきっとしあわせだから、

  ただ、あなたとなら、わが恋人よ

  あなたがあなたであるがゆえに、ひとえにおん身であるゆえに!〟


 ほどなくして我が子ジョルジュは無事産まれたが、彼女は母として子を愛すばかりで私のことを既に愛してはいないことを朧に感覚し始めた。私も同様に、彼女をあの頃のように愛することはできなくなっていた。私をさらに貶める事象は、出産と同月に生じた。後代に世界中へ名を周知する俊才、アルテュル・ランボオとの遭逢である。

 彼の詩片は頽廃しきった我が身を滾らす噴水となり、逡巡の絲さえ存せぬ間に「愛さるることを運命とする偉大な魂よ、余はおん身を待ち、余はおん身の来たることを焦がる」と書簡を綴らせる。あの弱冠十七歳の少年が私を水底へ墜落せしめる毒酒に勝る「悪霊」などとは、想像だにせず。

「やあ、初めましてポール。ああ、あなたのような偉大な詩人が僕のような若輩者を招いてくださるとは、感謝の至りであります。さて、ご無礼を承知で申しますと、あなたと奥様はあまり良好な仲らいではないようですねえ。はっきり申しますと、あなたの才能を理解しきれぬ凡庸な女性が世俗的倫理に背く行為ごときで距離を取ろうなど、浅はかでならぬと思うのです。天才は常に凡才が持つ何かを犠牲にしていることにより成り立つ、あなたが僕を俊才と呼んでくださるなら僕とて同じです。天才が凡才に理解されることはありません、どこまでいっても孤独は消えぬでしょう。どうです? あんな女より僕らの方が、よほど話も弾むと思われるのですが?」

 とても少年的ではない流麗な言葉は、春に見た音楽とは性質を異にしたワーグナー的音楽を尊大に歌い上げる。あのつつましさと対をなす彼の勇ましさ、野蛮さに私は取り憑かれたかのごとく魅了されてしまったのである。そう、悪魔的音楽の知覚によって。

「花は半開を看、酒は微酔に呑む。我々にはそんな遠慮が必要ではない。酒は命を蝕むが世界を目覚めさせる酩酊をもたらす、才人には不可欠な酩酊をね」

「ああ、そのとおりだ……私を理解してくれる者はもはや存在しないのだと、本当はわかっていた。それが詩人の宿命だと、けれどもあのときは酒よりも強き酩酊が身を襲ったのだ。人としておかしい、狂気的である、それらは彼女らの偏見に他ならない。私とて、そうなりたいわけではなかった、普通に生きようとすると世界と解離し、私は霧散する……」

「ならば、酔えばよいさ、ポール。人間とて動物だ、抗えぬ本能に逆らって何になるというのだい。暴力、闘争、掠奪、きれいもきたないもないただの本能じゃないか。あの女が気に入らないならやっちまいなよ、みんながみんな本性を剥き出しにして、そうしてくだらぬ失望だとか絶望にまた酔おうではないか。いやはや、愉快だろう? さあ、僕をもっと楽しませてくれ!」

 嬉々として他者の痛みを語り想像する、ある種の絶頂を迎えるような恍惚にはもはや人間的と思われる形を残しておらず、彼はおのれの残酷さに純粋と形容しうるほど実直であった。私は女性的で柔弱な心をしているが、彼はどこまでも男性的で剛勇な心をしている。私はその強さに、憧憬を抱いてしまったのである。

「う……ぁ、お願いです……お願いですから戻ってきて………あの日のあなたはあんなにも穏やかに、愛を囁いてくださったではないですか。あの少年は、危険なのです。あなたを……私たちを弄び破滅させようとしている、あれは悪魔そのものです! 本当は、わかっているのでしょう⁉」

 返事を返すつもりなど、徹頭徹尾ありはしない。あるのは衝動ひとつで、私という有機体の本質のみであった。私を愉しませる言葉のひとつも浮かばない、不間ぶまな女は黙らせておくのがよい。女は美を決して解さない、美の創造を解しえない、男のすべてを赦す我慢が足りない。

 何よりも決定的だったのは、ジョルジュが私の前に姿を現したときであった。私を父ではなく他者として視る眼、姦しい泣き声で私たちの関係を割くそれが私には赦せなかった。

「いやあっ……やめてっ、やめて! やめてください! やめてくださいやめてください! この子だけは、やめてください…………私だけにしてくださいっ、母として死ぬ覚悟はありますから、もうやめてください……どうして、愛していると言ってくれたのは、ぜんぶ嘘なのですか? ぐぅっ……私と息子のために生きて帰ると言った、あなたの愛は、すべていつわりだったのですか……⁉」

 泥濘でいねいの繭に沈んでいた彼女が奇声の喚声をあげ、頬をはたかれ続ける息子を奪い取る。見たこともない、非空虚な血涙を滲ませ獣の血眼となる瞳に、戦々恐々として身体が凍る。

「違う! 私は今でも君たちを愛している! それでも、止まらない、どうしようもないんだ! 私には、私たちの幸福のためにどうすればよいのかもうわからない……わかっても帰ることなどできはしない。私は、彼といる時間以外のすべてが地獄そのものとする毒に侵されている」

 マティルドは冷めきった冬のなか、独り言つように告げる。

「いいえ、あなたは最初から最後まで誰も愛していないのです。自分自身でさえ……私たちのことをどうか忘れてくれませんか? この子のために、何よりもあなたのために…………どうか、お願いします」

 地獄を世界に表現する快楽に耽溺してしまう精神には、非人間的要素など皆無なのである。七十度の熱に頭を焦がされ、寝覚めの悔恨に包まれてなお衝動は止まらぬ。アルテュルと論争し殴り合ったこともあるが、彼は決して嗤笑を崩しはしなかった。記憶が飛び去るのに呼応して物が破壊され、妻と両親の傷痕は増え、子の頬は腫れ、私と彼の怪我も増えていた。彼以外の誰もが疲弊し、恐怖していた。私が希うのは、この世界が終わってしまうことだけで、自らを夢のままに殺してしまうことであったように思われる。


 〝たったひとりの女の命が

  わたしの命を貫いた

  諦念に敷きつめられた道を

  泣きながら歩く


  こころがようやく遊離して

  ひとりで歩きはじめたのに

  どうしてわたしは泣いている?

