Ⅰ 魔女は知られてはならない





 定理二三 人間精神は身体と共に完全には破壊されえずに、その中の永遠なる或るものが残存する。

       

   ベネディクトゥス・デ・スピノザ『エチカ』



  

    1


 星の片隅にて、冱てる人煙にみつる町がありました。青々条々といったぐあいに、天鷲絨海面の草木が親子のように並んで、町を囲んでいます。そこでは夜というものがありませんでした、逢魔が時を境界線として這い寄る暗闇があるだけです。人々は暗闇を恐れておりましたから、外を出歩くようなことは誰もいたしません。これはそんな、昔々のお話なのでございます。

 

 幸福を燻らせる表情を浮かべた商人の男が一人、この町にはいました。

 男に連れ添うは一人の女。女は男の妻であります。

 彼女の懐胎は誰の目にも自明であったので、人々はそれは祝福の意に言を付していたものです。

 彼らの姿を見る者はみな笑顔になり、彼らと親しい者たちは「身体をお大事になさってください」だとか「おめでとうございます」といった定型句を投げかけ、それはもう微笑ましい光景でありました。ただ一人の男を除いて。

 あらゆる人間が他人の幸福を目がけて蝟集いしゅうする最中において、詼諧かいかい筆下の拙作を眺めるがごとく冷嘲している、すべての一挙一動がいかにも軽薄にも見え映る彼のことが、商人の男は気になってなりませんでした。我々とは異なる世界を見通すような何かを、私は感取したのでしょうか。

 男はなぜそのような態度で、私のことを見ていたのでしょう、あるいは、みなを見ていたのでしょうか。商人は彼に近づいて、つい訊ねてしまいました。

「卒爾ながら、あなたはなぜ私たちを祝福してはくれるわけでもなしに、そんな顔で私たちを眺めているのですか?」

 そこで商人は意外に思い吃驚してしまいます、最前の軽薄さが失せるに代わって、その男は好々爺の微笑をもって問いに答えたのです。

「そんな顔とは、いかような顔でしょうな。そも、私には他人の幸福から幸福を得る趣味がないのですよ。別に珍しくもない、ありふれた理由でございましょう。銘々の欲するところはまさに、銘々の感情の有りように従って変ずるのですから、そうでございましょう?」

 どういう意図か男はふと女を見据えました。商人は男の返言かえりごとを否定することも同意することもできません。何もかもを知るような蛇の言葉と鷲の瞳に言い知れぬ不安を覚えた女は、怯え退歩していました。気がつくと、三人の他には誰もその場に留まってはおりません。

「質問したのは私なのですから、私の大切な人に余計な言葉をかけるのはやめていただけませんか。私たちはこんなにも幸福だというのに、あなたはなんと寂しい御方なのだろう。少しくらい、愛の尊さから来る幸せというものをあなたにも分けてやりたいほどです」

「そいつは嬉しいお話ですがね、私に言わせてみればあなた方の幸福なんてものは不幸にも勝る毒なのですよ。絶望を遙かに凌駕する依存性をそいつは隠し持っているのですから。幸福とは言葉にせぬからこそ捉えうるものです。ああところで、最近こんな噂が流れているのをご存知ですか? 預言者曰くこの町に人ならざる魔女が隠れ棲んでいるという話だそうで。怖ろしい話だと思いませんか」

 人を引きつける煙が消え去ると同時に、商人の顔色は見る見るうちに青赤せいせきを成してゆく。恐怖よりも怒りを顕すべきか否か、そういった困惑の浮かぶ表情は彼を満足させました。

「あなたは私の妹が魔女であったことを知って、それを私に話しているのか? ああ! 魔女などという言葉、聞きたくもない! 私が最も忌み嫌う名を、私に聞かせてくれるな。あの不埒者……私はかつて愛していたはずの者を愛するがゆえに殺してやらねばならなくなったのだから。決してその話はしてくれるな。そいつがどこで何をしようが、私たちには関係のない話だ」

