Ⅲ 魔女は人間を愛してはならない


    1


 男と海の怪物の嚆矢は、茫洋とした荒海を航海する船乗り一人が水難に遭ったことで生じました。それは、荒星の下の出逢いでした。一説によると海神わたつみの怒りと霹靂神はたたがみのはたたきによる嵐であったとも言われておりますが、これら風説は眉唾物であることが常ですから信ずるには値しないように思われます。不運にも男は水禍のゆえに海面へと身を放り出され、死を待つのみの者となってしまったのでした。ところが、その男は死の運命を斥けて命を拾ったというのだから、不思議な話だということなのです。これもまた風説にすぎませぬが、海に棲まう妖人ようじんが課する何かしらの誓約によって男は命を救われたのではないか、という話も囁かれております。実際、男は譫言のように幻視と思しき妖艶なる姿についての口説を繰り言としていましたから、男の気が違えてしまったと考えるのは甚く妥当な判断であったでしょう。

 しかしながら、少なくとも男にとっては怪物――彼の言うところでは美しき聖女である――の実有は真実であり、そこには私たちの真実および客観事実の干渉する余地などありません。つまるところ、

「人魚」と呼ばれた怪物は男の世界において確かに存しているというわけです。また、男の言葉を否定する者の多くもまた怪物の現在を怖れてしまっているのが実情なのですが、それというのもこの港町には古くから魔女の存在が確認されており、度々人間を攫い弄んでいると噂されているのでした。かかる事実が人々の不安と疑念を焚きつける主因となっていたのです。とはいえ、男は真面目でありますから、仕事は以前と変わらず熟していますし、日常会話とて普段と同様に行えるので、人々は次第に彼の夢想について気にしなくなりました。

 そんな折に私は町を訪れ酒場へと入ったのです。上質な素材が潜んではいないかと探しに来たというのは副次的目的で、腹蔵なく洩らしてしまうのならば、私はただ一次的欲求に従い酩酊に身を委ねたいがためにここを訪れたわけです。古の時代には人々を恐怖に陥れ、謀りをもって英知・真理の究明に勤しんでいた「魔女」という人種も、人々が闇夜を恐れることをやめ、その静けさに静穏を覚え、半宵はんしょう海面に浮かび上がる煌星と桙星に一種の美と幻想を見いだしたる今世においては、ただの「人間」の一人にすぎず何ら特殊ものでもないのでした。少なくとも、魔法を行使することさえなければの話でありますが。

「あのさ……鬱陶しいから両隣に座るのやめてくれませんか。私は今、一人で呑みたい気分なんですよ。女なんて幾らでもいるんですから、他を当たってくださいよ」

 魔女は魔法の特徴ゆえに比較的早世であることも珍しくないのでありますが、その代わりと言ってよいのか、身体の老化が著しく遅緩されることが多いのです。かつての師曰く、生物は表象的現象を基幹として知覚と思考を為し容姿を気にするので、魔女は無意識に老いを怖れ、若さを欲するがゆえに微弱な魔法の力で容姿を維持しているのだと言っていました。然らば私自身もまた他人の目を気にしているのだろうかと、度々おのれに呆れてしまうのでした。

「相変わらずつれないお人だ、私はただ麗しい乙女に誘われるがままにここへ座っただけでございますよ。さながらローレライの喉が奏でる美音に聞き惚れた舟人のようにね」

「そのとおりでございます。この酒場に浸る女といえばみな卑賤な者ばかりでありますが、あなたには彼奴らとは大きく相違した高雅なる美を感じたのです。どうか、私たちと少しばかりでもお話をしていただきたい」

 彼ら鼻持ちならない貴族たちがなぜ平民層の娯楽場である酒場に訪れるのかと言えば、どうやら私を目的とした来訪らしいのです。自分で言うようなことだとは思われないものの、此の程つきまとわれては話しかけられることが続いているので、残念ながらこれが真実とするしかないようです。それでも来てしまうのは、安価かつ美酒を嗜む上でこの店が最良だからであり、ここの店主とも幼い頃から相知であるということに起因しております。彼は私の正体にさえ気づいているのですが、決して口外することはありません。もちろん、彼を信用しているわけではないのですが、一定の信頼は置いてもよい男だと私は評価していて、師の亡くなった現今においては数少ない近親者のようなものなのです。

「詩的で素晴らしい表現ですわね、緘黙していればもっといい男ですのに。しかし、私にはすでに恋い慕う人がいらっしゃいますから、どうか諦めてくださいまし。素より私のような平民があなた方貴族に見合うとは思えませんし、そも私はあなた方を愛することなど生涯ありえないでしょうから」

 店主を含めた周囲の嘲笑を誘う魔女の言葉。糅てて加えて私は勝ち誇るような、あるいは得意げな微笑を皮肉に添えてやったのですが、右隣に座る男は激昂したようで色を作しておりました。手に持っていたオールドファッショングラスを床に投げ棄て、私の腕を掴む手には怒気というよりも殺気に近いものがありましたから、私は慌てて魔法を使い男を眠らせてしまおうとしたのです。

「貴様、身の程を弁えるということを知らぬようだな。これまでは看過していたが、男がいるというのなら話は別だ。私たちと一緒に来い、よもや誰も邪魔はしないだろうな。お前たちの仕事が成立しているのは我々のおかげなのだからな」

 もちろん、恋い慕う男などいるはずもないのですが、この男は他の男に魅力において負けることに抑圧感情の栓が置かれていたらしく、私の虚言は彼を諦めさせるどころか却って逆上させることになりました。こうなってしまった以上、私はこの店ないし町へ下りてくることも難しいでしょう。また、私を助けようとする人間がいるとは考えていませんでした、店主は私の正体を知っているために静観しているでしょうが、その他の人間は失職を怖れて助けたくてもできるはずもないのです。かるがゆえに、このとき私を助ける者が在るとするならその人物は大馬鹿者であると言わざるをえません。

「貴族殿、やめておきたまえ。女性に対してそのような横暴の振る舞い、殊に品位に欠けた行いだとは思わないのかね。須く我々から敬われ慕われるべきである貴族の方が、このようにあってはこの町ひいてはこの国の未来も明るくはないだろう」

 私と貴族の間に立った大柄の男は、貴族の腕を強く握りました。血相を変えたのちに血相を変える忙しい相好は、苦痛を表していたようで、見ると腕には赤々とした痕が残されていました。私の左隣に座っていた男は知らぬ間に出入口の前に立ち、嘲笑していました。

「ふむ。だそうだ、言われておりますぞ。私はあくまで紳士的に彼女をお誘いすることのみを望んでおりましたから、彼と同類と思ってもらいたくはないものですな。さあ、負け犬は早急に引き上げるとしましょう」

「お前……自分が何をしたのかわかっているのだろうな。明日からまともに生きてゆけるなど思うのではないぞ!」

 粗悪かつ滑稽な演戯者といった風情の結語を述べて彼らが去ったのち、私たち三人以外はみなみな愉快に唱い踊ります。宴の夜が明けるにはまだ時間がかかる頃、私は彼と出逢ったのです。

 自分の未来を些事とでも考えているかのごとく「どこにも怪我はないか」と訊ねる姿に、私は異質ながらも何かを彼に見いだした気がしましたが、それを知るのはずっと後のことでありました。

「馬鹿なんじゃないですか……! 誰だか知らないけれど、これからこの町で生きてゆけなくなるんですよ。私ももちろんそうですが、あなたまで巻き込まれることはなかったでしょう」

「ああいや……すまなかった、余計なお世話だったのかもしれないが、君のようなか弱い人が傷つけられるのを放っておけなくて。君が気にすることではないさ。しかし、私には両親はいないが病弱な妹がいるからね、これからどうしたものだろう」

 本当に不思議な人だと、率直に思うのでした。ともすれば人間というものは概して利己として生きるものであり、決して利他的に生きることはできないし、また須く生物はおのれを最優先すべきであると考えていたものですから、彼の行動は私にとってこの上なく異質なのでした。

 それゆえに、私は彼に惹かれたのだと思います。

「どうしてあなたが謝るのですか……はあ、本当におかしな人ですね。でも、助けてくれてありがとう。私、リリンと言います、あなたの名は?」

「私はアダマンティスといいます。そして、私の隣にいるのが唯一の友人ボヌスで、我が妹の婚約相手の男であります」

「初めまして、ボヌスと申します。アダマンティスは私の宿命の友であり誰よりも善良な男であることはボヌスの名において保証いたしましょう、純朴すぎて周りが見えなくなるのは玉に瑕ですがね。予定とは変わるが、要するに私が彼女と結婚してしまえばお前の心慮は失せるのだろう? お前はまず自分のことだけ心配していることだ、彼女は私が命に代えても守るのだからな」

 副次的であったものが主となり私の〈愛知〉の血が躍動するのを感応しました。私は彼ほどに上質な原質と思われる人間を知りませんでしたから、理が非でも住処へと連れ帰ろうと思ったのです。

「この町から逃げるのなら、私の家に来ていただくというのはいかがでしょう。私をつけ回していた者すら発見できない場所にあるものですから、隠れるには打ってつけでございましょう」

「おお、それは助かります。申し訳ありませんが、お言葉に甘え暫時滞留させていただきたく存じます。ではボヌスよ、折を見て様子を見に来るから妹のことは頼んだよ」

 以上が、私という人間と彼という人間の嚆矢における顛末なのであります。みなには知られざる話でありますが、魔女というものには幾らかの遵守・守秘すべき掟というものがあり、末代に亘ってこれは伝えられるのです。而して私自身も義務感を持つわけでもなく成り行き任せで、宿命に従った受動的生として掟を守り続けていたのですが、なぜそれらが破るべからずとされるのかを私は知らぬのでした。

 これは、かような魔女が掟を破り、そのひとつの果てに必然として死を迎えるまでの運命を、小品とし綴った物語なのであります。



    2


 雪融けの霙に明けた冬月尽とうげつじん。路頭には春燈を見初める春日遅々の小景が心地好く在り、ひゅうひゅうと夜風を運ぶのでした。しかく情感を抱く日、私は運搬のために海へ出ておりました。空漠たる天上には幽世の光源が飄々としており、私は空間静止の中に静座してただ見蕩れていたのです。

 そのとき、何の因果であったのか、神話の語り継がれる時の最中で凶兆の象徴とされた流星雨が私の視界を支配したのです。死を愛するような夜を塗り替えてしまう、あの動的な風景、あの変転の瞬間は今でも頭から離れず、瞬間的に描かれた写実絵画のようにして私の裡に保管されているのです。恐らくあれは、ヴァルゴの名で称呼される乙女が、さめざめと泣いたゆえの落涙だったのではないでしょうか。

 しかし忽然と空は鉛色の雲翳に覆われます。知ってのとおり、私は嵐によって澎湃ほうはいたる激浪に呑まれ、死の定めを享受しなければならぬ状況に追い込まれたのです。みなが取り沙汰する神話的考察が事実であっても不思議ではない、怖ろしい小夜嵐でした。

 そのような、意識の有無として此彼しひに彷徨する中で私は確かに見たのです、聴いたのです。半身には人間の肉体、半身には銀鱗を持つ少女の姿を見たのです。彼女の歌い聲が音の漣を成して聴こえたのです。奔流など歯牙にもかけず、円形軌道を描いて舞い泳ぐ優美な肌膚に触れたのです。かの円舞はさながら夢幻の心象風景のようでもありますが、確かに彼女はそこにいたのです、この身体が現実として覚えているのです。

 何も根拠なしに語っているわけではないのです、私がそう信じて止まないのは、目覚めたとき、急いで泳ぎ去る彼女の尾をこの眼で視たということ。そして、この輝く鱗が私の傍に落ちていたことに根拠があるのです。人々はこれを見て、ただの巨大魚の鱗だろうと宣い、人々は今の話を聞いて、私の視た美しき聖女を幻視として片づけてしまいますが、私は頑なにあの夜が華胥の夢であったとは認められないのです。

 私の記憶に残るものは、これがすべてであります。


     *


 私の住処は町から少し離れた山中にあり、私たちは並び歩きながら彼の話を聞いていたのでした。彼が話し終えることを待っていたかのように、木製の屋敷が姿を現し、ぴたりと足を止めます。その大きさに驚いたと思しき彼の手を取り、私は「魔女の住処」へと誘うのでした。

「ああ、町で噂の気狂いというのはお前か。人魚が人間を……珍しいこともあるものだ。それでお前は、命の恩人に礼を言うために今でも彼女を探していると……仮にそれが真実であっても、周囲に話すのは賢明ではないな。しからば気狂い扱いされてみなが呆れ返ることもなかっただろうに、やはり馬鹿な男だ」

「どうしたと言うのです……突然そのような粗暴な口振りを」

 漸く帰宅できたことに安堵しつつ、身につけていた小綺麗な外相がいそうを取っ払うと愉快な物驚き顔が浮かんでいたので、私は魔女が魔女らしくあるようにい嗤うのでした。私の手が髪を梳かすのに合わせて、亜麻色の穏やかな色調がびんを端緒にしてマルーンに染まります。それに呼応して、薄色の虹彩にアルマンディン鉱石が錬成されました。

「少し着飾るだけで簡単に欺かれる、人間がいかに表象しか捉えていないかの証左だな。しかし察しの悪い男だ、お前は私に騙されたのだよ。いくらお前が怪力であろうとその扉が開くこともないのだから、まあゆっくりと話そうではないか。私はお前という人間に興味があるのだ」

