林檎抄
シンカー・ワン
サチ
梅雨がらしさを遺憾無く発揮していた六月の終わり。ザンザンと降りしきる雨の中、日の暮れた道を傘を差して歩く仕事帰りの俺。
最寄り駅から徒歩で十数分の立地と広さの割りに家賃が安いのが取り得の古アパート、二階角部屋の我が家を目指す。
階段を上りきり電球の切れ掛かった薄暗い通路を進むと、自室扉の前に人がいわゆる体育座りをしていた。
立てたヒザの間にうつぶせていたので顔は見えないが、着ている物と体格で女だろうってのはなんとなくわかった。
俺が近づいたのが察せられたのか、座り込んでいた人影が頭をあげゆらりと立ち上がり、
「てっちゃ~ん、お帰り~」
と、場にそぐわないどこか気の抜けたような声をかけてくる。
俺はその声に嫌ってほど覚えがあったので、
「サチ、か?」
そう呼びかけると、女が照明の下へとその姿を晒す。
雨に打たれたのだろう、衣服はぐっしょりとしていて肉付きのよい身体にまとわりついていた。
背中まである赤みの強い茶髪も水分を含んでべっしょりとしている。
昔から変わらぬ愛嬌のある笑ったようなつくりの顔の、曇りのない瞳が俺を見詰めていた。
あぁ、間違いない。サチだ。
「えへへ~、久しぶり~」
ずぶ濡れのままヘラヘラと笑いながら、サチが応える。
俺が何か言おうと口を開く前に、
「ちょっと行くとこなくてさ~、しばらく置いてくれないかな~? これ、あげるから」
こちらの都合とかそんなものは全く考えず悪気もなくそう言って、どこに隠し持っていたのか、かじり掛けの林檎を俺へと差し出した。
サチはいわゆる幼馴染ってやつだ。
ご近所さんで小さい頃からよく遊んでて、そのまま一緒に大きくなった間柄。
どんくさくて勉強も苦手、取り柄と言えば愛嬌があって何か憎めないところくらいで、それも時と場合次第で欠点になったりもしてた。
疑うことをせず信じ易いサチは愛されるべき人間だったが、けして幸せとは言えなかったと思う。
あまり良いとは言えない、サチの家庭環境に一因があったのは間違いないだろう。
疑わないから簡単に騙され、物理精神両面でたくさん傷ついてきた。
ただ、サチ本人の被害者意識が希薄だったから、不幸そうに見ているのは俺も含めた第三者だけ。
外野が見かねてなにか言おうとも、サチは是とも非ともしなかった。
そんな風にかなり斜め上な学生時代だったから、社会に出てからは推して知るべし。
俺が知るだけでも、なかなかに破天荒な生き方をしてきている。
知らないところはどうだったのかは……あまり考えたくはない。
幼馴染の常と言うか、俺とサチとの間に男女の関係があった時期もある。
ぶっちゃけ、俺の初めては全部サチだった。
わざわざ "俺の" とことわったのは、サチは違うから。
年のわりに発育の良かったサチは悪目立ちし、中学時代から身体目当ての男どもに慰み者になってた。
"公衆便所" と呼ばれ、素行の悪い連中のオモチャにされていた。
遊び飽きた玩具が捨てられるように、連中からサチが解放されたのは中学卒業後。
俺とサチが付き合う真似事をしていたのもこのころ。
実際は危なっかしいサチのお目付け役を、幼馴染の俺が押し付けられただけだが。
女としての尊厳を失うような目にあっていたのにも関わらず、サチは屈託なく俺に接してきた。
幼いころとは違うサチの色香に、思春期真っただ中だった俺は堪えきれず、情欲に流されサチに手を出ししてしまう。
なんてことはない。サチに非道な真似をした連中と同じ穴のムジナなだけだった。
それでも、サチは俺から離れようとはしなかった。むしろ幼馴染の俺と昔のように仲良く出来るのなら、いくらでも自分の身体を好きにしていいとさえ言う。
傷ついてきたサチにそんなことを言わせてしまった自分が情けなく、猛省した俺は学生の間は節度ある関係を心がけ過ごした。
卒業を機にサチとは離れることとなり、関係は一端途絶える。
再会したのは社会に出て二年もした頃だったか。
どこで住所を知ったのか、今日のように突然押しかけてきて、しばらく俺の部屋に居座っていた。
