Ⅱ 魔女は人間に愛されてはならない


    1


 世界が二つに分かたれてから幾年月を経たのか、誰彼の区別なく数えることのない、不確かな燃え殻の灰色世界。そんな世界は二つの国のみで構成されており、今もなお無機質な境界が決して交わることのなきようにと、二国を隔てております。他には何にもございません。星の半分を燃やす地殻の動的変転。イニシエーター始点の分裂連鎖による放射。照射によるプラズマ状態と、臨界プラズマを維持する地点におけるトリチウムとデューテリウムの融合連鎖、ハイドロゲンの落雷が世界を黒く覆い隠しました。かような星に取り残された私たちは、さながら焼け残る煤のようでもあるのでした。

 そしてこれは、そんな世界に取り残された小さな人間と魔女のお話です。


 少女は独り言ちます、彼女に出逢ってから私はどれほどのことがなせたのだろうかと。

 浅葱のみずたまりを踏み抜いた重々しさを引きずりながら、夢寐むびにも忘れえぬ想い出に夙夜浸るおのれを刺し貫いて切り捨てるように、少女は一人、歩むことを決めたのでした。また、世界の半分以上を灰燼に帰した人間と魔物の争いは『エリスの霹靂』という陳腐な名を附与され、呼び習わされていました。人間たちによって造りだされた懸崖の門は建設後、一度も開かれることはなく、今後もそのように続くはずであったのです。

 ――それでも私は、生きることを手放さない。

 三人の魔女が運命を謡い踊ります。かつて無常なる果実を怪物に差し出したように、私の望みを聞いた一人の魔女は私を誘い門を開くのです。

「さあクロト、門を開けて。あなたの望んだとおりに、私は人であることをやめると蹶起したのだから! 決して約束を違えることなく、果たされるように」

 機械的な金属音の波に目が冴えた少女は、僅かずつ穿たれる糸の切れ目に立つ長身の女を窄め眇めると、手に持つ物が何であるかを確知します。肉片の果実が打つ脈動に催す吐き気を必死に抑えながら、女の眼を捉え直して、胸部、おのれの鼓動を確かめました。

 ――この果実を口にしたら最後、あなたは人間に戻ることはできません。あなたの身体はいつか魔魅の血に抗しえず、朽ちることとなるでしょう。それでも進みたいのなら、私は止めはいたしませんが、生とは決して他の在り方のありえないものなのですから、ゆめゆめ後悔なさることのなきよう。あなたがあなたなりに生き果てること祈っております。

 少女は結句その正体を知ることもなく、ただ運命神の糸に手繰り寄せられるようにして、か細き轍を歩み続けるだけなのです。誰しもが自由な意志で生きることなど叶いません。自由を欲するのであるならば、私たちはもっと異なるものを見つめなければならないのであり、少女はそを知ったのです。

「あなたが何者で何を目的に動いているのか、私には知りえないし知ろうとも思わないけれど、でも、ありがとう。もう少し異なる時代に生まれていたのなら、友として茶を楽しむ日もあったのかもしれないけれど、そのような仮言の並び立ては詮なきことね」

 畢竟、私という一つの有機体と思しき命が潰えようとも、私という存在内に存しない生体も現象も失われることはないのだと思うのです。あるいは世界の目的と意味に実有などなくて、遍くそれらは仮象にすぎないようにも思うのです。かるがゆえに私は、客観的真理などに価値を見いだすわけでもなく、神の在否にも興味はありません。ただ一人でも、自らの命の価値以上のものだと断言できる人、すなわち私が「愛している」と考えられる人さえいれば、他は付帯事項にすぎません。

 少なくとも、少女にとってはそうだったのです。

 ――私は、生きることを手放しはしない。縦えすべてが死から始まるのだとしても、私の為すべきことは私が決めるのだ。私は、あの人への愛を諦めない。




    2


 まだ世界が二つで一つであった頃、私は人間という存在を心の底から憎んでおりました。いつからそうであったか、私というちっぽけな人間を産み出した、これまたちっぽけな人間の棲まう記憶領域など私には皆無であります。だのに、そんな私を揶揄して叩いて蹴り上げて剥がす、蔑み笑う声は騒がしい住人として記憶に棲み続けています。不思議でおかしな話に思えます。しかしながら、誤解のないようにお願いしたいのですが、私はかようなことから人間を憎もうと思ったわけではないのです。ややもすると、焦燥感に駆られ追い詰められた人々は、手っ取り早い安心を得たがるものなのであって、その手段というのが自分より下位の存在を設けること。言い換えれば、自分よりも不幸な者を欲しているということなのですから。これは平常においても、該当する者も絶えないほどにいるのでしょうけれど。

 また、私には右の眼がないのですが、これも私にしてみれば些末事にすぎません。というのも、記憶には当時のことが何も残っておりませんし、既に発現した事象を否定するだとか後悔するだとかは、短い一生においては無駄でしかないように思うからです。

 そんな、誰においても路傍の人である私にも大切なものがないわけではなかったのです。未だに理由はわかっていませんが、もしかしたら私はその薄汚くも生きることに執着してしまう本能の姿に、言い知れぬ親近感を覚えたのかもしれません。

 面白いことに、その猫にも親というものがいないらしく、それこそ路傍のごみ屑のように弱々しく転がっていたものですから、気まぐれに持っていた苹果――店から盗んだ物なのですが――を与えてみることにしたのです。

「ああそうか、このままじゃ食べられないんだな、お前」と、今の自分の姿に失笑しながら、少女は果実をかじりました。そうして小さくした欠片を口に入れてやると、ゆっくりとではありますが、微かに咀嚼しているのがわかりました。

「おいおい、まだ欲しいのか……? 卑しい奴だなあ」

 最後に笑ったのはいつだったか、思い出せもしない夜。春霖雨の跫音きょうおんを子守唄にして廃屋の冷めた床に身を寄せ合う二匹の孤影。私はつくづく人間のいかに弱いかを知り、その猫が少し羨ましくて嫉妬してしまったのです。私がいなくてもこの子は一人で生きていける、私はどうやらそこまで強くはないらしいことを、思い知らされたのでした。

 学校に行くことから逃げて、家からも逃げて、警察からも逃げて、逃げてばかりの人生で……何ひとつさえ為すことができない惨めな人生。そんなもの、「生きている」と言えるのでしょうか?



 この星にいる人間はテミス国に住まうアレテ人と、ゴーゴン国に住まうステノ人の二種に分けられます。二つの国はいつも喧嘩ばかりしているため、アレテ人はステノ人を嫌い、ステノ人はアレテ人を嫌うことが常でした。しかし、すべての人がそうであるわけではなかったのです。アレテ人の中にはステノ人に恋する者もいましたし、アレテ人に恋をするステノ人だっていたのです。もちろん、周囲の多くの人間はそういう人々をよく思いませんし、それが原因で勘当され絶縁する者だってたくさんいました。

 それでも家族として幸せに暮らす人々はいましたし、人種を気にすることもなく友情を育んだ子供たちも僅かにいたのです。決して誰もが幸せな世界などありえないのだとしても、誰もが自由に愛する人を愛することが赦される世界だったはずなのです。

 然るに火種が終熄することはありません。争いの気風はたった一つの波によって瀰漫してゆき、死の狂瀾を引き起こしてしまいました。人の意志と願いを掟によって拘束するものとは、取りも直さず人間の仮象的有意味に他なりません。疑うことを忘れた狂信者の常識が善としての拘束を祀る祭りの最中に、私はいよいよ居場所をなくしてゆきました。というのは、私という人間はまさに化物の子のようなものであるからです。アレテ人の父とステノ人の母のもとに産まれた私は、アレテ人側から見ても、ステノ人側から見ても、害獣に他ならないのです。

 かような化物には人を愛する権利も、誰かと一緒になる権利も認められないことなど、とっくに理解しているつもりだったのですが、流転無窮るてんむぐうなる感情が色めき立つのを抑制することはできませんでした。呆れ驚いてしまうほどに、私はあの猫に執心していたのです。生を欲する本能を支える存在の大きさとは、失ったときにこそ実感するものなのだと私は初めて知りました。

「お前ら魔物のせいで、俺の父さんは死んだ……何でお前ら化物が生きているのに俺の、俺たちの親が殺されなきゃならないんだ? なあ、教えてくれよ!」

 破綻した感情論。事実を見ようともしない蒙昧な者ども。

「……ふざけたこと、抜かすな。お前たちだろう、最初にゴーゴンの人々を虐殺したのは……他ならぬお前たちだろうが! 憂悶を経ようとも幸福な在り方を見いだした人々の日々を掃滅した簒奪者ども、なぜ私たちをそっとしておいてくれない……? 私たちは、静かに暮らせるならそれだけでよかった、よかったはずなのに……」

 ――もう、どうでもいい。

 押さえつけられて、踏みにじられて、唾を吐きかけられる、そんなことなどどうでもよくなる鮮血の放散に目を奪われ、言葉を奪われ、理性を奪われ、残ったのは潜めていた泥だけ。私はその日、人間であることをやめることにしました

 ――何もかもが、憎い……存在することさえありえない、なぜこいつらは存在する? なぜ私は存在する? 私がいったい何をした? その子がいったい何をした? 本当に敵が憎いなら、兵曹として戦えばいいのに……お前たちはいつだって、自分より弱い者の蹂躙しか欲さない。怨恨と嫉妬に囚われた怪物どもの姿には辟易するばかりだ。だから私は、思うのだった。蹂躙する者は自らの蹂躙されることを考えているだろうかと、相手を殺すときに自分が殺されることを考えているだろうかと。

「ごめんなさい……とは言わないよ。そんな表層の言葉で赦してくれるはずがないものね。だから、どうか私のことを赦さないで。この世界の何もかもを、赦さないでいてほしい。そして、もしも叶うなら、もう一度だけ傍にいてほしい。薄汚れた私とあなたで二人きり、悪くないでしょう?」

