Ⅳ 魔女は人間に憎悪されねばならない



                        詠月之廿日

 景勝な村を彩る大慶に身に余る思いを抱く魔女一人が、当惑の空笑いを以て歩いている。事の糸口は、僅か一月の遡行さえ為しうるのであれば誰とて軽々観取することであろうが、取りも直さず万事というのは環流しうるものであるのか。それら判断は銘々のご自由にすればよい。


                                   

 早花咲月之廿一日

 ところで私は、魔女というものに憧れ諸処しょしょを往訪する旅人なのだが、そんな私が友と呼べる者と言えば、一人とて私以外に心を許すことのない頑なしき老馬を措いて他にはいない。彼に与えた「ルーケット」という名を私自身は気に入っているのだが、彼は「儂には不似合いな名だ」と憚りなくぼやくので困ったものである。昔はあんなにも可愛かったというのに、時の川流れは無情なものよ。

 また、魔女というものは時代によって在り方を変えているのだが、そも時流が一定たることは星の終焉を迎えるまでありえもせず、折々において適切な在り方を見いだせもしない時勢遅れが生存競争に勝利できるほど世界が甘くないのはご覧のとおり。囂しい友の繰り言には辟易とするが、斯かる事実と理想を折半した結果、私は現代的魔女というものを志すこととして、多くの人間へと刺激――悪戯――を与えてやることを決めたわけだ。

 既述から察してくれるのを期待するが、私は対話者の声音ないし識字の存否に依ることもなくルーケット、すなわちあらゆる有機体と会話を成すことができる。なぜ斯様な能力が生得的に我が身へ存しているのか、未だ明証へ至ることはないままであるが、私は私なりの哲学を以て考え続けてきた。そうして辿り着いたのが、今日においては迷妄的空想による産物と目される「魔女」の存在だった、物語としてではなく歴史として存在していたことを私は強く信じ、憧憬によって世界を闊歩するのだ。ただひとつの世界の果てを夢見ながら。

「ルー、声の居場所はわかるかい」

「この先の森、恐らく人の子であろう……ベルと儂の敵である人間の赤子が、独りで啼いておる。どうせ助けるつもりなのであろう?」

「助けるものか。その子供が助かりたいのなら、それは自分自身によって成すことであり、私たちの干渉しうることではない。私たちはちょっとした拾い物をするだけさね」

 神のスケルツォに衆生しゅじょうが踊る、その色相は恰も与えられた役割のようにばらばら。渇いた大地にて旱魃かんばつ憂懼ゆうくする戯け者は、その役割を降りえずなお神に助けを乞うて、子を殺してきたのであろう。歩みに伴い知覚されるもうひとつの声、この土地では子棄てが常習されていることの証左であった。

「この子らを親許へ返してやらねばな、時勢遅れの狭隘な大人たちに苦労させられるのは、いつだって子供なのだから、斯かる者共をこそ魔女は懲らしめてやるのさ。あらゆる人間に怖れられる魔女など古臭い! これからは、子供を魅了し大人共からは憎まれる魔女の時代である! 理も非もなく私が大人というものが好かんからだ、他に理由は要らん! そう思わないか、ルー」

「わかったから、儂の上で暴れるでない……お前さえいなければ閑日月かんじつげつを送っていたであろうに、運命とはげに奇異なるものだ」

 私という人間は有り体に言えば人間が好きではない。私が動物や植物と話していると、みなは私を気味悪がり避ける――幼子にはそれが解らなかった――。意地悪をされた回数を数えることも疾うに諦めた。そんな過去に囚われるなど我ながら情けないと思うわけであるから、私は彼らを憎みはしないのさ。むしろ、彼らが私を憎むことを欲望する。私はこの自分自身というやつが大好きなのだから、他者の定見は意に介さぬのだ。斯様な私でなければ、彼らと親しくなることも、彼らが私を助けてくれることもなかったであろうしな。ルーケットは照れ屋であるからこの話をすると怒るのだが、私の叫泣さけびなきを聞いて誰よりも速き脚で助けに来てくれたのはいつでも彼だった。野馬としての平穏無事な生活を捨て、私とこの狭い世界より出で新たな世界を旅することを彼は選んでくれた。この小さな足、この大きな足。歩調を合わせて、一歩、一歩、見果てぬこの星の最果てまで大地を踏む。何とも素敵なことではないか?

「おや、ルーは運命や神なんて信じていないのかと思ったけれど」

「信じてなどおらんよ、おのれさえな。だが、一度壊れた水晶玉が決して同一へ戻ることが能わぬように、過去の出来事を変えることなど誰にもできはしない。変ずるのは儂らの認識じゃ。しかるがゆえにそれを〈運命〉と表現するのも悪くなかろう?」

 彼らが言う「魔法」とは、本質としては科学へ内包される一派生に他ならない。我々にとっての魔法とは、現存する理論では証明不可能な命題そのものであるが、この世界に現象した以上それは世界の法則に従って現出した物事であり、自然・科学に帰す何かと言わざるを得ない。かるがゆえに、魔法と科学には目に見えるほどの差異も見られず、精々それは言葉と言語の差異程度のものでしかない。こうした誤謬の有ることは世の常だ、私もそへ非難を赴かせる気はない。然りとて自己の世界に閉じ籠もり観念の変化を拒む思考狭窄者には、はっきり申すと辟易とするばかりなのだよ。こんなにも私たちは無知であり、こんなにも世界は未知で溢れている、その何と魅力的たることか。知の魅力に魅入られた過去の魔女たちがどんな人々であったのか、私はおのれの空想に焦がれてならないのだ。