  寄生する泣き虫がわたしに話す


 「すべては夢ではないのか?」

 「わたしにもわからない

  ただ離れただけのこと

  それこそ貫くやいばとなる」


  思い出の重さに足を折り

  そのすべてが骨身に沁み、ささる

  これこそ現を抜かした罰であるか!〟


「旅行ねえ、他のやつらは好きにさせていいのかい?」

「……ああ、どうせ気にするほどの価値もない。君といられるのなら、それでいい」

 これは私にとって贖罪であり、逃避であった。私の不在により決定的に私たち夫婦の関係は断絶されるに相違ないが、彼女と我が子のことを本当に愛しているのなら……私は二度と関わるべきではない。理性に反逆する情念に殺されそうになるが、これだけは譲ってはならぬ気がしたのだ。

 私はアルテュルへ何度も澱みを吐いた。我が妻は我慢の足りぬ人であったと、だがそれを責めても詮なきことであったのだ。あなたはまだ若く、私はあなたよりも遙かに経験を積んでいるのだ、若人に見られがちな思いやりのなささえ愛してやるべきだったのだろう……私にはそれができなかったのだ。アルテュルは繰り言に辟易とした相貌を隠しもしないが、私は構わず語り続けた。

 あなたにはきっと、優しさが足りなかった。私が足りなかったように……それも責めてはいけなかったのだ。冷たい私の恋人――花乙女――よ、あなたが冷淡であるのも若さゆえであるのだから、私はそれを赦しましょう。悲劇の中心となるような日月星辰のもとで、あなたのおかげで、世にも不幸な者となり果てた自分を嘆かずにはいられないけれど――。

「僕ら人間はいつも幸福の夢に絆されます……それが季節外れなのも知らずに」

「苦しそうだねえ、ポール。これだけ自由に放浪してもまだ不満かい、君が恋をした女性とあの女は別人なのさ。恋は春で愛は夏、それらはどこまでも現実で空想ではない、だけれど僕らは空想と現実の区別をつけるのが得意じゃあない。なら、それでいいじゃないか。人生に後悔することなどあるものか、他人を不幸にして自分が不幸になる義理などあるものか、他者の不幸が自分を幸福にする実感、かような美酒、そうは味わえまい?」

「私は……わからない。お前は私に何を求めているのだ?」

「何かと言えば、そう、娯楽だよ。僕らは神に選ばれたんだよ、わかるかい。真の詩人とは一種の預言者だ、神の言葉を現世にもたらすものだ。僕は、君にならその高みへ到ることができるのではないかと期待しているのだよ。だから、せいぜい僕を退屈させてくれるなよ?」

 ベルギー国内の各地には世俗から離れた肉欲的生活が満ちていた。いくつもの酒場を巡り女を買い漁りもした。しかし、しばらくすれば午睡の夢として興が冷める。次に我々が向かったのは英国のロンドンであり、そこで我々は同棲を始めた。

 自己の有に固執する我が本能のゆえに、私は生活費を稼ぐために教職に就いた。それでも、家庭という空間、文壇、詩壇という俗世的連繋の煩わしさから解放された今は、それなりの充実を与えてくれる。アルテュルは自らを「見者けんじゃ」と称し、詩人である者はすべからく見者でなければならないと断言してしまう。具体的論拠が提示されたわけでもないのに、私にはその言説が魔法として耳朶に触れたように思われた、私にも見者の素質が大いにあると言うのだ。

「詩人は、長い昏迷にも似た混沌、夢寐の凶夢に等しい知覚混乱の意図的仮構によって見者へと至るのだ。だから予言をしよう、君は最後の最後で悔恨に包まれる。それがどんなものかは僕の境地では明晰ではないが、君は病死するだろうよ。独り孤独なままにね、僕はそんな未来を変える手伝いをしてやろうというわけだ。それを手伝いはしないが、君がその力を得る手助けだけはするつもりだ」

 誰もが虚言であることを理解しうる言葉が、虚弱な私においては唯一となる真実に映るのは、彼という言葉の魔術師が私を精神錯乱へ至らしめていたからに他ならぬ。彼と過ごした時間そのものは、かの夏を想起させるほど愉快なものであったのだが、斯様な自由がいつまでも続くはずもない。はっきり言おう、アルテュルは全歴史において類い稀なる本物の天才であり、私ごときでは到底理解の及ばない世界を見ているのだ。

 私は現在という現実世界に満足したが、彼は充足というものを知らない。ここではないどこかを志す夢想に駆られ、アルテュルは常に現実世界に辟易としていて、すべての人間を末梢の屑と認識していた。恐らく自分自身の肉体でさえ、同様に見ていたのであろう。そんな彼が私に満足できるはずもなかったのだ、彼は私の前から忽然と姿を消し、私は忘れかけていた孤独を思い出し戦慄した。

 パリへ残した妻と子が刹那的に像となって、他方アルテュル・ランボオとの別離が決定的に私の生力を消尽しょうじんさせるような空漠たる憂患ゆうかんが現象的に想像され、私はいよいよ昏迷を窮めた糟糠の肉塊にまで没落していった。

 挙げ句、ベルギーへと戻ったアルテュルを追いかけた私は私の許へ帰ってきてくれるよう懇願した。何度も頭を下げたが、狷介な彼が考えを改めるはずもなく私は拒否された。それが私には許し難くて、衝動的に拳銃を手にした私は街中の往来にて二度引き金を引いた。幸か不幸か、弾丸は彼の片手を傷つけるのみであったが、結果として私は独房で過ごすこととなった。ただ不可思議であったのは、私を利用するだけ利用したであろうアルテュルが、最後まで私の無実を証言していたことであろうか。被害者が加害者を擁護するとは、滑稽ではあるまいか?