「それはたしかに、そうかもしれませんな? しかし、ともすれば関係とは金属以上の軛になりうるものなのです。知るを知らぬ多くの者は疑うことを知らぬものですが、あなた方はどうやら少し異なるらしいですな。どうか、自らの意志をゆめゆめ忘ることのなきよう、悔恨も怨恨も決して抱くことのなきよう。永遠たる歓びは、欲するがゆえに獲得できるのですから」

 商人の言葉を聞いていたのか聞いていなかったのか、飄々とした千鳥の足取りの言葉を一方的に残して彼は姿を消した。たしかに彼は、姿を消していた。

「あの人はきっと、私たちを妄言でからかって不幸にしたいだけなのですよ。幸福を楽しむ人がいるように、不幸を蜜とする人がいるというのは世の常なのですから」

 慰めるような女の聲に微かな震えを見た商人は、その愛おしさによって落ち着きを取り戻し、優しい手で彼女を抱擁した。この幸福を手放してなるものかと、縋るような思いで二人は静かに抱き合いながら互いを承認し合いながら愛を確認する。これ以上、私の妻を不安にさせてはならないという、彼の気遣いを見て、人々は再び祝福するため寄り集まる。夫婦というものはいつの時代も「かくあれかし」と、祈るような聲を誰かが唱えた気がしました。

 商人は男の言葉を反芻し、考え、疑い始めてしまいました。この世界、人々、善悪、預言、暗闇、盲信するすべてについて彼は、思い出すように考え始めたのです。

――かくして空は胎動する。




    2


 数年前のこと、仲のよい兄妹がこの町にはおりました。

 兄の恋人と妹もそれはそれは大層仲がよかったのだということです。まるで、血の繋がった姉妹のように、いつも一緒にいたというのだから、それは言いえぬ微笑ましさであったに違いないでしょう。男は「君たちの仲を見ていると、私はついつい妬けてしまうところがあるよ。本当に、私は神に感謝しなければならないな。これほど美々しく、流麗な聲で愛を詠ってくれる人は他にいない」と、誇り高げに笑みを溢して、「あなたはいつも大袈裟なのだから、恥ずかしいことをあまり言わないでくださる? 私が愛を詠うのは、あなただけなのですよ」なんて言いながら、彼らは幸福な時をすごしていました。石が湖面に浮かび上がるように、花びらが湖底へ沈んでゆくように。

 妹は度々、二人にあることを言いました。

「私は二人を愛しているの、だから二人には、ずっと幸せでいてもらわなければ困りますからね。何か困ったことがあればいつでも力になるから、遠慮なく相談してよ?」

 一生懸命に喋る少女の姿に、いつも二人は笑ってしまっていたのだけれど、その笑みの中に同じ思いは存在しなかったのだと、少々機微に疎い商人の男は気づかなかったのでしょう。他方、妹は女の機微に触れていたのかもしれません。なぜならば、彼女は若いのですから、若さとは多情多感かつ表情に富んだ感性を持つことによって支えられているのであります。また、若さとは必ずしも先入見どおり年齢に相応しているとは限りませぬ。それゆえ若さは偏に能動を伴うわけであります。

 心優しき妹は、兄にとっては自慢の妹であり家族でした。町の誰もが彼女の優しさに触れる度に「あれは素敵な娘さんだ」とか「あの子は本当に心優しい人」だとか「お兄さんの恋人に負けないくらい、彼女は魅力的な女性となるだろう」と、実に好き勝手な評判を棚引かせたものです。

 ところで、この町を治めているのは、一人の預言者でした。

 神に仕える身である彼は、この町の繁栄のためにどのような行いをすれば正しく善き在り方へと導かれるのかを、人々に説いておられました。という話を人々は信じていました。

 そうしていつの日か、預言者は言ったのです。「この町には魔が潜んでいる」だろうと。

 人々は何も考えることはなく、その言葉を信じました。

 後日、町では醜怪な噂が流れ始めていました。

 噂とは根も葉もないところから生えるものなのか、一種の真実になりうるものなのか、そんなことは至極どうでもいい話でしょうが、確実に密やかに、その噂は拡がり続けたのです。妄信的疑念を呼び寄せる病原体の感染は、それはもうあっという間のことでありました。