同居中は成人して女らしさの増したサチに、正確にはサチの肉体に溺れかけたりもしたが学生時代の愚行は繰り返さず、ほどほどの距離を保って生活していた。
同居三ヶ月ほどして「行く当てが出来たから」とサチは屈託なく告げ、あっさりと俺の元から去っていった。
……あれからもう八年か。
「お風呂ありがと~。生き返った気持ちだよ~」
そう言いながらサチがリビングへと入ってくる。
生き返ったというのは例えでもなく、実際紫色していた唇や土気色していた肌も今は十分に温まったことを証明するように、艶やかな張りと色合いを取り戻していた。
どれくらい雨に打たれ濡れたままでいたのだろう、体温を奪われ前後不覚になりかけていたことも感じさせないサチの物言いに、それなりに心配していた俺の頬も緩む。
サチは今もサチのままで、ちっとも変わっていないことに、なにか安心して。
濡れた衣服の代わりにと渡した俺の部屋着をまとい、いそいそと座卓の対面に腰を下ろし、用意してあったお湯割のスポーツドリンクを遠慮なく口にして、
「あ~身体の中まであったまるな~」
ご機嫌な顔して笑う。三十路も近いってのに子供のような笑顔で。
コップの中身を飲み干してから、ヘラヘラとしていた顔を少しだけ締めてから、
「で~てっちゃん、いいかな~?」
窺うように俺に訊いてきたので、
「いいぞ」
と簡潔に答えてやる。
「え?」
あんまりあっさりと俺が承諾したのがピンと来なかったのか、きょとんとしたサチに、
「どうせ前みたいに長居はしないんだろ? 居たいだけ居ればいい」
俺はなんてことのないようにもう一度言ってやる。
その俺の言葉をゆっくりと頭の中で咀嚼してから、
「ありがと~、てっちゃん」
サチは満面の笑みを返してきた。座卓を挟んでいなかったら、きっと抱きついてきたことだろう、そんな顔をだった。
「……あのね~」
何かしら告げようとするサチに、俺は手のひらを向けたまま片手を突き出し制止して、
「何も言うな。何も訊かないから」
ピシャリと言う。
どうしてだって顔をしているサチに、
「話を聞いたらお前の面倒ごとに深入りしちまう。それはゴメンだ」
実際は居座らせるだけで既にサチのトラブルに巻き込まれているわけだが、そこはあえてスルーだ。
「ん、わかったよ~」
少しだけしょんぼりとしながら、一応サチは承諾する。
サチなりに俺に必要以上の迷惑は掛けたくはないと思ってくれているのだろう。
「よし。じゃ、しばらくの間よろしくだな?」
さっきまでとっていた厳つい態度から砕けた様子でそう言ってやると、
「うん、よろしくね~」
サチも楽しげな口調で返してくる。
こうして俺とサチ、八年ぶり二度目の同居生活が始まった。
今更サチと暮らしたところで特に何でもないと思っていたが、微妙に変化はあった。
仕事を終え帰宅しているとき、自分の部屋の方を見れば明かりが灯っていて「ただいま」を言えば「お帰り」と返ってくる。
食事や風呂が用意されていて、食べる際に他愛のない会話が弾む。
ただそれだけのことなのに、何かとても大切なものみたいな気持ちにさせられてしまう。
八年前の時には感じなかったこの気持ち。
過ぎた年月が俺を寂しいことを寂しいと感じられる大人に変えてしまっていたのだと気付く。
一緒に居るのが変に気を使う必要のない、古馴染みのサチだということも関係しているのだろう。
正直に言って、この生活は悪くないと感じ出している。
仕事をして部屋に帰ってその日のことをサチと話すのが楽しみになってる今日この頃。
なんてことはない、サチを居座らせることで助かっていたのは俺自身だったのである。
八年の月日は俺だけでなく、サチも成長させていた。
掃除・洗濯・料理といった家事全般を手際よくこなせるようになっていたのである。
八年前も出来ないわけではなかったが、段取りとかそういうものがからっきしで、お世辞にも上手くやっているとは言えなかったから。
この八年、どこで何をしていたのかは知らないが、色んな意味で大人になったサチを俺は実感していた。
そんな俺たちの同居生活だが、ひとつだけ昔と違うことがあった。
八年前はそれなりにしていたけれど、今回はなぜかしてはいけない気がして無交渉。