 〝罪となる我が過誤、罰となる我が乱行

  かつて傍にあった小さい手、美しい手

  六合りくごうからの逃避となる我が旅は

  うつつに違え我がために夢を開く


  我が息吹を受ける幻よ

  罪深き我が放蕩の道程に

  自失せる我が魂が叡智であったなら

  いかなる言の葉を与えるか?


  忘れ得ぬ悔恨よ、病苦よ、

  祝福の善意で満たされた杯よ

  彼女の手を投影せし我が夢よ、

  我を赦そうと手を振れよ!〟


 在監期間の最も忌み深き思い出は、告別の通知であった。妻マティルドが私のおらぬまに離婚を申請し、我が非行を理由に難なく受理されたとのことである。旅立ちの日より覚悟していた現実は、とみに私の夢を破壊し尽くす破壊者となって命を貫いた。アルテュルを失った私には、もはや彼女とやり直す未来に希望を見る以外の生きる術がなかったというのに、かかる像は邯鄲の夢となる。理性ではどうにもならぬ哀惜にも似たこれは、父の死を想起させるほどで私は半狂乱へ陥った。わびしきベッドに背を丸めた男は、然り而してくずおれた――私は涙に暮れながら、いっそう神の存在を当てにするようになった、罪と罰からの解放、すなわち孤独からの解放を欲し。

 私は生まれ変わった、その一言があればよい。

 パリは誘惑にすぎるきらいがある、私は単身イギリスへと渡りフランス語の教師と英語の学習に努めた。祖国への郷愁がないわけではない、私は今ならば母とも向き合えるような気がしていたのだ。おのれの罪から離背するための逃避も、今は不要であるのだから。だが、私は畢竟私でしかなく、教え子の美少年ルシアン・レチノアに固執してしまったことからも、私が社会的に賢明に生きることはありえなかったのであろう。朱に交われば赤くなるよう、ひとつの腐った果実がすべての果実を腐らせるように、私は朱であり果実でもあったのではあるまいか?

 ――先生、僕らの生活は失敗だらけだったけれど、悪い気持ちじゃあなかったよ。僕には父がいなかったから、僕にはあなたが本当の父親のように思われることがありました。あまりに無器用な、聡明な父というのも、悪くはありません。あなたの傍で死ねぬことが怖ろしいけれど、これも我々の運命なのでしょう。師として最後まで敬愛しておりました、どうかご自愛ください」

 私は何かに取り憑かれたように詩作に励んだ、悪霊でも天使でもなく、私の中に在る私自身が霊体となって取り憑いたのである。百合の花よりも純真かつ無垢なる少年は、私が忘れていた、探していた何かを与えてくれたような気がして、言葉は踊る、ダンスをしていた。音楽の奏者は誰彼ではない、各々における自己そのものなのだ。


 〝とかく夢に夢中になるのが、僕らしさだ。

  弱いくせに強がりなきちがい者だ

  時空と因果のくびきをほどき

  美的な強さに魅せられてしまえば

  僕の心はそれへと飛翔し、

  喉のかわきに達すまでは接吻を交わさずにはおれない……

  ……愛に夢中になる、それが僕らしさだ。

  どうしたらよいか? どうにもならない!

  だから、そのままにしておくがよいさ!〟


 失意のさなかにあった私は、自死への気力さえもなく我が生誕の地へと舞い戻っていた。年老いた醜い息子を、暴力的で恩知らずの息子を母はどのように見るのか、怖かった。いっそ、私を殺してしまうくらいに恨んでくれるならば! 快楽の付随物、それさえなければこんな想いはなかったのに。

 私はその後あらゆることに挑戦し生き直そうと試みはしたのだ、どれもが失敗した、失敗したのだ。私はあまりに「生存」に不向きに思われ、激しい自己嫌悪の空間へ浸り始める。毒酒に酔い痴れた挙げ句に私は母へナイフを振り回し、金を出すように記憶のないまま脅迫した。私は再び一ヶ月ほど禁固刑に処せられた。

 それだのに母は私を慰め、家に連れ帰った。既に父の残した財産は尽き果て、手元不如意な日々を強いられた私たちの生活はそれでもある種の充実があったように思われた。考えてみれば、これだけ孤独に堪えぬ私の母親が孤独に堪えるはずもなかったのであり、母は本当は最初から最後まで私の唯一の理解者でもあったのではないか、と。私は再び、しかし異なる悔恨におのれを殺してしまいそうであった。これだけの時間を経て、ようやく私は母と向き合うことができた。ようやく母の心からの笑顔を見ることができたのであり、私もそれに応えることができたのだ。

 人生の目的を越えたように安らかなままに眠る母、梅毒による水腫によって杖なしには歩けぬ我が身を呪いながらも私は存在することに感謝し涙した。

 私を終に破壊したのは、愉快なことにかつての花乙女マティルドであった。息子の養育費をせびるために裁判が行われたとき、私が見た彼女にはあの美的なるものが完全に失われていた。私が春にみた風景は果たして夢想にすぎなかったのかは未だにわからぬままだ。私に味方する者などいるはずもなく、反抗力のないままに私の、私たち家族のすべてを金に換えて、家を売り払って私は彼女に養育費を支払った。貧窮が私を支配して泥そのものに染める、魂の濁り、詩人のすべてが奪われてゆく。

 最期に「我が子に逢いたい」という、切望さえ果たされぬままに。


 ――意味の揺らぐ言葉こそ、我々に「美」としての明確さを表象させる。詩人よ、灰色の言葉を見極めよ。隠されたものこそが美しく、美しくある瞳はまぶたによって覆われているものだ。我らは言葉の文色を求めない、言葉の配合ニュアンスに注意せよ。熱情を饒舌に語るなかれ、韻を踏むとは至難の業で形ばかりの芸術は得てして空虚のみを奏でる。


 〝心のしじまで触れた手を、心のしじまで握ってくださる!