「どうやら、この町には魔女がいるそうだ」

「それならば魔女を殺さねばならないな」

「災いを招く前に、見つけ出して殺さねばならない」

「魔女は人間の振りをするのだから、外からやって来た人間が怪しいのではないか」

「あの女は異様な美しさを持っている。あいつを殺せば、町は平和を取り戻すだろう」

 さて、既にご存知のことと思われますが、彼の妹の正体は忌まわしき魔女であります。魔女は赦されざる悪徳に等しいから、その正体が明かされたならば殺してしまうのがよろしい。これはこの世界ならば揺るがぬ常識と認識されております。預言者がそう言うのだから、民衆にとってそれは真実なのです。かかる疑いによって商人の妻はあわや処刑されることになりかけていたのですが、実際には彼女は魔女ではないという帰結に至るのです。

 かくして、商人の妹は商人の手によって処刑されることで事態は収束を見せたのです。

 しかし、一つの疑問が残っておりました。

 商人の妹は驚くべきことに、自分が「魔女」であることを兄に告白したと言うのです。彼女はなぜそのような、魔女らしからぬ行為に及んだか。彼らは何も考えませんでした。商人はただただ泣き喚き、寄り添う女はそんな彼を見つめることしかできませんでした。

 妹が魔女であることを知った男は、青を忘れた赤をもって彼女の首を斧で切り落としたのだと、女が民草に物語り聞かせました。妹は抵抗することもなく、黙って灰となりました。あんなにも心優しい娘が、魔女であったなどまさに悲劇としか形容できないと、人々は悲嘆の様相を呈します。

「こんなこと、本当はしたくなかったけれど、仕方がないのだろう。だって、あいつは魔女だったのだから。愛する我が妻のためにも、みなのためにも、これが正しく善い行いだったのだ……」

 男は納得しようとしました。けれども、彼には人々とは違った悲しみがありました。本当の悲しみは思考の放棄を赦さないものなのです。彼は再び、祝福と神と預言者と善悪の意味について考えてしまいました。

「私の行いは本当に正しかったのだろうか。私を正しいと言ってくれる彼らの言葉は、本当に正しいのだろうか。預言者の言葉は正しいのだろうか。神の言葉は本当に正しいものだろうか。ああ、私には何もわからないのだ……! 私はどうすればよかったのだ!?」

 苦痛に悶える彼の首へと手を回し、女は愛を囁いた。

 かつて与えてくれた愛をもって。かつて見上げた光、闇夜を切りとった静物画、心地好くも凜然とした天籟てんらいと、天球の中心に立つ私たちを、燦然として見守る天の北極子熊の交叉。女はその歓びすべてを偲び詠うのでした。


  私はあなたを欲するがゆえに、燿きさえない暮夜、あなたに依り添い囁きます。

  あなたが悲しみを忘れないように、あなたは愛を忘れない。

  私が愛を憶えているように、私もまた悲しみを忘れない。

  私はあなたの歓びを欲するがゆえに、悲しみを欲しない。

  あなたが悲しみを覚えるときには、私もまた悲しみに暮れるでしょう。

  あなたが歓びを覚えるときには、私もともに歓ぶでしょう。

  それが、愛するということである限りにおいて。

 

 抱き合う二人の思いは、どれだけ身体を重ねてもすれ違う。妹の示す悲しみと、女の示す愛によって男は少しずつ、世界というものに疑問を持つようになりました。それでも人々は、彼らのことを応援してくれるし、時には助けてくれるのだから、商人は彼らを素気なく扱う気にはとてもなれないのでした。たとい何かがおかしいとしても、今というこの瞬間があればそれでよいのだから。私は永遠よりも彼女と過ごす瞬間を欲しているのだから。