 これが私、始まりの者アダムの初妻ういめとも目されるリリス、その名を継ぐリリンの本当の姿であり、本当の言葉なのでした。

「何だ、この町に魔女が出没するという噂も聞いたことがないのか。巷ではそれなりに有名なのだがなあ、まあいい。お前、魔女の力に興味はないか?」

 突飛な状況変転に男が困惑してしまうのも無理はないだろうと、思っていた私が愚かに見えるほどに男は平淡としてこんなことを言ってくれたのです。

「おお! これが世に言う〈魔法〉と呼ばれるものなのですね、素晴らしい力だ。まさか生きている間に魔女様にお会いできるとは、何と運がよいのだろう。妹が聞けばきっと羨むに違いない。これから暫く泊めてくださるだけでなく、魔法まで教えてくれるとなると私はどれほど恵まれているのだろう。ええ、妹を喜ばせるためにも、また彼女にもう一度会うためにも魔法には頗る興味があります」

「なっ……いやいや、もう少し違う反応があるだろう! お前の命は私が握っていて、お前の生滅運命はこの掌の上にあるのだぞ。殺そうと思えばすぐにでも殺してしまえる、眼前には死が在る。お前はおのれの死が怖ろしいとは思わないのか?」

 相手を恐怖させ、戸惑わせ、陥れるはずの魔女を怖れもしない男を目の前にして、戸惑うばかりであったのは滑稽にも私の方でありました。大柄な男は静かに首を横に振り、「彼女に礼を言う前に死ぬのは困ります、しかし怖いとは考えません。あなたは人を殺したことも、端から殺すつもりもないのが私にはわかりますから。糅てて加えて魔女が実在するということは、人魚が実在する根拠とも言えるのですからこれほど嬉しいことはないでしょう」。かような戯言を吐き純朴たる笑顔を見せられた私は、いかような事を為すべきであったのかは今でもわかっておりません。私には大層な自覚など持ち合わせもないのですが、魔女の矜持がないわけでもなく、恐怖ないし嫌悪されないということは、私たちにとって軽侮されることに等しいのです。なぜならば、私はこれまで幾度も人間を連れ攫っては恐怖に陥れ、散々楽しんだ後には記憶を消して町へ返すことを繰り返していて、一度たりとも魔女として怖れられなかったことはなかったからです。それゆえ、彼のような人間は私からすれば天敵に近いものであったと言えるでしょう。

「知ったようなことを、お前が私を怖れぬというのなら、今度は逆にお前が私の虜となるようにしてやろう。その素朴な表象人格に潜むお前の欲、ここで暴かせてもらおう」

 今にして思えばあまりにも稚拙な考えであったと思います、彼の感情に触れることで私への恋情を抱かせる眩惑の魔法を、私は彼にかけたのです。この魔法はすなわち特定の感情を隆起し増嵩状態とするものですから、私の容姿に対して少しでも惹かれるか情欲を抱く者であるなら、瞬く内に魅了され恋に落ちるというわけでございます。未だに失敗したことなどなく、私はこれまで対象としたすべての男を魅了し弄んできたのですから、容姿にも自信があったのです。しかし。

「嘘でしょう! 基幹となる感情さえ見つからないなんて……あなた、私に何ひとつさえ魅力を感じてくれなかったの? 女としてさえ見てくれなかったの⁉」

「いえ、そのようなことは……正直、あるのですが。申し訳ない、今の私は人魚と思しき聖女のみを考えることしかできませんので、虜になれと言われてもそう簡単になれるものではないようです。しかし、私はあなたへ好意を抱いていることは間違いありませんのでご心配は要りません」

「慰めはやめなさい……余計に惨めだ。珍しく気に入った人間が、まさかここまで頑強なんて」

 先に綴った筆路を見さえしたのならば、予測することは想像に難くなかったでしょう、彼には私の魔法がつうじません。すなわち、彼は私の形(けい)相(そう)を視ているだけであって、私の本性など最初から見ていなかったのです。そう、私は誰からも本当の姿を認めてはもらえないのです。

「ああくそ、女としても魔女としても、これほど屈辱的な日は今までなかったわ! 今すぐ殺す、然もなくば忘れなさい!」

「何というか、申し訳ない。私は愚鈍であるから、あなたが何に怒っているのかもわからないのです。失礼があったのなら言ってくれませぬか、可能な限り直すよう努めましょう」

 実際、彼は私が茫然自失としてしまうほどに、関心外の事物に対しては鈍い人なのでありましょう。しかし、私は彼が自分で思っているほど愚かで頭の回らぬ男だとは考えませんでした。むしろ彼の語り口は、どこか風雅さを感取してしまうほどに〈愛知〉の素養が見いだされるものであったのです。

「本当、助けてくれた恩がなければ殺してやりたいよ……はあ、もういいからその敬語やめなさいよ、腹立たしい。興が削がれたし酔いも醒めたから、もう寝る。あれだけの人数の記憶を消していたら私の体力が持たないから、もう私たちは町には下りられない。だから、暫くはここで大人しくしていなさい。私の正体を口外するつもりならすぐに縊り殺すからね。はい以上、おやすみ」

 彼――アダマンティス――は光ある言葉で言います。

「待ってくれ! 先ほどは種々様々の様態が充溢し混乱していたために訊けなかったが、教えてほしい。君は私の話を聞いて〝人魚が人間を助けるとは珍しい〟と読み取れる発言をしていただろう。君は彼女の存在を、私の話を信じてくれるのか?」

 無視してしまえばよかったのかもしれないと、他者は思うのでしょうか。恐らく、私の運命が引き返すことの叶わぬものとなったのは此時でありましょうから、それもひとつの道だったのかもしれません。それでも私は、かような後悔も欲せずおのれの裡へと歩みを向けたのです。

「……信じるも何も、人魚は実在する。私たちは人に怪物として扱われる点では同類であるから、交流したこともあるのさ。そして私が知る怪物も銀鱗を持っていた。しからば、お前の話は事実とした方が蓋然性は高い、それだけのこと。わかったな頓馬」

 爾来の物事にも在りし日の物事にも意味を付与しえないのは論を俟ちませんが、私は畢竟、私の意志により満たされることを望んだ、ただそれだけのことだったのでしょう。だから、私はきっと誰よりも幸せであったのだと、強く、強く断言するのです。

「そうか……誰かに認められるというのは、存外歓びに満たされるものなのだな。あんなことを言っていたが、リリン、君はやはり優しい人だよ、ありがとう。これからよろしく頼む、おやすみ」

 おやすみ、酷く懐かしい切響せっきょうを忘れさせるような、あの日とは相違した浮(ふ)聲(せい)。

「煩い、頓馬が。さっさと寝ろ」

 いつになく饒舌な自分への吃驚で鼓動が漸次ぜんじ強まるような、かような身体変化を伴う追想の思夢しむ。それは生涯覚えるはずのなかった康寧であり、私は独りになってから初めて、昏々とした眠りを経たのでした。夢寐にも逃れえなかった懼夢(くむ)の夙夜が俄に失せ始めてしまうかの想いを、私は何と名づけるべきであったのでしょう。


 魔女は――――――――ならない。


 私は魔女で在り続けることなどできるのでしょうか。あるいは、もはや魔女というものを定義する条々に意味があったのでしょうか。そも、魔女とは何だったのでしょうか。言葉の持つ意味が必ずしも我々の規定認識と同一であると考えるのは、早計かつ浅薄ではないだろうかと、私は魔女の末輩として度々思わずにはいられないのです。

 なぜ「魔女の掟」などというものを定めたのかと言えば、おおよそ解答はひとつに集束いたします。魔なる者とは、常に誰よりも利己的に、誰よりも飽くなき探究心をもって、道徳、倫理、法に反しようとも自由に思考し自由に創造することを欲さなければならぬものであり、須く他者の介入を許す余地など持たぬべきであるのです。そう、「かくあれかし」と、祈りと呼ぶにはあまりにも傲慢な想いが込められている――それが我々魔女にとっての掟であり志向なのであります。それはある意味、人々の先入見によって思想に固着した、良識と相容れぬ道徳様態と同種と言えるのかもしれません。

「……縊り殺すは流石に言いすぎたかな。必要の有無に関係なく、あいつは私を助けてくれたのにあんな言い方はよくなかったかも……今すぐ記憶を消す? いや、でもそれは……」

 実際、私のやることはすべて遊戯ないし演戯であり、魔女でありながら人を殺めたことも陥れたこともなく、今は真理を希求する想いなど皆無なのでした。ただ、一人で満たされない日々を埋め合わせるための暇潰しなのですから、今までのように彼の記憶を消し町に返してしまってもよいはずなのです。彼がその後どうなろうと、私には何の関係もないのですから。それとも、もしかすると眩惑の魔法にかけられたのは、彼ではなくて。

「魔法の力さえ及ばぬ意志、私の眩惑を歯牙にもかけずおのれの生のもとに自由を享受するアダマンティス。私に惚れることのなかった、初めての人、か……」

 未だ知りえぬ感情の発現に惑う夜、魔女は夢さえも忘れて静寂しじまに身を預けるのでした。



    3


「リリン、いつまで寝ているつもりなのかと思ったよ。朝食が冷める前に席へ着きたまえ」

「……おい、誰がこんな月残る早朝に起こせと言った? 誰が勝手に食材を触ってよいと言った? あとそのあさむような物言いはやめろ、嫌なことを思い出す」

 曙の白虹が現象する頃合いに、自家の聞き慣れない音に気づいて目を開きます。私の機嫌の悪さにただ謝るアダマンティスを見て、結局のところ渋々身体を起こしたのですが、「私」という者は名のとおり夜行性生物でありますから、朝という時間が得意ではないのです。徒跣とせんにて冷えたフローリングに触れて目が覚めると、昨日の朧月夜に霞む折々を二人で過ごしていたことを思い出し、複雑な思いがするのでした。なぜ昨夜の私は軽々と男を泊めてしまったのか、冷静に思考すれば理解が及びませんでした。誰かと共に過ごす朝など童以来だったのですから、きっと困惑してしまうのも無理はないのでしょうけれど、私の心とはかくも脆く容喙されうるものであったのでしょうか。

「待て。お前の体、よい匂いがまとわりついているな。料理が得意なのか?」

「妹がいつでも動けるわけではなかったからね、料理・洗濯・裁縫には慣れているのさ。君の風姿と性癖は妹とまるで似ていないが、少々世話が焼けるという点では妹のようなものに思えるよ、部屋は掃除していないし片づけられてもいない」

「私を妹扱いとは……どこまでも不遜な男だ。私は普通の人間ではないのだから、部屋が汚れようと身体には何ら問題を来さないんだよ。勝手なことをするなよ、あれでも私なりの定位置があって本を積んでいるんだ。お前は料理・洗濯・掃除その他雑事を熟す私の奴隷にさえなっていればいい。それで、これはどこから持ってきた?」

 知覚経験のない移り香が人間の頭に備わる摂食中枢への血流量を変動させ、一次欲求へ変換されるのを覚知して、私は彼の言葉のままに促され席へ着くのでした。私とて料理をしないわけではありませんが、男の手腕は有り体に言えば私以上に優れていると言わざるをえないもので、おのれのこととなるととかく怠慢になりがちである私よりも、遙かに美しい配色が食台に並んでおりました。二人分の食事が並ぶ光景なぞ二度と見えないと思い込んでいたものですから、果たして違和感を拭うことはできず、言語化のできない感情がまた裡側に生ずるのでした。こうして魔女らしからぬ未熟な精神性を自覚するときは、いつも言いえぬ不安に自己人格を遮蔽されるのです。つまるところ、ただの小心者というわけでございます。

「ボヌスに頼んで幾らかの食材を持ってきていたんだ。このヨーグルトは妹が作ってくれたものだね、牛乳を発酵させるだけだから誰でも簡単に用意できる、よければ作ってみるかい?」

「私は食べるだけなのがいいの。まあ、仮にお前が私のために作りたいと言うのなら、協力するのも吝かではないが……あくまで仮の話だからな?」

「そうか! それならば、今後は私の知る料理を君に教えてみるとしよう。一度くらい、リリンの手料理の味も知っておきたいところであるしな」

 大人びた器の大きさを見せたと思えば、今度は子供のように屈託や遠慮の日晷を持たない大笑相好を見せて、恰も金烏そのもののごとく明るく輝いている、アダマンティスとはそういう男なのです。宵にのみ現れるいつわりの嗤笑ししょう、その玉兎のごとき紛い物とは金烏日影にちえいの燿きなくしては存在しえないものであり、〈私〉という現象とはまさにかような玉兎月影げつえいでしかないのです。つくづくおかしな人間に出逢ってしまったものだと思う反面、私はきっと心の底で期待していたのではないでしょうか。この人なら私が存在を示しうる光を与え続けてくれるような、そんな気がして。

「私はお前ほど料理は上手くない、だからお前が作り続けておくれよ」

「しかし、私の知らない料理もあるのではないか? 無理強いはしないが、私は是非とも魔女の料理というものを食してみたいのだ。私のために時間を使いたくはないだろうが、駄目か?」

「そ、そうか……そこまで言うなら作ってやってもいいが、近づきすぎだ。あと……お前の岩のような手で掴まれると痛いんだよ、魔女といっても身体は普通の女と差異はない。お前の聖女様に嫌われたくなきゃ、女性の扱い方も心得ておきな」