 でも、何かを忘れている気がするのでした。私の大切な何かを、私はいつ忘れてしまったのか。

「おい、誰が勝手に喋っていいと言った?」

 それからのことは、思い出したくもありません。少年の首に突き立てられた刃物、切り落とされた女の舌が積み木のように転がっていました。醜怪な叫声が聞こえることもなく、楽しげに人間たちを殺す私の姿。あのとき私は自分が化物であることを自覚しました。そも人間と化物に違いなどなかったのかもしれません。

 鉄パイプを握る少年は私にそれを振り下ろすわけでもなく、仲間を助けようとするわけでもなく、焦り走り去ってしまいました。他の者もそうであることは言を俟ちません。

 堕(つ)栗(い)花(り)の雨音および跫音のみに支配された昏い闇を走り続け、森の中へ迷い込んだ私は、先ほど少年に突き立てた刃物を逆手に持ち構えました。少女は生きることを手放したのです。

 遮莫(さもあらばあれ)、人間と魔物の間に生まれた一人の少女は死んだのでした。


     *


 最初に見えたのは私と同じくらいの小さな背中、綿雲に包まれたような日溜まりの感触でした。規則的な洞調律どうちょうりつで、彼方の身体熱量が此方こなたの身体に遍満伝導するのです。それは不可思議な心地好さでありました。

「お、死んだわけじゃなさそうだね、僥倖僥倖。せっかく助けたんだから死んじゃ駄目だよ? この先に隠れ家があるから、まずはそこで休みましょう」

 不遜な女。

 初見の心証といえばその一言だったのですが、そういう心証を抱くこと自体が違和感のある目覚めで、自分が生きている現実感を意識したのは数十秒経ったのちのことでした。

「お前、『魔女』だな? 今際の彼岸から此岸へと連れ戻す非法則な力、胸部の刺し傷さえも見つからないなんて、こんな馬鹿げたことができるのはステノの化物くらいだろう」

「自死を図った割には落ち着いているのね。でも、化物は酷いな、私は命の恩人なんだぞ? ほんと、相変わらず可愛げがないのね、それに私はステノではないよ。私はね、あなたと同じ。アレテとステノの血を持つ人間、似た者同士仲よくしましょう?」

 彼女は私のことを知っているらしいのですが、私という人間の半生は記憶から消失しているために、果然思い出すことはできませんでした。頼りない短躯に病弱者のごとき雪膚という弱々しい姿が私を負ぶうことに納得はできませんでしたが、精彩を欠いた私は死を待つ人形ひとがたのようなもので、今はただ、なされるがままなのでした。

「……お前、私のことを知っているんだな。私とお前はどういう関係だ? どうして私を助けた?」

「まあまあ、気になるのはわかるけれど、そう慌てないの。私はあなたの幼馴染みなのです、負けん気の強いあなたはいつも怪我をしていてね、私がいつも治療していたのよ。本当に、懐かしい……」

 彼女は今、どのような瞳をしているのだろうかと、不意に惹きつけられる意識。私には知りえない憂慮の言葉を感取した私は、彼女についての詮索を怖れていたのです。私の知らない私、知りたくもない何かを暴かれる恐怖への警戒、その程度であるならばどれほど救われたのでしょう。

「助けた理由は単純、目の前で人に死なれるのは気分が悪いからよ。それに、あなたのこと、昔から好きだったからね。こんな頽廃の世にあって、旧友と話せる機会なんて貴重でしょう? みんな、いつ殺されても不思議じゃないのだから」

 特に、私たちみたいな「化物」は。そんな声が聞こえたような気がして、私はそれきり黙りこくるのでした。

「無理に起きなくていいの、本当に、疲れたでしょう。今はただ、ゆっくりと眠りなさい。大丈夫、何があっても私が守ってあげるからね」

「お前は……私の母親か何かか……」

 意識の泥に捉えられたような魔法、昏迷とも言いがたい安らいに包まれます。いっそ、クライネ・レビンの睡り姫になれたのなら、この心は満たされるのでありましょうか。突端とっぱなから、心というものさえなければよかったのでしょうか。

 ふと、閉眼の間隙に見えたのは、彼女の首にかかるペンダントでした。あの翔び立つ鷲の竪琴を、私はどこで視たのでしょうか。

――夢魘むえんの日々を忘れた午睡の夢境に、私はとある世界を見ました。私にとっての無為なる何かを、見いだした出逢いと誓いの夜。私は、何を失くしてしまったのでしょう。

「……本当に、間に合ってよかった。ねえ、あなたは憶えていないだろうけれど、私たち、昔はこの森でよく遊んでいたのよ。今に至るまで、忘れたことなんて一度もなかった。まるで、片想いの乙女みたい、笑ってしまうわよね。一時ひとときとしてあなたを想わなかった日がないだなんて……」

 もしも私の裡にて主が見ていてくださるのなら、私の命を燃やし尽くしてこの子をお救いください。彼女に約束を破らせた罪深き私を赦さずとも、アルだけは――。

「もう少しで世界は二分される、あなたに遇うことができるのもきっとこれが最後。けれども今はただ、眠っていればいい。私たちはきっと、大丈夫よ。あなたが憶えていなくとも、私たちの関係が途切れることはないと、あの夜、誓ったのだから。ごめんなさいね、そして、ありがとう」


 ――言葉にすることさえ叶わないほどに、永遠に、あなたのことを愛しています。




    3


 まだ世界が一つであった頃、おのれが頼んでもいないのに産み落とされたこと、その意味を考えない日もないほどに考えておりました。私には父母の記憶も殆ど残っていませんが、果たして彼らは私のことを愛していたのでしょうか、今となってはどうでもいいことなのですが。しかし、わからないことがあるようにわかると思えることもあるのであって、少なくともあの頃の〝私たち〟は幸せであったのです。

 私は素よりこのような性格でありますし、両親が出自を異にしているというのもあって避けられていたのです。何よりも、そんなことを気にもかけなかった私の暢気さが原因だったのかもしれませんが、たった一人だけ、私にも『友』と呼べる女の子がいたのです。

 ――そう……たった一人だけの、たった一つだけの、私の。

「じゃあ、あなたはお母さんとおんなじ魔法使いなの?」、純粋な問いかけに答えるために、非人間的な洋紅色――辰砂しんしゃの瞳――が掩蔽されて開かれて細められます。須臾しゅゆの魔法に魅了された少女は、美術品のごとく矯めつ眇めつ、熱心に視つめていました。主系列星の瞬きから白色矮星の白光へと、自ら燿き放つ魔法。みなが恐れる魔女というものへの憧憬を抱いた、初めての日でありました。

「どう、驚いた? アレテの人たちには内緒にしておいてね、みんな怖がりで私が魔法を使うと逃げてしまうの」

「そうなんだ、こんなに綺麗なのにね……変なの」

 本当に、変な世界だと思ってしまうのでした。それとも、変なのは私の方なのでしょうか。

「どうして、私のことを助けてくれたの? 縦いあなたのお母さんがステノであっても、あなた自身はアレテ人であるはずでしょう? 私は別に、あんなの気にしてもいなかったのに、どうして他人である私のことなんかを気にしたの?」

 どうしてどうしてと、嫌味でもなく好奇で訊かれるのは、体を内側からくすぐられるような妙な恥ずかしさがあるのでした。少女には理由と言えるほどのものもないので、どう言語化すればよいものかと悩みました。

「何となく、あいつらが気に入らなかっただけだよ。あなたのためなんかじゃないんだ、私はそんなに優しい奴じゃない。気に入らない奴がいたから、殴っただけなんだよ」

「私が叩かれるのを、あんなに必死に防いでくれたのに? 変な人ね、あなた……」

「それは……とにかく、何となく嫌だったのよ。あんな奴らが偉そうにしているのも、そいつらにあなたが好き勝手されるのも」

 嘘をついているわけではありませんが、納得いかないといったふうにして、白い少女は私の汚れた体と今し方できた傷を水で洗い、拭いてくれたのち、創傷被覆材を丁寧に貼りつけてくれました。

「あの……ありがとう。私のせいで家が汚れちゃうのに、ここまでしてくれて」

 誰かに対して「ありがとう」と言ったのは本当に久しいことで、やはり気恥ずかしい思いがするのでした。しかし、白い少女はどこか不満げな顔をしていました。怒りを表現するように、瞳は洋紅色に戻っています。

「ここまでするよりも凄いことを、あなたはしてくれたでしょう。それに、私は〝あなた〟じゃなくて『リラ』という名前があるのよ。ほらっ、私が教えたのだから今度はあなたの番!」

 私はそれを綺麗な名前だと思いました。でも、「リラ」という少女の姿はその名前以上に綺麗で――楚々たる人であるのだと思いました。

 ノーザンクロスの持つ珪砂けいしゃの羽根が舞い降りる冬の邂逅を経て、私は初めて、人を好きになることの何たるかを感取したのです。

「えっと……アクイラ。何というか、女の子らしくない名前でしょう? 私にはお似合いだから、結構気に入っているんだけれどね。もう少し可愛らしい名前でもよかった気もするけれど」

 眼前に白い顔を寄せながら「アクイラね! 格好いい素敵な名前だわ、けれども可愛い名前の方がよかったの?」と、答えて「そういうわけじゃないけど……ずっと男の子に間違われてきたから、何というか、名前だけでも女の子らしければわかりやすかったのかなって」

 冷たい。冷たいのに気持ちいい。

「そうなんだ、こんなに可愛い女の子なのに、みんな見る目がないのね」

 お母さんの温かい手とも違う、えも言われぬこの感情を人々は何と名づけたのでしょう。馴々しくて人懐っこいようでいて、油断ならない彼女の心はどこにあったのでしょう。私は何となく心づいていたのですが、リラは決して人に心を許すような人間ではありませんし、私自身もそういう人種ではないはずなのです。それなのに、私たちがこうしていること、その矛盾。