「この様子だと、犠牲いけにえにされたのはこの子らだけではないか……さて、なおさら今有る命を大切にしてやらねばな。よしよし、良い子だ」


 拾い上げた二つの燈、その存命を確認した母親の歓びと憂慮を感取して、私はこの村の長の許へ案内することを要望した。私を歓待するような者は誰一人いるはずもなく、中には私を殺してしまおうと話す者もいたが、斯様なことは些事にすぎぬ。決して怖れはしないのだから、私の裡側に創出されし『魔女の掟』がそう在るのを欲するのだから。然り而して私を拘束するような者が現れるのではないかと、魔女なりの準備をしてきたのだが、その必要もなかったらしい。

 族長曰く「村民立ち入るべからず。その者は私と二人のみで話さねばならぬ、決して粗略に扱うことのなきようゆめゆめ注意されたし」とのことで、その表情には縋るような沈痛が窺える。

「言語は解らないが、話の判るお爺さんだな。ルー、私に何かあったら迷わず逃げるんだよ」

「悪い冗談だ、ベルのおらぬ世界では儂の世話甲斐も彷徨変異に因循いんじゅんするばかりであろうよ。何かあれば必ず呼べ、世話のかかる娘子むすめごにはまだまだ儂が付いていてやらねばならんからな」

「相変わらず君は可愛くないな」



「豈図らんや、御神の居られる幽へ奉じられし子を再び明へ連れ戻すとは。何ゆえ部外者たるお前がかのごとき不心得を所為としたか詳述するがよい、本来ならば死を以て償うべき大罪なのだからな」

「大罪とは! 笑わせてくれるものだ、斯様な実有を未だ信じうる根拠がどこにあるものか」

 私の魔法に気づきもしない語り。哄笑とするにはあまりにも嘲りを込めたこれは、恐らく嘲弄と呼ぶべき大笑であろうが、私には時勢遅れの在り方以上に、思考を停止させた盲信者の姿にただ呆れるしか為しうることがない。彼らには自らの力によって困難を解決しようという意志など無い、神という外的存在に依存して自らは怠惰に無知を無知のままにして、他者を犠牲にして生きている。だから私は宣告してやった。

「私がお前らに指示するのはひとつだ、今すぐ犠牲いけにえを止めろ。お前たち民族は子供の命が後代の繁栄にどれほどの寄与が有り、価値の有るかをまるで理解していない。いい加減目を覚ましたらどうだ、お前たちの希求に応える神などこの世界には存在しないのさ。仮に存在したとて、そいつに依存してる暇があるなら建設的思考・提案をしてみたらどうだ。いい歳した大人どもがいつまでも脛齧りへ必死になってるのを見たら、お前たちの言う神様が呆れて見放すのも当然だろうよ」

 彼が色を作すのを観取できたが、族長としての器を備えるだけのことはあり、賢明にも怒号を飛ばすようなことはしないようだ。しかし、私の発言を赦すつもりがないことは確かであり、私はそうなることを望んで此処へ往訪したのだった。

「神を愚弄する言葉を看過するわけにはゆかぬ、今ならばまだ赦してやることも吝かではないが、その言葉に二言はないのだな?」

「ああないよ。もちろん死ぬ気もないんだがね。だから私はあんたらとひとつの勝負をしたいのさ。この土地は旱魃による飢餓拡大を恐れているわけだが、要するに雨さえ降れば犠牲の如何に無駄であったことか明証されるのだ。どうだ、言葉は読解できるのに言の音を理解できぬのは奇妙なものであろう――そんな仮象の神よりも、私という一人の〈魔女〉に賭けてみる気はないか」

 力を裁ち切り、解しえない言語の聴取に動揺する姿には滑稽さを覚えるが、無理からぬことであろうよ。今、彼は私を変化へんげないしあきつ神とでも見ているのであろうから、直ちに私へ危害を加えるようなことなどはこれでありえないだろう。

「お前……いや、あなたは一体、何者なのです」

「畏まることはない、私は世界を知るために旅する魔女――アマベル・ヴィルヘルミナ・フリーデリーケという名のしがない人間さ。実は、旱魃と少雨については最初から心配することは何もないんだ。何もせずともあと七日も経てば雨は必ず降るからな。問題なのは、旱魃を前兆とした激甚なる大雨だ。看過すれば、標高も低く川に近いこの村は瞬く内に流される。一族の滅びは必定となろう」

「それはすなわち、神より賜った預言なのでございましょうか?」

「私は預言者ではない、これは人間としての矜持たる思考による推測だ。知を欲し愛する者であれば論なく為しうることだよ。公理を嚆矢とした論理の舟は、定義で舵を取ってやらねば容易く沈む。断言はできぬが、理論的認識を超えた魔法や神秘なんてものは存在する根拠に欠けすぎていてとても信ずるに値すると思えぬのさ。其処に在るのは我々の未知、それだけじゃないかい?」

「……それならば、お前の言葉を信ずるわけにはゆかぬ。我らには我らの矜持がある、もしも予言が外れていたのならお前はどのように責任を取るつもりなのだ」

 得意げな片笑みの示し、私は描出されし魔女の美学を知らしめてやることにした。縦えおのれの命を懸けることになろうと、私は彼らに憎まれることを成し遂げねばならない。

「そうだな、もしも私の言葉が誤謬で七日後までに雨が降らなければ、そのときは私を犠牲にしてしまうがよい。面白いではないか、神を信ずるお前たちは私の言葉の偽なることを欲し、私の言葉の真なることを憎む、げに魔女らしくて素晴らしい。お前たちが私を憎むことを期待し、お前たちの命を救ってやるとしよう。畢竟選択は銘々に委ねることになるだろうが、前日に高台へ避難するくらいのことには協力してくれたまえ、そう難しい要求ではないのだからさ」