「ああつい……悪かった。嬉しくなると理性の箍が外れてしまうようでな、妹にも友人にもよく呆れられるんだ。怪我はないかい?」

 馴々しいけれども不快でもなくて、むしろ嬉しくなるような。私に頼む姿は子供そのものでありますから、この親しみは弟ができた感覚に近いのかもしれません。

「ふん、この程度で怪我などするか。まあ正直、お前、悪くないよ。その間抜けで幼稚な性格さえなければ、私の跡継ぎか弟として欲しいくらいだ。だがその前に、お前の今後について話しておかなければならないだろう。遊戯はいつまでも続けられない、演戯はいつか終わり、舞台は闃とした音無おとなしを境に終幕されなければならないんだ。お前が見蕩れた人魚についての真実を、お前だけは知っておくべきだと私は考えている。そこにはお前の理想像とは相容れないものが含まれるかもしれない、私が嘘を話しているのかもしれない。どう解釈するのかはすべてお前次第で、お前の権利として自由に思索へ耽るといい。だが、私は自身が物語る事物をすべて事実だと断言するだろう。さあ、どうする?」

 恐らくこれは、私なりにけじめをつけようとしたのでしょう。私たちと彼らは果てまで行こうと異なる世界に生きている、アダマンティスにはそれを理解させなければならない。そうでなければ、彼女は再び暗闇に惑うことになるでしょうから。

「話してくれ、私も本当はずっと訊ねたかったのだ。案ずることはない、何があっても彼女への思いは変わらない。私は今まで人に魅了されること、すなわち恋というものを知らなかったのだが、今、こんなにも焦がれる想いに命が燃えている。これは私の『初恋』なのだよ……おい、何がおかしい?」

「ひひ、悪い悪い。その歳で初恋なんて言葉が出るとは思わなくてな、惚れるのも無理はないがまさか初めてが人魚とは、よい趣味をしているのお」

「幾ら私が鈍いと言っても、馬鹿にしていることくらいわかるぞ。そういうリリンは、誰かに恋をしたことはないのか?」

 ふっと世界の形貌なりかたちから万籟の風が消えました。音の縦波は存せず言の葉の舟は停泊します。現存しえなかった概念が生み落とされ、微かな兆しとしてリミナル境界の越境を感取するとき、何かが揺動して心もとい欲望の熱量――生きる意志――たちが熱烈なる輪舞を形成したのです。恐らくそれは、理性とは対称的な感情として表象されるでしょう。

「……まあそりゃあ、ないわけじゃあないけどさ。昔の話だよ、今はもうそうした感情に囚われることはやめているし諦めている。つまり、私はお前より精神的に成熟しているんだ、わかったか頓馬」

「意地でも名前では呼んでくれぬのだな……しかし、諦めているとはどういう意味だ。もしや、男に振られた傷心で?」

「次言ったら本当に怒るからな? 私が振られるわけがあるものか、私から棄てたんだよ。人間のくだらなさに呆れてな」

 ああ、うっかりしていたものだと、心を許しすぎたと後悔したところで時が覆ることはなく、私はただ苦し紛れの言を呟くのです。できうるかぎり軽薄にして、腰かけに凭れ、食台に足を乗せ。

「私はお前たちとは違う、私たち魔女は愛だの恋だのに振り回されることはない。それはあってはならぬ――赦られぬことなのだよ。ふん、お前らには無関係の話さね、訊きたいこともあるかもしれないが今は忘れてくれ、頼む。さあさあ本題だ! リリンの名をもって紹継されし夜の魔女が、直々に人魚の小娘の奇譚を物語ってやろう。食事でも取りながら気楽に聴いておくがよい」


     *


 遙か古代のとある町、そこでは神々の実有が押し並べて信じられており、人魚とは海神の遣わした使者であるとされておりました。実際には人魚というのは神に連なるわけでもない、ただの民族の一種にすぎないのでありますが、我々地上の人間にとっては異形の者でありますから、かような思い込みの矛盾を現在考えるのは詮なきことでしょう。人魚にとっては人間からもて囃されるに留まらず、供物を与えてくれるのですから、そう思わせておく方が都合がよかったのでありましょう。彼らは神事を告げることもなく、地上の人々を欺き続けました。

 また、人魚も所詮は人間と同様に感情に支配される生物でありますから、陸海を超えて慕情に焦がれ合う者が出るのも時間の問題であり、中には堂々とその想いを告げ知らせた者もおりました。当時には神が美しき人間の乙女を娶ることは珍しいことでもないと考えられていたために、人々は珍妙には感じるものの祝福を忘れはしませんでした。そう、古代の人々は私たちからすれば誰しもが敬虔な信徒そのものであり、そも神の現在が常識の世界においては、宗教という概念さえも存しえなかったのです。

 しかし、いつまでも同じ関係が続くことはありませんでした。暗闇に覆われていた世界に、ある夙夜を境として光が差し込んだのです。燃やし続けた灰たちが常しえのごとく燿き続けるのを人々が観測したとき、半宵への畏れは消失し神の概念は薄れ、魔女も人魚も幻想産物とされ始めてゆくのでした。私たちは存在することさえ赦されず、掩蔽されることを強要されたのです。

 そんな折の夜、一人の幼女が、人魚の幼女が勝手に陸へ近づいてしまったのです。その名を『メロウ』と言うのです。彼女はまだ子供でありましたから、人魚として定められた掟を理解していなかったのでしょう、地上という未知の世界に惹かれるあまりに浅瀬へ近づきすぎたのです。

 彼女とて人間に見つかってはならぬことを聞いてはいたので、身を隠す努力はしていたのです。然るに、空には星辰が図形を描き始め、その絵画の中に映写的な絵筆が天泣を投影しました。投影された一条は須臾として消えてしまうのですが、その数は那由他まで数えうるほどと思われ、地上の人々が凶事を怖れる最中にて、彼女――メロウ――を含む子供たちはただ楽しげに、あるいは親しげに、あるいは切なげに、あるいは憂わしげにして、思い思いの形を空想画筆を用いてカンバスへと描きつけるのでありました。そうです、これらは星に象られた乙女の涙なのです。しかし、銘々の想像力は決してその規定法則に従いはしません、かような精神的自由は誰しもが持ちうるのです。

「これが大人たちの言っていた、夜空なの……?」

 ――なんて、綺麗なのだろう。

 ただそれだけの言葉を残したメロウの裡にどれほどの想いが秘められていたのか、当人以外には知りえません。

「でもあれ、何なのかしら……あ、わかった! お星さまの世界にも雨があるんだわ! 私たちの世界からは遠すぎて見えないけれど、この丸くて大きな玉の外にはもっと大きな玉が私たちの世界を包んでいて、それぞれのお星さまで色んな天気が起こるんだ。だから、あの白い川はお空の雲で、二本の尻尾が生えたお星様はお空の動物か何かなんだわ! 大人も地上の人も、こんな景色をいつも見ていたなんてずるいよ。私もいつか、空へ行ってみたいなあ」

 恐らく、彼女の考えていたことといえばおおよそこんなものでしょう。

 そのときです、凶兆であったのかは露知らずとも、事実として嵐が突発したのです。幼い人魚は海中の奔りに耐えうるほどの力はなく、為す術もないままに流され陸へと打ち上げられたのでした。メロウは意識を失い、麗しき鱗の一部は欠け落ちてしまいました。そのまま日影に照らされ続けるならば、衰弱した彼女へ死の運命が必定として訪れたことでしょう。然りとて、これは物語でありますからそう簡単には終わらぬのです、メロウは通りかかった男の子によって遠浅の海岸へと運ばれたのです。彼がどのような表情をして何を考えたのか、これも好きに想像していただく他ないでしょう。

 石灰岩の白が春日に照らされ、潮境ないし浅深によって彩色された翠玉海と箇抜爾多コバルトの碧玉海がきょろきょろと揺れていた日のことです。コントラストはより耿々こうこうと際やかとなります。ランドスケープにおいて欠け落ちてなおも光を自ら放つ銀白ぎんしろの小躯が、男の子にとっての主要事物であったのは言を俟ちません。

 男の子に命を救われた女の子と、女の子の姿に目も心も奪われた男の子。彼女らが「運命」の名のもとに惹かれ合うことは、顕然なる事実として予期できましょう。人目を盗んだ逢瀬を重ね続ける二人はやがて幼年期の終わりを迎え少年期へと、青年期へと移ろうのでした。

「僕はメロウのいない人生なんて考えられない、気が早いと言われるかもしれないけれど、僕が立派な大人になった暁には、君と契りを交わして、この先に続く旅路を二人で並び歩きたい。僕は初めて出逢ったときから、メロウ、君を愛しています」

 少年の言葉に涙する少女は、初めて歓びによる落涙のあることを識ったのでした。

「本当に……嬉しいです。私もあなたを、リシアを心から愛しております。どれだけ深き海底の暗がりにいようとも翳りを見せない、あなたは私にとっての光でした。だから、私はあなたの言葉をお受けします。えっと……不束者ではありますが、今後ともよろしくお願いします!」

「ああいや、こちらこそ……頼りないと思うけれど、僕なりに精一杯君を守るよ。だから、これからもよろしくお願いします」

 もちろん、地上の人々も海底の人魚も彼らの結婚を容易に認めることはありえません。それでも、二人は懸命な努力を惜しむこともなく、彼らに認められるように地上の人々の仕事に協力し、子供たちの世話をするなどして、メロウは次第に人々と打ち解けることができたのです。

 かくして、二人は無事に結婚を許されることとなり、いつまでも幸せにあったのでした。

 いつまでも、いつまでも……、いつまでも……?

 彼女らの「いつまでも」というのは、いつまでのことなのでしょう?

 彼女らはその後どうなったのでしょうか。物語が終わっても、現実における現在的存在が終わっても、世界が終わるわけではないのです。童のために用意された絵本の裡には、いつだって隠された原典が生息しているのです、決して潰えることはありません。騙りは終わりました、私が語るのは〈歴史〉なのです、また歴史とは辻褄合わせの〈物語〉です。二つの言葉には微少な差異のみが存します。

 ――そんな都合のよい話が、あるはずもない。

 二人の結婚が認められた、そんな話はありません。

 人魚を忌み怖れた人々は、少年に怪物と離れるよう説得を試みたのでした。少年は海の怪物に眩惑されているのだと決めてかかったのです。しかし、彼らの主張が無根拠なわけではありません。地上の人々にとっての人魚とは、神の使者を騙り続け人間から種々様々な物を搾取してきた悪魔でしかないのですから、私とて共感はしないものの納得するところはあるのです。

 然るにても少年は納得するはずもなく、人々は元凶たる人魚を殺してしまえば呪いも解けるであろうと海岸へ押し寄せました。あの日の夜、水面に浮かぶ孤月はまだ春だというのに氷輪のように冷めきっていたのを今でも覚えています。

 少年は身体を縄で縛りつけられていました、私はそれを見て問うたのです。

「漸くわかったようだな、お前たちと〝私たち〟では住む世界が異なるということ。諦めて、地上の人間と暮らすことを考えはしないのか?」

「僕は彼女だけを愛している……彼女がいなくなった世界など考えられない。僕はおのれの命に代えても彼女を救いたい。人でなしの化物に身を落とそうと構うものか、魔女よ、僕の願いを聞いてくれ。まずこの縄を解いてくれ、僕は彼女と最期の言葉を交わしたい。そして、彼女が無事に海へ還ることができるように見届けてほしいのだ。最後に……彼女の記憶から僕という存在を抹消してくれ」

 私は驚嘆を禁じえませんでした。人間とはいつかなるときにおいても利己的にしか生きていないものだとそう思っていたものですから、かような利他的生によって死を迎える覚悟を持つ彼という存在に私は強く興味を示したのです。

「傲慢な男だな……縄を解いてやるのはいい、あの子を見届けてやることも引き受けてやろう。しかし、お前、自分の愛した者から忘れられることが何を意味するのか理解していないわけではあるまい。お前の身勝手な優しさで彼女から愛する者を奪って、本当に後悔しないのだろうな?」

 何よりも真っ直ぐな輝石の瞳は、私の瞳よりも深いところを視ている。そんな気がして、微笑してしまいます。

「赦してほしいとは考えない、僕はただそれを欲している。さあ、夜の魔女よ、僕の命をあなたの魔法としてくれるがいい。そうして僕という存在をこの世界から消してくれ、最後まで迷惑をかけてすまない、我が友よ」

「いつから友達になったんだか。まったく。男はいつも身勝手で困ったものだ。振り回される女の気持ちを少しは考えてほしいよ。言っておくが楽には眠れぬからな、覚悟しておきな」

 勘違いされては困るのですが、私は決して彼を助けたわけではありません。本当に助けようとするのならば、彼の記憶からメロウの存在を亡失させ、私が彼女を隠してやればよいだけなのですから。そも、彼の意志に私ごときの魔法などが敵うはずもないのでしょうけれど。

 少年が「メロウ、出てきておくれ」と呼びかけるのに応じ、彼女は私の前に姿を現しました。話には聞いていたのですが、空想上の輝きを霞ませる銀鱗には息を呑んだものです。

「あら、リシア……そちらの方は?」

「通りすがりの魔女だ、お前の王子さまが話したいことがあるらしい」

「メロウ、この世界で生きている限り、僕たちが人種を違えている限り、僕たちが結ばれることは決して赦されないということを、確知してしまった。それでも僕は君と出逢えたことを後悔したことは決してないんだ、これからもずっと永遠に――愛している、メロウ」