「これはテミスに来てから誰にも一度も話していないことなのだけどね、私は純粋な魔女ステノではないの。出自を異にしてはいるけれど、私はアクイラと同じでアレテとステノのハーフなのよ。だから私は、こうして家に連れてきたのです」

「だから……? そういえば、リラのお父さんとお母さんはどこに。この小さな家に三人も住んでいるようには見えないけれど……留学でもしに来ているとか?」

 本来なら遠慮すべきようなことでさえ、私は訊ねるべきなのだと確知していました。何よりも、彼女がそれを望んでいることがわかったのです。私たちは、似た者同士ですから。

「私たちのような子供は知らないと思うけれど、今、二国の関係はとても歪なの。毎年交換留学生として互いの国の子供たちを交換しているのは、つまり抑止力なの」

 私には彼女の話が少し難しく、理解しきれるわけではなかったのですが、二国の関係が芳しくないことだけはわかりました。また、リラの笑いが悲嘆の自嘲であることも。

「私たちは〈人質〉なのよ、戦争が突発しないようにするためのね。遠くない未来、きっと嵐はやって来る……傲慢な人間たちが弱者を踏み荒らす暴虐の時代が……私の両親も私のせいで苦労してしまったから、こうしてここにいるのはその恩返しでもあるの。私と一緒にいる人はみんな、不幸になってしまうから」

 私たちは同じでした。生まれも境遇も決して同じではないけれど、同じだと思える初めての人なのでした。だからこそ、初めて一緒にいたいと思えたのでしょう。装飾過多な言葉など必要ではなく、ただ私は彼女のことが好きなのだと気づきました。

「ちょ、ちょっと……どうしたの?」

 私よりも小さく薄弱な柔らかさ。日光の下ではまともに出歩けない身体。一度手放してしまえばすぐにでも亡失するような不確かな私たちのちっぽけな存在を、この手に確かめるようにして、力を込めて抱きしめたのでした。

「アル! 痛い、痛いってば!」

「あ、ごめんなさい……何かしたくなっちゃって。その、『アル』っていうのは、私のこと?」

 ゆらりゆらりと宙に浮いた誇らしげな年相応の潜笑しのびわらいも、私だけに見せてくれるものであると考えると可愛らしいものでした。然りとて恥ずかしさがないわけでもないのですが、今後もリラと付き合うならば度々このようにあっては切りがないですし、流石に慣れてくるものなのでした。

「くふ、自慢ではないけれど、私はこれでも学業成績上位だし知識にも少し自信があるのよ? あなたのアクイラという名は『鷲の飛翔』を意味する語でしょう、だからあなたはまさに鷲のアルファ星アルテアそのものだと思ったの。ほら、〝アル〟ファで〝アル〟テアだから『アル』だってわかるでしょう? 可愛いしアカデミックだしよいセンスをしていると思うのだけど、どう? どう?」

 静謐な美を匂わす少女であると思っていた私が、馬鹿らしくなってきたのですが、呆れるというわけでもなく、私は歯止めをかけえないほどに、いよいよリラの存在を求めるようになっていました。私が出会ってきた誰よりもお喋りな笑顔のよく似合う女の子は、私の、最初で最期の親友でした。

 だから、私は約束したのです。命と等しい約束をしたのです。

「私たち、これからもずっと一緒にいましょう。何があっても、世界がどうなろうと、私たちが友達であることは変わらないから。出逢ったばかりの人にこんなことを言うのもおかしいのかもしれないけれど、友達にこんなことを言うのはおかしいのかもしれないけれど、リラ、愛してるからね」

 あまり思い出したくはないのですが、当時の私といえばそんな青臭い思いの丈を、甚く真剣に言葉の形相に乗せて吐き出していたのでした。

「あら、愛の告白なんてアルは大胆な子ねえ。うん、私もアルのことは好きだよ、愛してると言ってもいいのかもしれないわ。だから、約束しましょうか。私たちは何があってもいつまで友達、死んだってそれは変わらない。ほら、額を出して」

 重ねて彼女の顔貌かおかたちがいかに清淑としているかを知りました。私の睛眸せいぼうとは相容れぬ対照的かつ対称的な白虹双眸はっこうそうぼうへの焦がれを、必死に抑えました。而してゆっくり、唯々諾々としてだらしない蓬髪ほうはつをめくるようにすると、温柔な手底、友の祝福が耳朶に触れるのでした。

「あっはは。今更だけど、ちょっと照れくさいものね。幼い頃はね、親と約束事をするときには必ずこうしていたのよ。私たちが生まれるよりもずっと昔、異国の劇作家が綴った詩に書いたものだって、お母様は話されていたけれど、接吻に意味を与えるなんてロマンチシストな人よね」

 額へのそれにいかなる意味が、想いが込められていたのかを、私は決して訊ねようとはしませんでした。私たちの語る言葉の限界とはすなわち、私たちの世界の限界であると私は考えないからです。要するに、上層としての現象は私たちの持ちうる世界の一部にすぎないのであり、構成物としての一帰結にすぎないのであります。下層への滴下を経た識閾下にあっては、私たちの理解しうる言語と化することは成しえないのですから、私たちは私たちの想いに形を付与しなかった。したくはなかった。ただ、それだけのことだったのだと思います。

 白皙はくせきの少女が無防備に和肌を顕わにし「今度はあなたの番、はいどうぞ」、静かに告げます。今度は顔を寄せることはなく、静穏として瞼を閉じ待つのでした。

 そっと祈るように、あるいは希うようにして口づけを交わす二羽。その姿が見えることもない半夜、決して届くことさえない鷲たちは秘やかなる誓いを交わしたのです。目に見えるか否か、というのは些末なことで、目に見えぬものをこそ欲するがゆえに私たちは通じ合うことができたのです。

 科学的な光に照らされ消え失せる半宵天空の恒星、天球のガラス玉にて中心に位置するポラリスも七坐星ななますほしも玻璃色となった現今。これもまた些事なのです。あすこに在り続けていることを知る我々は、心象風景の此岸として永遠・無限に創造し続けることができるはずなのですから。

 それからというもの、私たちは学友としても親友としても、普通の女の子として共に過ごすようになりました。みなにとって魔女に等しい私とリラは恐れられ、関わろうとする者さえもいなくなっていたのです。それ以上に望むべくもない幸福の銘記が、私の一部として刻み込まれた瞬間たち。私たちはたしかに生きていたのです。この現に。避けえぬ狂瀾の波濤に飲み込まれた、あの日まで――。




    4


 私たちの国では神を信仰していました。敬虔な信徒は純粋なステノ人をこそ選ばれし民と考え、前世において罪人であった者がアレテ人として生まれるのだと考えている世界に、私は生まれ育ったのでした。

 誰にも言ったことなどありません、私はこんな国が大嫌いでした。産まれてきたことを後悔しない日はありませんでした。それでも私は両親のことが嫌いなわけではなく、むしろ、間違いなく愛していたのです。だからこそ、私という存在を他ならぬ私自身が憎んでいたのです。もし、私が産まれなければ、父と母は苦しみながらも普通に生きることができたはずなのですから。

 かかる国の教義において最も罪深きこととは、アレテとステノによる姦通でありますから、そこから産まれた私というのは紛れもなく悪魔の子なのであります。閉ざされた世界、狭隘な世界、私はどこにも往くことはできないのでした。そんな私がテミス国へ留学することになったのは、偏に両親の心遣いによるものであり、幼い自分はそんなことを気にかける分別もなく、この地を離れられることをただ悦んでいました。私が常日頃から、この国の旧套を蝉脱せんだつすることを望んでいたのは明らかでありましょうが、友達など一人もいるはずもなく、同国の童からも放逐され孤立していることも親は知っていましたから、気苦労の絶えることはなかったでしょう。本当に、両親には感謝してもしきれないほどの愛を注いでもらったことを、度々自覚いたします。縦い人質としての留学であろうと、こんな国で生涯を閉じるくらいならそちらの方が遙かによかったわけです。

 しかしながら、かような渺漠たる世界への期待が成就することはなく、縦い出自を違えたとて世界が広まることはないことを知ったのでした。新たなる知によって世界が広がるのではなく、知ることによって私の世界はより狭く小さくなるというのは、知れば識るほどに残された未知が消えていく理を理解するならば、恐らく必定の帰結と言えましょう。

 テミスにおいても私が腫れ物扱いされることは予想どおりのことでしたが、何よりも辛いことと言えば私の両親を侮辱されることなのでした。もちろん、彼らを黙らせることも殺してしまうことも難しいことではなかったのですが、私は立場上問題を起こすことなどできなかったのです。私がテミス国に人質として存在しているように、私の父母もまたゴーゴン国に人質として存在していたので、私は黙ってすべてを受け容れるしかなかったのです。

 酷く惨めで、何度自死を考えたのかも憶えていませんが、実行することは終ぞありませんでした。両親の声がその行為の寸隙にはためき、引き止めていたからです。とはいえ、いつまでも我慢ができるほど私は強くはなかったのでした。今までは小突かれる程度で済んでいましたが、人間というのは相手が何をしても無抵抗であることを確信すると、限界に至るまで嗜虐に身をやつすことができる動物なのです。息が止まり声すら出ない心窩の痛み、体は取り巻きに固定され蹲ることも許されず、久々の痛みに顔を歪ませると実行者の男も指示者の女も愉快げに嗤っていました。彼らにとって私など、娯楽のための玩具でしかなくて、そんな玩具を子とした親もまた同位の存在だと思われているに相違なくて、常態化した精神的視野狭窄者の無知な愚かさに、呆れて吐き気を催して、一つの帰結に辿り着いたのでした。

 ――世界のすべてを壊してしまえばいい。私の命すべてを燃やし尽くして、可能な限りの人間を殺してしまおう。まず、眼前に立ち塞がる者たちから。

「何なんだよ、お前! 邪魔しやがって……!」

 もしも神様がいるとするならば、それは私たちの裡にある。私はそのように想うのでした。それは私たちそのものであり、自然そのものであり、理そのものであるがゆえに、世界そのものの神様です。他ならぬ私の描いた神とは、そういうものであって、そこには偶然というものは一つもなくて、ただ必然のみが存しています。