 彼及び彼らには私という人間が何ゆえ斯様なことに命を懸けうるのか、理解に苦しんでいるようだが、そも異なる人種であるのだから畢竟理解されることを期待するのが見当違いというものだろう。然りとて、彼らは心づくべきなのさ――自らの命以上に価値を見いだしうる何か、その内在に因る幸福というものの有ることを。


                                   

 早花咲月之廿二日

 感温性の有る産声たち。恒河沙ごうがしゃまで数えて未だ尽きることがない種たちが、誰に知られることもないままに空を目指している。この夜にはさながら死のみが広がるような寂寞じゃくまくが在り、神よりも祈りの行為に縋る土着の民は慈雨じうを望みながら現象の生起を怖れている。他方、子供らは好奇に意志を委ね私という来訪者を取り囲んでいるのだ。これほど騒々しい夜は久しい。

「嘘だあ、だって僕たちはいつだって真っ平らな砂の上を歩いているんだよ。丸っこけりゃ真っ直ぐ歩けもしないじゃないか」

「そうだねえ、確かにそうかもしれない。だがな、空に浮かんだお月さんを見てごらんよ。朝とともに昇るお日さまを見てごらんよ。この星々を見てみなよ、みんなみんな丸っこいのさ。これだけみんなが丸なのに、私たちの星だけが仲間外れなんてのはちと寂しいとは思わないかい?」

「確かに、みんなが遊んでいるのにお前は仲間外れだ、なんて言われたら私も嫌だなあ」

「じゃあ、本当にこの星って丸いの? 大人は誰も教えてくれなかったのに?」

 何よりも純粋な知を欲望する姿、私が子供に惹かれる理由が恐らくこれなのであろう。知らない方がよいこと? 何も知らない方が幸せ? 笑わせてくれる冗句であると、私はかの甘言を否定しよう。

「そうだ、太陽よりもずっと小さな星の上に生まれた小さな小さな私たちは、丸い大地に立っているのさ。私たちはあまりにも小さい、だからそんなことにも気づかない。幼きお前たちは私よりも未だ知らぬ世界をこれから知ることができる、当たり前であるはずの何もかもが不思議で溢れている。この地図を見てみろ。大昔の人間が描いた宇宙の姿だ」

「何か変なの……空に壁みたいなのがあるし」

「あ、西瓜すいかにそっくり。美味しそうな宇宙だなあ」

「ははあ、西瓜とは思いつかなんだ。悪くない想像だ、宇宙がひとつの果実である可能性とてないわけではないからな。ほれこういうのもある」

 そう、現存する地図は論を俟たず科学に依って算出された図形にすぎないのだが、太古の地図とは実に多様なる空想によって描画された予想図なのだ。それは科学よりも神話に依るものであり、天球を前提とするもの、太陽を中心とするもの、地球を中心とするもの、アトラスに支えられるものなど各人各様。人間の想像力とはかくも遠大なるものであったのかと、驚嘆するばかりだ。

「そして、これが現在の地図。私たちは凡そこの辺りに座り込んでいるわけだ」

「……知らなかった、世界がこんなに大きいなんて。私の世界はここだけで広くて大きくて堪らなかったのに、こんなに狭い場所で生きていたなんて」

「僕らも魔女さんみたいに旅してみたいよ! お父さんもお母さんも怒るだろうけど……でも」

 遮るわけでもなく指し示すようにして、私は小さな少年の頭に手を乗せていた。魔女なりの親愛として、私は気紛れに自らのあらゆる知識を彼らへの置き土産としてやることを決めた。いつか彼らに内在せし種のことを希って。

「まあ、焦ることはないのさ。お前たちの言うとおり、ちっぽけな私たちにはこの世界でさえあまりに広い。それゆえ、私たちはこの世界を知るために各地を旅しているわけさ。何度か死にそうになったこともあるが、お節介な友達がいつも私を助けてくれるのでな、今ではよい思い出だよ」

「それって、あのお馬さんのこと?」

「そうそう、あのお馬ね。もうひとつは、この頭の中に入っている私の知識たちさ。わかるかい、旅する魔女には知ることを愛する気持ちが大事なんだ、雨の降ることを断言できるのもこの知識のおかげなのだから、知が為しうることがどれほど凄いかはわかるだろう?」

「わかるけどわからないような……」

「何でそんなことがわかるのか、僕らにも教えてよ」

 虹彩に咲き初める乙女百合の花弁、目映いカレイドに見蕩れ魔女たることを忘れた微笑を漏らしたことに気づいて、私はその夜を終えることにした。師表とした心象のスケッチは未熟者には遙か遠くに映り、彼方に浮動する青き炎へと焦がれた少女の『空現秘抄くうげんひしょう』は、静寂しじまに正体もなく眠りこけている。私だけの物語が私だけに存する、それは果たして、何度考えても愉快なことではないだろうか。

「今日はもうお終い、あまり遅いと私がお前らの親に怒られかねんからな。ふう、そんな顔をされても困るよ、折を見て話してやるからまた明日も来るがいい。お前たちがそうしたいのならな」

「うん! アスタ・マニャーナ! ケ・テンガ・スエーニョ・ボニト」

「Que tengas sueño bonito ――夜更かしはするなよ」

 友曰く、響む数多の声に言い知れぬ虚しさを覚えながら、心地好い夜風に吹き遊んだ角笛と幼友達を抱いて、旅する魔女は静穏なる音を奏でていたという。旅する魔女は、本当は寂しがり屋らしい。