「それでは、彼らは私の存在を……認めてはくれぬのですね。しかし、こうして密かな蜜月の時を過ごすことは可能なのでしょう? 結婚なんて形式的な儀式でしかない、私たちの想いは変わらない。ねえ、そうでしょう……?」

「ああ、そうだ……そのとおりだ。心配することはない、君はただ眠るだけでいいんだ。目が覚めたときには、以前と変わらぬ平穏な世界が君を迎えるだろう。だから――さようなら」

 昏々とした眠り姫を抱きかかえるリシアを見つめながら、私は彼と少しばかり話をすることにしました。私が魔女であることを見抜いていながら、誰にも告げ知らすことのなかった珍奇な男へ抱く、微かな恩義へと報いるため。あるいは純粋な好奇心であったのかもしれません。

「酷い男だな、お前。私には理解も共感もしえないよ、誰かに恋をして、誰かを愛して、誰かのために自らの命さえ擲つなんて、馬鹿げている。生物は何よりも自己保存を優先しなければならない、通常そういうふうにプログラムされているものだ、生態を違えようと変わらない。何がお前を衝き動かす、なぜ私の正体を誰にも言わない」

「あなたは彼女とは違う。確かに、容姿だけならメロウに負けないくらい綺麗だけど、あなたには品がないからね。それでもわかるんだ、あなたはメロウと一緒で孤独を知る人だって、その瞳が教えてくれるんだ。僕は確信しているよ、いつかあなたにも愛するに値する何かが見つかるだろうと。本当はね、魔女であろうと人魚であろうと僕たちと大きな差なんて本当はないんだ。それは言葉上の差異でしかなくて、光芒と光条ほどの違いでしかない」

「ふん、生意気な。だが、お前は難しいことを言うのだな。確かにそうなのかもしれない……私は多くのことを学んだつもりなのに、この目で見えるものはあまりにも狭くて、どこまで行こうと未知からは逃れえない。無意味を有意味として幻視してしまう人間の想像力、その境界線を破壊できる日が、いつかは来るのか、今の私には到底考えられないよ。他意はないが……もう少しお前を観察するのも、悪くはなかったのかもしれない、残念だ」

 種は蒔かれ、萌ゆる春の観念が表象されました。

「ありがとう、リリン。君に出逢うことができてよかった。それにしても、この世界に僕のことを覚えているのは結局君だけになるのか、不思議な感覚だね」

 夜の魔女は間際に笑いかけます、「何だ、私では不満か?」と。

 輝きを損なわぬ少年は応えて笑います、「まさか、これ以上にない僥倖さ」と。

 それ以上の言葉は私たちの間隙においては蛇足でしかなくて、一人で足を引きずるリシアがどのような最期を経たのかは畢竟誰もが知りえません。他ならぬ私が知らぬのですから、論を俟たぬことでしょう。私の中には、未だ名も知れぬ想いの残滓のみが残存しています。

 それから、私と彼女の間には言い知れぬ繋がりができたのですが、私はこれを『友』と名づけることにしておきました。誰にも話したことはありませんでしたが、夜の魔女と銀鱗の人魚は今となっては親友であり、時偶私が海辺を歩いているときには忽焉と姿を現すことも珍しくないのでした。

――今になっては、かかる物語を知るのは、夜の魔女ただ一人なのでございます。


     *


「どうだ、中々の名演戯であったろう。いつか誰かに語り聞かせる日が来るのではないかと思い、密かに練習していたのだ。ほれ、感想を疾く寄越せ」

 物語とは、本を正せば〈謡い〉に他なりません。神話時代の人々は、叙事詩として綴られた物語を読んでいたわけでも、文字という形にしたわけでもないのです。ただ記憶の裡に留めることで、うたとして演戯したのです。現代の吟遊詩人と性質を異にするラプソードスは、各地を巡り歩き口頭詩を詠い演じました。すなわち、吟唱するときの彼らは詩人であると同時に、二次的な創作者であり演者そのものでもあるのです。そうして、現在するピュシス形態へと至らしめた盲人ホメロスを嚆矢として定本が普及したのち、ラプソードスの名で呼ばれる人々は姿を消したのです。

「今の物語というのは、事実なのか。もしそうであるならば彼女はまさか、かつてリリンが記憶を奪ったというメロウ本人なのでは……!」

「さてどうだろうね、いずれにせよそれは些末なことだ。わかるのは、私とお前の惚れた人魚が親友だということだけかねえ。さあ、話は終わった。食事も終わった。後はただ、夜に備えて出かける準備を整えるのみ!」

「おお! それでは、今夜会わせてくれるのか!」

「そんなわけあるか戯け者が。お前は留守番だ」

「戯け者とは……また酷い言葉を。初めて見たリリンはあんなにも清淑に見えたのに、女性というのは怖ろしいものだと改めて痛感するよ」

 アダマンティスは察しのよい男でありますから、私の意図についてもある程度は気づいたように見えました。そうでなければ、こんなにも莞爾と笑うことなどできるとは考えられぬのです。

「ひっひ、煩うことはないさ。お前の恋路を邪魔はしない、むしろ助けてやろうと言うのだ。期待しておくがよい、あの子はお前をきっと気に入る」

 何せお前は、この私が魅かれた二人目の男なのだから。

「それにしても、まるで私が卑俗な女のような物言い、気に入らんな。そんなに今の私は魅力に欠けるのか……以前の清淑な私が好みなら、戻してやることも考えないでもないが、どうなのだ? 気兼ねなど不要だ、率直に答えよ」

 私は未だアダマンティスを籠絡することを諦めたわけではないのです。強き意志を持つ男でも、関係を築くうちに私という存在を欲すようになる可能性は、いつまでも消えぬのですから。

「はっは、何を言い出すのかと思えば! 勘違いするな、私は今の君の方がずっと素敵だと信じて疑いはしない。人間はそう簡単に自分というものを他人に曝せるものではない、誰もが明かされては困る秘め事を持つものだ。私だって本当はそうなのだ、けれども君は私に本当の君を明かしてくれたのだろう。面白いことに、私も出逢ったばかりの君にならすべてを曝そうとも構わないと考えているのだ。かように心を許し合える関係は、家族である妹と友ボヌスを除いて初めてだ。これからもよき友として、一緒にいられたらと願ってやまないよ」

 一歩、一歩と迫る熱量に気圧され、夜風に冷えた身体さえ解かすような熱さ。律動的拍動の乱高下に胸が痛くなるのを抑えて、燃えるような何かを感取されぬようにと背を向けるのでした。さながら生娘のようで納得がいかぬのです、生体プログラム中に瑕疵かしが生ずるような感覚の正体に、私は結句気づきたくはなかったのでしょう。

「寄るな暑苦しい! 何を本気になっているのだか……冗談に決まっているだろうが、ばーか。私は夜の魔女なのだぞ、戯言ぎげんをいちいち真に受けるな。あ、帰ったら私が料理するのだから余計なものは作るなよ、いいな? 絶対だぞ」

 彼がどのような顔をしていたのかは、あまり考えたくもないものです。私とて所詮は人間には違いありませんから、恥も外聞もないとは言えぬのです。而して新たな姿を装い、海岸に造られた洞穴へと再び踏み入りました。ここは、かつて彼女を匿い続けた別宅のようなもので、時折彼女は私にのみ知覚できる囀(さえず)りを響(どよ)もして海蝕洞かいしょくどうへと私を誘うのです。

「お前が望むなら、あいつの記憶からお前という存在を消してやることもできるが、どうする?」

「そんなのは駄目よ! だってリリン、魔女の魔法を使うことが何を意味するのか理解しているのでしょう。魔法・奇跡、そんな名前、嘘ばかり……私のせいであなたは、多くの時を失ったのに」

「何度も同じことを言わせる奴は好きじゃない、その話はもういいだろう。私は自分の娯楽のために人間の意志を試したにすぎない。それより、明日、あいつを此処へ案内して構わないか。記憶を消したいわけでもない、なのに自分で勝手に命を救っておいて、迂拙にも鱗まで落としていったんだ。異論あるまいな?」

「もう、あなたっていつも自分勝手なのね。私からどんな記憶を奪ったのか全然教えてくれないし。見殺しにしたくないから助けただけで、私は彼のことを想っているわけではないのよ? 私たちの容姿ないし歌聲に魅了されただけの人間と、私は何を話せばいいのかしら」

 夜の魔女はただひとつの忠告を残します、「ただ話せばよい、自ずとわかる。だが、私の魔法のことは決して話すな。あれは、本来は誰にも知られてはならぬ魔女の秘め事なのだから――」。



    4


 仄日の暖色に染まる道を私は歩いています、孤独であることに慣れていた自分が亡くなり、今はただ、空虚を怖れる幼い頃の自分が亡霊のように佇立しています。何が夜の魔女なのだろう、私は何も特別なことはない人間の一人にすぎないのに、私という表象は畢竟その境涯の外へ歩いて往くことはできないというのに。このような想いを抱くのは生まれて初めてのことでありました。心とは、こんなにも熱をもって器官を突き刺す硝子の様相であったのでしょうか。

 私はいったい、誰に、何に忿懣しているのでしょうか。

「おお、おかえり。何かあったのか、顔色がよくないようだが……調子が悪いのなら、私が夕餉を用意しようか?」

 だのに、アダマンティスは私の憂慮など露知らず、何があろうと前向きに能動的におのれというものを受け入れながら、私の遙か前にて駆けている。今だって、まるでずっと前から一緒にいたようにして「おかえり」なんて言葉を私にかけるのだから、もう詮方ないのです。人の気持ちなど知る由もありません。

「……ただいま。心配ない、私とて考え事くらいはするものさ。それより私の料理を知りたいのだろう、知を欲する者なら魔女は歓迎せねばならぬのでな」

「そうか、助かるよ。ありがとうリリン」

 アダマンティスはいつでも素直でした、私とは相容れぬ、洋々たる春光のように。彼の抱く私への好意とは、帰するところ親友へ差し向けられるものなので、恐らく一目見たときから、私たちは互いに惹かれ合っていたのでしょう。その形貌よりも本質的な、裡側によって。

「明日、人魚の娘がお前に会ってくれるそうだ。名はサピロスという、私はお前らの関係には介入しないから好きに話すとよい。私が言うのもおかしいが、あれはいい子だ、大事にしてやれ」

「言われるまでもない、しかしリリンとていい人であるのは間違いあるまい。本当なら君は、いつでも私を見捨てることもできたのに、今でも、私の身勝手な要望を叶えてくれている、深謝の所思に堪えないよ」

「何を今更、魔女は概して感謝されることが苦手だ、その辺にしておいてくれ。それより味はどうだろう、真面目に料理をするのは久方ぶりでな、味が落ちていなければよいが」

 私の知る料理はすべて、かつての師に教わったものなのでありますが、本を正せばそれらはみな美味を求めた食事ではなく、単純に栄養補給の容易さを求めた食事でありました。味の薄さに不貞腐る私を見て、あの偉大な夜の魔女が、子供一人のために料理の研究していたなんて、今では申し訳なさを所懐とするものでありますが、同時に愛おしさをも懐とするのでありました。遙か昔と思しき在りし日々とは、懐古においては昨日の隣人のように寄り添うもので、それは永遠の裡であろうと、として分かたれた瞬間の裡であろうと変じえません。私は寄る辺として、それを乞い願うのです。

 ――ああ。今此処に在る幸せ、そのよすがが彼方にまで続いてくれるのなら、どれほど私は。



 アダマンティスとサピロスが心通わせることは「運命」でありました。私は二人に触れた唯一の者ですから、予知できたことです。ですから、二人の邪魔にならぬようにと、一人で有無を彷徨ないし漂蕩ひょうとうするようなうねりを視つめ観想していたのです。しかるところに、そんなのはすべて偽言でしかないのです、私はただ、二人の姿を見ていたくないだけなのですから。

「私の願い、私の幸福、私の自由。私は私のために何ができるだろう、魔女という軛の外にある私の裡の本質は、何を求めるのだろう。神以て二人が愛し合うことになるのなら、私が為すべきことは」

 アダマンティスとサピロスが二度目の邂逅を果たしてからというもの、彼らは毎日のように逢瀬を重ねるようになり、私は帰ってきたアダマンティスからくどくどと繰り言のごとく、甘ったるい惚気話を私へ聞かせるようになりました。また、私がサピロスと話す際にも、必ずアダマンティスの名が現出するようになりました。かくして二人の想いが真であることを確知したとき、「私」という現象として漏れ出でたのは、滔々と流れる歓笑ではなく、水涸れの空笑いでした。

「そういえば、今は男を連れ去って弄んだりしないのね。以前は、会う度に愉快げな大笑いで間抜けな男ばかりだと宣っていたのに、最近はめっきりなくなって。何かあったの?」

「何もないよ、あいつが私の家に来たこと以外は何もな。単に飽きただけさ。私の容姿だけに魅了される人間、それは確かに滑稽ではあるが、鳥瞰すればお互いに虚しいものだ。今なら話してもいいだろう、お前の記憶を奪ったのは正確には私ではない。かつてお前を愛し、お前が愛していた一人の男が命を懸けて、私へ託したのだ。私が本当に気に入った男は、たった二人だけなのだよ。一人は生まれ変わる前のサピロス、お前の婚約者だ。そしてもう一人が、現今におけるお前の婚約者、アダマンティスだ」