 だから、この出逢いこそが私の、私たちの『運命』だったのです。

 暗がりに迷い惑う少女は、いつか夜眼にも決して燿きの止むことのなかった星々の光芒と連綴、その水脈みおを回顧しました。黎明の曙光が明滅する瞬間の不安定な命の電燈を垣間見たような気がして、私は自分の裡にもまた、あの燿きが燈っているのであろうかと、初めて「生きること」を考えたのでした。縦い夜目遠目笠の内たる姿だったとしても、本当の肯(こう)綮(けい)とは他ならぬ私自身に存する想念・観念であることを解しましたから、彼女が実際にどのようであるかは本来問題ではなかったのです。

 しかし、今にして思えば私が黒き少女に魅かれることは避けえぬ事象であったに違いありません。

 少女はまず、周りにいた女たちを張り倒し、男たちに対しても拳を振るって、振るわれていました。傷つくことをまるで怖れていないその姿は獣のようでありながら、私には然計り美しきものであるようにも見えました。ただ獣のようだと言っても、多勢に無勢であることは明白であり、純粋な殴り合いでは勝てないことはその少女も理解していましたから、突如としてどこに隠し持っていたのか、相手にナイフを向けているのでした。もちろん、数は相手の方が多いですから、一斉に襲いかかれば彼らが有利であることは明白なのですが、私たちはまだ子供で一般的に女子は男子より成長も早く、なおかつ相手は刃物を持っていますから、怖れた女たちはただ逃げるだけだったのでした。

「ねえあなた、何であれだけされて、馬鹿にされておいて何もしないの? こいつら、人を殺す度胸も殺される度胸もないような腰抜けどもなのにさ。それで生きているつもりになるなんて、馬鹿らしいとは思わないの?」

 男たちも驚いたようでしたが、誰よりも驚いたのはきっと私自身でした。おのれの色を作すのを感取したとき、私の中で掟として拘束されていた何かが弾け、解き放たれたことも同様に感取したこと。それらがまるで昨日のように、鮮明に思い出されるのです。

「あなたたち、私が何者なのかまだ理解していないの? ほら、あなたが殴った痕が見えるでしょう。よく見ておきなさい。もしも私と私の家族に何かしたなら、そのときは死より怖ろしい目に遭わせてあげるということを、その眼に刻み込みなさい!」

 私が自分の心に気がついたときには、衣服をめくり殴打の痕を見せつけていました。私はその日、初めて抵抗することを、自らの意志で行動しなければ何ひとつ為しえないことを身をもって理解したのでした。他ならぬ、黒い少女によって。

 心窩の痕が消え失せ、瞳の青の強くなるに伴って消え失せる面相の色。言語を忘れたように「化物だ! 化物だ!」と周章狼狽しゅうしょうろうばいする、滑稽な醜態を晒して逃げ去るのを見て、こんな簡単なことだったのかと間が抜けるのでした。

「何だ、やればできるじゃない。あなたが魔法使いなのは正直驚いたけれど、格好よかったよ」

 初めて差し伸べられた光。私よりもずっと力強くて、何よりも温かくて……生誕の瞬間から瞬間を重ねてきた現在に亘って圧殺し潜めてきた想いも雫も、私の意志に逆らい止め処なく思われるほどに溢れました。今でも恥ずかしい思いがしますが、大切な私だけの記憶です。ただ愛おしい、あの子の面映ゆい見目形をもう一度正視できるのなら、どれほどの歓びを得られるものなのでしょうか。

「そうかな、私にはその人がただのロマンチシストとは思えないけれど」

「あら、鋭いのね。こんな詩を綴った彼は実は生涯独身を貫いていたのよ、一応女性との付き合いがなかったわけではないのだけど。また、彼は熱情的な啓蒙主義者でもあったらしく、私たちの国に根強く残っていた封建社会を強く批判していたみたい。そういうところが災いした部分もあったようだけれど、譲れない信念を持つ彼の在り方は私には素敵に思えるわ」

 どれほどの人間がかような信念を持ち生きることができるのかと言えば、そのような人間は至って少数でしかありえないのですが、私はその少数に含まれるのでしょうか。ともすると人は自らの意志で自由に物事・行為を判断しているという先入見に囚われるのですが、実際のところそれらは表象でありかつ仮象であると私は考えているのです。デュミナスの種から芽生えたエネルゲイアの苧環おだまき、完全なるものとしてのエンテレケイア、そのような「可能性」の概念を私はとても信じることができないのです。

「嘘だろう? それなら、リラは私と同じ葉月の七日に産まれたというの?」

「私も驚いた……しかも、私たち同い年だったのね。本当に不思議で、素敵な日だわ。私たちの出逢いはきっと『運命』だったのよ! 産まれた時点で、いや、この世界が存在した時点から決まっていたのかも」

 もちろん、心の底からかような運命と呼ばれるものを信じているわけではありません。しかし、信じているか否かと訊ねられるならば、信じていると迷いなく答えることはできましょう。私がそれを欲しているという、ただそれだけのことで私はそう断言できたのです。

「いやいや、そんな非科学的なことを言われて誰が素直に信じるんだよ……でも、この世界にも、案外面白いことはあるのかもしれない。私はリラと出会って、そう思ったよ」

「くふ、おかしいわ。私も、まったく同じことを考えたのよ」

 からからと冬夜に鳴きとよむ声。六連むつらを束ねたすばるを勾玉の散光星雲が抱擁する夜のこと。

 ――ねえ、私、初めて知ったよ……ああ、世界はこんなにも美しいなんて。

 畢竟、私たちは決して私たちの描く自由に至ることなどできないのでしょう。然らば諦観と共に生きるべきであるのか、私はそう考えません。それを知ってなお、私は自由を欲するのです。自由を欲する者は、どうすればよいのか私は自分なりに考えて、自分というもの、世界というものを考えることで、解せない現実に反逆してきたのです。かつて分け隔てられていた物理領域と精神領域は今、ひとつへと統合され精神領域は物理領域に侵攻されています。因果的カンテラの微光さえも瞬間に綴じ込め切り取る露光を誰しも持つことを、私たちの精神は認識するのです。

 かるがゆえに、私はこのように結論するでしょう。私たちの意志は際限なく不自由でしかありえないのだと――それでも私たちは自由であることができるのだと。

「ねえ、あなたはどう思う?」


     *


 幾年かをテミス国で過ごした或る日、私を含めた留学生たちに凶報が届きました。要約してしまえば、即刻自国へ帰る準備をして迎えを待てという話であったのですが、この手紙の意味するところを推知しえた者はごく僅かであったことでしょう。幼少期、国によって身も心も弄ばれた私を除いて、恐らくは一人も気づくことはなかったのでしょう。

 手紙を燃やしたのち、急いで家を飛び出した私はアルのもとへと急ぎ走りました。逃げ切れるはずがないのはわかっていて、ただ最後に、私のできるすべてのことを為したいと思ったのです。私の命以上に存在していることを願い祈るような人、私が本当に愛した最初で最後の人にだけは生きていてほしい。そんな身勝手も甚だしい自己満足をあなたは恐らく赦しはしないのでしょうけれど、それでも私は決めたのです。彼女のいない世界など考えられないのですから、そういうふうになってしまったおのれを変えることなぞ死んでもできはしないのです。

「リラ……こんな時間に、どうしたんだい」

「夜分に失礼いたします、申し訳ないのですが急用ですので、上がらせていただいてもよろしいですか。大事な話があるのです」

「え……リラなの? どうしてこんな時間に」

 アルは一見がさつなようでいて人のことをよく観ているので、私の風姿から只事でないことは察せられたのでしょう。それでも精一杯の笑顔は崩さないようにして、私は初めて、大切な友へと裏切りの嘘をつかなければならないのを何度も繰り返し確認しました。

「ごめんなさい、アル。あなたにも子細は話すから、少しご両親と話をさせて。本当に、大したことでもないのよ」

 もしかしたら、私の拙い虚言を彼女は簡単に見抜いていたのかもしれません。しかし、私が何をする気でいるのかまでは知りえなかったのでしょう。こんなにも痛くて辛いことは、生まれてから一度も経験したことはありませんでした。大好きなもののためにこんなにも苦しむことがあるのだと知ることができたのも、彼女のおかげなのだとそう思えば、この程度は大したことでもないのですが。それでも、痛いものは痛いと、そう思ってしまうのです。往時に不要だと信じて疑いもしなかった、この心というものが。

「わかったよ、リラが言うなら信じる。縦えあなたが何を隠していたとしても、私はきっとあなたを赦すだろうから。でも、これだけは約束して。何も言わずに私の前からいなくならないで、ずっと別れるなんて嫌だよ。だから、お願い」

 海王石の一翳に淀む永訣への一抹の不安をどうか私に差し向けないでと、形にすることも叶わずに、ただ莞爾かんじとして微笑むだけなのでした。

「ええ、約束する。私が嘘をついたことなんて、今まで一度もなかったでしょう? アルはアルらしく馬鹿みたいに前向きにしていればそれでいいの」

「その時点で嘘つきじゃない……はあ、まあいいや。馬鹿で前向きな私は大人しく待っているからさ、何があったのか後で話してよね」

 私が両親に話したことはそう難しいことではありません。中身自体はこれ以上ないほどに単純なことであり、心というものを加味さえしなければ何の問題もなかったでしょう。私にとっても大切なアルのお父さんとお母さんは戚容を禁じえず、涙さえ流しかねないところでもありましたが、誰よりも私が辛いはずであるという心遣いから、必死にこらえてくれたのでした。死ぬことも怖れない自己と死を怖れてしまう自己との相違性は、何もかもが彼女から端を発していて、私の生きる意味――能動的創造による付与――が私という結晶体――蛋白石の配色でもって彩られたカレイドスコープ――を固結したのであります。現在の現実的存在を超越し、私の裡に存しています。然りとてあなたの生きる意味の中に、私という存在を刻むことはできたのでしょうか。