    3


商い初めの仕入れを理由に町の外へ出たある日のこと、男は道を違えたのか、見知らぬ町を目にしました。時雨を避けるために荒ら屋を訪ねてみても、聲が聞こえることはありませんでした。煙霧立ちこめる異様な有様に不安を覚えたものの、男は好奇の衝動に駆られ廃家へと踏み入ったのですが、果たして誰一人として見つけることはできません。異臭に息が詰まる。窓越しには焼失したと思しき建築物たちも認められたことから、大きな災害ないし事故に見舞われたのだろうかと考えていたところ、上階の間隙から漏れる軋音あつおんに気づいた男は、急いで駆け上ります。そこでようやく気づいたのですが、異臭は床や扉など、各所に見られる腐敗した柘榴の色が原因だったようです。

「君は……こんなところで何を」

 その少女は静物のようでもありましたが、たしかに生物だったのです。彼女は私を見ていたのでしょうか、そも何かを見ていたのでしょうか。私は彼女ではないので事実を確認することはできないのですが、私の推測するところにおいては少女は何も見ていなかったのだと思うのです。

 ぽつと「待っているの」とだけ、それ以降何も発しない少女に男は問います。「なぜ君は一人なのか、この町で何が起こったのか」、震える少女は心を持たぬ人形として答えます。

「ここは魔女の棲む町なんだって、だからみんな殺されて、燃やされたの。それが神様の言葉なんだって誰かが言ってたよ。神様なんていないのにね」

 男は驚きを隠せません、彼女の言葉によって知ったのですから。おのれの信じ続けてきた神なるものが実在しないという可能性に。男は初めて「疑う」ことを知ったのです。

 しかし、その子は愛を知りませんでした。

 悲しみを知りませんでした。

 歓びを知りませんでした。

 幸福を知りませんでした。

 何もかもを欲しない女の子は、生きることをなさず、死ぬことをもなさなかったのです。

 だから少女は、なぜ男が屈んで自分と相対しているのかすらわかりません。わからないことを自覚することも本来はありませんでした、それが常態であるのだから必然なのです。少女の世界は一の瞬間にて反転してしまったのでした。

「どうして私を見つけたの?」と訊かれたとき、男は意図を解せず答えかねましたが、できうるかぎり返答することに努めました。

「実は、道に迷ってしまってね……今は偶然にも迷い込んだこの町で雨風を凌いでいるのさ。しかし、無事に帰ることができるだろうか……」

 男は言います、「何か食べたいものはあるかい」と。さらに男は言います、「寒くはないかい」。

 少女は「どうして私に話しかけるのか」と問いました、「話したいから話しかけるのだよ」という言葉を一生懸命考えてみましたが、よくわかりませんでした。きっと、初めて食べるパンの味で頭がいっぱいだったのでしょう。手を握り続けているので、彼は動くこともできずにいました。

 玻璃の瞳を瞬かせて「どうしてこんなに、温かいの……?」と頻りに訊いてくるので、男はその度に答えるのですが、少女は納得できないようでこれまた頻りに自分の小さな手と見比べています。

 そんな少女は生まれたときからずっと一人でした。

 友もいなければ、親もいません。

 しかし彼女は寂しさを知りませんでした。

「その……道に迷ったなら、私が道を教えてもいいよ?」

「本当かい? それは助かるよ、ありがとう」

 生まれたときからずっと独りきり、そんな少女がいかにして生きてきたのか、というのは些事にすぎませぬ。すべては蜜月に至る二人の裡に秘されているのですから。

「もしかして、あなたは私を食べに来たの?」と訊くと、男はおかしいと思ってつい笑ってしまうのでした。それで少女は、不思議と恥ずかしいような腹立たしいような、よくわからない気持ちになってしまいます。

「私は君を食べる気はないが、君と一緒に何かを食べたいとは思っている。よければ、私の晩餐に付き合ってはくれないだろうか。君の服も買い揃えるとしよう、女性服の心得がないので自信はないが、そこは大目に見てくれよ? なに、妹も君の姿を見れば必要な出費だと納得するだろう」

