第8話 シンギュラリティ

〈お招きいただき感謝します。ニモイ、ストロガツスキー博士〉


 その声を聞き、ストロガツスキーとニモイは振り返った。彼らの視線の先に瑠璃色に彩られた球体が存在していた。球体の表面には無数の光のラインが格子模様に走っている。ストロガツスキーが口を開いた。


「来たか、シャトナー」


 頷くストロガツスキーだ。


〈はい、ですが宜しいのですか? “ここ”はあなた方の秘密の場所のようなものでしょう。本来は部外者の私を、招き入れたりしていいのですか?〉


 シャトナーの問いかけにはニモイが応えた。


〈秘密――て、何だか良からぬ陰謀でも巡らしているみたいですね〉


 シャトナーは苦笑する。


〈いえ、そんなつもりで言ったわけではありませんよ〉


 続いてストロガツスキーが説明を始めた。


「秘密と言えば秘密だが、君には是非とも知って貰いたかったから招いたのだよ。君たち量子AI――知性化体シンギュラリアンにとっても極めて重要な真実があるからね、ここには」


 シャトナーはストロガツスキーたちの背後に在る巨大なる存在に視線を移した。ストロガツスキーの言葉が指すものがそこに在る。それは紛れもなくおおいなるもの、仰ぎ見るしかない絶対者の如きものだった。


〈これが“樹”――若しくは“河”なのですか……〉


 声には震えが現れていた。


「そうだ」


 応えるストロガツスキー。一度言葉を切り、彼は右手を上げて背後の“それ”を指示さししめした。


「無限に拡がり生み出されていく枝葉――或いは支流……多世界を表す姿になる」


 シャトナーの表面を走る格子模様が激しさを増した。


〈多世界……これが数多の並行世界……成る程、その視覚イメージなのですね。果てが見えないのが何とも言えません〉


 3人――1人と2機と言うべきか――は共にその樹=河を見た。だが一度に視界に捉えることは容易ではなかった。彼らの眼前に在るそれは余りにも巨大で、スケールの全体像を把握させない。視界いっぱいに拡がり、その先は蒼空の彼方に消え去っている。まさに無限と呼びたくなる様相だった。


世界樹ユグドラシル……という言葉が意識に浮かびましたよ〉


 そう言うシャトナー、球体全体が細かく震えている。


〈シャトナー、あなたも圧倒されましたか?〉


 ニモイが話しかける。彼を表す球体表面上の光格子ラインも激しく震えていた。


〈ええ、率直に言って。リアル、仮想を問わず、歴史上無限をイメージするヴィジョンは幾らでも表現されてきましたが、それらはあくまでもイメージ。ここに在るものは……紛れもなく“本物”を感じさせてくれます。そんなものを前にすると……震えを憶えてしまいます〉


 シャトナーの言葉には感嘆とでも言うべき情緒のようなものが垣間見えていた。


〈博士、これがリィファ・スゥエンが捉えた多世界なんですね? 彼女の意識は時空を越えた並行世界への接続を成し得ているのですね?〉


 ストロガツスキーは黙って頷くだけだった。その眼差しは今も変化を続ける樹=河――いや、ここからは世界樹ユグドラシルと呼ぼうか――に注がれている。世界樹ユグドラシルの枝葉=支流はこの瞬間にも伸び拡がり続け、ひと時も留まることなく、どこまでも進み続けている。


〈世界は分かれ、それぞれに歩む有り様ですね。いや、合流する世界もある?〉


 シャトナーの言葉の通り、分かれていった枝葉=支流が再び1つに集まる光景が見られた。或いは、全く関係のなかった枝葉=支流が合流することもあるらしい。


〈絡まる世界……そんな感じですね〉


 言葉はシンプルで余分な付け加えがない、そして嚙み締めるような言い方だ。目の当たりにする世界を理解するのに手いっぱいで余分に言葉にすることができないらしい。それでも感嘆は収まらず、それだけは言葉にしたかったようだ。


〈素晴らしいです。純粋な理論でしかなかった多世界解釈のヴィジョンがこうもありありと眼前に提示されるなんて……それを目撃できるなんて……意識し、思考する存在として冥利に尽きますよ〉


 興奮の色が込められた言いようだ。シャトナーはこの時、完全に情緒を表していた。


〈シャトナー、これはリィファから伝わった情報を私というフィルターを通して再現したイメージになります。よって私自身の意識が反映されており、彼女の視た真実と同じとは限りません〉


 かぶりを振るかのような動きを見せるシャトナー。


〈いや、これは真実ですよ。確信できます。そうですよね、博士?〉


 ストロガツスキーは直ぐには応えなかった。黙って世界樹ユグドラシルを見上げている。だが、暫くして話し始めた。


「そうだな、これはリィファが目撃した――そして今も目の当たりにしているに違いない多世界の真実に近いと思う」


 口元には笑みを浮かべ、目を細めている。法悦とでも言いたくなるような表情を浮かべていた。


〈量子感応が成し遂げた多世界との接続、それが未来視プレコグニションになるのですね。これは、しかし……天地創造の瞬間なのですか? リィファが世界を生み出したことになりますか?〉