 リラは問いました、「ねえ、アル。私たちの卒業記念写真のこと、憶えている?」。

 アルは応えました、「忘れた日なんて一度もないよ。何度も嫌だって言ったのに、私の髪を綺麗に整えてくれたよね。普通の女の子みたいな、可愛らしい髪型」。

「アルは普通の女の子よ、私もあなたも誰も彼もみんな普通にしか生きていない。始まりから終わりまで同じように振る舞っているのに、卒爾お前は普通ではないと言われてもピンと来ないでしょう。それに、アルは元々可愛い女の子なのよ、私が言うのだから間違いないの」

「またそうやってからかうんだから……リラは昔から強情だよね、いつだって言い争いになれば根負けするのは私の方だった。私はあなたが思っていたほど強くはなかったから、そういうあなたに救われていたわよね」

「私はいつも考えてばかり、言葉ばかり、行動に移すのはいつだって遅くて、惑う私の手をあなたはいつも引いてくれた。私だって、あなたがいなければ幼弱な童のままだった。本当に、あなたとの出逢いだけで生まれてきたことを幸せだと思えたの」

「何なの改まって、恥ずかしいことを平気な顔して言わないでよ。まるで、昔の私みたいな真剣な顔をして」

 表徴は僅かなれど連繋は那由他に至る。かの文目を映す水面にて、その数を遙かに超えて往く翅翼しよく持つ星舟たち。さながら川のようである白には、夢幻のごとき泡沫が無数に浮かび上がります。空想を忘れた人々の明るい半宵においてさえ、命の燿きが潰えたと結することは終ぞありえず、人々と星々と宇宙を含めた世界そのものの旅路を未だ私たちは知ることはなく、それでも旅は続くのです。

 それは時に神として。

 それは時に精神として。

 それは時に物体として。

 それは時に真理として。

 それは時に自然として。

 それは時に思考として。

 それは時に言葉として。

 各々の想いは表象化において言語化されますが、それ自体では決して形相を持ちえません。あらゆる実体のない如夢幻泡影にょむげんほうようの世界が真だとしても、世界に変化はありません。私たちが知ることによって世界そのものが変わるのではなく、「私たちの世界」が変わるのです。

「私、国へ帰ることになったの。正確には、私だけじゃなくて留学生すべてなのだけれど、要は人質の意味がなくなったということね。だから多分、ゴーゴン国にいた留学生もいずれこちらに返還されるはずよ」

「ちょっと待ってよ! そんな、何でいきなり……」

「何も言わずにいなくなるのはやめてと、そう言ったのはアルでしょう。だから私は、こうして別れの挨拶をしに来たの。ちょっと、泣きそうな顔をしないでよ……これが最後なわけじゃないのだから。言ったでしょう、私たちは何があっても永遠に親友なんだって」

「人質の意味がなくなったということは、要するに――戦争が始まるということなのでしょう? 私は絶対に嫌だよ、リラがこんな馬鹿げた大人たちの諍いに巻き込まれて死ぬなんて……!」

 秘め事を綴じるように、優しく朱唇皓歯しゅしんこうしへと人さし指が触れました。私が知る限り誰よりもまっすぐで温かな友へと、最後の魔法をかける。その準備は既に整っています。

「……わかってる、リラにも大切な家族がいるのだから、リラが守ってあげなきゃならないんだよな。リラは私よりもずっと強い、だから何があっても大丈夫に決まっている、でしょう? ねえ、少しだけここで待っていてほしいの、渡しておきたいものがあるんだ」

 返事を待つこともなく、跣足のまま駆ける彼女に移ろわぬものを見てしまうのは、名残惜しさゆえであったのでしょうか。因果的に閉じた系をなくしては事物を考えられない私たちは、決して移ろうことをとどめることなどできはしないのに、おかしなものだと思うのでした。

を閉じながら髪を上げて、着けてあげるから」と言われるがままに、かき上げると襟首にペンダントの丸カンと引き輪の結ばれるのがわかりました。

「さあ、鏡があるから見てみて。気に入るかわからないけれど、私が自分で選んだの。本当は、リラの誕生日に渡そうと思っていたものなんだけど……どうかな?」

 こんなにも同じことを考えるものであろうかと、吃驚と伴に愁眉を洩らさぬように必死でした。

「ありがとう、ありがとうね……とても嬉しい」

 だって、そうではありませんか。決して同一ではなくとも同じように贈り物を渡す二人が、同じしるしを選ぶということがありうると考えるでしょうか。概して人は、その蓋然性を信じはしないのではないでしょうか。

「実はね、私もアルにプレゼントを持ってきたの、今度はアルが瞳を閉じて、手を出して。私が塡めてあげるから」

 我が上の星は見えず、無限に感じる未来の形容を知りえず。そんな世界のちっぽけな存在である、飛び落つ落星おちぼしの私から、翔び立ち舞い昇る飛星ひせいのあなたへ、『私』という名の愛を込めて。

 竪琴を象るペンダントが「鏡琴きょうきん」の姿をして胸元にて光輝を放っています、鷲を象る指輪が「鏡鳥きょうちょう」の姿をして左の薬指にて燭光を明滅させています。銘々の星影を見知したときの、歓びと悲しみは私たちの忘れえぬ想いとして秘めやかにアルバムへと収められるでしょう。二人の命は決して同じものではありません、ゆえにその輝き方にも差違があるのです。

 私たちがどんな言葉を交わしたのかは、私たちにおいては本当の基幹ではなく枝葉末節にすぎないのであります。相対性幻想によっておのれの規定を他者に任せるようなこと、私たちは決して望まないのです。縦いそれが親友であろうとも、自由を求めるのであれば、我々は詮ずるところ瞬間の折々にそれを求め続けなければならないのです。求めるのは自由なる永遠ではなく、瞬間なのです。

「あなたというすべてに私というすべてを渡します。そうして、私のすべてを秘する。本当にごめんなさいね、必ず帰ってくるから待っていて」

 その日、私は私の記憶領域に棲まうすべての瞬間たちを彼女へと複写しました。同時に、私という存在に連綴する何もかもを彼女の記憶領域から追放しました。私はまた孤独に帰するのでしょうか、いいえ、そのようなことはありえません。一度でも愛された記憶を持つ者は、決して愛されることも愛することも忘れないのです。少なくとも私はそう信じています。



    5


 テミス国の攻撃により戦争が始まると、人々は死魔に取り憑かれたように魔女狩りを始めました。私の父は母を庇って殺され、私の母は私を庇って殺されたのでした。他の魔女ステノも同じように殺されました。国民の一割にも満たない我々は為す術もなく、蹂躙される弱き者でしかありません。

 また、滑稽なことにゴーゴン国でも状況は相似しているのだそうです。終に退路を無くした人間たちは自分たちの怖れる者たちを完全に排除することに決めたということなのでしょう、国を異にしたところで人間というものに大きな差異があるわけではないというのは、一つの笑いどころでありましょうか。私はそれを愚かだとさえ思いませぬ、素より人とはそういうもので、それが明るみになったにすぎないのですから。予め期待などしなければ失望することもない、当然のことです。

 なら、私が今見ているこの夢は何を意味していたのだろうかと、沈潜的思考の行き果てにおいては昏迷の静的アロディニア症状は強まるばかりでした。

「白いひつじのおっぽ 金のつの持つおうし――」

 夢魘むえんわらしをあやす童謡の波が頭にとよむところで、優しい懐かしさが髪を撫でました。私はこの唄を知っているのですが、決して誰もが知るような唄ではないのです。なぜ断言できるのかと言えば、私はこの唄を作った人を知っているからなのです。


  〝よりそうふたごの頭   かにの大きなはさみ、

   ねめあのらいおん謳う  すぴかのおとめはおどる。

   はかりを持つはさみ   赤いさそりのひとみ 

   ひかりのおびのとぐろ、星ぐもにもぐるやぎは

   あまのみくまりにおよぐ。

   ふたつにわかれたみおに 小ぐまはさかなをみとる。〟


 揺動する意識と視界の焦点を合わせて、触れる雪肌せっきを力任せに振り払いました。私は自死を図るよりも前に確かめねばなりません、私を助けた彼女と私の母との関係を、私との関係を。

「その調子なら、もう大丈夫そうね。ごめんなさいね、勝手に膝枕なんてして。誰かの傍にいることさえ久しいから、人肌が恋しくてつい」

「別にどうでもいい、助けてくれた相手に文句を言うほど腐るつもりもないさ。望んでもいないが、一応礼は言う、ありがとう。それよりもさっきお前が口遊んだ唄、どこで教わったものだ?」

「……わかっているのだろうけれど、この童謡はあなたのお母さんが私に、私たちに教えてくれたものだよ。私たち家族はあなたの家族と仲がよくてね。先ほど述べたとおり、私たちが幼馴染みであったというのもこれでわかったでしょう。さて、積もる話はあるけれどそろそろ行かなきゃならない、今回は偶然にも用があったからテミスに来たけれど、次は助けられないからね」

「待て、お前、その足はどうした?」

 今更になって、彼女の片足が外されていることに気がついて、私は思わず閉口しました。床に転がる大腿義足が彼女の片足の役割を果たしている。平気な顔をして装着する姿、そこには私の知らない美しさがありました。

「戦時下においては珍しいことでもないでしょう、あなただって右眼をなくしているのだし。私はね、こんなことで死ぬわけにはいかないのよ。あなたみたいに、世界に失望して自死するなんてことはしない、私にはまだ、為したいことが幾つもあるのだから。あなたにだって、きっと……」

 私は惑い迷い、言葉を返すことができませんでした。私が忘れてしまったすべてのこと、それらを本当に些事としてよいのだろうかと、漸く思い至ったのです。何がために生きていたのか、その答えのすべてが私の裡に秘されているのだとすれば、彼女は私にとって、最後の星芒に他なりません。かるがゆえ、蜘蛛の糸へと縋るような想いで乞うことを決めました、そこに恥などありません。

