魔女の掟――Witch's intention――

夢乃陽鞠

序跋

 はじめまして。

 忽然と自分語りすることを許してほしい。私が初めて物語を執筆しようと思い立ったのは、中学生の頃だ。どこかで見た物語を集積するかのごとく模倣しただけのそれは、言うまでもなく稚拙で、およそ作品とも呼び難い何かでしかなかった。小説を書くことはこんなにも難しいものなのかと、自分の才能の無さに絶望して執筆することはなくなったあの頃も、今思い返すとあまりに思春期で失笑してしまう。

 あの頃の私には笑い事ではなかったのは、誰よりもわかっているけれど、笑えはしないだろうか? だって、そんな人間が曲がりなりにも一つの作品を書き上げたのだから。そして、今もなお私は「どうすれば私の求める空想を言葉として表現しうるのか」悩み続けていて、死ぬまで答えが出ないであろうことも確信している。それでも悩み続ける日々を繰り返すのは、私という人間が社会不適合者であるゆえで、その空虚さと現実の前に死の観念が付き纏うのは私こそが理想と程遠い弱者に他ならぬからである。

 察しのよい皆さまに置かれましてはご存知かもしれないが、ここでの理想とはツァラトゥストラの名で呼ばれる超人の在り方を指している。まあ、すべてを模倣したいとは思ってもいないのだが、世界のすべてを肯定して、いかなる運命でさえ肯定して、ただ自分が自分として世界に存在したことを愛する生き方に魅力を覚えるのは、私だけではないことだろう。ある恩師が私に世界の無意味さを教えてくれたとき、私は心から救われてしまったのだから。

 たったひとつの言葉が人の生き方を変えることなど、珍しくもない。私もまた、文字ならぬ言葉をそこで受け取り変化を求めたのだ。その先が今の苦痛を生んだとしても、ハムレットがそうしたように私は自らの生き方に後悔することはないと信じている。

 もしかしたら、物語に救われたから、私は私の物語で誰かを救ってみたいのかもしれない。そのためにまず、私は自分のために執筆することを心がけたのかもしれない。そんな青臭い感情で執筆する人間の心根はきっと幼いことだろう。

 

 実のところ、私はこの作品を書き上げるために実質的に二年もかけてしまっている。どれだけ遅筆なのだと笑われてしまいそうだが、この二年の殆どは執筆ではなく読書時間であり、資料集めに割かれたものである(遅筆なのは事実だが)。人よりも才が劣るのであれば人よりも時間をかければよい、というわけでもないが、私はそれなりに色んな物語と知識に触れた。小説だけではなく、ゲームでもアニメでも漫画でもラノベでも、偏りはあるものの私の心が惹かれる物語でさえあれば触れるようにしてきた。もちろん、趣味の一環でもあるのだが。

 私が執筆を再開したのは高校生になってからであったが、その期間の大半は執筆より読書に充てられた。よい作品を読み文章の書き方を知れば、自分の望む物語を体現できるのではないかという浅慮さで始めたのだが、そんな甘いものではないことは論を俟たない。それでも執筆を始めたのは、執筆に必要なのは優れた文体でも文章能力でも知識でもなく、空想とただ書くという行為だけであるからだ。こだわりを持つのは悪くないが、生涯書き終えることなくその言い訳を繰り返すよりは、要らぬ矜持を捨てひとつの作品を生み出す方がよいと、私には思われた。いつ死んでも後悔のないように生きるには、そうするしかなかった。

 人生は歓楽に満ちていて、同時に苦痛に満ちている。執筆は私にとって、楽しくもあり苦しくもある生きるための行為だ。ときに自分の物語に酔いしれ空想に踊ることもあれば、ときに希死念慮に見舞われることもある、それでも続けるのはこれが私の存在理由の一だからだ。命を削るこの行為に、私は魅入られ囚われている。

 本作はモチーフとなるものが数多あるのだが、そのすべてを知っている必要はないし、ひとつも知らなくても問題はない。なかでも私が本作において多大に影響を受けているのは文学者ならば宮澤賢治、ヘルマン・ヘッセであり、興味があれば一読していただきたいと考えている。

 宮澤賢治といえば『銀河鉄道の夜』は外せないし、私もやはりこの作品が大好きではあるのだが、一推しは『春と修羅』という詩集である。恐らく多くの人にとっては意味不明な言葉が並んでいるように思われるだろうが、あの言葉から世界を空想してみる行為の面白さは格別であるため、生きている間に体験してみてほしいものだ。

 ヘルマン・ヘッセであれば、『車輪の下』か『デミアン』で分かれることも多い印象だが、私は後者の方が気に入っている。この作品のある一節はとても有名で、『少女革命ウテナ』とか『東京喰種トーキョーグール』といった作品でも引用されているらしい。その一節とは以下のようなものだ。


 “鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。 卵は世界だ。 生まれようと欲するものは、 一つの世界を破  壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという”


 抽象的ではあるが、何となく言いたいことはわかる方もいることだろう。新たなる世界の創造には、今在る世界を破壊しなければならない、それだけのことだ。ただ、破壊とは消し去ることではなく書き換えのようなもので、端的に言えば変化の過程でしかない。それゆえ両者は不可分と言える。