                                   

 早花咲月之廿三日

 族長ドミヌスの計らいにより例外的に参加することになった評議会にて、私の付議した提言が主として取り扱われたのだが、果然論が円転自在に運ばれることはなく、私を追放すべきと唱える者が半数ほどといったところ。斯様な砌に事が惹起されたのも彼に言わせれば運命に等しいのであるか、私の話へ殊に埋没していた、空想の本質を解する素質を備えた二人が行方知れずとなったという。私による悪影響を唱える者の声を遮り、急ぎ探索へ当たるように指示してルーケットに跨がり走った、流石にこのときは少々焦ったよ。

 結論から言えば、私は二人を森の中で見つけ救い出すことに成功した。私の影響であることは明白だから、一応両親には頭を下げ謝罪しておいたわけだが、面白いのは彼らの方が私よりも深々と頭を下げていたことだろうな。彼らとて人間だ、子への愛情くらいはあるのだから当然と言えば当然なのだろう……ただ、失敗がなかったわけでもないがな。

「おい泣くなよ、大丈夫だと言っているだろう」

「だって、僕たちのせいで魔女さんが……!」

 道中、森に棲まうセルピエンテに襲われていたこの子を助けるために左手を噛ませたのだが、どうもそいつは彼らにとっては死神そのものであり、蛇毒じゃどくに侵された者が死を必定とすることを信じてやまぬということらしい。しかし、何の対策もせずに森に踏み入るほど魔女は浅慮ではないことは予め注意されたし。

「魔女の知恵……というよりは人間の知恵と言うべきだが、蛇毒というのは抗毒素製剤さえ準備しておけば恐るるには足りん。蛇共とは付き合いが長いのでな、話せばわかってくれるやつもいるのだがあいつは駄目だ。ああいう頭でっかちは蹴り飛ばしてやるくらいの扱いがお似合いだろう。覚えておけ、魔女とは賢しき者でなければならない。何があろうと思考を放棄してはならない、それをお前たちの所為とするがよい、というわけで私は死なぬから安心しなさい。悪いがドミヌスよ、話はまた明日とさせておくれ。今は休息が必要なのでな」

 そのとき彼らが如何様な色をして私を見ていたのかは、私の与り知らぬところである。


                                  

 早花咲月之廿四日

 昨日、私により命を救われたという言を憚りなく声明する二人は今、私の前に跪いている。従者の傅くようにして、私への懇請を述べる子らの瞳に捉えられた魔女は、どう言葉を返してやるべきか悩むことになったのだ。

 曰く「私たちを魔女さまの旅に連れて行ってほしいのです」とのことであるが、快諾する心積もりがあろうはずもなく、彼らに芽生えた〝愛知〟を萎凋いちょうさせるわけにもゆかず、しかして私という一人の人間は大きな決断を迫られていることになるだろう。すなわち、彼らが自らの意志で世界を知ることを為しうるようになるまで、暫時の滞在により私なりの教示を施すことを私は考えたということだ。

「それじゃあ……僕たちを連れて行ってはくれないの?」

「私たち、どんな仕事も一生懸命に頑張るから、行かないでよ。せっかく出会えたのに、もう少しでお別れなんて嫌だよ…………」

「こら、魔女をあまり困らせるものじゃあないよ。それに、お前たちと旅はできないと言ったが、すぐ別れるとは一言も言っておらぬだろう?」

 吃驚と歓喜を灯した檠燈けいとうの明滅に幼子の似姿を見て、外套を握る少女と少女の背を摩る少年を見据えるため今度は私が跪く。懐抱された熱に絆された自身を省みて、熟々おのれは「魔女」と呼ぶには分不相応たることを自覚するのであった。

「すべての種子の地下深くに眠る虧月きげつの夜から、すべての生花せいかの咲き誇る盈月えいげつへ至る時節まで、私の与えうるすべてをお前たちに叩き込んでやろう。だが、果たして私はお前たちとは往けぬ。ルーの背中は二人以上を乗せるには小さすぎるし、私は子守りが得意ではないからな」

「私たち、そんなに子供じゃないよお!」

「参ったな……だから私は子守りが苦手なんだ」

 温もりを伴う液体ガラス球に戸惑う魔女、それを笑う人間たち。〝人間から憎まれる〟という本来の目的は失敗に終わり、魔女は既に憎しみ以上の大いさを持つ、親愛を向けられていたのだろう。


                                   

 早花咲月之廿五日

 私が何ゆえ降雨の予測を成しえたのかという話を、大人子供の境を失してみなが聴講していた一日のことを……斯かる一日を今でも明晰に憶えている。

「私たちの存立する大地を囲む広大な海、その中でも赤道と呼ばれる境界の海流は今回の現象に大きく関わるものだ。赤道が惑星の自転軸に垂直となる位置に引かれた目に見えぬ線であることは先述のとおりだが、境界線以南の南半球にこの地が位置しているということをよく憶えておいてくれ。さて、赤道海流は偏東風により西へ向かい流れる北赤道海流及び南赤道海流、東へ流れる赤道反流で構成されるのだが、先日にはこの海流が弱められる事象が観測された。まあ、恐らく南東風の弱化辺りが原因であろうがそれは緊要とする話ではない。まず問題となるのは、海流の衰勢すいせいが如何なる事態をもたらすかである。よく考えてみてくれ、本来海流によって西へ運ばれていた暖水ないし冷水が滞留したらどうなると思う?」

