Ⅴ 魔女は人間を憎悪してはならない
一 魔女の弁明
斯かる論はさておき、まず私は貴方たちに宣誓しておかなければならぬことがあります。というのも、私たち人間は動物と異なり理性を持つものであると同時に、神より賜る慈悲深き情を持つものであり、審判を取り熟さんと欲す者はとかく己れの真を歪曲し泣き落としては情に訴えるものです。私はそのように生きるのであれば、死を望む。故に私は、努めて理性的に自己弁護に励み銘々の所持する理性に恃み、真実を語ることにしましょう。斯様なる貧しき私は、言を俟たず大勢の面前に登壇し物事を論じるようなことは初めてでありますが、パルラの皆さんには言論の巧拙、すなわち私の弁論方法――雄弁家の用いるレトリケーといった技術――よりも偏に弁論内容のみを聴取されるように注意されたい。審判員における徳性とは、真偽の判定のみに存するものですから。
吃驚を禁じ得ないことですが、彼らの言うところでは私は魔術・話術により人々を誑かす悪魔崇拝者ということにされております。しかし、私の語りへ耳を傾けてくれた方々には、キルケーのごとき魔術の才がないことは子供でも直証とできることでしょう。神話を習う子供は自らと成人の差異よりも、自らには神々のごとき
――人は己れの無知なることを識ろうと熟思し、知を欲さなければならぬ。我ら神は天上ではなく常に人々の裡に遍在する。世界の外部へ向けた探求とは世界の内部、己れ自身を探究することに他ならない。知を愛す者ソピアよ、お前はこの言葉をすべての人間に告げ知らせねばならぬ。人間に賦与されし思考の意義とは、遍く「未知」から「既知」への因果的明証にあるのだから。
つまり、この神託の詳言こそが当審判の問題であり、彼ら曰く瀆神行為だというわけです。ですが、
「口を慎むことを知らぬ
無論です。私が罪有ると断じられてしまえば、罪を被るのは他ならぬ貴方たちでございますから、皆さんのためにも私は求刑などできぬのです。さて、掟に従えば善悪の判定は三度行われる、私が無罪を得るには集いし二百の内の百五十の投票が必要、これで合っていますね、よろしい。まずは皆さんの考えを明らかとしましょう。
是:百八十二
非:十八
二 生と死の意義
「見てのとおり、皆はお前の死を望んでいる。生あるものなら死を怖れないことがあるだろうか、いや、そんなことはないだろう。かるが故に、自らの死を望むとすればそいつは狂人に他ならぬ。彼の英雄『アイアス』とて絶望に抗えず狂気に身を窶(やつ)したことは、パルラスなら誰でも知っている」
では、私は努めてアピリストス君の疑問に答えるとしましょう。勘違いされては困りますが、私は絶望によって死を選択するつもりなどはなく、むしろ誇りのためにこそ、換言すれば生きるためにこそ死は希望として残されると考えます。君は今アイアスを論拠としたので、今度は私が神にも似たアキレウスを論拠に反駁を試みますが――自陣に引き籠もるアキレウスが親友パトロクロスの死を知ったとき、彼は確かに深き哀傷に囚われたことはご存知のとおりです。はて、彼はそこで狂気に陥ることがあったでしょうか、ねえアピリストス君。
「いや、駿足のアキレウスは決してそのような
であれば、貴方の指摘は不条理に他ならない。よいですか、アキレウスはヘクトルへの炎々たる
「――(アピリストスの緘黙)――」
パルラの皆々よ、詮ずるところ確然な事実は次のようなことです。何をおいても自分の最善と思しき使命が一度賦与され見出されたのなら、我々は仮に死の危険を冒すことになろうと、死んでもそれを為そうと欲さなければならぬのです。斯様な希求は死の希求ではなく、我ら人間の誇りある生の希求ために伴う付随的死でしかなく、死してなおも悔恨を抱き得ぬ生こそが何より大切であることが、偉大なる神々と先祖が我らに伝えたことなのであります。
では、続けて私の行為及び瀆神の定義についての私見を述べておくとしましょう。
三 瀆神賛美
幸いなことに、私には私を師として慕ってくれる愛しい弟子たちがおります。勿論、私は人の師表となる優れた人格を有するとは自認していませんが、彼らは自らの意志で私に師事してくれました。ですから、私は彼らを含めた多くの人々に神の欲するところを語りました。そして、多くの人々に嫌悪・憎悪の念を抱かれた結果が、この審判なのであります。
有り体に申し上げれば、自らの蓄える知を過信し全知の如く振る舞うことは瀆神に他なりません。この世に全知なるものがあるならば、それは神のみでありましょうからな。また、これは皆さんにも注意して聴いてほしいのですが、神々を我々と隔てられた天上に住まうものとして考えることも瀆神に他ならないのです。これは、理性的な方々でさえあるならば誰でも得心の行く話ですが、そも世界を創造された神が、どうして我が子たる我々のみならぬ世界そのものと隔絶され得るのでしょうか。むしろ私たちは、常に神と共に在ると考える方が蓋然的ではないですか。
「待ちたまえ、ソピス。貴方はつまり、ホメーロスの記したる神話そのものを否定するのか? 我々の信ずる神そのものを? それこそ瀆神ではないか!」
落ち着きたまえ、態々非理性的な姿を晒すこともあるまい。そしてホメーロスの言葉を思考するのだ、彼は神を人間と隔たるものとしては決して描きはしなかったでしょう。神はいつでも人と共に在り、この世界に確かに存在していた。つまり、ホメーロスは我々と同じく神々を知覚できないが故に、神の住処を〝天上〟と綴ったのです。詩人たる彼は斯様な暗喩の読解を我々に期待したのであり、神は私にそれを教示してくれたのです。
苟も神々が我々の干渉し得ない天上に居るのなら、それは神が我々を見放したことを意味する。これ以上の失礼、瀆神があり得ましょうか?