 とはいえ、鳥が神に向かって飛ぶとか、神の名はアプラクサスというのは些か首を傾げても仕方ない部分であろう。アプラクサスとはこの作品においては神的なものと悪魔的なもの(二元的なもの)を結合する、すなわち神でありながら悪魔でもある神である。アブラクサスはグノーシス主義文献に登場する名で、グノーシス主義の世界観は善と悪の世界がそれぞれ存在するという二元論であると考えられているから、その世界観においては神的かつ悪魔的であることはありえない(二元論である以上対概念は両立しない)はずだが、アプラクサスは先述のとおり対概念を両立した神だ。それはすなわち、デミアンの言う破壊と創造という対概念は個別に生じるのではなく、同じ世界に両立することを意味する。これは彼自身の創作論が反映されているところもありそうだが、私はこれに少なからず共感を覚えた。その節は、Ⅵを見れば明確に観取できることだろう。

 すべて語ればそれこそ文庫本一冊ができてしまいそうなのでここらで自重するが、まあネタはそれなりに仕込んだつもりなので気が向いたときにでも拾ってくれれば重畳だ。

 さて、処女作の個人的コンセプトをここで明かしておくが、それはただ「自分の好きなように書くこと」という単純なものだった。現に、意図的に私は様々な描写を試してみたし、その試行錯誤を心ゆく迄楽しみもした。漢字で書くか平仮名で書くかさえ統一することもなく、作品・人物・場面等によって変えたりもした。そんなことをしてよいのかとも思うが、小説はそんな遊戯さえ受け入れてくれるほどに器が大きい。あとは人が受け入れるか受け入れないかの小さな問題でしかない、だから創作者の方々は安心して満足ゆく迄執筆すればよいだろう。

 ああしかし、処女作とは言ったが私が最初に生み出し執筆した作品は、実はこの子ではない。様々な理由からその子の執筆は現状不可能だという結論に至ったためだ。だから、私の精神的処女作は五年後とか十年後に生んであげられるのかもしれない、私がまともに生きてさえいれば。あるいは、世界が滅んでいなければ。

 最後に、稀に感想をもらっておきながら不満を漏らす贅沢な人間がいるらしいのだが、私はあなた方の感情を知りたいのでどんな言葉でも歓迎するつもりであるし歓喜する予定だ。私のことはどうでもよい、この子だけを見てもらえれば私はそれで満足なのだ。端的に言えば、ただ単純に感想がほしいというだけの話である。かてて加えて、他の誰でもないあなたのために感想を書くことは、義務的な読書感想文と異なり非常に愉快な行為であることを是非体験してみてほしいのだ。楽しさは正義、そうでしょう?

 第一、解釈違いだとか原作の設定と異なるだとか、そんなことはまったく重要ではないし、消費者は創造者の期待に応える義務など欠片も存在しないのだから、斯様な越権行為は創作者であれば控えるものではあるまいか? 面白いか面白くないか、それだけでよいのだよ。だから気楽に楽しみたまえ。重要なのはいかに自己を満たすかであり、他は副次的であるから、自分だけの解釈を自分だけで楽しめばそれでよいし、そも自分の裡へ確固たる世界を築き上げているのであれば他者の解釈などを気にして神経症を発症することもないはずであるし、負の感情に駆られることもありえないはずなのだが、それが起こるということはそういうことなのであろう。まあ、私は人間のそういうところも愛くるしい一面だと思ってはいるのだけれど。

 ――もしも現世を生きることに疲れたならば、現世に生きる必要はない……あなたの本当の幸いがそこにあるのなら、私はそれを止めようとは思えない。けれども、死ぬ必要もない。だって、あなたの存在に意味も価値も無いのなら、あなた以外のすべてにも意味は無いでしょう。どれだけの意味や必要性を語られたとしても、それは人間の創作なのだから客観的に妥当と断言しうることはまずないの。さあ、もしもあなたに抗う意志が僅かでもあるなら、空想に身を委ねてほしい。現実のすべてを忘れた世界を夢想し、描画してほしい。現世に生きるのではなく、空想に生きる在り方があることを忘れないでほしい。あるいは、我々が思い悩むようなことへの解答例は過去の人間がとっくに出しているのだから、現世を去る前にいかに人間が認知の歪みに囚われているか知るのもよいだろう。私が文学や哲学に触れるのは、つまるところそういう人種であるからなのだよ。

 およそあとがきらしくないあとがきだが、私にとっては重要なことなんだ。幸福であることの条件を言葉にする片言隻語がいまの世界には必要なんだ。幸福である者は幸福になりたいなど考えもしない、既に幸福である以上その命題は真である。私はいま、喩えどれだけの痛み・悲哀を重ねようとも存在する限り幸福であったと断言する。それは、あなた方も例外ではない。過去と未来の空想ではなく、現在に生きていることこそが幸福そのものだと、私はそうしよう。どうか「解釈違い」だなんて怒らないでくれよ?

 さて、最後と言ったがもう少しだけ伝えさせてくれ。私の背を押してくれた友へ礼を言いたい。ありがとう、私と同じ時を共有してくれて。あの日、この世界にたった一度きりの瞬間、空想の最中に世界を鳴らした律動的旋律と言語的飛翔を聴かせてくれたあなたと、私はこれからも生きて往けることを切に願っている。いつか、永別の朝に微睡む日がなうのだとしても――――なんてね。




 ――ここまで読んでくれたあなたへ愛を込めて  

             夢乃陽鞠より 

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