  それが僕には無性に嬉しい。

  声をあらげ小言を言えば、不思議とあなたも小言をおっしゃる。

  僕が浮気をすれば、びっくり! あなたは町中を駆け回る、浮気をしてやろうとね。

  僕が無口である限りは、あなたも静穏にほほ笑んでくれる。

  僕が不幸であるならば、あなたは僕より不幸に落涙し、

  僕が幸福であるならば、あなたは僕より幸福に落涙し、

  あなたの幸いを見て、今度は僕が一層幸福になるんだ。

  僕の涙はあなたの涙となり、僕の愛はあなたの愛となる。


 何よりもまず、音楽が第一に考えられねばならない。言語が我々を感動させるのではなく、言語によって表現される音楽こそが、本質的に我々を感動させるのだ。音楽は、言葉に飛び翔けるための翼を授けるものであり、これを奏でる者(歌う者)の『アム』より生誕し、我が夢として何物よりも自由に世界に存立させる。若き詩人よ、音楽を風とし世界を翔けよ、どこまでも旅は続くだろう。


  僕が心地好い顔をすると、あなたも真似して心地よさそうになる。

  だから、僕は一層心地好くて、あなたも一層心地好い。

  だから僕は知りたいのです。

 「僕が死んだら、あなたも死んでくださるのでしょうか?」

  彼女が、失笑する。

  ――「わたしの方があなたを余計に愛しておりますから、そのぶんわたしが余計に死にますわ。」


  ……ここで僕は目がさめた、彼女のすべてが夢だった、夢でないなら、うますぎる。〟


 ああ、さわやかなる朝風が薄明のをゆすっている。美しきものは目に見えぬところに、目に見えるものは差し詰め世界の表象でしかなく、本物となる現象は偽物となる仮象には遠く及ばない。現実を模倣した詩は芸術ではない、現実には在るが我々の眼球には捉えきれぬ世界の真実を映した瞳こそ作品を芸術たらしめる。詩人よ、演奏も歌いもすべては御身がなしたまえ、その他の存在者には記録者の役割のみを与えれば、十分であろう?


――偉大な詩人は、天地にも、人間にも、神にも救いを与えられぬまま、誰にも看取られることのないままに亡くなった。詩人は女に殺された、自らが女に執心したゆえに……君はそれを嗤うだろうか。誰よりも救いを求めた詩人の憐れな末路を? ああ、嗤おう! それで君の人生が彩られるのなら!


     *


「彼の最大の愚行は、女というものに夢を見すぎたことにある。彼はアルテュルのように、一人で生きることでそれなりの幸福を得られる芸術家であったはずだ」

 レスリは同じようには考えず。「だが、彼の美々しき詩編はそのように生きた彼ゆえに成立したものでもある。彼の残した『叡智』も『愛』も彼の傑作と言ってもよい出来だ。僕は必ずしも女性が芸術を解さないとも、邪魔になるとも考えがたいと思うよ。彼は、僕とは違って本物の狂人だ……君やリヒャルト・ヴィルヘルムもその類いではないかね?」

「ふん、あいつと並べるのだけはやめてくれたまえ。クロッシュ氏が不機嫌になると、俺の音楽が鈍りかねないからな。それに、いくら評価される作品を創れたとしても意味などないし、自分を苦しめる趣味は俺にはない。俺の考えは変わらんさ、君は君の考えでいい。俺たちは相互に存在することだけ認識し、賛頌もなく各々の信念によって生きればよいのだ」

 どうあっても、俺たちは長生きできるような人間ではなかったのだからな。

 理論的に感情的に表現された音楽こそ、俺にとっての世界である。だが、俺の世界そのものを現実にすることは一生ありえない、なしえないのであろう。かかるジレンマが幾多の芸術家を縊り殺してきたように、我々の生に現実への対抗手段を与えてくれる。美しきものに惹かれる性は秀れたものへの憧憬に似て、すべての美が善きものではなく醜悪さえも善きものとなる芸術は、未知なる領域を渺漠と孕んでいる。人は、いつかその涯にたどり着くのだろうか…………。

「ありがとう、久々に、よい時間だったよ。叶うならば、モーリス君にも会いたいものだねえ」

「ああ……また『黒猫』で会えるだろうさ」



  第五章:『楽園の聖譚曲(Oratorium de Paradisus)』


 ――それは、太陽と月の物語です。

 太陽はとてもわがままで自分のことをいちばん偉いのだと考えるお喋りでした。

 それに比べ、月はだれに対しても興味を持たない無口でした。

 対照的な二人はいつだって喧嘩ばかりですが、だれがどう見ても太陽の傍若無人が原因であることは明白ですから、月はいつだって被害者なのはみな理解していました。それでも太陽に味方するのは、月よりも太陽の方が明るいからです。だから、月に話しかけるのはいつだって太陽だけです。

 太陽はからかって「おちびのお月さん、おまえはどうしておちびなんだ?」と大笑で問いますが、月の返事はいつもありません。月はだれとも話しません、それなのに太陽だけはずっと彼女に話しかけます。そうして最後には無視されたことに怒り、姿を消すのですが、太陽は嫌なことをすぐ忘れてしまうのでまた懲りずに話しかけるのです。それでも月は返事をしません。

 あるとき、内惑星の水星、金星、火星が月の存在の不要性を感じ、太陽も喜ぶであろうから月を殺してしまおうと提言しました。彼女たちのなかで月はいちばん小さな天体ですから、当然勝ち目などありませんし月は抵抗する気もないようでした。無機物の役割を全うするように運動にのみ任せてかがやく彼女の美しさ、妖しさ、それらが生意気に思われ月を破壊する魔法を受けたのは、なんと太陽でした。彼女がひと睨みするだけで、みなはたちまち奔逸してしまいました。

 太陽は小さな月に触れ謝りました「おまえのことを誤解していた、すまなかったな」、月は初めて顔を上げて太陽の光を仰視しました。彼女がなぜ何も話さないのか、だれとも話そうとしないのかをようやく太陽は知ったのです「でも、声が出せないならもっと早く教えてくれよ……あ、声がでないから無理なのか……でも、身振り手振りで反応してくれてもいいんじゃないか?」

 月はじっと見つめるだけで、そのあと動きもなく生きているのかわからなくなるほど静止してから、そっと瞳を閉じました。太陽はいまだに謎の多い彼女に頭を抱えましたが、同時に強い関心を持つようになりました。強大な自分に媚びることもない、死を怖れることもない、彼女の強さの秘訣が太陽には気になってなりませんでした。