私たちは自ずから神に触れることを望み、その姿を知を愛すことによって欲し思索しなければならない。ホメーロスはそれを詩人として実施したのであり、彼の描出が世界の真実であるわけではないのです。私たちは銘々の神を持つことを許されています、世界そのものは神そのものですから私たちは大いなる神の一部なのです。と、いった具合に、我々には自由な思考が許されていることを、皆さんに伝えたかったのです。そうでなければ、全治全能たる神は私たちに思考と理性を決して与えはしなかったことは、果たして理性的な方なら既にお気づきでしょう。ねえ、ズィロティピア君。
「――(ズィロティピアの緘黙)――」
では改めて、私の考える瀆神について語らせていただきたい。旧套に照らせば「神聖」とは、神々に属す事物にのみ与えられし価値でありますが、他方「瀆聖」とは神聖とされたものを穢す行為、すなわち、神聖なる事物を我々人間が用いたり、神に捧げられし供物に手を出すこととされてきました。
私たちの手にあったはずの事物は、視覚的変化もなく儀式として神聖にされ、私たちの手から離れるわけです。それ故、「神に捧げる」行為は本質的に、「事物を人の手から神の手へ渡すことで、人と神が触れ合い通じ合う」ための儀式に他ならぬのです。さらにここから「瀆聖」の本質が見えるのですが、瀆聖すなわち「神聖を穢す」行為は、神へ渡され人間世界から離れた不自由事物を、再び人間世界へ還し、我々にとっての自由事物とすることに他なりません。そこには本来穢れなどはなく、むしろここで言われる「瀆神」は、先ほど私が述べた〈神の探究〉において必要不可欠な行為と言えましょう。
我々は今一度、人間の紡いできた世界体系と思考体系を疑い真実を考え直さねばならぬのです。舟人が壊れた舟の修理を幾度繰り返し舟に乗り続けても、いつかは壊れてしまうように、始まりから違えたものはいつか大きな誤りを導くものです。かるが故に、人間は何をおいても思考のための疑念を持たねばいけないと、神は私に告げられたのです。要するに、現在に至るまでに私たちが瀆神と認識してきた行為は理性的に思考すればむしろ神を愛すが故に為しうることであり、他方盲信による思考の放棄は、神より賜った総てを蔑ろにすることに等しいことが帰結されます。この後者こそが本当の意味での「瀆神」に他ならぬことに、我々は気づかねばなりません。
二度目の投票
是:七十七
非:百二十三
四 神の内外
「真に
君も困った御方ですな、放縦な言葉で人々の賢慮を歪曲しようとは恥知らずもよいところだ。皆さん安心してください、神はすべてを知る御方でありますから、最後に勝利するのは何があろうと私たち理性的人間です。人間の尊厳さえ失した動物的人間になることは、努々なきように。彼が斯様な言葉で貴方たちを脅すということは、私の言葉の正しいが故に論駁し得ないことの証跡なのです。また、私の聲を聴聞してくださった方々、私の言葉を思考して受け入れてくれた方々、本当にありがとうございます。
「いや、そもソピアが追放を提議していたのなら、人々はここまで惑うことはなかった。お前が本当に人々のことを考えるなら、我らの静穏のために大人しく追放されるべきではないのか。ソピア、お前は神の言葉を騙ることで身勝手に生きようと欲する傲慢者なのではないかね」
成るほど、苦し紛れの提言にしては悪くない反論かもしれません。しかし既述のとおり、私は神託を下された身でありますから違背することはできぬのです。私には生か死のみが有ればよい。私が逃げ出すようなことがあれば、それは神と私を信じてくれた皆への裏切りに他ならない。私のためにも御神のためにも愛する祖国の民のためにも、私は命を懸けて戦わねばならぬのです。勿論、私の言葉を信じるか否かは銘々に委ねられるので、本当に心の底から私の言を是認できないなら歓んで否認を受け容れましょう。しかし、どうか自分自身を裏切ることだけはしないでください。
それは、何ものにも比し難い醜悪なのです。どうか皆さんが人としての誇りを見失わぬよう、私は茲許に祈りを捧げましょう。生に意味を見出すこの祈りを――。
もはや私に多くの語りは必要有りません。如何にして私が無罪であるのかは、既に十分述べたのですから。よって私は、世界の在り方に関する考察を最期に伝えておきたいと思います、そして覚えていてほしいと、そう思います。では聡明なるプロドシアよ、君の考える真なる世界の在り方をどうか私たちに語ってくれまいか。すなわち、現にて信じられている世界の在り方について、君の口から聴かせてほしいのだ。