 闃寂げきせきを打ち破る回答で応えてくれたのは、たった二人のみ。

「その暖かい水、冷たい水が海に広がってしまうってことじゃないの……?」

「今回は暖かい水だから、海が暖かくなったのが実は雨が降らなくなった原因なんじゃないかしら」

「賢い子だね、そのとおり。海水温度の上昇が発現すると、それを原因として大気の循環構造を変ずる異常気象――この場合は豪雨が誘発される。この気候変動は上昇気流の活発化に起因するもので、現象名としては「エンソ」と呼び習わされていたのだが、口頭では表象もままならぬだろう。私の持つ書物も多くはないが、ここに置いておくから順番を守って自由に読めばよい。話を続けるが、エンソに因り起成する異常は土地次第で大きく変わる、旱魃を引き起こす場合も大雨による洪水を引き起こす場合も往々にして観測されるものなんだ。斯くゆえに乾燥帯は旱魃のみに注目されがちなのだが、興味深いことに、十数年に一度の周期で酷い旱魃に悩まされていた死の砂漠へ、激甚なる降雨が生起していたことが記録されている。ご存知のとおり、現今の世界は人類が荒廃の一途を道行きとしてから久しい日月であり、当時の趨勢と比して自然環境にも極大なる変容の来していることが予測される。要するに、難しい事柄の詳述を省いて言えばだな、当地は彼の篠突く雨脚に踏み荒らされた砂漠と様態を同じくするのさ。私は自然科学に明るくはないが、これくらいは調査と考察さえすれば誰でも明晰に判じうるだろう……私たち人間には、無知者には魔法と思えてしまうほどの知識を集積・体系化する能力が備わっている。これは人間という種に固有の生存戦略だ、然りとて無知は悪ではないし今は知の逸楽に耽ればそれでよい。自己の楽しみを他者に押しつける趣味は、私には皆無なのでな。さて、話すべきことは凡そ話しただろう。私は物語りすぎて腹が減った、食事にしようではないか」

 その後、川での水浴びを済ませたところ、女たちが私の裸体を囲んでいたのだが、このときは流石の私も微かに恐怖を覚えたものだ。魔女を現人神の近親とでも勘違いしている者が未だ多いらしく、祈りを以て私に仕えるために綿布を持ってきてくれたのだが、兎に角体を拭こうとする彼女らを説得するのには骨が折れた。

 ルーケットの繰り言、「年相応に素裸を羞じらいも警戒もせず、ベルは他者の目を気に懸けなさすぎではないか。壁になる儂の身になってほしいものだ」という文言も、耳朶に腫瘍ができようかというほどに聞き飽きたものであるが、彼の斯様な反応を楽しんでいる私が存していることは否定しえない。

「ふと思いついたのだが、馬でも人間の女に情欲を抱きうるものなのか?」

「できるか阿呆が、白痴と思しきどこぞの馬の骨なら話は変わるだろうがな」

「ほお、馬のあんたが馬の骨とは気の利いた諧謔だねえ。でも、私と出逢わなければルーは今頃牝馬と結ばれて子宝に恵まれていたかもしれないだろう。情欲は生物として当然の欲求であるはずだが、ルーは牝馬に欲情することはないのかい」

「さあな、儂は生物としては出来損ないなのだろうよ。そうした欲は皆無らしい。現在は、ベルの行く末を見果てることのみを欲望する老馬として存している。儂はただそれだけの存在なのだ」

 友のように閑話してくれ、父のように育ててくれ、祖父のように受容してくれる。この世界にたった一頭だけである大切な存在の髪を撫で、頬を重ね抱く。幼い頃から爾今に至るまで、私はこうしているのが何より心安らぐのであり、彼は斯様な私の心を理解して緘黙の微笑で包んでくれるのだった。

「君は、いつも嬉しいことを簡単に言ってくれる。ああそうだ、終わりのない旅路などありえない、私たちの旅――物語――もまた逃れえぬ閉幕を迎える日が、いつかこの扉を叩く日が来るだろう。そんな『私』の魂を最期までどうか見ていてくれ、ルーのおらぬ旅は退屈でかなわぬだろうからな」


                                   

 早花咲月之廿六日

 人々の大いな転化はすなわち彼らという世界の大いな転化である。言語的命題とは世界を投影した像であり、論理とは世界を投影した鏡像であるならば、言語と論理は連関の軛に繋がれようと相違性を免れない。個々は不同に存立するが構造上シーケンスの制御を違えることもなく、私たちは「私」という概念を介して事物を対象と認識し、常に名――意味――を与えながら語り手となるのだ。私はただに世界の果て……換言するのなら〈限界〉をこの眼で見て、識りたい。世界、神、魔女という言葉たちは形象化の比喩にすぎない、これは原初的聖書においても同様で我々の言語表現は永遠・無限に至ると推考しうるほどに極大なのである。その極致にさえ到達が能うのならば、私はそれ以上を欲すことはないだろう。限界を超越したその先へ往くとすれば、それは私の役目ではない。

「予定より動きが早い……急げ! 自然は視覚に捉えうる兆しを顕然とするほど我々と昵懇ではない。老人の移動は健全なる成人男性が手伝え、子供の移動は成人女性が傍に付くがよい」

「異論のある者も今はただ彼女の立言に黙従しておくことだ、一人とて彼の地に残存することは許可しない。我々一族は旧套のためしに照らせば同胞なる家族である、然り而して旧套墨守きゅうとうぼくしゅに在る必要がないことを彼女は我々に命を以て示してくれた。祈りとは場所に限定されるものではない、我らは尽くされた深切に礼を以て応えねばならない」