「お願いがある。私を、お前の行く先に連れて行ってくれないか」

「……嬉しい話ね、断るわ。私は一人でなければならないの。あなたが何を考えたのかは知らないけれど、一緒には行けない」

 その一言だけで、私は気圧されそうになるほどの熱量を肌で知覚しました。黒き靉靆あいたいの死した人形と相違した、皓々たる白雨の感情。受動的生を求めず、ただ能動的生のみを欲する在りように、私は見蕩れたのでした。人々がかつて「人間」と呼び習わしたものへと。

「信じてくれなくてもいい。ただ私には、過去の記憶の殆どが欠けている。それゆえあんたのこともわからない。わかっているのは、私の両親が殺されたこと、私にとって大切な何かを忘れているということだけ……ねえ、本当はお前がそれを知っているのだろう? その首にかけたペンダントを、私は必ず知っている。この指輪も、最初は婚約者でもいたのかと当惑したものだけれど、今漸くわかった。これを贈ってくれたのは、幼馴染のあなたなのでしょう? ねえ、答えて!」

「そんな……いえ、そうよね。私の両親が殺されたのだから、同じことがテミスで起こっていると考えるべきだったのよね……なら、私は一体何のためにあなたを……」

 ――アトロポスの名において告げましょう。再会の閑話はそこまでです。

 ――ラケシスの名において告げましょう。さあ、人の子リラよ。お行きなさい。

 ――クロトの名において告げましょう。あなたの名に課せられた役割を果たすときが来たのです。

 私と彼女を距てる三人の女、生を脱ぎ捨てた死そのものが人の形をもっているような異質がそこにあり、私はただ黙って、かつて聴いたはずの名――リラ――の去るのを見届けることしかできませんでした。石となった肢体、辛うじて動くのは視覚のみで、発語さえままならぬのです。

 ――お前たちは先に戻りなさい。後のことは、私が処理しておきましょう。

 魔女と思しき三人のうち、クロトと名乗る女だけが残り、私のことを見つめるのでした。女は私の瞳および眼瞼を右の手で掩蔽し、光のない闇へと誘い、私という存在に語りかけたのでした。

 ――我々と血を同じくする魔なる人の子よ、あなたは本当にすべての知を欲しますか、その知を愛することができますか。答えは私に示すのではなく、おのれに示さねばなりません。宿命論の廻りに諦念をもって身を委ねるのか、真理を超越し自ずから力を求め獲得するのか、自らの世界とは畢竟自らによって構成されざるをえない。それらの有機的交流こそが、私たちの絆となる相対性世界なのです。

「難しい言葉で言われても、私にはわからない。ただ、そんな話し方ばかりする子と昔日によく話していた気がする。あの『リラ』と呼ばれた彼女は、私にとっての何だった……?」

 ――すべてはあなたの裡にあり、すべてがただ識閾境界の底に眠っているだけ。記憶は消えたのではない、密にされた想いは意図的に隠された秘抄となったにすぎません。白き魔法に抗しうる黒き魔法を持つ者よ、あなたが本当に欲するならかかる知は必ず獲得できるのです。あなたにはそれだけの力がある、後は遍く相識るを看取するのみ。今はただ、来たる終着点のために眠りなさい。


     *


 相違わぬ色相の下に覚醒した人の子は、女神より賜る果実を口にして異国の地を踏みました。人類を愚衆ならしめる人工果実の痛みを共有することが、今は少し心地好いのです。結論から言ってしまえば、この世界には本当は『魔女と呼ばれる化物』は一人もいなかったのです。ただ、「魔女と呼ばれる人間」がいただけで、私たちと彼らの差異とはすなわち人種の差異に他なりません。かような次第でアクイラは何もかもを憎むことをやめたのです、私はそれを望みません。むしろ、私はすべてを受け入れ、認識し、赦すことで愛そうと思いました。

 みなは私を気狂いだと思うかもしれません。しかし、私は以前の自分こそがおかしいと思えてなりませんでした。縦えどれだけ世界に馴染めなくて、どれだけ社会に適応できなくとも、何かを強く求め反抗し行動することがなければ、何も変ええず何も成しえない。考えれば当然のことを、どうして私たちは簡単に忘れてしまうのでしょう。けれども、私はそれを愚かだと笑いはしません、行動できない弱き者を愚かだと笑いはしません。人とは素よりそういうふうな生き物で、私たち人間は古から現在に至るまでそういうふうな人間と呼ばれる誰かを愛して、始まりの死とお終いの生を繰り返して、命を紡いできたのですから。

 結句、私たちは誰よりも自己完結とした生のために利己的に生きているのであります。でなければ、私の記憶を完全に消去するわけでもなく隠すようなことを、リラはしなかったでしょう。今ならば、彼女のすべてがわかりますから、彼女にも私のすべてを伝えなければなりません。

 惨憺たる風葬地の様相を呈すゴーゴン国の街には焼き焦げ腐敗した肉塊が転がり、霧海の屍臭に息が詰まります。親子・兄弟・姉妹等々の、国を違えようと変わらぬありふれた関係の跡形。

 まず、周知のことですが、戦争は最初から最後までテミス国が優勢を維持し続けておりました。神を信奉する停滞的都と科学を信奉する急進的都を比較すれば、兵器の数と火力の面で後者が優位であるのは明らかですから、ゴーゴン国は不満を募らせてはいても、テミス国と争うつもりはなかったのです。最初から勝利を確信しているからこそ、アレテ人たちは攻撃を決定したのでしょう。

 それからは、ステノ人たちも迷いなく攻撃を開始し、未知の機械兵器――エリス――を投入したのです。この兵器の存在は想像以上にテミス国を追い詰めることになったのですが、国そのものを滅ぼす凶星の前では、そのような魔法は無に等しいのでした。

 私は神を信じたことなどありません。しかし、リラは神の存在を信じていると言いました。

「神様は私の中にいるの、あなたの中にもいらっしゃるはずよ」と得意げに語っていたあの日。

「じゃあ、あの猫の中にも神がいるんだよね、供物を与えなきゃいけないわ」と返す私は、彼女の言葉を諧謔のように聞いていたのですが、今なら本気であったことがわかります。仮に聖書のとおりに神が天と地とその万象を創造し、大地の塵から人を形造り、命を吹き込み、人が一人であることを良しとせず、数多の生物ともう一人の人間を造り上げた。そのような御業為す神は、何がために私たちを生み出したのであろうかと、思わずにはいられないのでした。

「生まれることを欲する雛は、卵の殻をおのれの力で破らなければならない。なら、鳥籠の世界に生まれた幼鳥が自由を欲するとき、どのように世界を破壊するのだろう。私たちは破壊によって現象する世界に生きているのではなく、破壊の後に創り上げられた世界に生きているのに、彼女はそれを放棄しようとしている。私の役割とはすなわち、それを止めることなのでしょう――クロト」


     *


 私たちの国では人間を兵器へと造り替える技術が秘密裏に研究されており、その実験対象とされていたのは、私のような混血児たちでした。理由は至極単純で、かような赤子はこの国においては悪魔の子に等しいものでありますから、人権というものも賦与されないためです。拒否権もありません、それにより惨殺された夫妻の啼泣を私は何度も見てきましたから。然る定めにより、私たちは嬲り侵され続けたのです。気味の悪い血色ちいろの虹彩と蚕の白肌、光への羞明症状は生得のものではなく、作為的に生みつけられたものなのです。私に寄生する「呪い」は常に身体のプログラムに不具合を引き起こし、生ないし若さを維持するための再生的細胞死――アポトーシス――と非再生的細胞死――アポビオーシス――を促進させます。この、身体において不要と判断されたものを取り除く自死プログラムと、私たち自身を死へ至らしめるための自死プログラムは、偏に種の繁栄を目的とされたものなのです。子を生すこともできない人間個体は種の繁栄において邪魔でしかないのですから、理の当然と言えるでしょう。悲観と厭世観に浸るでもなく、私は人間たちにとってもこの世界にとっても、悪性新生物でしかないのです。

 ただ、呼吸するだけで、歩くだけで、食事をするだけで、眠るだけで命を過剰に削り続ける私の人生とは、突端から早世が必定とされた生なのであります。こんな私は失敗作であり、国にとっては遊び尽くした玩具でありますから、人質として留学させることを許可したのでしょう。代わりに私は、御業に迫る破滅と可塑の力を得ました。これが人々の〈魔法〉と呼ぶところのものなのです。

 祖国はこの未完成の力を兵器として利用し、神兵を騙り、民衆さえも戦場へ駆り出しました。魔物と呼ぶに相応しい自我境界崩壊の兵器たちは、自らの命を使い人を殺戮します。しかし、敵と味方の区別もつかなくしてしまえば彼らが自国の民を襲い始めるのは自明で、祖国は自ずから滅びの終局を迎えたのでした。私は私の欲するがままに彼らを憐れみ殺し回り、幾度も滑稽な血雨を浴びました。拙作のごとき顛末に笑うことさえできぬ私はただ、一刻も早くこの国そのものを砂地とし、全人類の世界意識そのものを変改するために、街の象徴であった鐘楼を目指し歩くのでした。今度こそ、私という存在を完全に消し去るのです。現実的存在に留まらない個物の想念的有――エッセ・オブエクティヴム――さえも潰えるようにと、私は私に付与された役割。すなわち我々の運命たる〈神〉へと反逆することで、生きることを終えたいと思うのです。

「そうすれば、アルだけは生きることができる。争いのない世界で、もはや虐げられることもなく、私と関わることもなく幸せに生きてゆける。そんな都合のいい話であれば、よかったのにね」

 縦いそのために、すべてから忌み嫌われる怪物になろうとも、あの子の意志を歪曲することになろうとも、私はもう立ち止まらない……ねえ、アル。こんな私を今でも〈友〉と呼んでくれますか。