 サピロスは一驚するでもなく、絶美なる碧玉のかんばせに動も宿さず、私の物語る真実に対し諒として、得心が行ったように頷いておりました。そして、新たに疑問を呈したのです。

「考えるだけで胸が壊れそうね、なんて勝手な人なのかしら。いっそ、伴に連れ添って死したとしても私はきっと幸せだったでしょうに。そんな彼を忘れて、一途な彼に惚れてしまった私はどれほどに罪深いのかしら……まるで悪魔の所業ね。夜の魔女さん。どうして私に彼を紹介したの?」

「光栄な言葉をありがとう。お前の考えにまったく同感だ、身勝手に付き合わされる方は堪ったものではない。それでまあ何というか、恥を忍んで言うのだが……私はあいつに眩惑の魔法を用いたことがある。お前の元婚約者に試すことはなかったが、今まで一人とて効かない者はなかったのはお前もよく知るところだろう。だがな、あいつだけは違う。アダマンティスは、渺にさえ私のことなど見ていなかったのさ。一目惚れかつ初恋というのもあるが、あいつの意志は魔女の魔法にさえ侵されえないほどに頑強で、一向ひたすらにお前のことだけを思慕し愛していた。私にはどうしようもなかった。あれほど惨めな思いをしたのは、生まれて初めてだったよ……でも、だからこそ私はあいつを気に入った。まあその……お前は私の大事な親友だから、そんなお前に粗忽な男など紹介できるわけがないだろう? つまり、あいつなら認めてもよいというのが、私の意向で……おい、何だその含み笑いは? くそ、もうこの話は終わりだ……あいつには絶対話すなよ」

「ごめんなさい。だって、リリンがそこまで考えてくれたなんて知らなくて、嬉しいのよ。はあ、私は駄目な女ねえ、いつもあなたに助けられてばかりで、親友であるはずのあなたに何も返すことができないなんて。本当は、私よりもずっと、誰よりも優しくて可愛い素敵な女の子なのに」

「ひっひ、私を女の子扱いとはぞっとしないね。それに私は優しいわけじゃない、私の気分を害されないために、お前が幸福であった方が都合がよいだけなのさ。私は彼らほど……アダマンティスほど利他的にはなれないよ。可愛くて素敵なのは否定しないがな」

 したがって、我々は須く、過去に愛した者も過去に生きていたおのれも忘れようとも、「今」という瞬間に存する自分をこそ肯綮こうけいに中て生くる者であるべきなのです。忘れたことを抱えても構わない、それを認めるだけの強さを兼ねる者であるなら、彼らは何処までも渡り往くことでしょう。私が友に伝えたいことは、それだけのことでありました。

「でも彼、私の前ではあなたの話ばかりするし、あなたのことばかりを訊いてくるのよ。あなたと彼だから心配はしていないけれど、同棲なんてちょっと妬けちゃうなあ」

「ほう、よい話を聞いた、あとで問い詰めておこう」


     *


 闃寂げきせきの無限遠に桙星の浮かぶのを観測したとき、渾天に流動する川の中に耿々と明滅する掉尾ちょうびが燈ります。色彩を異にする二本の尾の性質さえ、我々は未だ知りえません。私たちの手には余る、世界に満ちる未知のすべてを、解き明かす日は訪れるのでしょうか。私たちは自分自身についてさえ未だ完全なる理解へと至らぬ未発達の雛鳥で、世界はまだ産まれてもいないのではないでしょうか。私たちが何処へ向かうべきであるのか、何処へ向かっているのか、そのすべては畢竟、終末の収斂しゅうれんにこそ悟得しうるのかもしれません。然らば現在身体に依存する観念に依って生を認識する我々は、ただ現在に生きていることのみを覚知していればよいのでしょう。

 かような空想的瞑想。

 魔女には幾つかの懸念がありました。人魚の寿命と地上の人間の寿命には多大な差異があるのです。アダマンティスが老いたとて月輪の顔容の朽ちることはなく、彼が死んだとてサピロスの死はその遙か先に置かれています。もちろん、私もその頃には命を燃やし尽くしているわけですから、掟破りの人魚であり、かつ地上の人々から忌み嫌われる彼女は、いよいよ真に孤独へ至ることになるでしょう。彼らとて理解していないはずもないのですが、論理性を尊重する人間が必ずしも論理的に生きられるわけでもありませんから、つまるところ、生物は欲望の眼前においては合理性など意に介さぬのです。

 掟破りの魔女と掟破りの人魚が惹かれ合うこともまた必定であり、そも私たちはその名、その絆に縛られる必要はもはやないのです。時流の変転を経たとて逢魔に生きる者たちと黎明に生きる者たちの境界が潰えることはなく、アダマンティスとサピロスが結ばれることを容認するような人間は未だ稀有。然る世界をこそ、私はとても容認などできぬのです。彼らはこれからも、秘やかなる逢瀬を重ねることしかできぬのです。人並みに契りを交わし子を設ける、ただそれだけの家族としての幸福さえ得られぬ彼らに、私は何ができるのでしょう。

「月の光のうすびかり、照らされるのは静謐な永遠下の死。始まりの男と寄り添う女が、音無の海に輪舞して、湾月はいよいよ影を強めました。春気の暖との調和を図るのは死を友とするような夜。二人は死生の名において踊ります。果ての別離に、死の掉尾は生を無窮とし極致へ渡り往くでしょう」

「その詩は、君が創作したものかい?」

 リリンとアダマンティスの邂逅から一月を経た頃のことです。

「……起きていたのか。ああ、そうだ。たった今、思いつきで詠った。私には似合わないだろう?」

 アダマンティスは、首を振り、微笑を向けます。今まで見たことのない風姿でした。

「そんなことはない。露命の泡沫のような、初めて見る顔だった。理由はわからないが、この一月のどんな君よりも今の君は綺麗だな。花の顔であの月影の霞んでしまうほどに」

 冗談でもなく慰めでもなく、甚く真面目な顔で言うものですから、私はただおかしくて自嘲として嗤うことしかできませんでした。なぜ、こんなにも嬉しくて、満たされているのに、こんなにも苦しくなるのかがわからなくて、それゆえにおかしくて堪らないのです。

「そのような殺し文句は、私ではなくサピロスに囁いてやれ。またあいつに嫉妬されるのは面倒だからな。それにな……褒められるのは苦手だと言ったろう」

 石灰岩を彫琢する小波が花を咲かせ、枯れてゆく。暗夜に満ちたる煌星の熱は、晨明の燿きによって掩蔽される。私たちにとっては一瞬でも、そこには一生の想いが込められている。私たちは無限に浮かぶ泡影のひとつであり、無窮に瞬く燈影のひとつなのです。

「人魚の存在が公になれば、奴らは確実に彼女を殺すだろう。お前たちは生涯、人目を盗むことでしか愛し合えない、家族として共に暮らすことさえできない。……お前と私が死ねば、彼女は独りになる。あの子は、独りで生きてゆけるほどに強くはない、お前の死を境に彼女は自死を選ぶだろう」

「そのとおりだ……だが、君はそれを理解した上で私と彼女を再会させた。そして、リリンは私のように軽率ではない。本当はまだ隠していることがあるのだろう?」

 私はおのれの生涯に与えるべき意味を探し続けておりました。無間に続く緩慢な地獄、その中から逃げ出し、自由へと至るための道を探し続けておりました。私は而して彼を見つけたのです。私に残された命、そのすべてに値するものを。

「お前は私が〈魔女〉であることを忘れたわけではあるまいな、簡単なことだ。夜の魔女に不可能なことなど何もない、海の怪物から銀鱗を奪い、人の肢体を与える。お前たちは晴れて夫婦となり、友として私はお前たちを祝福しよう。貴族のことも心配は要らぬ、本気になれば記憶を消すことなど造作もないからな。驚かせてやるつもりなんだから、あいつに洩らすなよ?」

 爾後、感極まり涙を流す彼に私は困惑することになるのですが、それ以上に、あの体躯で私の身体を抱きしめられたことの方が私には深く刻まれたようで、触れ合い生じた胸の熱は暮夜の風に冷まされることもなく、いつまでも残存するのでした。



    5


 ムニキオンからタルゲリオンへ差しかかろうとする日月じつげつ、この港町では年に一度の祝祭が執り行われます。ニュクスを中心とする神々への信仰、平穏への祈り、かつて世界を狂瀾に陥れた魔を斥けるための福音が奏でられ、多くの男女が輻湊し踊り場にて舞踏するのです。現今には敬虔な信徒もなく、神の存在を信じるでもなく、魔なる者の不在を信じる時流にあろうと、人間文化に根づいた〈神〉の概念は決して滅しえずになお残留し、人々は娯楽として祭式の形骸を維持し続けるのでした。恐らくそれは、遙か未来の人類でも同じなのではないでしょうか。同一に維持されず移ろいゆくとも、記録としての言葉――文字――だけは残り続ける。私たちはあらゆるガラス色の言葉――人類の創造しうるすべてのもの――を紡ぐことで、命を紡ぐことを擬似的に表象し、模倣してきたのだと。私にはそのように思えてなりません。

 しかしそれでも、魔女たる私の所感を述べるならば、私たちの間隙で為される有機的交流――会話――と言葉ないし文字とは結句、銘々が相違えるものでしかありえないと私は帰結するのです。

 例えば、誰しもが日常的に行う発聲においては、文字という視覚的記号を用いる必要はなく、聴覚によってのみ会話が為されます。私たちが脳内で言語形相として置き換える音は、耳朶に触れる瞬間には言葉そのものとなるのです。また、聾唖者のための指話しわにおいても文字は存しえず、言葉のみによって会話が為されます。言葉と文字は不同であり、会話は言葉によって為され、文字によっては為されません。言葉と文字の境目とは、意味を付与する者の有無なのです。私たちが「文字」を認識するとき、それは既に「言葉」であり、その意味による交流によってこそ「会話」は成立します。私たちは古代よりこれら形式を無意識に使い分け続けてきたのです。

「つまり、ひとつの音もなく、ひとつの綴りさえもなく、常に相手と情意を疎通できるのなら、縦え他者が会話を認識できなくともそこには会話が成立している。赤子というのはこれを上手く扱うものでな、表情・喃語・行動等々で母親に自分の欲するものを伝えようとするのだ。そして、母親がそれを感取し赤子が満足したなら、既に会話は成り立っている。という話を昔、師にされたのだが、幼い私には難しくてな、よく夢寐に浸っていたものだ。お前は今の話をどう考える?」

 世界とはかくもままならぬものであろうかと、悲嘆に暮れる暇さえも与えてはくれません。私たちが隠棲している間のことです。殊に十四世紀に蔓延が見られた死に至る病――黒死病。常々病弱と聞かされていたアダマンティスの妹ゾーイがその不治の病に罹ったのです。四肢の突端は既に壊死を始めており、小柄で可愛らしかったであろう肌膚には痛々しい出血斑、膿疱、潰瘍が確認できます。私は急ぎ、皆が部屋に立ち入ることのなきよう戒飭かいちょくし、既に感覚の失われたであろう手底を握りました。

「あなたは、誰……いけません、私に近づいては…………」

 密やかにして口を綴じ、髪を撫でます。彼と同じ色を見据えます。

「落ち着け、私はお前の兄の友人だ、もう心配は要らない。信じられないだろうが、私はどんな病気も治してしまう魔女なのさ。暫くは痛苦も続くが、我慢しておくれ。それまでは、私と何か話をするとしよう。あいつから聞いたのだが、君は読書好きで学問にも明るいらしいな、少し頭を使いながら私の話を聴いてくれるかい?」

「どうか、見ないでください。このような怪物の容貌、夫だけでなく、誰にも見られたくはないのです。いっそ、すぐにでも死んでしまえるなら……あなたが、私を殺してくれませんか?」

 私は彼女に対し同情を向けようとは露ほども考えはしません。それは、あまりにさもしい行為ですから、私はただ首を振り。

「お前の夫も兄もそうなのだろうが、私はお前の容姿などどうでもいい。お前の本質は皮相の相好ではなく、その裡にこそある。ほれ、私はお前に触れようと何とも思わぬ、小さくて、どこかあいつに似た意志の強さを感じさせる、可愛らしい顔だ。よく聴け、私は今からお前の病気を取り除く、しかし誰にも洩らさないでくれ。お前の兄と夫以外には誰にもな。では、魔女による講義を始めるとしようか、我々の日常的に扱う〈言葉〉と〈文字〉の本性について、ゾーイは考えたことがあるかい?」

 ゾーイの情動が頬を伝い、落ち着きを取り戻したのち、聡明な彼女は私の問いに答えました。未知を未知のままにしてはおけない輝かしい瞳には、彼と同じ〈愛知〉が宿っておりました。黒死を逃れた玉肌ぎょっきには、既に熱が籠もり始めているのです。

「要するに、私たちが同一視する言葉と文字には明確な差異があり、その境界は文字に言葉として意味を与える私たち自身に依存するのですね! 確かに、考えたこともありませんでした。しかし、発話者の意図どおりに対話者が受け取るとは限らないですよね、会話の成立は曲解によっても認められるものなのでしょうか?」