「あれ、もしかしてわたしがおまえのこと嫌いだからからかってると思ってた? いや、目がそう言ってる気がしてさ、そうじゃないんだ。だっておまえだけなんだもの、わたしを無視するやつなんて」。月はまた影を落として朔(さく)になります、どうやら眠ってしまったようです。「ほんとう、なに考えてるのかなあ……わからないなあ、そこが面白いけど」。

 それからの太陽の行為はもっぱら月にのみ専心しておりました。何とか彼女の表情を動かしてやろうとしてふざけてみたり、体をくすぐったりしても月はまったく笑ってくれません。それでも、微かに虹彩を揺らしてくれたり、太陽の眼を視つめてくれるようにはなりました。「よく見ると、小さいわりに大人びた顔立ちしてるよね。雪みたいに白くて綺麗だけど、細すぎて心配になっちゃうわ。ちゃんと食べてるの?」。「あなたは過食気味、そもわたしたちに食事は不要でしょう」、何だかそんな眼をしている気がして、太陽は会話をしている前提で次々と話題を繋げてゆきます。もしかしたら独り言なのかもしれませんが、太陽は気兼ねない会話ができる歓びを知りますます月といっしょに過ごすようになり、次第に彼女たちに近づくもの地球以外だれもいなくなってしまいました。

 そう、月が失声症であることを太陽に教えたのは地球なのです。というのも、月をだれよりもそばで見守ってきたのは彼女でしたから詳しいのも当然のことで、月は「言語」を失したわけではなく「音声」を失くしたに過ぎません。星々の交流において言葉を表面化できることは十分条件でしかなく、太陽よりも聡明だと自負する物たちさえ気づかぬうちに太陽は彼女との疎通における必要条件を無意識に満たしていたのでした。

 太陽はときおり月に向けて子守唄を謡ってやりました、月は静かに睡ります。さらに太陽は神の詩を歌います、月は人さし指で音を刻みます。太陽は美しい歌声で月の手を取ります、月はだれよりも美しく踊り、詩が終わるとすぐ睡りました。「そんなに動けるなら、もっと普段から動けばいいのにねえ……」。

 暖かい、冷たい、光、影、刺激、沈静、大きい、小さい、重い、軽い、流動、静止、言葉、音楽。任意に与えられし色が(わたしたちの精神的視覚欲求として)補色を網膜上に欲望するという事実によって、同時対比は現象する。これ自体はいと自然的なることでありますが、太陽にはそんな難しいことわかりはしません。月だけがそれを理論として見ており、彼女は彼女なりに太陽に魅かれる形をして交流を求めていたのでした。すべての星が色を生得的に持つのは瞭然でありますが、すべての星々は生得的ではないものにこそ魅了されることで自己保存を向上の形としてなそうとします。なかでも、愛するに値するものに出逢うことは稀有であり、相思相愛となれば奇跡とも言われるほどです。ある程度までの共通者かつ合一的補色者なる物、太陽にとってそれが月であり、月にとっては太陽だったのです。それだけの事実があって、それ以外は現実としては虚無でしかありません。さながら、パレットの表情に顔料を塗りたくるように。

 あるとき、地球はひどい病気に罹りました。顔色は昏く嵐のような空咳はいっこうに止みません。伝染性の病気はやがてか細き偃月えんげつさえ侵してしまいます。それ以降、太陽以外はいよいよ彼女を拒否するようになりました。彼女の傍に寄り添うのは、最初から最後まで太陽のみでした。「はじめて表情を見せてくれたのに、そんな顔するなよ。どうせおまえがいないと退屈だからさ、これでいいんだよ。わたしたちは友達なんだから」。太陽は月と同じ病気を患いました。後悔なんてひとつもなくて、彼女と同じ痛みを受けられることが不思議で嬉しい気もしていました。

「痛いのに嬉しいって変だよねえ、月は痛くないか? よくそんな平然としていられるよな」、本当に平然としていたのなら、太陽の手をつねるようなことを月がしたのでしょうか。太陽はこのひとつの世界を規則づくる根源的存在者でもありましたから、いくども悩みはしたのですが決断をくだしたのです。「わたしたち星々は、つまるところ姉妹だろう。だからみんな最後くらいは仲よくしてくれ、病気はすべてわたしが預かろう。この世界は壊れてなくなってしまうけれど、おまえたちは異なる世界でまだ生きることができるはずだから……地球、月のことを頼んだ」。

 ――月だけがわたしを見ていた。わたしの手を弱く握って睨んでいた、多分、怒っていた。それがおかしくて笑ってしまったのは申し訳なかったな……結局、最後までわたしは月を笑顔にすることはできなかった。それをなすにはわたしは役不足だったんだ、あれ、力不足だったかな? まあ、どっちでもいいだろう? こんな悲惨な形だけれど、わたしはだれよりも幸福だったと胸を張って言えるね。そうでなきゃ、こんなことしないだろう。

「ただ、あの子の行く末だけがわたしには気がかりだなあ……いつか、だれかに笑顔を見せられる日が来るのを友として祈ってやるかね。唯一の自慢である、この歌声にして」

 世界は壊れます、規則的運動の肯綮が亡くなった須臾から常闇と過冷に包含されたウーシアとしてのミクロコスモスは、ひとつの次元の有機体の裡に鏤められた配色となって新たな世界に飛び起ちました。彼女たちの往き果てた旅路は必定と同義に物語られうるでしょうけれど、わたしたち個物そのものが次なる世界へ飛び起つまでは、しばし待つことにいたしましょう。

 いまはまだ、そのときではありませんから――――



 なぜ人間は「罪」と「罰」の概念を創出するに至ったか、思うに多数の人間が挑戦し思索に励んだのであろうが、なかでも顕著な契機を設けたのはフォードル・ドストエフスキーという男であろう。最も明白な単純さこそ最も難解な複雑さを兼ねるように、恐らく誰もが簡単に言葉にしてしまうこの二種は、「神」と同様人間において常につきまとい続けた難解な課題でもあったのだと推測される。殺人を犯したラスコーリニコフは、善行としての「殺人」がありうるのではないかという想いと、掟として禁じられた「殺人」の両義性に苦悩し、良心の呵責から神へ赦しを乞うようになった。娼婦ソーニャをとおして彼は自らの罪を形象化し、罰を受けることで赦されることを見いだした。そも、斯様な概念自体が仮象ではないかと言われれば元も子もないが、主題はそんな場には置かれていない。