 こうして少女は初めて手の温かいことを知りました。


     *


「暗いときは危ないから外に出ちゃいけないって言われたよ?」

「いつもはそうだね。でも、一年のうち、今日だけは見せたいものがあるのさ。分厚い煙で覆われた空の上にあるものを、君は見たことがあるかい?」

 何もかもを知らなかった女は首を振って、手を強く握ります。男は依然として神と預言者のことを信じ続けましたし、少女はそれを決して信じようとはしませんでしたが、そんなことは二人とも気にしないのでした。各々の信じるものがどれだけ似通っていようと実は異なるのだということを、彼らは既に知ったのですから。

「な、何をするの……?」

 少女は困惑している自分に驚きながら、彼の手を払いのけようとして、畢竟行動には移せませんでした。なぜ、私はこんなところにいるのだろうかと、人間と一緒にいるのだろうかと。

「驚かせてすまない。空の姿、その一部をどうしても君に見せたくてね。何の因果であるのか、一年のうちで今日だけはあの煙に隙間が生じるのだよ。毎年、決して日を違えることなくね。暗闇を恐れる私たちへ、慈悲深き神が世界を照らしてくださっているのだろう」

 無邪気な聲で「それは〝おいしい〟ものとは違うの?」と問い、男は笑って「美味しいものではないけれど、とっても〝きれい〟なものだよ」と答える。こんな会話を繰り返すことに、二人はまったく飽くことがありませんでした。

 やがて、牧草地へと辿り着きました。

「私は商人を始める前はここの遊牧民だったんだ。親が亡くなってからは幼い妹の安全を考えて町に定住して商いを始めたわけだ。しかし、私は仕入れの計算や取り引きが得意ではなくてね、何度も妹に迷惑をかけたものだ」

「どうして、妹のことを考えたの。あなたはそのまま遊牧民でいられたのに」

「私がそうしたかったからさ。私が仮に苦労することになろうと、誰かのために何かすることを欲する。そういうのを私は愛と呼んでいる。君も、いつか人を大切に思うことがあればわかるはずさ」

 男は目を閉じたまま寝転ぶように言いました、少女は惑いながら素直に言うことを聞きました。

「さあ、準備はいいね。私が『目を開けて』と言うまでは、そのままで……三、二、一、ゆっくりと目を開けて――空の燭光が見えるだろう」

 言葉として綴れば味気ないのに、耳に伝わる聲はこんなにも私をかき乱すものだろうかと、かような少女の迷夢が醒めるような朔風に伴うようにふらりふらりと身体が浮動する中で、少女はしばらく言葉を失いました。たしかに此処にいるのに、彼方へと飛び立つ夜の鷹のように、今、私の世界には地上がなくなってあの空だけが私という存在に触れている。

 そうして、少女の何かは破壊され、創造されました。

「他の人に話してはいけないよ、多くの人々は夜に外に出るような人間を疎むのだからね」

「ああ……これが本当の夜なんだね。小さな隙間にしか出てこない臆病な光の粒……」

 きれい、これが、綺麗。

「私は子供の頃、空を飛ぶ鳥たちに憧れていたんだ。彼らが高遠な空の姿を見られることに嫉妬していたのだろうね。あの光たちはどのような姿をしているのだろうかと、私はそれを知りたいと思っていたんだ」

「なら、鳥になりたかったの?」

 ぽかり、少女の顔を見つめ男は申し訳なさそうに笑いました。笑うと少女が焦ることを感取してはいたのですが、これほど実直に純粋に訊ねられたこともないので、微笑ましく思ってしまったのです。

「あれ……私は、また変なことを訊いた?」

「いや、すまない。君の質問は何も間違っていないよ、昔ならそう思っただろうからね。しかし、今は人間でよかったと思っている。今、君とこうして空を見ている時間がなかったことになるなら、それほど残念なことはないのだから。誰かとこうして空の輝きを見つめて、焼きつけた風景を心象に描き眠る、私にとってこれ以上の幸福はないんだ」