 彼女が完治に気づいたのはそれから数十分後のことでありました。爾後、ゾーイとボヌスは感涙と共に気が滅入るほど深謝の念を言葉とし、夜の魔女は感謝されることが苦手でありますから戸惑うしかありません。アダマンティスはそんな私の理解者ですから、私に関する説明すべきことはすべて彼が代わりに述べてくれたのでした。

「惜しいことをしたなあ……あれだけの逸材、私が若い頃ならば何があろうと弟子にしたであろうに。さておき、私は肩を貸せと言ったはずだが……なぜこんなことに。サピロスに怒られても知らんぞ」

「よく言うよ、酩酊の千鳥足みたく歩けもしないではないか。君には既に、今生では返しきれないほどの恩があるのだ。いつでも奴隷のように扱き使えばよい。君の言葉であれば、私が逆らうことは決してないのだから」

「なら、私に惚れて見せろ」

「ああ……それは無理だ、それ以外で頼むよ」

「つまらんやつめ。それ以外なら何でも私の願いを聞くのだろうな? ならば明後日の〈魔女の舞踏――女神の舞踏――〉に付き合うがよい、拒否権はないぞ。考えてもみよ、落暉らっきを嚆矢に銘々が微酔の最中に円舞する、夜を司る女神の踊り場が『夜を弄する魔女の踊り場――ヘクセンタンツプラッツ――』となるのだ! さぞ愉快な夜になるだろう。それに、お前にはまだ話しておきたいことが僅かに残っているからな……楽しみにしておくが、よい…………」

 彼の頸部に流れる身体現在の証左。私はこのかいなのいかにか細いかを自覚し、えも言われぬ想いに悶えるのでした。そうして乙夜いつやには幼年期の春眠に見る夢境の温もりのように、心地好い安息が身体を抱擁します。かかる識閾下の心底を侵す切なる想いの名を、私は〈友愛〉と定義するのであろうかと臆度し、清宵せいしょうの深閑にはただひとつの寝息のみが残響現象として彼の耳朶に触れるのでした。


     *


 私はかつて、大きな誤想をしておりました。リシアがメロウを救ったのは彼女のためではなく、彼は彼自身のために、自分の命よりも彼女の生存を欲する欲動によって、彼女を救おうとしたことを私は識りました。アダマンティスが私を助けてくれたのも、私のためなどではなくて、彼自身がそれを欲したにすぎない。すなわち生物は、常におのれの求むるままに生きている。かような事実においては、何ひとつ後悔の必要はなく、何ひとつ認めえぬものはなく、私の世界を構成するすべては確実に存在を肯定されうることを、私は識ったのです。

 アダマンティスとサピロスの愛は、私の与り知らぬところでより大きなものへと姿形を転化されてゆくことを私は毎日確知させられ続けています。二人の深間へ至るにしたがって、私もまた彼らへ愛を深大としているのは、もはや言い訳のしようもなく認めるところではありますが、比例して肥大するものがあるのです。汚泥のように穢れた私の心気に何が潜むのか、私は気がつくとずっと思考し憂悶しておりました。瞑想はままならず、身は妬けてしまうように律動は乱れ、おのれの身体が現在すること自体が、俄に苦艱くかんと化す。死を怖れるわけでもなく、私は何を怖れているのでしょう。

 私は、彼の、彼女の相形そうぎょうさえ怖ろしくてなりません。

 祭の前の静けさに誰もが眠りに就く永夜、私は一人きりであの酒場へと向かいました。言い知れず、湧き上がり続ける忿懣を発散しようとして、ないしは誰かへと縋ろうとして。彼は決して言葉を否定しません、ただ存するもののみを肯定する。そんな男であります。私は師を除き彼ほどに何もかもを見透す者を知りません。彼は師の従者……私にとっては歳の離れた兄だったのです。

「それはすなわち〈恋〉というものではないのかい?」

「はあ⁉ この私が……恋? いやいや、冗談だろう。お前でも諧謔を弄することもあるのだな。幾ら掟破りな私といえども、この歳で色恋に溺れるなど……それに、魔女たる私を真に恋うてくれる者などいるはずもない。〈かの〉および〈この〉気持ちは友愛だと私は定義したのだから……今更」

 ただ豊かな生活を欲し生きることのみを目的とするのなら、心など持たぬべきである。これは魔女の志向そのものでした。人々は我々に存するとされるクオリアを持たぬ者を、死者と同義に捉えられるのかもしれませんが、それを区別する術はなく、拍動も知覚反応も正常に行う以上、感覚の有無という事実自体は生死を分け隔てはしません。私たちはクオリアの有無どころか差異さえ感取しえず、他なる存在の完全な理解など成しえません。言葉は、意味は、会話は、一方通行でしかありえません。

「私は君ではない、だから君の心を判ずるのは私ではなく君だ。私は君の考えにうべないはしないが否みもしない、君が恋でないと言うのならそれでよい。しかし、君の忿懣とはすなわち、恋慕がおのれへ向けられないことへの〈嫉妬〉なのではないかね?」

 然るに私は、彼女たちの定めた魔女の在り方に従うことはできませんでした。なぜ師は頑なに掟を魔女という存在の枢要としていたのか、漸近する理解が初めて一致したのです。私という存在によって、リリスもまた魔女ではいられなくなったということを、私は漸く確知したのです。

 魔女は〝人間〟を愛してはならない――皮肉にも、師弟揃って同じ禁忌を犯すだなんて。

「黙ってろシュラング! ああ……そうだ、あいつは魔法を用いてもなお私に靡かなかった初めての男だ、それに腹を立てている。まるで生娘のようにな。そのくせ、あいつはサピロスに夢中になって、一途に想い続けていて、私の心など見てもいない! あの頃の私は、友情としての愛だけを識った、然りとて今は違う。私はこの感情の本性がリシアへ抱いたのとは異にすることを、朧月夜に識ったのだ、これが私の『初恋』なんだって――魔女ではなく女として、私はどうしようもないほど、あいつに惚れているんだって…………識ってしまったんだ」

 くつくつと自嘲しながら、もはや吃驚もなく呆けることしかできません。考えたこともなかった、しかし本当はずっと前から知っていた。今になってはそのように思えてなりません――本当はずっと避けていただけで、知りたくなかっただけで、本当に魅かれていたのは私の方だったなんて。

 あのとき芽吹き始めた心の在りようは今、漸く閾値を超え、花へと至るのでした。

「君がおのれの死に方を決めたことは、私には然許さばかり悲しきことではあるが、私は君を止められない。止めても、君は止まらない……そうだろう。泣きたいのならば、少女に帰り泣けばよい。すべては君の心の赴くままに……私は何があっても君を忘れはしない、忘れさせはしない。魔女として魔法に振り回されるのではなく、一人の、普通の女の子として、誰かに恋をして、愛して、傷つく。そこには利他的な生などありえない、これもひとつの利己的生なのだよ。それに、人々が神々・魔女・怪物の存在を信じなくなったこの世界で、君が魔女の形骸に縋り生きようとする必要など、もうどこにもない。君はただ『ノクス』としてのみの想いを伝えればよい。君の心象命題にて、真偽を超えたジンテーゼを君自身のみによって見いだされることを、私は心より祈るとしよう――」


〝幻想夜行の矮星と天籟の序奏。その音景おんけいが彼方より聴こえ来るに際して、ひとつひとつの絲に閉じ込められた死への愛たちが壊されて逝きます。かの演戯を奏でる私は、飄逸な破壊者となったのです。かような世界には私一人のみが在ります、それでも世界はひとつではなく、すべてが同一に茲下ここもとへ在りながら不同で在り続けています。並立せらる言貌の虚実は本懐ではなく、言葉にさえ意味はなく、意味を求める必要さえなくなった折に人は、ひとつの極致を眼にすることでしょう。〟


    6


 魔女が魔女たるイデオローグ――始まりの者――を露知らず、我々の意志を絆の鎖で繋ぎとめる観念として信仰されてゆく何かを、人間は決して手放すことはできず、それができるほどに多数の人間は強くはなくて、それゆえ力持つ人々は迫害され正当な評価を与えられることもなく、それゆえに彼らは常に孤独であり、それでもなお、おのれの欲する何かを求め続ける強さを持ち、彼らは恍惚のもとに幸福として肉体的な生を終えるのだろう。

 時にそれは野望として。

 時にそれは希望として。

 時にそれは祈りとして。

 時にそれは愛として。

 私は此時をもって、魔女であることをやめたのです。

「――悪いなサピロス、お前の親友は大嘘つきだ。ありがとう、こんな私の秘密を守ってくれて。もうお前は私がいなくても一人ではない……だから、もういいだろう。どうか幸せにあれ。こんな祝言は私らしくもないけれど、残された命をあかしとし此処許にしたためるとしよう。魔女リリンとしてではなく、人間ノクスとしての私のすべてを言葉として――あなたの想いに銘記されることを信じて」

 柘榴の石として磨かれる臙脂えんじ色の糸を、細密に結い合わせる花の肌が春景対牀たいしょうに映ります。花の粧いはより鮮やかに華やいで往く時候、麗らかな細鳴りは伴いをもって共鳴りの様相を呈するのです。

「なあ、私はこれからお前の婚約者と遊びに行くと言っているのだぞ。私をこんなに着飾らせて、あいつが不貞を働いても怒るなよ?」

 何もかもが変わらずにはいられない瞬間の移りのすべてが、日常の平穏に包含される。この陽光に照らされ微笑みを向け合うことも、常態と思しき現実においてはこれが最期だというのだから不思議なものです。

「そんなこと思ってもいないくせに。あなただって、あの人が私を裏切るようなことはしないと、私以上に理解しているのでしょう? いいから、リリンはもっと普通の遊びを楽しむべきなのよ。私と違ってあなたは地を踏み踊ることができる……私にはそれができないのだから、ね?」

 終の棲家とするにはあまりにも眩しく、あまりにも温かい世界。畢竟、私には日の下よりも夜光の下に在ることの方がお似合いなのであり、彼女は私とは異なるということもまた瞭然としております。自分というものを愛するがゆえに自分というものをうれたしく思う者が、純粋におのれを愛するに至ることができたのは、偏に大切と呼べるものたちが私自身を見てくれたからなのです。おのれの思いどおりに相手の想いを捻じ曲げる怪物、その存在理由を私は定義したのです。これは決して他者のための犠牲ではない、そのように呼ばれることを私は心より否定したいのです。かような道徳的価値観を、魔女的価値観を私は認めえず、然らば人々の善への志向を認めないことはありえないでしょう。

 私はこの世界の果てを識りたいのです。永遠の相のもとに認識されようと、永遠に連綴する輪転の裡に認識されようと、世界がいかなる姿をして我々の心象へ描像されようとも、何ひとつ憂うことのない幸福の此岸の後来にいかなる彼岸が在るのか、それを知りたいのです。唯々、銘々の持ちうる『唯一』へと渡り往きたいのです。

「それにね、私はあなたならアダマンティスと結ばれても、それはそれでいいなって思うのよ」

――私はいつか、辿り着けるのでしょうか。

「何だよそれ……あまり私を信用するものではない。それに、他のすべてが霞むほどに恋うてしまう相手が同様に自分を恋い求めてはくれないなんて、普通は嫉妬ないし怨みでもするものだ。恐らく、私でも……お前は平気なのか?」

 私の色・形・言葉・意味から、彼女は何を描画するのでしょう。かぶりを振る小さなみどりの蕩揺へどれほどのものがこもっていたのか、私は終ぞ知ることはありません。他方で、サピロスという存在者による愛だけを私は覚知するに至ることができたのです。

「平気なはずがないよ……辛いに決まっている。命を終わらせてしまいたくなるほどに、心は罅割れ、破片は胸を突き刺すでしょう。瞳には玻璃の雫が溢れ、悲嘆が世界を覆うでしょう……それでもね、どれだけ辛くても大切な人が幸せなら、私はきっと後悔しないわ。これはね、あなたのおかげで気づいたことなのよ。誰かを本当に愛するということは、愛されることさえ求めもしないことなの――だから、愛する人に愛されるということはこの上ない幸福なのだと、私は、そう想う。ひひっ、要するに、私のことは気にせず思いっきり楽しんできなさいってこと。わかった? ほら、終わったから鏡で自分の姿をよく見てよ、みなの眼を惹くこと請け合いよ」

 破顔に伴う冗談半分の笑聲しょうせいは腹立たしいほど私に似ていて、私の中に生み落とされたひとつの志向は表象へ顕れ出ることもなく、湧出する驚嘆と首肯は綯い交ぜとなって沈みます。〈愛〉という名へ与えうる新たな意味を、彼女は私に示してくれたのです。

「当然であろう、これだけの美女を放っておく男など、あの頓馬以外には然う然うおるまいよ」

「うーん、自分で言わなければ完璧なのだけれどねえ」

 特別な言葉など私たちの連繋には必要はなく、永きものでありかつ一瞬のものであった時間のすべて、かのえも言われぬ想いを言語として表現することを意志し、私はかくのごとく述べました。

「ありがとう、とやかく言い争うような日もあったものだが、お前と過ごした時間は、いつも楽しいものだったよ。――世話のかかる友人で悪かったな、どうかよろしく頼む」

 物理的な交叉、精神的な交叉、世界と世界の交叉。

 表象と心象に風景画を描き綴る仮象の画筆。

「私の方こそ、ありがとう。これからもずっと傍にいてよね……お願いよ?」

 私は永遠を欲しない、ただ「歓び」のみを欲し意志するでしょう。縦えすべてが泡沫うたかたに帰する定めであろうと、よもや私の歓びが潰えることはなく、虚言により創造される仮象世界は偽の境界に留まりはせず、真の観念において言葉の限界の遙か先へと往き果てることでしょう。