「お前は本当に、世界を終わらせるつもりなのか。お前は自分がどれだけ罪深い業を背負うているのか理解しているのか。そのような傲慢、赦されるはずもない」

「赦される必要などないのよ、他者からの赦しなど私には何の関係もない。私は世界を終わらせるのではない、ただ創り変えるだけ。あなたたちの信じた神などこの世界には存在しえない、神は世界そのものであり世界の理そのものであり、その下に生きる私たちもその一部でしかない。それゆえ私たちの行為のすべては罪などには成りえない。世界がどうなろうと、一度成ったのならそれが覆ることはないために世界は肯定されなければならないのだから、変改された世界の在りようは神の意志そのものでもあるのよ。なんて、お前たちには理解しがたいのでしょうけれど」

「教主殿はどうやら勘違いをしていたようですな。彼女こそ我々の最高傑作なのです、オルフェウス。これだけの絶景を見せてくれるとは、嬉しい誤算です。彼奴らのような操り人形ではなく、自らの意志で命を燿かせる魔法を扱うあれこそ、『魔女』の完成形と言えましょう」

 狂喜的笑みを見せる男と、眼前に迫るおのれの死にただ怯え悔いる男の、二つの醜怪な蒼顔を前にして、私はこれ以上何かを告げる気にもならず、有機体としての活動を停止させました。私たちを弄び続けた者たちの消滅を望まない日はなかったというのに、この心に歓びと呼べるものは何ひとつ存せず、私の視界には晴れることのない縹渺たる曇天のみが映るのでした。葉月にのみ降る洒涙雨さいるいうの向こう側には、今でも虚空があって無数の瞬きが座しているのでしょうか。偲ぶように、胸に輝く鷲を握りしめ、一歩、一歩ずつ、螺旋の階段を踏みしめて往くのです。物語の終着を迎える鉄道は、もうすぐそこまで来ています。



   物理領域に侵された精神領域にて法則的カンテラがうすびかりしました

  

   永遠の裡に刻む銘記の露光にて瞬間は切り取られます

  

   瞬間を綴る現象の収斂が彼方にも見えるでしょう


     *


 崩落する瓦礫たちの中心に存立する異質なスカイスクレイパーの大鐘楼に彼女の存在を感取し、私はひた走りました。ただ生きているだけなのに、責められ、嬲られ、蔑まれる。戦争が始まろうとも変わらない人間の在り方に、また虐げられ、疎まれ、剰え愛する人たち――家族――を奪われる。奪われ続けるだけにも思える、かような人生を過ごした彼女に私は取って代わることはできないのですが、それでも、私が彼女であったのならば迷いなく自死の道を選択したと思います。彼女は私よりもずっと強い人なのです、かるがゆえに彼女は私以上におのれの望んだ道から外れざるをえなかったのです。私と出逢うことさえなかったのなら、このような想いを得ることもなく楽になれたのかもしれません。もしかしたらリラは、私と出逢ったことを後悔したこともあるのかもしれません。けれども、私は確信するのです。どうあがいたところで、私たちの出逢いは発現した事実であり、運命でしかないのだと。だから私は、人生に後悔することをやめるのだと本当の決心をしました。彼女も本当は、後悔などしたくないはずなのです、彼女はそれを最も忌み嫌うことを私は誰よりも知っていますから。

「だから私はもう一度、あなたに話さなければならない。私の言葉の限界、私の思考の限界。それ以上の想いのすべてを、受け取ってほしい。私のたった一人の、大切な親友への愛を――」



   不自由たる意志を抱えた私たちは、永遠の相の下で精神的自由へと至ります

   

   時制幻想の鉄道が此岸から彼岸へ終着いたします

   

   円かな玻璃線境界までお下がりください




    6


 白き魔女の言葉、「どうしてあなたは、いつも私の前に現れては私を悩ませるのかしらね。久しぶり、アル……元気にしていたかしら」。

 黒き魔女の言葉、「お陰様で、すっかり元気だよ……リラ。あれから、互いに色々あったはずなのに、リラは変わっていないんだね……あと、どれくらい持つんだ?」。

 白き魔女の言葉、「くふっ、この状況で最初に訊ねることがそれなの? 相変わらず、面白い子ね。ふう……私の寿命が幾年・幾月・幾日いくか・幾分であるか、そんなのは些事さじでしかないの。私の命は、最期の魔法と共に燃え尽きる。まるで超新星のようで、愉快だとは思わない? 恒星の死による爆発で急激に明るさを増す星は、新たな世界として認識されるの」。

 黒き魔女の言葉、「それでも、単独星超新星の燿きは僅か数年で暗がりを見せ始める。新たな世界として見えるのは畢竟、破壊による残滓でしかないまやかしだ。あなたのやろうとしていることは、ただそれだけのことなんだよ。私たちは、そんなことを望んでいない、それを誰よりも知っているのは他ならぬリラ自身だろう?」。

 白き魔女の言葉、「何だ、アルらしくもなく落ち着いて……つまらないわ。あなたは私が何をされてきたのかも、何をしてきたのかもすべてを知ったのでしょう? 裏切り者のクロトによって力を得たあなたなら、私を止めることも殺すことも容易い。然りとてあなたは結局、一度愛した者は愛し続けることしかできない不器用者なのよ……誰よりも純真すぎる愚直な女の子。私の生涯における唯一の友、アクイラ。私はあなたに二つの選択権を与えましょう。

 一、私を殺して今在る世界を存続させる。

 二、黙って世界の生まれ変わりを見届ける。

 あなたの欲望の赴くままに、選びなさい」。

 黒き魔女の微笑、「相変わらず、勝手なことばかり。一人で抱え込んで一人で悩んで一人で蹶起して、本当に不器用なのはどちらなの。あなたは結局、幾ら心に嘘を塗り固めても、押し殺すことができないのよ。誰よりも意志の強い強情な女の子。私の生涯における唯一の友、ライラ。私はあなたに提示された選択肢を放棄する。私が望む未来は、ずっと前から決まっている。私たちは何があってもずっと親友で、ずっと一緒にいる。あの想いを共有したかの夜に魔法も言葉も必要なかったことを、忘れてはいないのでしょう?」

 白き魔女の自嘲、「勝手なのはお互い様でしょう。私はあなたほど強くはないわ……もう疲れたのよ。心に振り回される日々にも、この世界そのものにも、もはや興味はないの。私はただ深閑なる虚空さえあればいい、神も人も何もないものへと至りたい。何も欲さずにいられないからこそ私は、完全な虚無を欲している。それでも私は死が怖ろしい……死の現象が怖ろしいのではなく、死後に未だ私の欠片が世界の一部として残存する。その蓋然性を考えるだけで、私は死を躊躇してしまっていたの。理不尽よね……人は未知を恐れるのに、既知となることもまた恐れてしまう。だから、最後の選択肢を与えましょう。これさえも放棄すると言うのなら、私は今すぐこの世界から飛び落ちましょう。

 三、私の記憶を完全に消去する」。

 黒き魔女の歩み、「そうじゃない! 私はリラのことを忘れたくない。リラに忘れられるのも同じくらい嫌だ。あなたは私にすべてを見せてくれた。今度は私があなたにすべてを見せたい」。

 白き魔女の慟哭、「来ないで! お願いだから、そんなことをしてくれないで。私はもう何も知りたくはないの……どれだけ言葉を並べてもそれは表象でしかない。あなたは私の裡に存した泥よりも重く汚れた衝動さえも見たのでしょう、私はそんなあなたの心を知りたくない!」

 黒き魔女の歩み、「それでも私はリラの心を知っている。私たちは未知なるものを放置することなどできない、それは人間であろうと魔女であろうと変わらない性だ。私たちはどうしようもないほどに連関した運命の輪で繋がっている。ねえリラ、私はね、あなたが思うよりもずっと欲深いのよ。私はすべてが欲しいの、永遠ではなく瞬間として歓びを得たい! 私は、リラのすべてが欲しい!」

 白き魔法と黒き魔法の交叉がノーザンクロスの翼を描きます。

 静物画の胎動を全人類が知覚し、大地は新たな芽生えを迎えるのです。

 瞑々めいめいの裡の思惟が創造される世界、世界たちの交流の認識。それを感取するは一部なれど、二人の対称性の魔法は確実に人々の心へと、観念へと語りかけ、揺さぶったのです。「万代にかくしもがも」と願う人々の声が、今、世界を奏でました。

 世界の果てには一人ぼっちの女の子がいました。そこへ、一人ぼっちの女の子がやって来ました。二人は手を握り、頬に触れ、額への接吻を交わし、抱きしめ合いながら、互いの存在を承認し合いました。飛び落つ鷲は決して上昇することは叶いません。竪琴の名を冠する鷲は、いつまでもいつまでも落ち続けることしかできず、墜死の運命から逃れえないのでした。

 ――何で、私なんかのために。本当に馬鹿よ、アル……。

 ――わかっているくせに、私は私のためにしか動かない。だから最期まで私と一緒にいてよ、リラ。

 しかし、鷲は一羽ではありませんでした。冷たくなった落星の鷲を、その温かな手で救い上げたもう一羽。顛墜する白鷲を受け止める〈飛翔する黒鷲〉の羽ばたき。

 ――結局、世界も人間も何も変わらない、現在はこれからも私たちの生死に関係なく継続する。それでも、私は今が幸せ。あの日からずっとこうしていたかった、漸く一緒になれたね。

 ――どうして私を赦すの……私はこんなにも身勝手で、色々な失敗もして後悔もしてきた。それなのに、どうして後悔しきれないの。一度たりとも、あなたとの出逢いを心の底から後悔することができなかった。こんな意志薄弱な私に、幻滅してほしかったのに……。

 黒き少女の朗笑。

 ――リラこそ、私のことを知って幻滅した? 私はね、今まで知らなかったリラのことを知れて嬉しかったよ、私の知らない可愛らしい姿、天然で少しドジな姿、何よりも、私への熱烈な想い。もっと素直に言ってくれれば、いくらでも抱きしめてあげたのに。

 白き少女の片笑み。

 ――アルだって、私がいない世界でないと意味がないなんて、そんな愛の告白みたいなこと……。額への接吻のとき、あんなに緊張していたなんて知らなかったわ。私は別に、そういう意味で指輪を渡したわけじゃないのよ?