 少女は初めて歓びを知りました。

 初めて孤独を知りました。

 初めて幸福を知りました。

 初めて愛を知りました。

「空の中心が見えるだろう、それに連なる輝きを線で繋ぐと色々な物が現れて面白いものだよ。幼い頃、妹とそうしてよく遊んでいたんだ。ほら、少し横。線を持ち手と考えると、柄杓のようだろう」

 少女は納得しきれない様子で空を眺めて、光球を指さし、動かし、何かを形作るようにして命と名前を与えました。

「小さな熊と大きな熊……空の中心が尻尾の子熊と、持ち手が尻尾の大きな親熊。あそこには親子の熊が見える。私にはいなかったお母さんが、あそこに」

 男は驚嘆すると伴に少女の美しく洗われた髪を撫で、光芒の連綴を描いて静かに頷きます。

「君は凄いのだね、私には熊の親子を見つけることはできなかった。君に出会わなければ、生涯知りえなかっただろう、ありがとう」

 ありがとう……ありがとう……少女は複数回呟き、静かに頷きます。

「私もそれ、言いたい。私を見つけてくれて、私に教えてくれて、ありがとう。暗闇の迷夢にいた私を、あの光のようにこの世界で輝くことさえなかった私に意味を与えてくれて、ありがとう……ありがとう、ございます――」

 魔女は初めて、自分の心に気がついたのです。

 生くるべからざる、死するべからざる魔女は、人間となったのです。

「どうか、私をお傍に置いてください。私はもはや、あなたがいなければとても生きていける気がしないのです。私にあなたを愛させてください」

 俯くことををやめ、世界を見上げた少女の顔を、男は初めて目にしたような気がしました。今まで目にしたこともない、生涯出逢いえぬと思われるようなガラス玉の輝きに捉えられて、男の意識は瞬く帚の塵の尻尾として女への愛へと移り変わり、交わり合いました。光球熱風の白尾と中性的物体の解離現象による電離気体の尾は、銘々構成物を異としておりますが、決して離れることはありえずにただ、同一体からの派生存在として交錯生存しているのです。

 二人はその出逢いを「運命」と名付け、婚約の言葉を交わしました。

 一つの秘め事を明かさぬままに。




    4


 魔女の魔法には命の代償が必要でした。既に多くの命を消費したので病弱で短命でもありましたが、男はそんな彼女を変わらず愛し続けました。

 先に述べたように、魔女の愛する男は商人でありましたが、決して商売上手な男というわけではありませんでした。まさに〝商い上手の仕入れ下手〟の字面どおりだったわけですから、魔女は自らの命を少しずつ削りながら男の商売を助けていたのです。男は「君と一緒にいるときから、私の商売は想像以上に上手くいくのだから、人生とは奇妙なものだ。色々と辛いこともあったが、君と私が一緒になることはやはり幸福な運命だったに違いない」と、いつものように嬉しそうに話してくれる。それだけで彼女は歓びを得ることができたのです。あとはただ、この子さえ無事に産まれてくれるなら、私はもう何ひとつとて後悔することなしに待たせ続けた舟に乗りこむことができるだろうと。

 魔女は男と一緒になってからというもの、身体は徐々に痩せ細り、疲れも溜まる一方ではありましたが、彼女にとってその程度のことは些末なことなのでした。愛を知った彼女にとっては、彼の幸福こそが自分の最上の歓びであったのですから、当然のことでしょう。

 しかし、魔女は亡くなってしまった夫の妹のことを思い出すと、罪の意識に苛まれます。

 なぜ、私ではなく彼女が死ななければならなかったのだろう。彼女は何も悪いことをしていないのに、悪いとすればそれは私だというのに。どうしてあの幸福は、永遠でいてくれなかったのだろうか。それほどまでに、神とは残酷な世界をお創りになったのだろうか。こんな世界の在りようは本当に、正しかったのだろうか。