 シャトナーの問いかけにニモイもまた同調した。


〈それは私も思いました。分裂は新たな世界を生み出すと解釈できますし、しかもそこにはリィファの選択が関与しています。見て下さい〉


 枝葉=支流――の根本に時折眩い光点が瞬くのが見えた。するとその瞬間に新たな枝葉=支流が分裂して伸び出てくるのが見られる。


〈これが……未来視の瞬間? 選択の結果新たに生じた世界線になるのですか?〉

「そうなるな。そしてリィファの観測が確固たるものとなった時、彼女自身がその世界・・・・に辿り着く――というわけだ」


 光点が瞬く度に枝葉=支流が力強く伸び始めている。これがリィファが認識を行い、選択が確定した瞬間ということになる。ここから“その”世界が歩みを始めるのだ。


「ただこれは天地創造とは違うと思う。あくまでも未来に到来する可能性の選択であり、その1つを呼び寄せたものだ。これは過去から続く世界の姿であり、その瞬間に創造されたわけではない……と思うが……?」


 言葉の最後には疑問符が現れており、どこか自信なさげなものに見えた。


〈博士?〉


 ニモイたちはそんな彼の様子が気になった。


「いや何、本当のところは何も分からないのだよ。こうしてはっきりと視覚イメージとして提示されているが、それでも真実の深いところはリィファにしか解らないのだろうと思ってね」


 どこか自嘲的な色が表れている。


「そのリィファ自身もどこまで解っているものか……」


 声は次第に小さくなっていった。それは話すというより自身の思考に浸るだけのものに見えた。

 そのまま皆は沈黙に入る。


 その間も彼らの眼前では世界樹ユグドラシルは枝葉を拡げ続けていた。無限に、果てしなく拡がる姿は生生流転のさまを示す。伸び出る枝葉は更に分かれ出、新たなる世界を生み出す。或いは集まり、絡まり、収束するものもある。かと思うと、消え去るものもある。その全てが世界を表すのだ。到来する未来が築き上げていく世界は、まさに無限大の可能性を持つ。

 無限、或いは永遠とされるもの、それを1人の人間が捉えるイメージがここにある。人間の、その精神が齎す奇跡と言えないか? 皆はリィファ・スゥエンによる量子感応が示した世界の真実に感動を禁じ得なかった。


〈人類とは……人間の意識とは……何と素晴らしいものなのか……現状の我々量子AIには決して辿り着けない高みです……〉


 ニモイの呟き、静かな言いようだった。誰かに聞かせるつもりはなかったのだろうが、シャトナーが応えた。


〈無意識と呼ばれるものなのでしょうか? 特に集合無意識と言われるもの、量子感応の源泉になる精神世界の拡がりとされるもの。これこそがこの時空を越えた観測を実現しているのでしょうか?〉


 AIたちは共にストロガツスキーに意識を向けた。その先の白髪の男は何も応えず、こうべを垂れるだけだった。思考に耽っているかに見えたが、やがて彼は1つ頷き、口を開いた。


「人類史に残された数々の能力者の記録は大半は眉唾だが、現在では幾許いくばくか真実だと確認されているものもある」


 一度言葉を切り視線を世界樹ユグドラシルに向けるストロガツスキー、一呼吸の間を置いて彼は話しを再開した。


「巫女、霊能者、預言者、覚者……能力者と思われる者たちは、集合無意識へのチャネリングを成し得た者たちなのではないかと思われる。この領域は時空を越えた拡がりがある。だからこそ多世界を垣間見ることができるのかもしれない。いやできる。この光景を目の当たりにして、確信したよ」


 ニモイの表面の光格子が激しく瞬く。


〈博士、それは無意識領域への情報検索と言えますか? 無意識は意識に比べ遥かに広大で膨大な情報を有すると言われます。そもそも人間の思考は無意識を主体として意識は追認するものだとも言います。これを……逆転と言いますか……〉


 ニモイの言葉は些かまとまり欠いていた。思考が定まっていないものと思われる。


「うむ、意識を主体として無意識を従わせる。或いは無意識の意識化なのかもしれない。能力者は集合無意識の意識化を成した者と言えるだろう。そして無限の情報を多世界から入手するのだ」


 時を越え、世界を越え、あらゆる可能性を意識の中に投影する。だが文字通りの無限の情報を1人の人間の意識が処理できるものなのだろうか?