 しかし、黒鷲には不自由落下の白鷲を抱え続けるほどの力は残されておりません。だから二人はここで自らの物語に幕を引くことを決めたのでした。二人に残された僅かな時間のすべてを消費することで、二人の少女は最期の魔法を世界にかけることにしたのです。間隙には形相も質料もなく、さながら二重螺旋のように一と成してゆく、その燿きを人は何と呼ぶのでしょうか。

 すべての心を共有し合う永遠下の瞬間。不同と同一の融和するかのような旅人たちは今、鳥籠の外へ出ようと欲し、一つの世界を破壊します。私たちは神へと向かうでしょう。「神」という言葉は結句、形象的記号なのです。私たちの目指す地はかくのごとき外的原因によるものではなく、自らの裡の内的原因にこそ見いだしたる世界なのです。それはある種、演戯のようなものであります。

 ――私に「愛」を教えてくれたあなたへ、〈私〉という愛を込めて。

 ――私に「愛」を与えてくれたあなたへ、〈私〉という愛を込めて。

――歓びも――悲しみも――痛みも――何もかもを分け合って――自由へと至る。

 その道を示してくれて。

 ――私を愛してくれてありがとう。

 ――           .


「さあ、往こうか。リラ」

「さあ、往きましょうか。アル」

 落ちて逝く二つの現実的身体に燈る生命の燃焼、その魔法は世界を大きく変えることはありませんでしたが、極小変改の嚆矢となりのちに大きな変革をもたらすことになるのです。しかし、それはまた別のお話なのであります。最後まで「生きること」を望んだ二人の終幕も一つの表象的帰結にすぎず、それ以降も二人の存在が永遠の裡に在ることを誰も認識することはできません。

 ただ、愛を分かち合う二人を除いて。

 世界の限界を超えて空のみぎわを貫く比翼が、暗闇に迷う世界を裂き照らしました。人々が忘れていた渾天スクリーンに映る夢寐の燿きが燦然と赫(かがよ)います。旅人たちは再び現れた昧爽の大地に立ちました。天泣てんきゅう煌星きらぼし金烏きんうの翼が銘々の役柄をもって光芒と光条の彩色で星々を描画し、静止した宇宙を風景画にする須臾、未だ生きる意志を欲する人々の心を揺動させました。殊に人々の目を惹いたのは十字星の左右に位置する二つのアルファ星――ライラとアルテア――であり、それは恰も超新星のような白であったそうです。

 暁においては決して姿を現さないはずの星彩を目睹もくとした人々は、虐殺した魔物たちの呪いないし攻撃の予兆ではないかと、しばらく騒ぎ立てておりました。地上の人々はその終戦日の異常現象を、夜明けの境界に見られたことに因んで、のちに『黒白こくびゃくの客星』と呼ぶようになりました。現今に亘り一度たりとも同じ現象は確認されておりません。しかし、今ではかの話は伝説となり毎年葉月になるとテミス国では祭事が執り行われるようになったのです。畢竟、長らく染みついたシャーマニズムが人類から完全に分離されることは容易ではなく、科学信奉の世界においても神の概念が廃絶されることはないのでしょう。

 また、ゴーゴン国は滅びはしましたが、当然すべてのステノ人が亡くなったわけではなく、奴隷として連れてこられた者も多数おりました。この世界を見て彼女たちが何を思うのか、私たちは何ひとつ知りえず、ただ空想することしかできません。それゆえに、おのれの世界を欲する者は空想を欠かさないのです。而して宗教が途絶えなかった世界において、追い詰められた奴隷たちの信仰心はより強くなり、アレテ人とステノ人を距てる精神的溝渠こうきょはより深くなると、思われました。しかし、程なくして奴隷という概念はこの世界から霧散することになるのです。あの日の空を知る者たち、自国がいかにして人を殺したのかを知る者たちは、残された僅かな命さえ粗末にすることなど、さもしくて賤陋せんろう極まりないとして現在の国と人々を批判し始めたのです。また、自国の夫妻・子供を魔物などと本気で信じ込んで殺した者たちこそ家畜に相応しいとして、「エリスの霹靂」以降の数年間、国内は論争と権力闘争が繰り返されました。この小さな歩みこそが種より出ずる始まりの萌芽なのです。

 かつて存在したはずの三人の魔女は、誰一人として存在を認識しえない識閾下へと姿を消し、その行く末を識る者は未だおりません。この世界の行く末を知る者もまた未だおりません。

「階下で物音がしたような……野良猫でも入り込んだのかしら」

 ステノの血を引く者たちの中には、アレテへの恨みから盗みを働く者、殺しを働く者も絶えず、逆においても同様でありました。縦え法が変わっても、ややもすれば人々の常識は非論理的に固定され変わるものではなく、貧富の差が激しい昨今においては新設された教会において彼らを何とか育てている状況でありました。強かな人々は商売で成功し、脆弱な人々は神に縋り教会に住むか路上で暮らすか、そのどちらかなのでした。

「あら……パパとママ、もう帰ってきたのかしら」

 そんな現世の片隅。ちっぽけな存在である一人の女の子は、毛髪・肌膚・虹彩・言語・人種を違えた、路辺にさえ居場所のないちっぽけな存在である、一人の女の子と邂逅を果たすのでした。

「あなたは誰、もしかして泥棒さん?」

 彼女には私の言葉が通じません、ただ焦っていることだけは看守できます。白皙な女の子に不釣り合いな纏は凡そ服と呼べるものではなく、側溝のごとき異臭がするのでした。かかる状況で私がまず考えたのは、彼女にこびりついた汚れと臭いを完全に洗い流して、衣服を用意してやることだったのです。私とて彼女がステノ人の子供であることはわかりましたから、貧しくて食事に困っている事情とて推察可能であったのです。

 しかし、慌てた彼女は手近にある包丁を握り、私を押し倒してしまいました。盗みを働いたステノ人がどうなるのか、彼女はよく知っているのでしょう。私を殺し口を封じてしまうか否か、逡巡していることが窺えました。

「                       !」

「何言ってるのかわからないよ! もう、怪我したらどうする気なの、離しなさい」

 眼交まなかいの間隙に眦を裂いた私は、感情に身を委ねるようにして彼女のかいなを生まれて一番の力で握り、身体を押し倒しました。驚いた彼女が包丁を落としたためか、腕には傷が見えましたが、私はそれを気にするでもなく女の子の身体を確認しました。見ると、酷く痩せこけた脾腹には骨が浮かび、暴れようと抵抗する彼女は非常に非力であり、私の力でも問題なく押さえつけられたのです。いずれにせよ、放置しておけば遠くない未来に彼女は病死か餓死の運命を避けえなくなると思われたのです。

 この子を落ち着かせるにはどうすればいいのか考えて、私はひとまず笑顔を見せてみることにします。私は敵ではないよと、伝わるような気がしたのです。まあ、そんなことはなかったのですが。

「ちょっと待っててね。ママより美味しいものは作れないけれど、すぐに用意してあげるから」

 最初は暴れつつも不思議そうに眺めているだけでありましたが、匂いで私が何をしようとしたか察したらしく、途端に大人しくなったのです。時折、青ざめて何かを叫んでいたような気もしましたが、私にはわからないので気にしませんでした。

「      !」

「ほら、食べさせてあげるからじっとしていて。このフリカッセ、私の得意料理なのよ」

 警戒心の高い少女も空腹には勝てなかったようで、暫くすると大人しく口を開いてくれました。言葉を発するわけでもなく、静かに垂泣する姿から私は麻縄を解いたのち、可能な限り優しく抱きしめるようにして掻き撫でました。幼い頃からママにされてきたように、あの心地好さが少しでも彼女に伝わることを希って。

「私の名前はセ、リ、オ、ンっていうのよ。あなたの名前、頑張って聞き取るから教えてほしいの」

「セリ、オン? わたし……みぉ、りす……ミオォリ、ス……?」

「あら、少しは言葉がわかるのね! よかった。えっと、ミオーリス、でいいのかしら」

 納得がいかなかったようで、何度か聴き直していると「ミノォリス」と言っているような気がしました。私は彼女のことを、『ミノリス』の名で呼ぶことに決め、彼女もそれに納得してくれたのでした。

 以上が、何も変わりえぬものなどなく、何もかもが移ろいゆく世界での、実視連星の青星と白星の有機的交流が、新たな世界の始まり・創造・萌芽として現在に存した瞬間の観測記録です。しかし、果たしてこれもまた別のお話なのであり、結句、彼女たちの行く末は未だ誰も知りえず、仮に知る者が在るのならばそれは、運命そのものである私たちの裡に見いだすことができましょう。


     *


 ――ねえ、リラ。私たち、これからどこへ……ううん、どこまで往くのだろうね。

 ――そんなこと、訊かなくてもわかるでしょう。この世界の果ての果てまで、すべてを見果てるところまで、私たちは往くのよ。

 ――次の駅まではまだ時間がかかるのだから、もう少し昔話に耽っていようよ。あの子たちがどうなるか、本当は気になって仕方がないでしょう?

 ――また勝手に覘いたでしょう、今度やったら怒るからね。

 縹渺へと至るわだちによって私たちは星間空間のを目にしています。起成原因により我々の世界は崩れ去ります。すなわち、これは私たち人間が壊れるときなのです。今はただ、幻想の幽世にて愛する者と共に燿きとして存するのみであり、今はただ、アルファのライラの胸元、あるいはアルファのアクイラの薬指に込められた想いを、ゆっくりと思い慕うのでした。

 ――すべての旅人が幸福たることを祈りながら。

 ――さあ、次の物語――世界――を繰りましょうか。

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