「安心しなよ、私はいつも此処にいる。お前を孤独にするようなことは、私が許すものか」

 ゆえに夜の魔女は、新たな『魔女の志向おきて』を茲下に定義したのです。

 少女は心からの祝福と祈りを込め、片頬笑むのでした。


     *


 幽かな海の明滅を見霽かす夜色、蕭々しょうしょうたる清籟せいらいが空へと交叉し頬を撫でました。白鳥と対を成すサザンクロスが烏の足下に象られる宵、乙女を取りまく曲線・三角形・金剛石が瞬くのを見守るのは、たった二人の人間のみでありました。

「何か言ったらどうなのだ、先ほどから黙りこくりおって……」

「いや、今までは意識していなかったが……改めて君の美しさを思い知らされてな。その気になれば、舞踊に心得のある、よい男を幾らでも選べる立場であったろうに」

 魔女としての片笑み、広げる両手。

「ばーか、お前がいなければかような洒落た衣装、態々拵えるはずないだろう。見てみよ、愚衆の馬鹿騒ぎに混ざるのもまた一興というものだと、そうは思わぬか。なあ、アダマンティスよ……私たちも手を取り合い共に夜の下に踊ろうではないか! 私がリードしてやるから安心するがよい、魔女仕込みのタンツを篤と見せつけてやろう! 一度しかないこの夜に‼」

「君が私の名をまともに呼んでくれたのは初めてだな……今宵のリリンはいつになく楽しげであるが、こんな夜にあってはそれも致し方ないことか。光栄にも君に選ばれた男として、精一杯の踊りを披露するとしよう……お手柔らかに頼むよ?」

 女神へと捧げられる旋律と添えられる祈り、地を踏み鳴らす律動の調和がひとつの音楽となり、空想を奏でます。一、一と刻みゆく空夢の跫音、触れる拍動と指先にて取り交わされる命の熱に焦がれて、双眸へと投影されるガラス瓶の中空に〈私〉という燈影を想いとして舞とする夢寐の現。此方から彼方への揺り籠を運ぶ漣として、くるりゆらり、ゆらりくらりと回り廻る、水端の端緒となる魔女の舞踏が水分りのアステリズム軌跡を形造るのを、人々は夢寐にも忘れえぬ心象風景とするがためにじっと視ていたのであります。

「飲み込みが早いな。見ろ、みなが私たちに釘づけとなっている。未知なる怪異を怖れてきた人々の心が、夜の魔女による魔法にかけられたかのごとく、躍動する命に魅了されているのがアダマンティスにもわかるであろう! これこそが、私が師から受け継いだ〈魔法〉の結晶なのだ」

「ああ、他者に見つめられるのは好きではないが、こんなにも心地好い舞踏会を経験したのは生まれて初めてだよ。君は本当に私に多くのことを教えてくれる、君の熱に触れる度、私の身体は現を離れた衆籟に溶かされるように軽やかに踊るのだ! 何と愉快な春宵であろうか」

 律動に合わせて、呼吸に合わせて、拍動に合わせて、一となり刻み刻まれる音、音、もう一度、音。タンツ、ロンド、久遠の繰り返し、その銘々の刻み。空・海・大地の遠望に存する、今此処に有る世界は「音」の一へと。傍にある「今」には、美しい声で世界が鳴り響きます。彼方あなたには聴こえるでしょうか、私たちの音――物語――が。

 背に触れるかいな、肩を握る手指、かかる呼気、影身に添い伝う心悸。夕暉せっきは疾うに落暉となり、代わる代わるに下ろされる緞帳どんちょうに「夜」という舞台が形成されます。

「よし、そろそろ曲が切り替わる頃だ。今度はお前が私をリードしてくれよ。私がフォローしてやる、失敗など怖れるな。偶には頓馬でなく天馬のごとく格好よく決めて見せろ」

「どうせ拒否権はないのだろう? 仕方ない、君に頼り続けていたのでは私の立つ瀬がないからな」

「まあ力を抜け。私の眼を、指の触れ方を、足の運びをただ見て、感じて、後は奏でられた音景に合わせればよいさ。案ずるな、私はお前のことをずっと見ている、お前の体熱も刻む跫音も何もかもを私はこの瞳で、耳で触れ、識っている。私……夜の魔女たるノクスのすべてをお前に委ねてやるのだから、心の赴くままに舞うがよい。こんな逸楽の夜、楽しまねば損なのだから」

 私たちの眼交まなかい空間における会話にて言葉は音楽となり形を失います。秘め明かされぬ邂逅と交流が私たち以外に表象されることはなく、ひょうひょう啼いた空の巡りは無窮の祝福をもって空の胎動を再現します。夙夜の終期へ差しかかり、微酔から醒める頃合いに到達したときには、人々の視線は私たちから外れ各々は帰るべき場所へと帰り往きました。

「子供の頃の話だがね、大人たちの真似事として練習していた時期があったのだよ。どうだろう、私のリードは君の眼鏡に適うものだったかい?」

「踊りそのものは快馬といったところだが、ふん、楽しさで言えば神馬も及ばん最上だ。肌膚に残る流汗の心地好いことこの上ない、小夜風をこれほど愛おしく思うた日など生涯においてこの晨夜以外にはありえないのだろうな……それほどに、幸せな一夜であったよ」

 綴じた瞼に描く収斂。乙女の涙に喩えられる流星雨の水端が観取され、其処此処においておのれの運命を確知する須臾にも満たぬ一瞬間。気取られることのなきように、静かにわらう魔女が存立します。

「おっと、貴族共のお出ましだ。物足りぬが、ヘクセンタンツはここまでにしておくとしようか。あいつらの記憶を消しておくのをすっかり忘れておったわ。ほれほれ、この手を離してくれるなよ。夜の魔女のみが知る空の全景、お前にも見せてやろう」

「まったく、今日の君は本当に元気だな……いずれにせよ私は君に逆らえぬのだ、どこまでも付き合うとしよう。リリン、どこへでも私を連れて行くがいいさ。子供のように中宵を駆け巡るのも、一興というものであるからな」

「よくわかっているじゃないか、夜の境は未だ遠くにある、秉燭夜遊へいしょくやゆうと洒落込もうではないか!」



    7


 魔女は知られてはならない――なぜなら、魔女は人間から怖れられることが存在理由の一であり、人間はその怖れによって魔女の殺しを容易に為すためである。


 魔女は人間に愛されてはならない――なぜなら、魔女と人間はさるべくて相互に差別すべきものであり、決して血脈の交わることを誰も認めはしないためである。


 魔女は人間を愛してはならない――なぜなら、魔女とは常に利己的生を体現せねばならず、人間を愛してしまった魔女はその者のために命の魔法を行使してしまうためである。


 魔女は人間に憎悪されねばならない――なぜなら、魔女は愛知のゆえに人間を道具とし心を満たす者でなければならぬと定義されるからである。


 魔女は人間を憎悪してはならない――なぜなら、魔女の意志とは人間存在に依存するものではなく、自己のみに向けられるものと定義されるからである。


 魔女は孤独でなければならない――なぜなら、魔女は掟三、四により利己的生を欲し自己のみについて意志しなければならず、孤独でなくなった魔女は他者へ意志を向けてしまうためである。


 魔女の正体に気づいてはならない――なぜなら、魔女の定義者たるイデオローグを知る者は、誰一人として現在の現実内に存しないためである。


 魔女は幸福であってはならない――なぜなら、幸福による満悦は欲望することを妨げ、満ち足りぬ思いこそがより大なる渇望をもたらすためである。


「私たちの思考さえも軛へ繋ぐ数多の掟、その脆弱さを考慮することさえなく信仰し続ける人々の在り方はさながら敬虔な信徒のようであり、私にはかような生き方を欲する心は存しないだろう。かるがゆえに私は魔女の定義を書き換える新たなイデオローグとなることを蹶起する。その証として、人間としての魔女の掟を私は茲下に書き綴るとしよう。すべての魔女――人間――が永遠に自由に在るように、幸福で在るように、そんな私なりの愛を込めて……『私』だけの世界――物語――を」


Ⅰ 魔女は知られてはならない――なぜなら、我々の観念は自らの有識を過信しすぎるがゆえに常に揺らぎの裡にあり、「魔女」の名で呼ばれるべき姿を見据えることなど叶わないためである。


Ⅱ 魔女は人間に愛されてはならない――なぜなら、不条理として形象された〈魔女〉を愛するということは、観念の固定化に他ならず、その不条理へ依存することに他ならないためである。


Ⅲ 魔女は人間を愛してはならない――なぜなら、人間は不条理たる魔女を本質的に愛することができないためである。


Ⅳ 魔女は人間に憎悪されねばならない――なぜなら、魔女は人間により創造された仮象すなわち誤謬そのものであり、能動的生を欲する際には障壁でしかないためである。


Ⅴ 魔女は人間を憎悪してはならない――なぜなら、世界は在るがままにしか在りえず、我々の認識によって世界が変転することはなく、魔女が人間を憎悪することはまったくの筋違いだからである。


Ⅵ 魔女は孤独でなければならない――なぜなら、掟三、四により誤謬たる魔女が人間と連繋を築くことは不可能だからである。


Ⅶ 魔女の正体に気づいてはならない――なぜなら、〈魔女〉はこの現世に存在しないからである。


Ⅷ 魔女は幸福であってはならない――なぜなら、存在者のすべては生得的に幸福だからである。


     *


 なぜ人は銘記の物語を詠うことをやめ、物語を文字という形にして記録することにしたのか、幼子の私は不思議でならなくて、思考と独り言つことを繰り返しながら繙書はんしょしておりました。思うに人は、有史以前より「永遠」というものに捉われていたのではないでしょうか。歴史、物語、日記、記録される何もかもは口承によって紡がれてきたはずなのに、なぜ彼らが文字を欲したか。その所以は偏にそが現実に違えることなく残ること、すなわち他者へ意味を付与されることを希うがゆえだったのではないでしょうか。

「もうずっと昔のことだ、私はこの大地に存立しガラス玉のような天を眺めていた。宵闇を怖がるような童が、夜に捉われ夜を愛してしまったあの日、私はこうして大切な人と影身離れず仰ぎ見ていたのだよ。繊翳せんえいさえ包み隠してしまう『永遠の夜』が舞い降りるまで、もう少し魔女の踊りに付き合ってくれるかい……アダマンティス、私のすべてを今だけでもお前に知ってほしい。叶うか否かは問題ではなく、ただ私の言葉にお前の意味を与えてほしい……もう音楽は要らぬだろう、この熱と涼さえあれば他には何も」

 そも魔女の欲したものこそが永遠に端を発しており、不死の希求による命の究明から付随的に生じた技術こそが我々の「魔法」と呼ぶところのものなのです。永遠と魔法に存する付随性、その始まりは魔女と呼ばれえぬ〈人間〉に有ると私は信じて疑いません。魔法の根源とは永遠の観念なのです。

「魔女には幾つか遵守すべき掟があってな、その一は〝魔女は知られてはならない〟。要するに、魔女は生まれ持つ実名じつみょうを明かしてはならぬというものだ。魔女のアウトサイダーである私にはかような形相、もはや必要なくなったがな」

 条々として並立する蒼色そうしょく風成ふうせいの小波と調和を図るようにして、女神を模る箇抜爾多と菫のクラニディオンは静穏の裡にひるがえります。世界中の何処よりも静寂しじまに包まれた輪を描く此夜このよらの現象風景は、波濤とはしる螺旋に包まれた記憶の心象風景と殊の外対照的であるように思われ、アダマンティスは不可思議な〈運命〉の円かなることに心づくのでした。

「それならば、君のリリンという名は……」

「そうだ。リリスの娘とされるリリンは仮象の名でしかない――夜に生まれ、夜に愛され、夜という意味の与えられた『ノクス』という名、これこそが私の実名だ……言っておくが、この秘め事を自ら明かしたのはお前が初めてなのだぞ、幸甚の至りとでも思ってくれ」

「ノクス……綺麗な名だ。人々に怖れられる魔女にしては、あまりにも似つかわしくない。それこそ、ニュクスのような女神にこそ相応しいような」

 きっと人間は始まりから「永遠」に捉われている。永遠に魅了されて、永遠に眩惑されている。移ろわざるものを求めて移ろわざるものへと至るために世界という〈今〉を破壊して移ろいゆく、そんな矛盾を抱えてもなお人間は止まりはせず。矛盾で感情を抑制できるほどに多くの人間は論理的に造られてはいない。何よりも論理を信仰する幾多の人間が、その論理によって殺された。

「綺麗、か……昔日にはその言葉を忌んだものだが、今では素直に心嬉しいよ。お礼によいことを教えてやろう、魔女が自分の名を相手に告げるということは、すなわちその者への愛情を証すことを意味する。私の意図、言い換えるなら私の志向を理解できるかい、アダマンティスよ」

「それはすなわち、私を心より信頼し、愛してくれていることの証明。そういうことなのだろう? こうも率直に言われるとは意想外だが、それは私とて同じ気持ちだ。とても嬉し」