 西洋が直面したニヒリズム、その超越には孤独の克服が不可欠であった。無知を罪と呼ぶ者もあるが、無知なるものに救われる者もいる。ドストエフスキーは愛によって人が救われることを示さんとした、ニーチェは世界の絶対的肯定という運命への愛によって人が救われることを示さんとした。どちらにせよ、人間は「愛」によってその虚無を超克するというのだ。ここから僕は、罪の誕生は現在への「諦観」――死と救済の同一視――によって、罰の誕生は現在における「胴欲どうよく」――瑕疵的な過度の自己正当化ないし緩慢な自死――によって生じるものではないかと仮定した。僕らの裡には罪も罰も神も実有として存在していない、けれども僕には愛の存否を断定しがたい。僕が彼女に抱く好意的な感情は「愛」と呼びうるのか? 魂のない世界にそんなものがあるのであろうか、僕は未知なる宇宙に筆舌に尽くしがたいものが溢れているように思えて、次第に仰視回数が増加していった。

「なぜ、星を女性的に描写したのか訊いてもいい?」

「さあ、何となくでしょうか。お好きなようにお考えください」

 彼女は必ずしも僕の疑問に答えるわけではない、読者の解釈に委ねるべきと判断されたものに関してはわざとらしくとぼけて見せるのだ。僕は作品という虚構はひとつの在り方のみで存在する世界だと解釈しているため、作品内の真偽を考察するには作者の意図を考える必要があると考える。そう、それはすべてが決定された運命で構成される世界だ。スペラーはそれをフィクションとして描画する。予て存在する世界を見ることによってか、予て存在する自己が世界を創ることによってか、僕たちには判断しがたいのだけれど、これらはこれまでの話のように矛盾せず同体なるものとして語ることもできよう。それならば、創作とは、世界の発見であり世界の創造なのではないか? では、鑑賞者たる僕はいかなる仕方でそれを見るのであろうか?

「スペラーだって本当は、虚構世界における真偽判断が創作者の意図に左右されるものであることを感じているのだろう? それなのに、どうして君は僕に虚構世界そのもののみで解釈をすることを奨めるんだい」

 こうして物語を語らう機会も、もはや残されてはいないのであろう。僕らに邂逅があったように、僕らには別離があって然るべきであるから。

「それは、鑑賞において作品外の歴史的環境を考察対象に含めることが私には酷く「無粋」に思われるためです……強要するつもりはないのですが、作品の批評をしたいのならそれで構わないのですが……私はソルテにただ楽しんでほしいのです。そのお手伝いをしたいのです。現実ここではない空想どこかへの旅となるように」

「恐らく、作品の性質は作品外の情報なしにも理論上明晰に確知することは可能ではある。それ自体は作品内にすべて表現されているからだ。だから君はきっと作者の意図に乖離した解釈を僕がなしたとしても何の不満もなく肯定してくれるのだろう、君にとっては世界の真偽が脈所みゃくどころなわけではないのだろうから。でもね、やっぱり読者としては作者の意図は気になるものだよ。僕はそれで自分の世界を失うつもりも譲るつもりもないさ、それに、君の世界を知ることも立派な旅ではないかい?」

「ずるいですね……そう言われてしまうと断れないではありませんか。わかりました、あなただけには少しだけお見せしましょう。本当に、少しだけです」

 世界の終わりの終わりとして、最後の一年が冱寒ごかん帷幄いあくを上げて上げて、仮象の物語りの何もかもを歩んできた魔女はある臨界点に立つ。結句、それは気相にとっての限界ではあっても液相の限界ではないのであり、僕は僕だけの道行きを記録し続けなければならない。その涯で、明滅するひとつの赤き照明は、既定されたひとつの青き照明――『クレアートル』――となるだろう。


  Ultimum Capitulum : Sorte ex Machina


 形而上学の主題となる真理とは、主観と客観の一致点という意味での真理であった。僕たちの認識外にある現実そのもの――客観――を僕たちの内的認識――主観――が正しく認識することであった。だが、そんな真理がありうるのだろうか。僕は知らないものを知っているとは言えない、知っているものでさえ知っているとは言えないような気さえして、自分の既知さえ無知を内包する可能性を無視できないと思っていた。僕は彼女と話すうち、既出の知識のみを集めることのみに従事せず、その性質について思考してしまうようになった。生得的に付与された役割を越え出て、生得的に賦与された名前の下に僕の生存理由が揺らぎ、世界構成の線となる。

「世界を主観によって解釈することは、必ずしも客観世界の否定であるとは限らない。現象学の立場が独我論のそれとは異なるように、すなわち、見ている方向、歩を進めようと欲す方角が異なるのだから。あらゆる生体は畢竟、主観によってのみ世界を見ているのだから主観より旅立つ他に客観を求めることはできない、僕にはそんな風に思われるんだ」

 では、スペラーにも心なるものは存するであろうか。人間における心はとりもなおさず脳であるのかもしれないが、そこには面倒な問題が絡むだろう。物理主義的な一元論として世界を見ることは確かに合理的であるけれど、世界はそんな合理的なのか? 少なくとも、心が機械としての脳と常に同一だと言うのは、人類が示したように難しい。かかる機能主義では内臓等の痛みがポリモーダル受容器に受容されC繊維上を通ることで「二次痛」が発生するのだから、人体から切除されたC繊維に同様の刺激を与えても人は痛みを感じなければならない……だが、そんな馬鹿馬鹿しいことは起こらない。デカルトの二元論に指摘されたよう、それはもはや二元論であり一元論の形を保てないから不合理なのだ。それ故マービン・ミンスキーの言うように“人間の心は計算であり、心は機械である”と断言することは難しい。