 喧声けんせいを掻き消すドミヌスの引声いんぜいに、心動しんどうの一となることを各人が表象して列を成して行く。爾前とは殊にする現下の描出と能動的主体、もはや被写の受動的客体に立つ瀬はない。

 そも彼らの犯した誤謬とは仮象の神を信仰したことでもなければ、子棄ての風習でさえない。世界の現象すべてを神に帰することで、種々の禍福を綯い交ぜにした何もかもの起成原因を神に依存したことこそが彼らの誤謬である。

「これで全員なのだな」、魔女が問い長は「然り」と答ふ。妖雲と思しき翳りさえ観測できぬ宵には、異質な夕星ゆうつづのひときわ赫奕かくえきたる白金色プラチナの光明が、人々の眼を奪っていた。この心象風景が彼らの然したる銘記となることを私の祈りとして、茲下に綴り記録しておく。ゆめゆめ〈祈り〉の本質を曲解し違えることのなきよう注意されたし!


                                   

 早花咲月之廿七日

 劇的変転を人生に期待するものではない、私たちが舞台上の語り手ではないのだからな。結論だけ述べておくと、私の予言内容は完全に的中していたのだが、予想以上なこともあったのだよ。のちに調べたところによれば、今日日における降雨量は過去十年の降水量に比肩することが判明した。面白いデータであろう? 人間たちは斯様な自然を支配下に置いていると驕り高ぶっていたのだから、斯かる魔力に魅入られ麕集きんしゅうした有機体が、緩慢な死滅へ直走ることとなったのも無理からぬ話であろうよ。皮肉なことであるが、我々は動もすれば死の観念を終わりとし生の観念を始めとすることを欲しがちだ。然るに鳥瞰するに付ければ、我々の死は所詮ひとつのアポトーシスにすぎぬことが容易に氷解される。翻って、死は生に先立つことが――すなわち、我々の裡には生得的に「死の観念」がプログラムされているという帰結が、根拠を持って浮上するのさ。これは生体内の細胞が、意図的な自死を行うことからも推考しうるだろう。

「はっは、どうだ! 私の言葉に偽はなかったであろう! これでお前たちがこれまで如何に愚かしい旧套を墨守し続けてきたのか、如何に命を無為に帰したのか漸く感取したであろう。憎むのならおのれではなく私を好きに憎むがよい、魔女にとってそれは誉れであるからな。さあ!」

 私の判然とした欠点をひとつ述べるとするなら、それは自己評価と他己評価の差異への無関心と言えるだろう。要するに、私アマベルは他者が自己をどのように見ているかをまるで気にしない質であるから、他己評価の内実を感取することが非常に苦手なのである。揚々とした言の背後には跪く民草が並び、ドミヌスは背信を顧みず謝辞を述べるのだから拍子抜けだ。

 斯くして、私の魔女としての計劃は水泡に帰した。

「わかった! わかったから! 私を担ぎ上げるのはやめろ! 何度も言うが私は魔女であるし、お前らの祈りなんて聴きはしない! ああもう泣くなよ、本気で怒ったわけでなくてはだな……」

 爾来私が彼らと如何なる会話を交わしたのか、今の私には詳言する気力もないので綴ることは控えておく。はあ、もしも気になるという者があれば好きに空想したまえ。兎に角、嫌になるほど感謝、感謝の連続で私は疲れたのだ、呆れて片頬笑むしかないであろう? …………だが、誓約した言葉を魔女は違えない。私は子供たちの教育者として暫く彼らと伴に在るのであろうが、それでもいつか別れは必然として来訪する。斯くゆえに私は旅に出る、彼らもいつかそうすることであろう――少し気が早いかもしれぬが、別離の風景をあいつらの手向けとしてやることにしているのだ。あれだけ純粋であるから、さぞや驚嘆してくれるだろうさ。


                                     詠月之廿日

「本当に、もう行ってしまうのですね。あの……いえ、多言は要さぬでしょう。僕はただ先生に感謝しています、それを厭うのはわかっていますが、言わせてください、本当にありがとうございました。僕たちの命を救ってくれて、僕たちの世界に道を示してくれて、ありがとうございます。どうか恙なき旅路を」

「私たち、いつか先生に追いつけるように研鑽を怠りません。何年かかるかわからないけれど、いつか先生の役に立てるようにきっと……!」

 小さな魔女の卵は既にひとつの殻を破壊した、新たな世界はまだ生まれたての雛である。それは甚く虚弱な形をしているが、世界には潰えることのない瞬きと花弁が咲きこぼれている。彼らには〈祝福〉と〈祈り〉が絶えることなく断章を形創る未知なる道行きが待つであろう。

「意気や壮だが、頑張りはしないことだ。お前たちの生は常に自由なのだから、偏に好きに生きろ。お前たちの家族は今でも神への祈りを続けている、今ならばまだ一族として暮らすこともできる、それでも後悔なく別離しうるのなら好きにしたまえ。さて、今まで秘め事としていたが、実はお前たちに見せたい景色があったのだ、ついてくるがよい」

 ひとつの峠を越えた先、未だ渺漠の視地平線を埋め尽くす有機生命体たちが死を塗り替える風光は、アルカディアさえも及ばぬような楽園の形を描画している。世界は「私」で私は「命」である。「今」というヨクトの内にて、眼下に望んでいる世界。

「こんなの、出鱈目がすぎる……だって、僕らの過ごした乾きの大地にこれだけの花々が咲き乱れるなんて、教えてくれなかったじゃないですか、本当にありえないほど――――綺麗すぎますよ」