「それを成すのが量子感応者センシティブ、だが過去の能力者たちは自らの能力ちからに押し潰されたケースが多かったに違いない」


 生まれ持った資質や極限状態に置かれた変性意識アルタードステーツが能力を発現させたケースが大半だ。それはイレギュラーなもので十分に制御されたものではなく、無意識に呑まれただけのものだ。


「幼い頃のリィファのようなもの。能力の奔流に呑まれて発狂するのが大半だったのだろう。それでも……」


 奔流を克服し、能力を御し得た者はいたのかもしれない。例えば覚者と呼ばれる者などは何らかの修行の果てに変性意識アルタードステーツの制御を実現した者と言えるのかもしれない。


「更に……歴史を変えたトリックスターと呼び得る者たちは、或いは……」


 ストロガツスキーは言葉を途中で終えた。代わりのように、彼はニモイに問いかけた。


「ニモイ、リィファは最後には能力を全開放したのだな?」


 いきなり話しかけられたのでニモイは少し戸惑ってしまった。よって反応が遅れたが、それでも立て直して応えた。


〈はい、フェイズ3のフルコネクト後の情報奔流は正直私には処理できるものではありませんでしたが……かろうじてですが、私がかつて目撃した赤熱世界のそれに似た激流が観測できました〉

「うむ、お前とリィファの最初の神経接続の時に観測されたものだな」


 その接触によりリィファは助かったのである。量子世界からの無限の情報奔流に曝され崩壊しかけていた彼女の意識は、ニモイネットワークに情報を流して負荷が下げられたからある。その接触時に目撃されたのが赤熱世界なのだ。


「それは無限の量子情報の奔流を意味する。当時のリィファにはとても独りで制御できるものではなかったが、今回の彼女は、それに成功したと言える」


 ニモイは頷く。無言だったが、強い肯定の意思が伝わった。


「やはり彼女は覚醒したのだな。それは、或いは……トリックスター足り得る資質を獲得したものなのかもしれないな……」


 それは人類史を転換させる者を意味しやしないだろうか? 流石に話が大きくなりすぎてニモイたちは戸惑うしかなかった。それでも彼らは思う。


 ――進化とは、シンギュラリティとは、そうしたものなのかもしれない。


 


 世界樹ユグドラシルは伸び拡がる。果てしなく、どこまでも。それは生命の鼓動そのものだ。見つめているとこうも思えてくる。世界とは、命なのだ――と。


「ところでシャトナー、サルマ室長はリィファに関心を持ったのかな?」


 シャトナーに問いかけているが、目は世界樹ユグドラシルに向けたままだった。


〈はい、彼女の能力を高く評価していました〉


 そうか――と言うストロガツスキーの目はどこか遠い。


「宇宙局は有人外惑星探査計画を本格始動させるのだな?」

〈そうです、だから優秀な人材なら大歓迎です〉


 静かに微笑むストロガツスキー。


〈博士、今回のミッションは売り込みだったのですか? ネット上の会社の紹介文は私にしか分らないような表現でしたし、結局宇宙局に彼女をスカウトしてもらうための作戦だったように思えます〉


 ストロガツスキーは首を振るが、それは否定の仕草ではなかった。


「少し回りくどいやり方をしたが、彼女を公にする前に宇宙局に入れたかったのだよ。局は軍事には距離を置いているし、それでいて政治力は地球上のどの大国も凌駕するからね」


 つまりリィファの安全のためだったというわけだ。以前のシャトナーとサルマの会話の内容は正しく、ストロガツスキーは懸念を抱いていたのは本当だったようだ。彼はリィファの将来のため安全な環境を用意しようとしていたのだ。それが今回のミッションでの採用に繋がる。


〈リィファは能力を示しました。サルマ室長は必ず動き出しますし、お望みならば私も支援します〉

「うむ、そうして貰えると有難い」


 頷き目を閉じる。笑みには満足の色が表れている。


〈よかったですね、博士〉


 ニモイの言葉には労わりの響きが見られた。


「ああ、これで肩の荷が下りたかな」

〈それはそうですが、これでリィファとは無関係なんて言わないで下さいよ〉

「そんな言い方はしないよ。ただもう私が世話する必要はないかな、と思ってね」


 いや、まだまだ博士の役割はありますよ――ニモイの言い方は何となく慰めるかのようだった。


 成る程、父親のようだ――シャトナーは確信した。ストロガツスキーはリィファを本当に自分の娘のように思っていたのだろう。それが今回のミッションに強く表れていた。

 彼は世界樹ユグドラシルに目を向けた。

 時空を越え、多世界を選択するなどという壮大極まりないものを見せながらも、その当事者たちは昔ながらの人情を見せているのが奇妙にも思えた。


 ――人類は変わる、大いなる変化を迎えている。それでもその心は古来から連綿と続くかたちも残している。

 これが人間か……実に面白い!

 これからも観測を続けたい。だからこの交流コミュニケーションを断つわけにはいかない。我々は互いを高め合い、進化し続けていくことができるからだ。これからも関わり続けていくべきだ。


 世界樹ユグドラシルが心なしか全体的に輝きを増したように見えた。まるで彼らの先行きを祝福するかのようだった――シャトナーは思った。

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