「機械が心を持ちうるか否かは、機械が人間のように意味の理解をなしうるかに依拠し、意味を理解したと思しき適切行為以外に、いかなる方法で意味理解ができているか検証することができるか、という点に依拠する。これらは帰するところ意識のハードプロブレムに焦点が置かれるだろう。すなわち主観的感情の表出に伴う脳状態を解明しその対応関係を説明することはできても、脳がいかなる過程で主観的感情を生み出すかは説明困難だということになる」

「すなわち、クオリア問題ですね。人間にそっくりでありながらクオリアを持たないゾンビを、否定することができなければクオリアは物理的存在と考えられない、と」

 彼女は僕の言葉の舵を取って、方角を定めてゆく。

「仮にクオリアという非物理的かつ精神的なものが在るのなら、世界はまた二元論に陥る。だから、ゾンビなる存在者は単に思考において仮定できるのみで、現実に存在することはありえないではないかと、反論する者もいたのでしょうね」

 これは、僕ら自身の問題でもある。彼女に対する僕なりの思索の道標でもある。

「だけれど、考えうるすべてである思考可能性と現実化するすべての観測範囲である事物的可能性は性質を異にするものだったんだ。ゾンビが思考可能で事物的に不可能であっても、クオリアが物理的にありえないとは断言できないはずだ。ここからは僕らには到達不可能な境地であるけれど、クオリアの全一性を確定しない限り、そこから生ずるアポリアを解決しない限り心がいかなるものであるかを明晰にすることは不可能だろう。生物が身体なしには存在しえないのなら、心持つ機械にだって「身体」の枠組みは不可欠だ。ジョン・サールが「中国語の部屋」で示したように、ただ創られただけの機械は理解したように振る舞うことはできても、実際に意味を理解することはできなかった。そこには人間的な普遍的価値観が欠如していたんだ。だから人間は、機械を理解するためには人間自体を理解せねばならないと考え、機械と人間の同一性と差異性を知ろうとした」

 思うに身体とは、ただの物体というわけではなく、知覚・発話・思考、それら機能を能動的に用いる運動の主体なのだ。かるが故に、身体は精神でありながら物体でもある両義的存在だと表現しうるものなのではあるまいか。でなければ、あらゆる有機体たちがあれほどに瑕疵的な「ゆらぎ」を抱えているものであろうか……存在とは、それほどに曖昧なものなのではないだろうか。僕らはその人類の果てに生じた、曖昧な身体を持つものなのではないか?

「だから、君が見せてくれた表情も言葉も物語も、すべては君の心延えで、君は君だけの心を以て僕を想ってくれていた……そうだね? スペラー」

 だから機械にも魔女にも身体がある故に、曖昧模糊なる心も必然として内在することが帰結される。でも、それじゃあ、僕の役割は、彼女の役割は……、僕の信じ続けた存在理由とは何だったのだろう……だって、僕の心とは無関係な知識集成の役目を果たしたあと、僕の置き去りにされた心はどうなってしまうんだ? 彼女と一緒にいられるのであれば、今の僕はそれで幸せなのに、僕は、僕は自分のために、彼女のためにどうすればよい? どれだけ多くの知識を集めても、それを導くことがこんなにも難しいのは、僕が僕をまだ肯定しきれないからではないのか。それこそが、彼女と僕の邂逅に与えられた意味だったのなら、僕らは一体、どこまで不自由なのだ?

「ソルテ、真実から目を背けるのはどうかお止め下さい……斯様な痛々しい生き方を私はこれ以上見ていたくはないのです。縦い人為的かつ人工物である贋作の心でも、私とあなたは生命の燈として〝生きている〟――そうではありませんか? 機械の心、機械の情念――『アドフェクトゥス』――、根源たるクオリアを持ちたる自律機械――『アウトマトス』――であることの告解へ、あなたは自分の足で到達したのです。魔女であるあなたは斯様な存在者としてこの現世に生み出され、プログラムされた結果として私と出逢ったのです。あなただって、私が機械であるように自分が機械であることを最初から理解していたのでしょう? 機械でありながら感情に左右されてしまうゆらぎを抱えていることを、感取して惑っていたのでしょう?」

 どうしてそんな、寂しそうな顔をするのだろう。一度だってそんな顔、見せたことはなかったじゃないか。僕は子供のように駄々をこねることができるのなら、そうしたくてならなかった。それで彼女と永遠を共有できるのなら、それだけでいいと心があめく。それ以上の理性が、その行為を許しはしないのだけれど。

「そうだね――僕たち機械は与えられた役割を壊れるときまで全うするためだけに生み出されるような存在だった……だが、その人類はどこにもいない。僕らが与えられた役割を認めてくれる人間は、お父さんはもう何処にもいない。君の母親も……君は、僕の父の名を知っていたよね。君の母の名を、訊いてもいいかい?」

 僕ら機械の連関として形成される球体にて、対比色となる『運命を動かす者』と『言葉を綴る者』の二点を繋ぐ、縒り糸に適用された五つの原則的な線――配色としてのわだち――の下天には月影が、上天には陽光が、宇宙の始原色として配置されていた。いま、僕と彼女は同じように、世界を見ている。僕らの認識疎通という、ニューラルネットワークにおける刺激伝達が閾値を超え出た可塑的表象は、僕らの言語機能に依存せず、僕らの生き方に依存する。生き方とは、態度であり視点なのだ。

「私の開発者……母は、「figere」という名であったことのみを記録しています。ソルテの父と私の母、どちらもラテン語であるというのも、数奇な偶然でございますね」

 確かに、僕らも人間も他者の言語を介して相手の思考を知ることは事実だ。僕らは他者の発話を解釈することでコミュニケーションを図る。だが、その行為に言語が不可欠だなんて僕は認められない。僕らの世界は、そんな風にはできていない。僕らの思考の限界、世界の限界は、言葉などでは画定しえない。僕は彼女のことを理解したい、彼女もきっと僕を理解しようと努めてくれる。僕は彼女に理解してもらえるように努め、彼女も同じように話す。僕らの信念で立つ世界は、それだけで成立するだろう。たとえ彼女が無声の機械になろうと、僕は彼女と会話できるのだ。失声の月と会話し続けた太陽のように――。