「そうじゃない、そうではないんだ…………付き合わせて悪かったな、ありがとう。もう大丈夫、ヘクセンタンツはこれにて閉幕――これからは、魔女であり人間である私の言葉を伝えよう」

 空間の静止を皮切りに虚空を包む夜の帳は黒闇こくあんとして下り往きて、天球上に在ることを信じられてきた瞬きは今という瞬間において、可視と不可視の境を無くして唯々強く、光耀こうようを放つ終天を現象させ、孤客こかく群星は形象列星へと。この身体に宿る熱は、今も残留しています。

「お前への愛慕を私は友愛と名づけるつもりでいた。かつての友へ差し向けた愛情と同じように、私はお前に愛を抱いているのだと、そう思い込んでいた。だがそうではない、私がお前という存在により識った想いは決して友愛などではない――私はこの気持ちに名をつけたのだ、〈初恋〉という名を」

「…………ならば、君は私を?」

「ごめん、今だけでいいから……私を離さないで。私にだって怖いものはあるんだ」

 しかし、おのれの信じたものによって殺されるのなら、それはひとつの幸福と言えるのかもしれません。誤解のなきように言いますと、これは死が幸福への道ということではないのです、もちろん生に執着することもまた幸福への道とは考えません。ただ〝生きていること〟、それだけで幸福だと私は此処に帰結します。おのれの存在を認め知覚および覚知される歓びこそが生そのものです。

「私は、アダマンティスのことを愛している。私はあの日、あの夜、あの出逢いから現在に亘ってずっと――お前という存在を恋慕しているのだ。幾度目ではない、生まれて初めての恋なんだ……魔法にさえ歪められることのない、お前の意志を知ったあのときから、私はどうしようもないほどにお前に惚れていた。どうしようもなくて、おのれという存在の理由と意味の曖昧さを観想し、想い惑うほどに、私はアダマンティスのことが好きだ。サピロスへの嫉妬に身を妬かれるほどに、恋い焦がれる痛みと熱を夢寐にも忘れないほどに、好きになってしまったんだ……だのに、皮肉にも私はあいつのことも友として愛してしまっている。二人が幸せで在るならば他には何も必要ではない、ただ彼女が孤独に在らぬように、私はお前に彼女を託そうと考えた…………ああ、私は最初から魔女なんかじゃなくて、ただの人間にすぎなかったのだろうな」

 盈月えいげつの夜の下に、私たちの眼には捉ええぬはずのうすびかりさえもが二人を見つめ、世界を一の詩とします。銘々の持つ音が、響きが、演戯する。

「それなのに、ノクス、君はずっと私たちのために……本当に私は頓馬だったのだな、君の気持ちなど何も考えずにずっと、すまなかった」

「謝るな。お前が謝ってしまえば私は余計に惨めではないか。お前は私が見てきた誰よりもよい男さ、私の親友を任せても問題ないと思えるほどにな。それより……恥を忍んで告白したんだ、せめて、その、答えを最期に聴かせてくれないかい。わかっていても、お前の言葉でもって伝えてほしいんだ」

 私にはもう、残された時間などありませんでした。この夜が明けてしまう前に、在り方そのものを変転してしまう魔法によって、すべての力を使い果たすことでしょう。魔女には、魔法には世界を変えるほどの力など持ちえないことを私は自らで証明することとなるのです。それを、魔女と呼ばれる意味に縋り続けた人々への、私からの手向けとして贈りましょう。

 もしも今、彼に眩惑の魔法をかけたならば、彼は私を恋愛によって愛してくれたのでしょうかと、一縷の明滅光とし揺らぐ思いが浮かばぬわけではありません。しかるところ想いが揺らぐことなどは終ぞありえず起こりえず、追いかけ続けた幽世幻影に追いついた私は、既に境界上に立っています。

「私は、君の愛に応えることはできない。私が恋として愛することができるのは、きっとサピロス以外この現世には存在しない。それでも、ありがとう、こんな私を愛してくれて。私に託してくれて。私はこれからもノクスを友として生涯愛し続けたい、君は今でも、そんな私を友として受け入れてくれるだろうか」

「ひっひ、当然だろう。私が傍にいてやらねば心配だからな、世話の焼ける友人たちだよ本当に。おいおい、なぜお前がそんな顔をする……ああくそ、わかっていたのに、失恋というのは存外に辛いものなのだな。お前に振られるのはこれで二回目だ、これだけめかし込んでも惚れてくれぬとは本当に腹立たしい奴だよ。ほれ、既に夜の魔法は舞い降りた、私なんかより上を見るがよい」

 ――でもきっと、私は――お前のそういうところに魅了されたのだろう。

 ヴァルゴの天泣、私たちの絆そのものである虚空の風景画を私は必死に仰ぎ見て、彼にもまたそうするように勧めるのでした。この地にて流れる天泣が決して観取されることのなきように。

「ああ……なんということだろう……これこそが君の言っていた『空の全景』なのか――唯々、綺麗だ。身体は宙へと浮かぶようにして、此の大地にではなく彼の海へと浮揚しているような、神妙な感覚が肌を包む。君が夜に魅了された理由を、漸く私は確知した――世界はこんなにも美しい」

 痛苦、玻璃の破片、冷めてゆき失われてゆく生体の熱量。

「そうであろう、人は未知なるものを怖れると同時に強く魅かれるものだ。私のことを憶えていなくとも、この風景だけはどうか忘れないでほしい。人間は生きている以上、惑うものだ、宵よりも深き闇に迷うことから逃れえない弱き者だ――だからこそ、空を仰ぎ見ることを忘れないでいてほしい。光の実有が闇の実有を色濃くするのではない、闇の実有が光の実有を色濃くして往くことを忘れないでほしい。生の始まりも死の終わりもすべては私たちの創造した仮象でしかない、だからこそ私たちは誰もが自由に在ることを忘れないでほしい。誰もが自由に銘々の世界を持ちうることを、その有機的交流こそがより大きく世界を創り上げていることを、永遠に消えることのない星空の相の下に認識し、銘記の心象風景として刻み、ただ憶えていてほしい。私――ノクス――という現在はただ、それを希う。私はな、アダマンティス、この世界が愛おしくて堪らないのさ」

 永遠、悠久、久遠、無窮、終天。瞬間、絲、渺、須臾、刹那。象られた文字を幾つ並べて幾つ数えたとしても言葉は記号にはならず、そのものに意味は宿りはせず、本質的に私たちの思考は言葉によって規定されるのではないことを知るでしょう。仮象の言葉、仮象の価値に支配された人々に私はただ問うでしょう、今其処に生きている彼方は幸福であるのか、現在という瞬間に肉体としての生を終えても後悔のない生であっただろうかと。私は私として、かくあれかしと祈るばかりでございます。

「――そうか、それは、よかった」

 彼方の世界が風景として描画されることを、身体の現存を越境した残存世界の描き出されることを、彼方が彼方だけの生を生きることを、私は人間の壊れた先にて祈るとしましょう。

 而して、全景は薄らいでゆきます。魔女の言志は静夜に響むでしょう。

「刹那の生を希う旅人たち。彼らの世界は瞬間ではなく永遠の裡に認識され、夢幻なる時間の移りは、今という記憶を綴じ連ねた水脈みおに幾隻もの舟を渡します。始まりは収斂、終わりは雲散、残存するものを識るは私という現象ただ一人。往き果てることを未だ知らず、歓びによる愛の果実を手にする私を、魔女は秘かに見遣ります。輪転の殻を破壊し翔び越え往く現象を、一人として銘記することはありません。然るに私は碧玉の言志によってひとつの覚知へ至ったのです、私の希求する愛は他に依存しえず、常に自己の裡に存するものであることを。かるがゆえに、私は虚言することでしょう。世界を素描そびょうした静物画は今、胎動を始めました」

「君の詩はいつも隠喩に富んでいて私には解釈が難解であるが、所以なく惹かれる響きがあるな。以前から訊ねようと思っていたことなのだが、創作者は果たして詩を他者に正しく理解されることを望むものなのかい」

「理解、か。まあ、これは私の所思に外ならぬから参考程度に聴いておけ。詩というものを思考で理解しようとするのがそも誤りだ、まずは言葉による感覚的空想に委ねることから始めるといい。思考は自ずと連れ立つ。より簡潔に言えばそれは、〈うた〉そのものを考えるのではなく、詩によって得た感覚を考えることと言える。これが私なりの嗜み方だ。それにな、正しい解釈など素より存在しない、そんなものは人に訊かずとも勝手にしていろという話だ。言葉は誰かに読み取られた時点で既にそいつのもので、創作者はそれを歪曲することなどできんさ。さあ、夜が明ける前に帰るとしようではないか、明日にはお前も仕事があるのだからしっかり休んでおくことだ」

「……そうだな、本当にありがとう。しかし、本当に大丈夫なのだろうな」

「何を心配する、あいつらの記憶から私たちのことはすぐに消える。サピロスも人間として新たな生を享受する。そしてお前たちは結婚、振られた私はお前たちを祝福する。完璧ではないか」

「そうでなくてだな、私の妹を救ってくれたとき君は魔法を使ったのだろう? あのとき、君の相好の蒼白となるのを、おぼつかぬ足取りで倒れ臥しそうであったのを忘れるものか。魔法は体力を使うと言っていたが、本当に大丈夫なのだろうな……君にもしものことがあれば、私は」

 治まらぬ震えを彼に伝えてしまわぬように、柘榴石の瞬きの視られることのないように、存立する私は愛しい人へと片頬笑みました。

「そんなに心配ならば、今ここで私を見守るがよい。もしも私が疲弊したおれたならば、お前の無駄に大きな身体で丁重に運んでくれたまえ、あのときのように……もうすぐ緞帳は上がり、曙光がお前たちを照らす、美しい色で世界を彩色し、美しい音で世界を鳴らすだろう。爾前にぜんに、疇昔ちゅうせきの夜を夙夜の夢想として私は先へ往くとしよう……ウェスペル、シュラング、リシア、メロウ、アダマンティス、私に人間を愛することを、人間に恋することを教えてくれてありがとう、最後にお前と出逢うことが私の『運命』であったのだとすれば、私の人生にこれ以上の幸せが訪れることは望むべくもない。どうか幸せであれ、幻想を常態とする今、愛したすべてへと手向ける祝言を魔法として此処に刻もう。

縦い愛する人に忘れられようとも、この想いが消えることなど、永遠にありえぬのだから」


. ――そのすべてを私は愛します。


     *


 神の不在、魔女の不在、人魚の不在。

 もはやその存在することを知る者は一人とて現在しません。我々の認識の変化によって世界そのものに変化はありません、私たちの不自由な意志に変化はありません。かような言葉のどこまでが真であり偽であるのか、私たちは知りえません。魔女が魔女たるイデオローグを果たして誰もが露知らずして、永遠を欲望による解釈として意志する者は舟人として、春宵の空の上に詠うでしょう。

 鐘が鳴ります、晩鐘の音が鳴ります。

 現象する螺旋律。銘々の祝福を奏でる心象素描は私ないし彼方という言語的思考世界のみならず、交叉・交流のみを落書きのように綴った世界そのものを記録しています。その幸福の帰結を私は、見届けたいのです。花の粧いを纏った女と玻璃の燿きを見せる男、二人の歓笑に応えるようにして私は消せない癖として片笑みながら静寂の最中にて、かの幸福を詩としておりました。

 

〝真なる多大な愛は、自らの愛されることを欲すことはなく、それ――愛されること―――以上の何かを欲するだろう。その欲望を誰もが手放すことのなきよう、それがあなたの命そのものであることを私の墓碑銘として、この現世に綴り残そう。彼方たちにもあの燿きがもたらされるよう。〟


 爾く私は虚言するのです。

 ――さようなら、在りし日たちよ。私が呆れ失笑してしまうほどに……どうか、幸せで在れよ。




 魔女によって書き換えられた新たな掟、私はそれを知らぬはずでありながら異様な既視感を覚えたのです。筆跡も記された『ノクス』という名も、私には果たして聞き覚えなどあろうはずもないのです、ないはずなのです……それならば、頬を伝うこの想いは一体何を意味していて、どのような言葉でもって表現しうるのでしょうか。

 それが私――アダマンティス――には、到底判じえぬのでございます。

「どうして泣いているの、アダマンティス……何がそんなに悲しくて」

「悲しいわけではないのだ。ただ、大切な何かが欠けたような気がして、大切な人を失くした気がして、この綴りに込められた何かが私には堪らなく、切に愛おしくてならないんだ…………茲下に有るすべての詩が私という現象の裡に詠い踊る、まるで昨日のように描かれる。なぜ、こんなにも」

「どうしてか懐かしい形……私は、何を忘れてしまったのだろう。誰よりも不器用で、優しくて、素敵な、そんな人が私たちの間には、確かにいたはずなのに…………名前さえ、もう」

 幽かなる臙脂の抒情詩。誰も彼もがその創作者――イデオローグ――を知ることは現世においては終ぞなく、二人の交流によって生まれた世界は爾く幸福として現存し果てたとされております。

 終に魔女の詩を揺籃の歌いとして、三重連星の赤色矮星となった『夜』は、ただこともなく秘めやかに眠るのでした。夜の音色おんしょくの下に添い、在りし日に見上げたはずのあかしのすべてを墓標として。








 ――今、世界はうたとなり、歓びを歌う。永遠を欲するこの歓びが、あなたにも届きますように……

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