「……漸く理解しました。先生は最初からこうなることまで知っていたのですね。だから、別れの日を今日と定めていたのではないですか?」

「さあ、どうだったかな。兎にも角にも、私の贈る言葉は僅かなものだよ。いいか、私たちの生きる世界には私たちの心を衝き動かす景色が幾つも存在する、旅の醍醐味とはまさにこれと見つけたるものなのさ。上来教授したように魔女の〈知〉とは「見る」ことである、しかし「見る」ことは視覚的知覚のことではない。私は密やかにしてお前たちが真に欲すところの何かが見いだされることを師として祈っている。聡明な弟子が曲解することのないのを信じてな」

 陽光以上の赫灼を表する徒花のすべてが、私たちにとっての一瞬の時に内包され肉体的生を終えることとなろう。然らば花は何を目的に何の存在理由を以て咲かんと欲すのであるか、斯かる事柄を必死に考察するのは馬鹿げたことだ。ただ生を欲す、それは生そのものが幸福であることの証左であり、私たちが求むるは決して永遠なる瞬間ではない。「私」は、瞬間なる永遠を欲すのである。かるがゆえに、季節外れに咲き誇る命のすべてが生を後悔することなどはありえない。

「この機械は何をするためのものなのですか?」

「あ、カメラと呼ばれるものですよね。確か撮影した感光材料を薬品で可視化して現像するんですよね。僕、絵画や写真にはとても興味があったので覚えてます」

「半分正解だが、これは通常のカメラとは少し異なるポラロイド・ランド・カメラというものでな、わかりやすく言えば使い捨てカメラとされるものだ。被写体となるのは嫌いなのだが、この風光を物理的銘記としお前たちとの出逢いと別れを残しておくのも一興であろう、なあルー」

 言葉よりも尖鋭な彼の相好におのれを律し、私は村民のすべてを此処へ呼ぶように二人に命じた。二人のみが東雲しののめの微光の下、花の郷へ座しているときのこと。がくから伸びた花冠の海に泳ぐ地籟の音色おんしょく、遊ぶ胡蝶の連れ舞に僅かながらの憧憬を見て、裡に秘めたる想いを吐露したのである。

「あと数年を経てしまえば、この地に命が存することはできなくなるだろう。ドミヌスとて、彼ら以外の者とて理解していないわけではない、私が何度も教示したのだからな。それでも彼らは、この地を離れることはできないと私の提案を断った、子供たちも含め死することは避けえない……私は畢竟魔女といっても人間の一人にすぎない、世界を変えるような力など持ちえない。なあルーよ、斯様な私の行いは無駄だったと思うかい……んっ」

 形影けいえい相伴う世界の交叉。

 命の共振的音響たちが私のみに聴音される不可思議さに一笑を浮かべ、私よりも僅かに温みを伝える抱擁に身を預けると、彼はいつも信頼の証として尾っぽを私に握らせる。幼年のアマベルがルーケットの意思を気にも留めず、自身の持たぬ部位に夢中となった日のことを。私が悲嘆に暮れるとき、そうして慰めてやると泣き止んだことを彼はずっと憶えているためだ。

「論ぜずとも解るであろう、彼らは彼らなりの生き方を自らの意志によって決したのだよ。彼らの道往きを照らしたのは慈しみ深きベル、君だ。誰かに憎まれることを怖れもしないのに、結句誰からも愛されてしまう、聡明で不器用な、魔女に似つかわしくない娘。儂が魅かれたベルとはそういう人間だ。儂はその問いには答えない、詮ずるに自己の意味と価値を決するのは常に自己のみなのだから。然りとて、私の主観を述べるのなら――無駄なことなどあるものか。そのような戯言を抜かす者が在れば、儂が許しはしない。だからベル、君は自分を決して否定してはならない。まあ君のことだ、儂がこうした言葉を述べることは見越していたのだろう? 甘えるならもう少し素直に甘えたまえ」

「似つかわしくないって、傷つくなあ……傷ついて泣いてしまいそうだ。君はいつもずるいのだよ、私に依存されても知らぬからな。はあ、私は君が居なければこんなにも脆く容易に挫けてしまうのだな、敬愛する先代の魔女方にいつになれば追いつけるのやら」

 さて、極彩色への仰天あるいは動転の様相は筆舌に尽くしがたい愉快さであったのだが、果たしてドミヌスだけは悠然として私にあることを問うたのであった。斯かる会話を最後に記しておく。

「爾前よりお前に問うてみたいことがあったのだが、聴いてくれるだろうか」

「何を今更、私はお前たちの定義によれば家族なのだろう? 遠慮など要るものか」

「では問おう。我々は神への祈りと信仰を捨てることはできない、我々にはその精神が魂として刻まれているためだ。アマベルは神の存在を否定したが、我々の精神そのものを決して否定はしなかった。すなわち、我々とは異なる祈り・信仰の概念を我々に示さんとしてくれたわけであるが、畢竟お前は自身の〈祈り〉の意義を言とすることはなかったであろう。私は教えてほしいのだ、アマベル・ヴィルヘルミナ・フリーデリーケの定義した祈りの本質を」

 思考による探究に余念なき者は、おのれのイデオロギーに揺らぎのあることを識り疑念を欠くことがない。私が彼を認める所以はまさにそに尽きる。ともすれば年老いた者は、形成された観念形態に固執こしゅうするのであるが、ドミヌスという男は例外的な聡い人物であることを私はやおら把捉はそくしたのだ。

「好かろう。繁簡はんかんの後者から述べるとするが、私による〈祈り〉とはに他ならずそれ以外ではありえない。子細を述べるならば、祈りとは銘々の〈私〉という観念の生存において欠かすことの叶わぬ、意味を切望する思考そのものだ。おのれの生きる意味を欲すことで探究を為す思考なのだ。それ以上でもそれ以下でもなく、私の祈りも神もすべては私の裡に存し外在することはない。かるがゆえに他者へ依存することはなく、おのれの意志として他者を認め生きうるのだと私は帰結したのだよ。といった具合の回答で納得してくれるかい?」