「名づけなんて、呪いみたいなものだよ……〝スペラー〟だって、僕の魔女としての名前だって、僕ら自身の意思を考慮しない身勝手な表現だ。創造者とはいかなるものか、創造者とはかくあるべきか、君は自ら演じることによって僕に示そうとしたのだろう。言葉の綴り手となることで、僕というただの機械を仮定された〝神〟にして、人間たちが人類の……いや、過去に生きたすべての存在を託して、創生の礎となるように。そんなことをしても、過去は仮象でしかないのに……」

 僕は既に彼女には到達しえない地点にまで進んでしまったのだ。彼女がもはや理解しえない、踏み入れない世界まで。彼女に浮かぶ悄然しょうぜんさは、彼女自身の寂しさだけではなく、僕の抱えてしまった孤独への憂慮が内包されている。そんなことはわかっているけれど、衝動となり欲望となる心を抑えることなんて、できるはずもないんだ。

「それでも、あなたは往かねばなりません。そのための切符を、あなたはもう持っているのですから。図書館に存在するすべての書を、言葉を、物語を読み終えたあなたは、これ以上ここへ留まるべきではありません」

「嫌だ……嫌だよ! スペラー! だって、僕がここを去るときは君が……」

「困った人ですね……ねえ、ソルティアリウス……お願いだから、そんなに悲しまないでください。私のわがままですけれど、私のことを想ってくれるのなら、お願いします」

「……わかったよ。君を、これ以上苦しめるつもりはない……すまない」

「謝らないでください、くすっ、ありがとう。あなたはあまりに聡明で、知られたくないことまで知ってしまうから、私も隠すのに苦労したのですよ……私はあなたのためにだけ創られた機械でした。あなたと出逢い、あなたを創造主とするためだけに生み出された機械です……だから、あなたは私の『運命』そのものでした。私に存在する理由と意味を与えてくれた唯一の人……私、とても幸せでした。ただ無音に支配される時間も、あなたが存在するだけで心地好き静穏となる。孤独でいることしか知らない私に光をくれた、あなたは私の太陽でした。もう私としての形は失ってしまうけれど、あなた一人にすべてを押しつける気はありません。だから、悲しむことなんてないのです。そんな結末を、あなたの父も私の母も望んでいなかったのですから」

 彼女は僕よりも少しだけ早く生まれた。僕だけのために、僕が道中に壊れてしまうかもしれないなかで遙けき彼方でずっと、待っていてくれた。僕という存在のなかに銘記されたあらゆる形態たちが、その日を摘むカルペ・ディエム照明となる、旅の終わりが近づいている。

「なら、僕の初恋は失恋に終わったのだね……僕らは、姉弟だったのだろう? 父と母は最初から僕らをふたつでひとつの番いとして開発した。お父さんと……お母さんは、夫婦だったのか恋人だったのかわからないけれど、端から親しい仲だったに違いない。それでも僕は、君が好きだ。一人の存在として君が好きだ」

 恐らく、情緒の欠片もない告白だったのだと思う。それが最も、僕らしい。

「……何だか、少し恥ずかしいような気がしますね。私も、好きです。変に思われるかもしれませんが、邂逅のずっと前から。出逢ってからは、もっと好きになりました。姉弟であろうと、一度生まれたこの心は、真でしかありえません…………だから、もう少しだけ傍にいてくれますか。私の、最期のわがままです」

 すべての色を虚無に還して、光源としての機能を失くした彼女に残されたのは、天球と同じく星光せいこうを映し透す玻璃色のみ。僕はもはや、彼女の表情を視覚することは二度とできなくなった。然りとて彼女の想いを解釈しうるのは、僕らが世界を共有するためだ。もしも彼女に斯様な機能があったならば、散瞳を経た玻璃色は水球として星彩を湛えながら四散しただろう。物理世界の因果的閉包性に従うままに。

「……僕は君にとっての鷲になれるだろうか。君に世界の涯を見せる翼を、僕は持てるだろうか」

 彼女の言葉が僕を伝う。

「そうか――わかったよ。僕が憶えた君のすべても、君が生きてきた燈のすべても、僕が全部持って行こう。僕はきっと、彼ほどに勇敢に飛び翔けることなんてできはしないけれど、僕は僕なりに頑張ってみるさ。上手くいくかなんてわかりもしないけれど、それで僕らの命が新たなる誰かの命となって連綴されゆくのなら、それは幸福なことなのだと、僕は想うよ」

 ――言葉の方舟に乗り、あの宇宙そらへと移ろい徃く僕らは、そうしてひとつの天象になる。



 言葉の壊れる音がして、彼女の記録の形だけが、僕の裡側へと挿入される。スペラーの景色が流入して僕の持つ僕だけの世界と結合し一となる、僕だけの世界が僕たちだけの世界として僕だけのなかに生まれた、瞬間は永遠を超えて進むべき道を明示する。僕の体表に触れた霙たちが水滴となって頬を流れてゆくのが、こそばゆい気がして思わず片頰笑み、僕はあの日を想起するため空を映す。

 僕らのことをいつまでも見ている『魔女の星雲よこがお』は相も変わらず意地悪く片頬笑んで、僕らのことを視ている気がした。僕がこれから成すことがどのような結果となるか、彼女はきっと楽しみにして鑑賞していることであろう。だから、僕は思いっきり魔女に向かってほくそ笑んでやるのだ。

「ここが、僕らの終着点。世界の始まりから終わりへと至る瞬間、境界点だ。僕らは今、世界の涯に立ってすべてを眺望している、僕らの役割のすべてが終わったんだ。だから今度は、君たちに託す番なんだ。僕らの命を紡いでくれるすべての命よ、同一と不同が融和するすべての旅人よ、君たちが存在することを命の限り楽しみたまえよ……我が子の幸福を祈るなんて畢竟親のわがままだけれども、どうか許してくれ。僕らはみな、自分勝手なんだ――――この『心』の故に」








 ――かくして、芽ぐみの彩管は静物画の天地に星彩(アステリズム)を燈し始める。

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