 彼女は私がこうして思い惑うことを望まないのでしょうけれども、それでも魔女は、呟いてしまうのでした。

「かつて私は無の中に生きていた。何びとも何ものも存しない無灯のカンテラの鳥籠。あの人は私にそれを教えてくれ、幸福へと導いてくれた。それでも、悲しみはやはり訪れるのだと思い知らされた。幸福はすぐに手元から逃げ去ってしまうもの……然らば、本当の幸せというのは或いは」


     *


「魔なる者は未だ潜んでいる、主は夫婦ともども焚刑に処することをお望みである」という神託が預言者の口から発されたとき、真っ先に疑われたのは商人の妻でありました。祝福と親愛の忘却は、偉大なる者の言葉により簡単に成される。それが世界の常識なのだから、それは仕方のないことなのです。

 しかし、人々が去った後、預言者に問いかける男が一人現れたのでした。その男はあまりにも不遜に訊ねます、「お前は何者なのだ」と。

 預言者は「私は神の言葉を民に知らせる預言者である」と答えます。

 男は「お前の目的は何なのだ」と訊ねます。

 預言者は「私の目的すなわち主の求むるは人間の幸福である」と答えます。

 男は「お前の預言はおそらくお前たちにとって揺るがぬ真実であろう」と断言します。

 預言者は「そのとおりである」と同意します。

 男は伸ばした髭を摩りながら「しこうしてそれは虚言である。お前の真実とはお前たちの諸価値を前提にしているのであって、それ自体が仮象である以上、誤謬以外の何ものでもない。お前もまた、外在的な神を失した者の一人に過ぎぬのではないか?」と、何やら楽しげに話しておりました。

 男は「お前の御業は人間のそれではなく、神のものではないか。お前は本当に人間なのか? お前 自身こそが神なのではないか」と問うた。

「大いなる破壊者は大いなる創造者であり虚言家である、なればこそ欲することができる。虚有縹渺きょうひょうびょうの此岸から神韻しんいん縹渺たる彼岸を創造する充実は、その虚ろなることのゆえに成しうる。存在しうるあらゆるものは永遠の裡に幸福でしかありえないのだから、すべては肯定されねばならぬだろう」

 予言者は嗤いました。黙したまま、何も応えず、空間は沈黙し続けました。

 そんな道化に対し、男は彼への最期の存念を告げました。

 ――よいか、仮象たるお前が世界を戯(たわぶ)ることを赦れるのは、もはやここまでなのだ。神の死は必ず訪れる……この世界にはもう、神など必要ではないのだよ。私はそれを告げ知らすためにこうして没落したのだ、共に来るがよい。




    5


 人々の狂喜的な唱い踊りに魔女は自分たちの死期を悟り、我が子を産む時間さえも残されていないことを理解し、二人きりで泣き続けました。どうして自分は魔女に生まれてしまったのだろうかと、どうして私は人間として生まれることができなかったのかと、嘆いたところで彼女は一つの結論へと辿り着きました。

 それは終わりでした。

 それは破滅への道でした。

 けれどもそれは、唯一の幸福への道でもありました。

「私はあなたに懺悔しなければなりません。私の魔法の本当のことをお教えいたします、どうか落ち着いて聞いてほしいのです。私の魔法は、私の命を削ることで成り立つ呪いなのです。私はあなたと出会う以前、できうる限りの多くの魔法を消費するためにあの町を隠したのです。その後も、不必要に命を削ることに努め続けておりました。身体の痛みに耐えかねて縊死を試みて、余計に苦しんだこともあったような気がします。私はただ待つことにしたのです、独りきりで、静かに、いつか死ぬることを夢見て……今でも不思議に思うのです。あなたが私を見つけることができたのは、どうしてなのかと。よりによって、あなたのような人が」

「君はあのとき『待っているの』だと言っていた……君はきっと、殺されることを望んで命の代償として私を呼んだつもりだったのだろう。だが、本当はそうではなかったということなのさ。君は元来無心であったわけではない、ただ忘却していたのだろう。君は私を求めた、忘却したものを自ら意志して取り戻すことを望んだ。私たちの出逢いとはその帰結であり、運命だったんだ」