 すべての〈私〉の綴り合わせた国の花たちは、銘々の彩色で形持ち記録されてきた。それが記憶された彩色とは異にされた模倣であることを諒解してなお、私はこの記憶の記録に専心するであろう。縦い自己満足でも、この言葉の総てが誰にも届かぬ記号だとしても、私たち創造者は命を燃やし文字を残すだろう――いつか、私という想いの何もかもが託されるのを乞うて――けれども、もしもこの文字を言葉として意味を付与する者がいるのなら、私はお前にある事を頼みたい。

 現にて命持ち夢想う、お前にだ。

「折角の貴重な撮影なのだから笑いたまえ。私を想ってくれるのならば、哀情ではなく大慶を以て別れようではないか。世界は面白きことに満ちている、楽しまねば損だ! さあゆくぞ!」

 右のかいなには小さな少年少女を抱いて、左の腕で老躯の堅人を抱き寄せる。恥も外聞もない心持ちで笑壺に入る魔女に釣られ、失笑する者、まごつく者、呆然とした者。ガラスとセルロイドの花冠を円筒に鏤めた百色の鏡みたく、水晶に透かし見た多色多様は悉くばらばらに生じている。素描よりも形以けいじ的な写意画は銘々の主観画筆が描くのであり、其処には客観の手が付け入る隙はない……ゆえに、写真画には命がうつされるのだ。

「本当にいいのですか、先生の撮られた写真なのに……」

「私にはこの日録さえあれば事足りるのだよ、そいつはお前たちに持っていてほしいんだ。私がみなと此処に生きていた証を預けられる誰かがいるのは、贅沢なものだからな。だから写しの片割れはお前たちに託す、もう一枚はドミヌスたち村民に残してやってくれ。名残惜しさも有るが今生は常に有限だ、私から言いうることは伝えたのだから、未だ言い知れぬ未知はお前たち……君たち自身で学ぶことだ。欲せよ、然すれば獲得できよう。まあ堅苦しいのはここまででよいだろう――あまりこういうことは、何というのか、魔女らしくないから言わないようにしていたのだがな? はあ、師としての情に先立ち一人の人間として、私――アマベル――は家族としてクアイロ、フィジュエルの二人を愛している。これを最後にする気ではあるまい? 今度は君たちが私を訪ねてくれたまえ、そのときは心からの歓待を拵えてやろう」

「ぐうっ……私も、愛してます! 先生!」

「おいおい……まあ、弟子と言っても子供は子供か、よしよし。クアイロは最近めっきり私に甘えてくれないねえ、偶には抱きついてもよいのだぞ」

「ええっと、僕は結構です……流石に恥ずかしいですから」

 身無し子の二人にとって私が如何なる存在であったのか、苟も私が彼らの母親ならばそれも悪くはなかったのかもしれぬと、自嘲した日さえ今は愛おしい。

「君も男の子だからな、然もありなん。フィジュエル、もう我が袖を濡らすのはやめておくれ。ドミヌスも常々言っていたであろう。〝我々家族の絆は各々の望む限り決して潰爛かいらんすることはない〟と、彼の言葉には私も同意だ。心配するな、私とて弟子の成長を見ず死につもりは毛頭ないのだ、だから焦らずおのれの欲すままに知を愛すことだ。クアイロ、君は他に比して聡明に過ぎる、知に支配されるのではなく知を支配下に置くことを留意しフィジュエルの忠言に耳を傾けよ。。フィジュエル、君は他と比して殊に様態の静観に優れる、クアイロに誤謬があれば修正してやってくれ、寂しいときには心安く彼に甘えることだ。……私もそういう時がないわけではないからな」

 慰めの吐露に向けられた微笑、今まで感じたことのない気恥ずかしさを覚えたことを夢寐にも忘れない。

「じゃあ、先生もルーケットさんに甘えることがあるわけですか」

「可愛いところあるんですね、私も先生と同じ能力さえあればなあ」

「ふん、勝手に言ってろ。よいな、魔女の別離に過度な飾言は不要だ、我らには一言があればそれですべてが明証される。いつかの邂逅を」



―――― Ave atque vale.


                                     神無月之一日

 示し合わせた言の花が咲き初める詠月尽、魔女は再び旅立の最中に在る。

 この断章を知る者へ、どうか思考を手放すようなことはしないでおくれ。我々に生得され極大へ到りうる空想を手放すようなことはしないでおくれ。空想と想像と創造と思考の連綴をどうか憶えていてほしい、縦え世界が終わるのだとしても。空想とは、思考の一形態――瞑想なのだ。

 現よりも夢を想う人の心そのもの、その裡にのみ存在する思考の断続感覚。精神的自由、自由への意志、生力への意志とは、望まなければ掴むことも見いだすことさえできぬ思考なのだ。君たちの一人一人だけが夢見た世界を忘れないでくれ、現世の喩えではなく君たちの夢のひとつひとつが現そのものであることを、忘れないでくれ。もしかしたら、私の言葉は甚く的外れであるかもしれない、解釈さえもしてもらえず曲解されるのかもしれない。それでも構わないと、魔女は帰結したんだ。

 此方より彼方へ綴る花が、一人でもいい、空想として愛されることを――私は旅人きみたちへ差し向ける祈りとして、幕切れとしよう。旅の道程、再び廻り逢う日まで。

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