サチは言外にしてもよいというサインを出してはいるのだが、俺は手を出すことが出来ないでいる。
いい意味で大人に成長したサチの向こうに、どこかの男の影を感じてしまうからだ。
そして今のサチにもそれがある。
あえて理由を聞くことはしなかったけれど、ここに来たのも男との何かしらのトラブルからなのだろうことが、なんとなく察せられているから。
だから、ここで俺がサチとしてしまうと、自分で言った面倒ごとに自ら飛び込むことになる。
それだけは避けたかった。
八年前と同じように、いつかきっと、サチはここを出て行く。
その時、サチに対して俺が必要以上の執着を持っていたらダメなんだ。
行き先の出来たサチを引き止めてしまうようなことをしちゃいけない。
だから抱けない、手を出してはいけない。
サチと居ることが心地良くても、サチのこれから先をずっと面倒見るという覚悟が俺にはない。
なんてことはない、俺もサチをいいように扱っているだけなのだ。
自分の寂しいって気持ちを埋めるのに、都合よく使っているだけ。
きっとその気持ちを解消するのは誰でも良かったのだろう。
たまたま相手がタイミング良くやって来た、サチという知った相手だっただけのこと。
おそらく、サチも同じなのだと思う。
サチもきっと、俺と一緒に生きていくことなんか考えてはいない。
頼りにはする、けれどもすがろうとはしない。
サチにとって、俺は安心して逃げ込める、一時的な避難場所にしか過ぎないのだろう。
でも、それでいいと思ってる。
十代の頃、傷つくサチを傍観していた俺を頼ってくれるのだ。
罪滅ぼしと言うにはおこがましいが、いつだって止まり木くらいにはなってやろう。
それくらいはしてやりたいと思う。
けれど、別れはあっけなく訪れる。
夏が本格的になったあたりから、サチの口数が減った。
夕食時の会話が途切れがちになり出し、サチの挙動がどこか落ち着かなくなっていた。
「出て行く当て、出来たのか?」
ある日の夕食後なんでもないように俺がそう切り出すと、サチは一瞬肩を震わせると俺から視線を逸らせ、申し訳なさげに静かに頷いた。
「そっか……」
俺は笑って言えたと思う。
サチは視線を下げたまま、俺を見てはいなかったけど。
その夜。
「……てっちゃん、起きてる?」
隣の部屋を寝床にしているサチが、閉じてるふすま越しに小さく声をかけてきた。
「ありがとね~、てっちゃんにはまた助けられたよ~」
答えずにいる俺に構わず、サチは言葉を続け、
「いつもいつもさ、てっちゃんには大事なところで助けてもらってるよね。なのにあたし、全然恩返せてないよね~」
……そんなこと言うな、恩だなんて感じることはない。むしろ俺の方こそおまえに色々報いるべきなんだよ。
「てっちゃん、ほんとにほんとにありがと」
……バカ、いいんだよ。そんなにありがたかることはないんだって。
「……大好きだよ。へへへ、前からずっと言いたかったんだ~」
……おまえに好かれるような真似はしてないよ。むしろ嫌われて当然なこと、してただろうが。
「……ね、そっち、行っていい?」
少しだけ遠慮がちに言ったあと、そおっとふすまを開くとサチは俺の寝床に入り込んできた。
八年ぶりのサチの身体からは、甘い香りがした。
翌日、仕事から帰った俺を迎えたのは人気のない部屋だった。
誰かの居る灯火もなく「ただいま」の声もない、夏以前の、俺ひとりきりだった部屋。
玄関ドアの新聞投入口にサチに預けていたスペアキーが入っていた。
サチが付けた小鈴のアクセサリーの涼しげな音が耳に響く。
リビングへ入った俺の目に映る、座卓にぽつんと置かれた赤い球体。
齧りかけではない林檎が、ひとつ。
林檎の下にはメモが挟まれていて、"ありがとね" とサチの字で書かれてあった。
俺はらしいなぁと苦笑しつつ林檎を手に取り、無造作に噛り付く。
林檎は甘く、サチみたいな香りがした。
サチ、元気でな。
林檎抄 シンカー・ワン @sinker
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