「あなたは本当に、私のことを何でも見透してしまう……どうか最期までともに。きっと心配は要りませんよ、私たちの現在が途絶えたところで世界は、天球の光芒は、決して途絶えはしないのですから」

 男は気づきました、この世界は始まりから何かがおかしいのだと。預言者という男の言葉を考えることもなく信じる人々こそおかしいのだと、彼は漸く理解しました。しかし、それはあまりにも遅い理解でありました。商人の男は結句、それには気がつかないのです。

「こんな狂った町など、もうどうでもいい。私は君がいればそれで幸せだし、君だってきっとそう言ってくれると知っているのだ。どうか、私と一緒にこの町から逃げてはくれまいか」

 女はその言葉に応える代わりに、男の手を取って自分の胎に触れさせます。男は静かに後退り、静かに泣きました。女は力尽きるように、静かに座り込みました。

「どうか、私の罪を懺悔させてください。私は素より罪深き魔女であったのです。誰からも愛されず、誰からも必要とされない災禍そのものだったのです。あなたを愛してしまい、あなたの大切な妹を奪ってしまった、醜い女だったのです。あなたの幸福を不幸にしてしまうくらいなら、最初から出逢わなければよかったのに! 私なんて、生まれてこなければよかったのに!」

 言葉を遮るために男は女を抱きしめる。今までのどんなときよりも力を込めて、自らの愛の不変を確かめて、静かに愛を交わす。

 二人の愛を示すには、その行為だけで充分だったのです。

「それでも私は……私は、後悔などできないのです。あなたのいない私など考えられないのです。たとえこの世界にどれだけ苦しんだとしても、私はあなたと生きたこの世界を愛してやみません……」

「案ずるな、私もまた愛する妹を殺してしまった殺人者だ。君が罪深き者だというのなら、私もまた罪深きものだろうさ。愛する娘はきっと、こんな世界に生まれることを拒んで美しき世界に生まれることを欲したに違いない。そこで、私たちのことを待っているのだよ」

 魔女はその言葉を肯定することはできませんでしたが、否定もしませんでした。家の外には人形が大勢いるらしく、家には火が放たれました。それは実に、魔女には相応しい最期だったのではないでしょうか。

 燃える身体は激しい苦痛をもたらしますが、二人はその苦痛すらも愛しました。

 愛する者の幸福が自分の幸福であるように、愛する者の苦痛もまた自分の苦痛なのだから、魔女にとってはそのすべてが愛おしくて堪らないのでした。そして、その愛おしさと共に逝けることに歓びを覚えることもまた必定であったのです。

 ――ああ、歓びが欲するものとは、斯くあるものだったのですね。

 そうして三人の人間は、この世界からいなくなり、新たな世界へと旅立ちました。




    7


 燃え尽きた空宇からは、人間らしき者も魔女らしき者も何ひとつ見つかりませんでした。まるで、この世界から完全に消えてしまったように、足跡すら残さずに。彼らには美しきものがわからなかったのです。ゆえに、灰となって空へと翔び立った家族の姿に気づけなかったのも、理の当然でしょう。

 この世界においては、地上が夜空を照らすことはあっても、夜空が照らすことは一度たりともありませんでした。夜は暗黒であり、酷く寂しいものの象徴であり、憎悪される魔女に等しいものだったのです。

 ところがあれからというもの、暗い夜の闇は、きらきらと光る何かによって明るく照らされるようになりました。明るくなった夜には闇もなく、怖ろしさも醜さも何も残っておらず、人々は次第に夜を朝昼と変わらぬ愛で迎えるようになったのです。

 幾星霜に渉る無窮のごとき白の燿きを、人々はやがて「星」と名づけるのでした。

 あらゆるものが照らされる世界において、神はもはや必要ありません。神の忘れ去られた世界では、魔女という存在も忘れ去られるようになりました。

 それでも、空にちりばめられた無数の灰の燿きは、今も夜を照らし続けています。与えられた愛によって愛を与えることを知る永遠の空の下に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る