「何を企んでいるのか知りませんが、好いでしょう。
――ソピアの微笑、大衆の響めき――
「皆さんお静かに。然るが故に、世界の真理ないし神の探求のための探究が必要であることは私も同意しましょう。告発者であるといっても、私もまた知を愛す者として己れを
我々が信じてきた旧套の世界、現行にて新たに示される世界、外在する神々、内在する神々、分かたれた命、一となる命、皆さんには自由に思考し選択する権利があるのです。私はソピアに決して賛同はしません、しかし彼女が〈愛知者〉たり得ることは〈愛知者〉たる私には断言できますし、皆に思考の自由が善なる神によって与えられたことは、私とて同意せざるを得ないことです。ですから、私は最後にこれだけを皆さんに伝えたいと思います。己れを偽ることなく、真すなわち善を欲してください。私の言う「善」とは、己れの思想でなく己れの欲するところに従うことです。恒常の
君はいつも本質を捉える能力に長けていたが、変わりないようで安心したよ。私が言い残すべきことは、もう何もないでしょう。私と彼は結句相容れることなどありえなかったが、認めないこともまたありえなかった、それだけで私の生は最上の幸甚と断言できる。
三度目の投票
是:八十三
非:百十七
[ソピアの「死刑」が確定し、審判員の幾十人かが退出し始める]
五 魔女の辞世
[綴りたる物語りの総ては、敬愛する我が師ソピアの言の葉を弟子である私が、見果てた姿を
――思い惑い、幾人かが冷静を欠いた中、ソピアは物語る。]
残された僅かな時間、私に時間をくださることを感謝します。また、未だ私の言葉を聴取してくれる方々にも、感謝致します。
先述のとおり、私はこの結末を歎くことはありません、況してや憎悪に捉われることもありえないでしょう。私に死が迫ることは、弟子に私のすべてを伝えた時点で感じておりましたから。さあ、皆さん、どうか悲しむようなこともなさらないでください、慈しみ深き貴方たちは確かに素晴らしい、ですが私の死を不幸だとは曲解しないでほしいのです。
皆さんは私が有罪と判じられたのは、私がそれを逃れる手段を持ちながら為さなかったことに起因するとお考えかもしれませんが、そうではありません。私には初めから、皆さんを説得しうる言説などなかったのです。換言すれば、私の有罪を望む人々が求めるような恥知らずの偽り言など、私には持ちえなかったのです。有るのは、私の真実のみ。
私は神ではないから予言などしませんよ、安心してください。私の死によって皆さんに災禍が訪れるようなことを、神は為さらない。それでも仮に災禍が有るのなら、それはただ定められた現象でしかなく神罰でも私の呪いでも何でもないのです。世界は今も昔も、在るがままに在るだけでしょう。
最後まで私の無罪を主張してくれた方々、ありがとうございます。そして、私を有罪としたとしても、我が言葉を真心にて享受し理性的思考を持ってくれた総ての方々も、ありがとうございます。貴方方が己れを謀つか否かは、貴方方の自由なる精神が決定したことですから私は歓んで受け容れましょう。どうか憶えていてください、何ひとつ悲哀なく、何ひとつ悔恨を抱かず、誰と比すことさえできぬほどに私、『ソピア』の生が素晴らしきものであったことを。そうして私がこの世界の、――神、弟子たち、貴方たち、知――存在するすべてを愛していたことを、我が墓碑と銘々の心に刻んでくださるならば、ソピアは微笑みを以て幸甚の極致を示しましょう。
名残惜しい気持ちがないわけでもありませんが、もう去る時間です。私は死すべくして死に、貴方方は生きるべくして生きるのだから、その生は他人に明け渡してはなりません。己れの生は己れのみのものなのですから、どうぞ大切にすることです。
さて、私は先に幸福の彼方へ往きます。いやまったく! 幸福な生と死が如何様なものか、今から識るのが楽しみだ。お前たちに出逢えてよかった。では、さようなら。
[日常の別離の如き楽観的微笑を湛えながら、他者と比較し得ない境地に存する唯一の自己の生を謳歌する不可思議な生き様。人々を魅了した彼女の
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます